備えあれば憂いなしとは言うが、一番良いのは備えをしなくて憂いがないことである。
異常事態なんて起こらない方がいいし、
異常事態への備えなんてしない方がいいに決まってる。
平穏無事が一番で、多事多難なんて無い方がいい。
だけど、現実はなかなかそうはいかない。
現実は厳しく、賢しく、想像を容易く超える。
あり得ないことはあり得ない。
この現実世界では、時に予想だにしないことが起きる。
例えば、今明乃が直面している事態がそうだ。
「…………………………」
「あの、艦長……?」
「ごめんココちゃん90秒でいいから黙ってて操舵に集中して」
「っ」
酷くきつい言い方になってしまったが、はっきり言って今の明乃は幸子に構っている暇がなかった。信頼関係構築のために気を使うことも、後の展開のために布石を打つことすらも放棄していた。
はっきり言って、余裕がない。時間がない。猶予がない。
そして何よりも、この場所が安全だという確信を持てない。
(海水温15.8度、気温18.5度、上空1500メートルの気温が12.7度。風速北西に0.3メートル。つまりほぼ無風。……海水温と気温の差は2.7度……)
そう、明乃は今全力で考えている。
この海域で霧が発生した理由を、全力で考えている。
(霧の種類は主な物で7種類。移流霧、蒸発霧、前線霧、放射霧、滑昇霧、混合霧、逆転霧)
だって、あり得ないはずなのだ。この海域で、この時期に霧が発生することは本来ないはずなのだ。なのに今、『晴風』は霧に覆われている。視界はおそらく1000メートルもないはずで、見張員のマチコの目を以てしても至近距離になるまで他の船を捕捉することはできないだろう。
つまり、危険な状況だ。
万が一この状況下で敵船がやってきたとしたら、『晴風』はまともな反撃もできず終わる。
(放射霧は海上では発生しない。前線霧はその名の通り前線に伴って発生する物。そして、ココちゃんに調べてもらった天気図を見るに、この場所に前線はない。だから、前線霧は発生しえない)
明乃は操舵手を幸子に代わってもらっていた。幸子に集めてもらった情報を分析するのに全力を賭している明乃には操舵までやる余裕はなかった。明乃は確かに優秀で、有能で、精良だ。その明乃が全リソースを以てして対応しなければならない事態が今、起きていた。
無論、それはひょっとしたらただの考えすぎかもしれないが。
(滑昇霧は山頂付近で発生する霧だし、混合霧は気温が違う二つの空気によってできる物だからこれもまた違うはず)
1つ1つ、可能性を潰す。
少しずつ、真実へ近づいていく。
きっと、嗤っている。
仕掛け人である『彼女』は、それを期待している。
(逆転霧。……ううん、今は春で、ほぼ無風で、付近に前線もないのに逆転層なんて発生しないよね?)
例えばの話だが。
この場所に明乃と同レベルの知識を持った人間――もえかやブリジットがいれば、明乃は躊躇いなく現状に対する議論を始めただろう。
明乃は1人で物事を判断することの危険さを知っているし、何より多くの事柄は『有能な複数人』で議論した方が正しい解が出やすい。
だが、この『晴風』に明乃と同レベルの知能を持った人間は存在しなくて、
だから明乃は艦長として1人で考えていた。
(蒸発霧、……極地でもないのに発生する?だいたい、気温18.5度じゃ蒸発霧の発生条件は満たさない)
無論、幸子に明乃の考えを話すというのも1つの手ではある。幸子は明乃より無能な人間だが、だからこそ明乃とは違う意見が出やすい。そしてその異なる意見を明乃ならば汲み取り、さらに高レベルの意見へと発展させることができる。
何よりも、『相談してくれた』という事実は信頼感を得やすい。
平時であればそうしただろう。
(なら、移流霧は?移流霧は温かくて湿った空気が冷たい海上を移動する時に発生する物。でも、この霧が太平洋上の、横須賀-西之島新島間の海上で発生する可能性は低い。だいたい気温差2.7度で移流霧が発生するなら今頃世界中は霧で満たされてる)
だが今は時間がない。幸子と冗長的な議論をしている暇はない。
非常事態で、緊急事態で、急を要するかもしれないのだ。
時間は、ない。
(……あはは……困ったなぁ。……この海域で霧が発生する理由、無くなっちゃった)
だとしたらなぜ、この海域で霧が発生しているのか?
霧が発生するはずのない場所で霧が発生している理由。
それはきっと、
きっと、
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
明乃の沈黙が続く。
その沈黙が幸子には酷く痛かった。
話しかけても拒絶されたから、ではない。
拒絶されたことにショックを受けたとしても、それを『痛い』とは思わない。
だから『痛い』と思った理由は別にある。
別。
そう、単純な話だ。
だって、
(私は、頼られませんでしたね)
だって、明乃は幸子に何も言わなかった。ただ『邪魔だから黙っていろ』と、そうとしか言わなかった。
2人で考えるよりも1人で考える方がいいと思われた。
2人で悩むよりも1人で悩む方が効率がいいと思われた。
2人で話し合うよりも1人で結論を出す方が正解だと思われた。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………やっぱり、あり得ない」
小さな呟きが、
「あり、得ない」
大きく艦橋に響いた。
「この条件下じゃ、海霧は発生しない!」
結論は出た。
最悪の結論が出てしまった。
だから明乃は幸子に向かって叫んだ。
「ココちゃん、今すぐ皆を起こしてきて。操舵は私が変わるから!」
「えっ、……」
「早くっ!時間がないの間に合わなくなってからじゃ遅」
その通りである。
全く持って、明乃の言うとおりである。
そしてだからこそ、もう既に終わっていた。
『艦長っ!』
伝声管からマチコの叫び声が聞こえた。
『上く』
たったそれだけで、
「総員」
見張員であるマチコのその叫びだけで、
『う、右10度に』
明乃は分かってしまった。
「対」
そして、だからこそ同時に理解してしまった。
『詳細不』
もう、手遅れであるという事実に。
「ショック」
ここからの逆転は、ほぼ不可能であるという事実を。
『明の巨』
そう、
「体勢!!!」
彼女たちは遅すぎたのだ。
『影があ――ッッッ!!!???』
大きな衝撃音と共に、『晴風』が揺れる。
「っ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
そして、
そして、
そして、
『晴風』最初の、命懸けの闘いが始まった。
敵の名は、『リヴァイアサン』。
太平洋を支配する大海賊団、『リヴァイアサン』である。
今話のサブタイトル元ネタ解説!
TYPE-MOON制作のスマートフォン向けRPG『Fate/Grand Order』の登場キャラクター、キングプロテアの
さて、何人生き残れるかな?
感想、高評価、ここ好きをいただけますと大変やる気が湧いてきます!よろしくお願いいたします!!!
表紙絵の感想は?
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素晴らしい!
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特にない。