恋する魔法乙女たち 作:銀髪オッドアイ教団
古今東西の知が集積する大図書館に相応しい静寂が降りた。図書館たるもの常にこのようであって欲しいとパチュリーは思っている。手癖の悪い魔法使いが遊びに来て弾幕をばらまいたり血の気の多い吸血鬼姉妹が暴れ回ったりするので静かな時間は貴重である。
「……何て言ったのかしら?」
重圧すら感じる沈黙をレミリアが破った。興奮は消え失せ、吸血鬼らしい冷酷が言葉に乗った。
「そんなにでかい耳して聞こえなかったか? 寝言は寝て言えと言ったんだ」
「でかいんじゃないわよ先っちょが尖ってるだけでしょ!」
レミリアの耳は先端が月桂樹の葉のように尖っている。吸血鬼の耳はとても良い。大図書館のどこかへ落ちた針の音すら聞き取る。正面からの声が聞こえていないわけがない。レミリアなりの慈悲だ。言い間違えか口が滑ったか、それでも訂正するなら寛大な心で許してやろうと思っていた。猶予はこれでなくなった。
「躾が必要なようね」
細く小さな右手を翳す。広げた五指の先端に真紅の光が集った。紅は指に沿って伸び、緩く湾曲する。吸血鬼の爪だ。咲夜のナイフよりも遙かに切れ味がよい。頑強な鬼の肌にすら傷を付ける。吸血鬼の膂力で振るえば人間など容易く両断される。
「ちょっとレミィ!」
「待って」
慌てて友人を止めようとするパチュリーをアリスが止めた。
「リヒトを信じて」
「信じてっ……て」
パチュリーは絶句した。信じるも何も生まれたばかりの命だ。信じるための実績と履歴が決定的に欠けている。リヒトの魂はパチュリーが直々に生成した。言語を始めとして通り一遍の常識や知識を植え付けはしたが、戦闘技術は全く含んでいない。対魔理沙用の諸々はこれから教えようと思っていた。レミリアの爪を受けて無事でいられるわけがない。多大な対価を払って生み出した命。あの美貌。自身へ向ける直向きな忠誠。どれも失うには惜しすぎる。
「地獄の苦しみで悔い改めろッ!」
パチュリーが逡巡している間に鋭い爪が振り下ろされた。
レミリアはいきなり命を奪おうとは思ってない。躾るのに殺してしまったら意味がない。痛い目を見せて身の程をわきまえさせ、誰が主人であるかを叩き込むのだ。さりとてあの美貌は傷つけられない。狙いは胸。皮膚を裂き筋肉を抉りあばら骨を断って心臓に触れるかどうかギリギリのライン。全身を血に濡らして死を直前に迎えれば生まれたばかりの白痴であっても反省するだろう。
しかし、レミリアは腕を振りきれなかった。パシッと乾いた音が鳴って、ほとんど振り始めの状態で止められた。
「あ、あれ?」
リヒトの手に止められた。開いた右手に左手が合わされている。指の股に指が入り込み、キュッと握られるとレミリアは手を閉じられなくなった。
「まさか止めるとは思わなかったけど、あのまま振り下ろされても掠り傷で済んだはずよ。リヒトのボディは私が対風見幽香抑止用最終決戦兵器ゴリアテ改を爆裂圧縮して仕上げたものなんだから」
「な…………なんてものを寄越すのよ貴女は!」
「対価に見合う素体はあれくらいだったのよ。物凄く丈夫だけど中身は人間と変わらないわ」
黒の年代記は存在しない。黒の年代記の写本は過去現在未来すべてを含めて今ここにしか存在しない。それほどに貴重な品の対価だ。等価交換を旨とする一等の魔法使いとして生半なものを渡せるわけがない。
なお、風見幽香とは幻想郷のあちこちを徘徊しているジェノサイドマシンの名称である。
「あうっ!」
強く腕を吊り上げられた。右腕一本で全体重を支えている。細い顎を掴まれて正面を向かされる。
「メスガキじゃなくてマセガキだったか。可愛がって欲しいのか?」
レミリアは赤い目と青い目に自分の顔が映るのを見た。異色光彩が冷酷と残酷と嗜虐の光を放つ。吸血鬼の第六感が暴力の香りを嗅ぎ取った瞬間、世にも希な美貌を間近で見つめる恍惚は反転した。
「うわああああああぁあぁぁん! さくやあああぁぁぁああああああ!! たすけてえええええええぇえええええぇええぇぇ!!!」
レミリアが絶叫し始めた瞬間、リヒトの腕は軽くなった。捕まえていたはずのレミリアの腕がない。
「うぅっ……ぐすっ……」
そのレミリアは、リヒトから大分離れた場所でメイド服の少女、十六夜咲夜の腰にしがみついてべそを掻いていた。
抱きつかれている咲夜はレミリアの頭を撫でながら顔を上げた。端正な美貌は静かな敵意を持って睨みつけてくる。
「……不思議だな」
咲夜の両手はレミリアをあやすのに一生懸命。その咲夜の方からナイフが飛んできた。いつ投げたのか全くわからない。飛ぶ鳥も落とすと思われる速さのナイフを、リヒトは危うげなく掴み取った。
矯めつ眇めつ、しげしげとナイフを鑑賞する。柄の装飾はともかく、刀身の光は銀。硬さは鋼以上。おもむろに懐へ仕舞おうとして、
「返してください」
返還要求があった。優しく投げ返そうとしたその瞬間である。
「!?」
静寂に眠っていた図書館中の書物が目を回すような爆音が一同の耳をつんざいた。いや、リヒトだけは例外だ。彼の姿はない。鬼が全力で投げた石のように、床と水平に吹っ飛んでいった。
パチュリーが放つ魔力弾さながらの速度で吹き飛ばされたリヒトの体は幾つもの書架を薙ぎ倒し、広い広い図書館の中央部から壁に激突して止まるまで全く減速しなかった。
「あ…………ああ………………」
この世の終わりのような光景に、小悪魔が絶望に嗚咽した。
無数の書物が暴風に吹き飛ばされた木の葉の如く宙を舞っている。
一流のビブリオマニアであるパチュリーは書物の全てに保護の魔法を掛け、何度も荒らされた経験から自動で元の位置に戻る魔法も掛けてある。しかし、限度がある。書架が壊れてしまえば戻る場所がなくなってしまう。
これから一ヶ月以上にわたって、小悪魔の超過労働が決定した瞬間だった。
「プークスクス! お姉様ったら咲夜に泣きついちゃってだらしないんだー。お姉様が可愛がって欲しくないならフランが可愛がってもらうね!」
「フラン!」
レミリアと同じ小柄な少女。けたけたと心底楽しそうに笑っている。レミリアの無様が面白いのか、美貌の男に可愛がってもらうのが楽しみなのか。
背に生やすのは翼の骨なのか一対の枝なのか、七色の宝石を釣り下げている。幼げな顔立ちはレミリアによく似て当然、レミリアの実の妹なのだから。
吸血鬼の妹姫、フランドール・スカーレットは咲夜が投げたナイフの十倍以上の速度でリヒトに激突した。リヒトは見ての通り図書館の端まで弾き飛ばされ、フランドールは黄金の髪に埃一つつけていない。
「パチュリーが何かしてるなあって思ったらあんなの作ってたんだ。すごいすごい! フランあんなにきれいな男の人初めて見た!」
「ちょっと何してるのよ、これから私がビシって決めるんだから!」
「そんなこと言って泣いてたくせに」
「泣いてなんかないもん!」
目を赤く腫らし、咲夜に抱きついたままでは説得力がなかった。
フランドールが嘲るように笑う。レミリアはぎりぎりと歯ぎしりするが、もう一度間近であの迫力に当てられたら今度こそ泣いてしまうかも知れない。レミリア基準ではまだ泣いてない。頬を濡らすのは目から出た冷や汗である。
「あっ」
呆けた声は、リヒトの行方を見守っていたパチュリーかアリスか小悪魔か。
瓦礫の山から音もなく影が抜けだし、音もなくフランの真ん前に着地した。
アリスが技術の粋を結集して作ったボディは吸血鬼の怪力で殴り飛ばされても何の痛痒もないらしい。リヒトは泰然とフランドールの前に降り立った。予想通りの頑強さにフランドールは嬉しくなった。
「お姉様の代わりにフランがお兄ちゃんに可愛がってもらうね」
「リヒト・リーベと名前をいただきましたよ」
「ふーーーん。私はフラン。フランドール・スカーレットよ。よろしくね」
「ええ、こちらこそよろしく。それでは次はこちらの番でよろしいでしょうか?」
「いいよぉ。当てられたらね!」
フランドールは花開くように笑った。あどけない笑顔にリヒトも笑みを返した。フランドールは思わず見とれた。レミリアより五歳年下の幼い吸血鬼でも、やはり女だ。女は生まれた時から女なのだ。この美貌の前なら男も女の関係ないだろうが。
「あっ……」
見とれていたが、それとは関係なく避けようとも思わなかった。
フランドールはリヒトの腹をこれでもかと殴り飛ばした。だからリヒトも殴りかかってくると思った。なのにリヒトは優しく手を伸ばしてきた。繊細な手付きで頬を撫でられ、思わず手を重ねてしまう。
「え……」
「ただ当てるだけだと吹き飛ぶだけと覚えましたので」
頬を撫でていた手が、フランドールの細い首筋を掴んだ。反対側の手が拳を作り、弓を引き絞るように大きく引かれる。
あっと思ったときは終わりだった。石のように硬く握られ岩のように重い拳が、矢のように風のように飛んできた。
あれが当たったら痛いだろうなあ顔がへっこんじゃうだろうなあもしかしたら死んじゃうかも、でも吸血鬼だから復活できるかな? 手が千切れたことはあったけど顔がなくなったことはまだなかったっけ、最後にお姉様の泣き顔が見れて面白かったなあ。
ほんの一瞬で、雷が天から地に落ちる僅かな時間で、フランドールの脳裏を様々な思いが過ぎった。手や足はまだ動かせるけど、順番と決めたのはフランドールだ。だから受けなければいけない。
「やめなさい!」
パチュリーの声が寸前で止めた。
拳はフランドールの鼻先にほんの少しだけ触れ、拳圧が巻き起こす暴風が顔にぶつかり金髪を靡かせた。
可愛らしくつんとした鼻から、つつつと血が流れてきた。吸血鬼の回復能力なら鼻血は一瞬で止まる。流れた血は唇まで届く前に止まった。
「吸血鬼の血か」
「ふえっ!?」
首筋は掴んだまま。ぐいと引き寄せ、拳を作っていた手は開かれてフランドールの顎を掴んだ。上を向かせ、リヒトは頭二つは背丈が違うフランドールに合わせるため、身を屈めた。
フランドールの鼻と唇の間。流れ出たばかりの鮮血に口を付けた。
赤い舌がフランドールの肌を舐めた。鼻にも触れた。フランドールの主観では、間違いなく唇にも触れた。この美しい人が自分の唇を舐めている!
唇が離れたとき、綺麗に舐めとられたばかりなのにフランドールの鼻からは一筋の血が流れ出ていた。今度は止まらず、唇を濡らし、顎まで届いた。
リヒトは怪訝に首を傾げながらもう一度体を屈めて、
「いつっ!」
側頭部をチクリとやられた。
アリスが操る上海人形と蓬莱人形が、身の丈ほどもある長大なランスを構えてチャージアタックを敢行したのだ。