少年を抱き締めていた両手が宙をかき、杳はハッと顔を上げた。どことも知れぬ街中に座り込んでいる。幹線道路沿いに多数の商業施設やオフィスビルが立ち並び、道路いっぱいに広がった人々が、川のように絶えず流れていた。――転弧くん。杳は少年を探すため、駆け出した。
転弧はすぐに見つかった。十メートルほど先を行き交う人々が、ある箇所で――まるで何かを避けるように――小さなカーブを描いていたからだ。冷たく無関心な人々の檻を擦り抜けると、その中に転弧がいた。通行人は皆、不審げに少年を横目で見るが、すぐに立ち去ってしまう。
あの後、家を飛び出してから何日も彷徨ったのだろう。服も手足もボロボロで、一番ひどいのは
(ボク?大丈夫?そんなボロ……)
ふと、二人の前方を中年の女性が立ち塞いだ。見るからに人が良さそうな雰囲気を放つ彼女は、心配そうに転弧を覗き込んだとたん、恐怖に顔を引きつらせ、口を噤んだ。
(す、すぐ、ヒーローか警察か、
ぎこちない愛想笑いと言葉を浮かべ、女性は足早に去って行った。その後ろ姿を、転弧は呆けたように眺めている。”誰か来る”、女性の放ったその言葉が杳の耳にこだました。けれど、彼女を責める事はできない。杳はそう思った。むしろ声を掛けてくれただけ、親切だ。
――ヒーロー飽和社会と呼ばれる現代では、
「
荒れた首筋をかきながら、転弧はポツリと呟いた。杳はしゃがみ込んで、落ち窪んだ少年の目を見上げる。――もし、誰かが手を差し伸べていたら。ヒーローや警察の下に、少年を連れて行ってあげていたら。未来は変わっていたかもしれない。自分と向き合い、罪を償えたかもしれない。新しい家族と一緒に、新たな人生を踏み出せていたかもしれない。学校で友達をつくり、放課後ヒロドを楽しんでいたかもしれない。
だけど、
「いらない。ホラ見て」
転弧が両足の踵を合わせると、傷ついた素足が、
「お揃いだよ。僕、嬉しかった」
少年はひび割れた顔をほころばせ、年相応に幼く清らかな笑顔を見せた。”個性の暴発”により起きた悲しい事故、少年もその被害者である――とはいえ、家族を全員殺めてしまったのに――その事実を認めた上で
「……それに、もうすぐ救けが来る」
耳元で囁かれたその言葉を杳が理解するより早く、周囲の景色が変わった。今度は、どことも知れない高架橋の下に立っている。薄汚れた支柱に背をあずけて足を投げ出し、転弧は目の前を流れる川面のきらめきをぼうっと眺めていた。
ふと、その頭上に大きな影が差す。――何の前触れもなく、そこに一人の男が出現していた。
(誰も救けてくれなかったね。志村転弧くん。辛かったね。可哀想に)
聞き覚えのある声だ。蕩けるように優しい
杳は眉根を寄せ、その男を注意深く観察した。年の頃は三十代後半ほど。背丈は高く、均整の取れた体格を上質なスーツに包んでいる。奇妙なのは、
(もう大丈夫。僕がいる)
☆
(……おとうさん、おかあさん。華ちゃん)
転弧の虚ろな声がして、杳はいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げた。真っ白な部屋の中に転弧がいて、机の上に転がされた大量の手を一つ一つ手に取り、家族の名前を呟いている。机の前にはオール・フォー・ワンと白衣を着た老人、ドクターがいた。相変わらず二人の面相は不鮮明で判別できないが、杳はそれよりも転弧の事が気になった。何故、手に家族の名前を付けているのだろう?その疑問に応えるように、オール・フォー・ワンは穏やかな声でこう言った。
(肌身離さず持ち続けなさい。想いが風化しないように)
杳の思考は停止した。転弧が”おばあちゃん”と呼んだ死人の手には、さざ波のように細かな皺がある。死柄木の顔を覆っていた手の感触をふと思い出し、杳はとっさに両手で口を塞いで、込み上げてきた嘔吐感を堪えた。両足がわなわなと震える。
――
次に瞬きした時、杳は簡素なベッドの上に座っていた。前方の床に、転弧が倒れている。だが、様子がおかしい。苦しそうにのたうち回り、顔のそばには吐瀉物が広がっていた。杳はベッドから転がり落ち、激しく体じゅうをかき毟る転弧に飛びついて、介抱しようとした。しかし、その手はまたもや実体を失くしている。歯がゆい思いをする彼女の背後から、あの優しい声がした。
(君は君自身にもコントロールできないほどの破壊衝動を抱えている。そいつが溢れて体に知らせているんだ。かゆみとしてね)
振り返ると、オール・フォー・ワンがベッドの上に腰を下ろしている。彼は転弧を介抱するわけでなく、ただじっと観察していた。吐き気が吹き飛んでいく。杳の心に込み上げてきたのは、恐怖ではなく怒りだった。なんで助けようとしないんだ。あなたは救うために手を伸ばしたんじゃないのか。カッとなってオール・フォー・ワンを睨んでいると、誰かが自分の袖を軽く引っ張った。――
「そんな目で見ないで。先生はいい人だよ。僕を救ってくれた」
(我慢なんてしなくていい。それは決してダメなことじゃない)
いい人なわけがない。杳が言い返そうとしたとたん、オール・フォー・ワンの声が室内に響いた。耳で聴いているはずなのに、その声は内臓にまで染み渡った。もし仏様がこの世に現れたら、きっとこんな声を出すに違いない――そう思うほどに、慈悲深く優しい声だった。この人は転弧を甘い言葉で
――ゾッとするほど冷たく攻撃的な目で、転弧がこちらを睨んでいた。自分の話を上の空で聞く親に機嫌を損ね、かまってほしいと駄々を捏ねる子供のように、彼は頬を膨らませる。
「僕を見てって言ったよね。
その言葉は、たった5歳の子供の口から発されたとは思えないほどの重圧と凄味があった。びしり、と音を立てて、杳の手首の皮膚にわずかなひびが入る。血管が千切れ、大量の血が溢れ出す。痺れるような激痛が襲い、杳は声にならない悲鳴を上げた。思わず身を捩り、拘束から逃れようとしたその時――
(んだテメーは!俺らが道を歩いてんだよ!ガキだからって容赦されると思ったか?しねーよ!)
――突然、見知らぬ男性の怒声が飛んできて、杳はびくりと肩を跳ね上げた。いつの間にか、薄汚れた路地裏に座り込んでいる。転弧に掴まれていた方の手首は、血で真っ赤に染まり、もう少しで崩壊するところだった。すぐに氷雪で患部を固め、止血する。脈打つような痛みに耐えながら、それでも杳は転弧を探した。
転弧は数メートル先の袋小路で見つかった。二人組のチンピラに絡まれ、暴行を受けた挙句、壁に蹴倒されようとしている。とっさに転弧のそばへ駆け寄ろうとする寸前、杳は気付いた。怒りと憎悪に満ちた表情で二人を睨み、おもむろに拳を握った転弧の口元が――ほんのわずかではあるが、
(ああ、可哀そうに。何を恐れている?心のままに動けばいい。でなければ君が苦しむだけだ)
再び、背後からオール・フォー・ワンの声がして、杳は振り返った。――また、あの部屋に戻っている。オール・フォー・ワンは悠然とベッドに腰掛け、激しく嘔吐し、のたうち回る転弧を見下ろしていた。本当に、転弧は苦しそうだった。まるで体の中に猛毒の固まりを抱えていて、それをどうにかして吐き出したいと足掻いているようだった。杳はまたも手を伸ばすが、その手は幽霊のように少年の体を通り抜けていくばかりだった。その現象は、
(大体の人の性癖は、普通だよ。だけど一部の人は、
その時、何の前触れもなく、杳の脳裏にかつての航一の言葉がよみがえった。
(まあ、妥協点を見つけるのが大変だけどね。
転弧は原因不明のアレルギー症状に悩まされていた。彼がかゆみから解放され、心から晴れ晴れとした笑みを浮かべた状景は、杳の知る中でたった二つしかない。一つは、ヒーローである祖母の写真を見た時。そしてもう一つは――
僕を見てと言った転弧の真意を、杳はやっと汲み取った。個性と性癖は時として、密接に関連し合うケースがある。トガが吸血を愛情表現としているように、たとえば人や物を崩壊させるといったような――
(さあ転弧。君はどうしたい)
(……僕を殴ったあの二人を殺したい)
その言葉は、杳の心を残酷に撃ち抜いた。――そんな事、言っちゃダメだ。ヒーローに憧れていた優しい君が、誰かを殺したいだなんて。
しかし、杳は同時にこうも思った。それが転弧の性癖だというなら、ヒーローとして受け止めるべきではないのかと。相反する強い想いに打ちのめされ、茫然とする杳の前で、転弧は机の上に這い寄ると、無造作に積み重ねられた手の一つを掴んだ。
(なんでか分からないけど、嫌な気持ちが溢れて止まらなくなるんだ。抑えられないんだ)
死人の手は見る間にひび割れ、塵と化して崩れ去る。その様子を見た転弧の表情は、深い陶酔に落ちていった。オールフォーワンは鳥肌が立つほどに凄艶な笑みを浮かべ、優しい声で励ました。
(ならば頑張ろう)
曇天から降り注ぐ雨が全身を濡らし、杳はハッと我に返った。むせ返るような血臭が、鼻孔を刺激する。足元に目をやると、赤黒い肉の塊が大量に落ちていた。背筋を戦慄が駆け抜けていく。悍ましい血溜まりの中心に、転弧がぼうっと佇んでいた。死人の手に隠された
(おめでとう。涙を飲んで歯を食いしばり、君は生まれ変わった)
惜しみない拍手の音が、周囲に響き渡る。杳の前には、死人の手を体じゅうに散りばめた転弧が立っていた。まるで生まれたばかりの赤子を抱き上げるように、オール・フォー・ワンは愛情と労りに満ちた声で、そっと囁きかける。
(さあ、見せておくれ。君の姿を。死柄木弔)
(しがらきとむら?)
転弧が不思議そうに尋ねると、オール・フォー・ワンは芝居がかった動作で両手を広げてみせた。
(弔う。死を悲しみ、別れを告げる事。志村転弧は弔いを招く存在へ生まれ変わるんだ)
(しがらきは?)
(……私の苗字)
それを聴いた瞬間、転弧は歓喜の笑みを浮かべた。――かつて、彼が祖母の正体を知った時に見せてくれたものとは程遠い、陰鬱で狂気じみた表情だった。
☆
オール・フォー・ワンが立ち去ると、室内には弔と杳だけが残った。力なく俯いた杳の顔を覗き込むと、弔は指先で少女の口角を押し上げた。オールマイトのみならず、ヒーローはいつでも癇に障る笑顔を浮かべているものだ。困っていた人を救った後なら、尚更。弔は口の端を歪め、自ら手本を示すように笑ってみせる。
「なぁ、笑えよヒーロー。お前は俺を救ったんだ」
ぼんやりした銀鼠色の双眸と、狂気に満ちた真紅色の双眸が、交錯する。――こいつのおかげで全部、思い出した。俺は
「あれは悲劇なんかじゃない。……
そう、本当の自分になるための。生まれた意味が今、やっと分かった。弔は穏やかな表情で自らの両手を眺めた。
――俺はただ、
「未来なんていらない」
顔を覆っていた手を取り、壊しながら、弔は自嘲めいた声で笑った。その言葉を聞いたとたん、杳の肩が鞭打たれたようにビクリと跳ねる。フラッシュバックのように、杳の心の底から、細切れになった記憶のコラージュが這い上がってきた。――墓石。冷たいガラスに遮られた、兄の笑顔。灯りの消えた家。塩辛い涙の味。恐ろしい穴に囚われた家族の姿。喪失感。もう戻らなくなった日常。
――生きていてほしかった。たとえ敵でも、大勢の人を殺していても。
杳はポケットからスマートフォンを取り出すと、電源ボタンを二回押した。刹那、部屋の天井を突き破り、巨大な黄色い金属板が降って来た。二人の間を隔てるように床に突き刺さったそれは、スマートフォンをそのまま巨大化したような外見をしている。”通報完了”という電子文字が表示された画面を見上げると、弔は憤りも悲しみもせず、ただ静かに笑った。
「……ッ!」
寂しそうなその笑みは、杳の心臓を激しくかき乱した。罪悪感と後ろめたさで、息ができない。
やがて画面の奥から、プレゼント・マイクが顔を覗かせた。杳が世界で一番、
――その瞬間、二人は敵とヒーローという、決して分かり合えない立場へ戻った。
転弧と過ごした記憶が走馬灯のように駆け巡り、杳は激しく泣きじゃくりながら、心の内を叫んだ。あなたを救けたいのだと。弔が逮捕されたら、杳は時間の許す限り、刑務所に足を運んで向き合うつもりだった。彼が未来に希望を持てるようになるまで、根気強く話をするつもりだった。だが、その声は無情にもマイクの声にかき消されていく。
「ハハ。聴こえねぇよ」
弔は乾いた声で、ポツリと呟いた。マイクの個性に巻き込まれ、周囲の世界が崩れていく。杳は不意に首根っこを掴まれ、どこか上の方へ引っ張られるような感覚に襲われた。弔が覚醒しようとしている。――転弧!杳は手を伸ばそうとしながら、叫んだ。
☆
杳はベッドから飛び起きた。心臓が今にも口から飛びだしそうなほど、激しく脈打っている。汗と涙でぐしゃぐしゃに汚れた顔を拭こうともせず、血塗れになった右手の応急処置をしようともせずに、彼女は必死に周囲を見回して弔の姿を探した。
――この部屋にはいない。外に出てしまったのだろうか。何気なくドアに目をやった彼女は、
ベッドから転がり落ちると、杳はドアにしがみ付き、開けようとした――とたん、勝手にドアが外側から開いた。勢いよく前に倒れかかった杳の体を受け止めたのは、黒霧だった。血に染まった杳の右手を見るなり、金色の目尻と靄の一部がまるで動揺したように、ゆらりと揺らぐ。だが、興奮状態に陥っている杳はそれらの異変に気付かず、黒霧に縋りつくと悲痛な声で叫んだ。
「黒霧さん!転k……しg、と、弔に会わせてください!話したいことがあるんです!」
「落ち着いてください。それよりも先に、貴方の手当てを」
黒霧は杳が死柄木を名前で呼んだ事に、不思議そうな反応を見せた。しかしそれは数瞬の事で、彼はすぐさまワープの個性で救急道具を呼び寄せると、有無を言わさぬ態度で杳を部屋のベッドに座らせ、傷の治療をし始める。軟膏を塗って包帯を巻きながら、黒霧は穏やかな声でこう言った。
「我々も丁度、今後について