出入口は意外と早く見つかった。激しく降り続く雨を透かして、ドームの下部に点滅する”EXIT”の文字がぼんやりと確認できる。そのまま雲のスピードを加速させた時――
「……わっ!」
――いきなり何かが雲を突き破って、自分の腰にギュルンと巻き付いた。
慌てて視線を下げると、それは赤くて吸盤がぞろりと付いた
再び落下しながらも、杳はタコの足の先を辿った。
ドームの下は市街地を模した造りになっている。わずか十メートル程下にある大きなビルの屋上に一人の男が立っていた。タコのように丸っこくて大きな口をしたその敵が、自分を捕えた犯人だった。そして彼の周りには、武器を持ったゴロツキ達が数人ひしめいている。
……このまま相手のフィールドに連れて行かれてはダメだ!
「”
杳はすぐさま自分の腰の周りに密度の濃い雲を創り出した。タコの足と腰の間に雲を挟ませる事でわずかな隙間を作り、空中で体を回転させ、滑らかに拘束を擦り抜ける。
さらに着地する寸前、接地部分の雲を肥大化させる。杳の体は落下の衝撃を受ける事なくボールのように弾んで、敵達と対角線上の位置に着地した。
直ちに体勢を立て直し、背中から鉄パイプを引き抜いて身構える。すると敵達は警戒するどころか笑いを含んだ野次を飛ばして来た。
「やるなぁお嬢ちゃん!」
「ありがとうございます!」
杳は素直に応えながらも状況を確認した。
――数メートル先に敵が五人。不規則な扇状に並んでじりじりとこちらに近づいている。激しい雨風のせいで相手方の個性を詳しく観察する事こそできないが、多少の雨風にはびくともしない頑強な体つきの者ばかりだ。
すると一番前に立っていたタコの男を乱暴に押し退け、屈強な体躯の男が大振りのナイフを片手ににじり寄って来た。
「すぐにヤんのは楽しくねえ!ちょっと遊ぼうぜ」
「おい殺すなよ!死柄木さんが……」
「分かってる!」
杳が迎撃するために一歩踏み込んだ時、突如として後方から黒い影が伸び上がり、ナイフ男をなぎ倒した。男は屋上のフェンスに背中から激突し、動かなくなる。
程なくして黒いマントを羽織った男子生徒が、杳を跳び越えてふわりと前方に降り立った。
――
「大丈夫か?白雲」
「ダイジョーブ?」
「常闇
「
「おいおい邪魔するんじゃないよ鳥人間!」
せっかくのお楽しみを邪魔されたタコ男は、殺気立った様子で両手の触手をムチのようにしならせ、攻撃する。黒影は片手でそれらをまとめて掴み上げ、ぐっと引っ張り込んだ。そして体勢を崩して前のめりになったタコ男に急接近し、殴り飛ばす。
しかしその騒ぎに紛れて、新たな敵が釘バットを振り上げ、常闇の懐に迫ろうとしていた。
「”
杳はとっさに常闇の周囲に雲を展開させて、敵の進行を阻害した。急に現れた障壁にスピードを落とした敵の背後を取り、みぞおちに鉄パイプの一撃を喰らわせる。
「……ッ!」
しかしパイプ越しに杳の手に伝わったのは、柔らかな肉ではなく
――パイプと接している敵の腹部は、良く見ると鉄のように硬質化していた。敵は子供相手に不覚を取ったのが余程悔しかったのか怒りを爆発させ、パイプを掴んでいる杳の手を力任せに捻り上げる。
「こんのクソガキィ!」
「……!(危ない!)」
来たる攻撃に備えて杳が身を固くしたその時、敵は突然何者かに背後から手刀を喰らい、昏倒した。どうやら一度に硬質化できる体の部位は限られていたらしい。
手刀の主は杳を優しく助け起こし、捩じられて赤くなった手を心配そうにさすってくれた。
――
「口田くん!ありがとう!」
「……!(気にしないで!)」
「一先ず付近の敵は一掃したか」
「シタカー!」
そこへ全ての敵を沈黙させた常闇が合流する。
三人は雲に乗り、出口に向かって飛びながら情報共有をした。やはり二人も杳と同じように黒い靄に包まれたと思ったらここへ飛ばされていたらしい。そしてここには自分達を狙うゴロツキが大勢いると、常闇は周囲を油断なく警戒しながら呟いた。
「あの黒い靄は恐らく
「他に誰もいなかった?ここは私達三人だけ?」
口田がこくこくと頷いたので、杳はホッと安心した。
常闇は黒影に周囲をくまなく警戒させつつ、口田と共に仲間がいないかと探しながら出口へ向かっていた時、偶然襲われていた杳を見つけたらしい。
――”自分以外にここへワープさせられている者がいる”という考えには至っていなかった。二人が来なければ無事ではいられなかっただろう。杳は改めて助っ人達にお礼の言葉を告げた。
「この奇襲は一見馬鹿げたテロ行為に思えるがその実、綿密な計画上に基づいたものだ。連中もあのオールマイトに対して、何ら策を講じていない訳ではあるまい」
「……?」
「……!(つまりオールマイトが危ないってこと!)」
――オールマイトが来ていないのはある意味、幸運だったのかもしれないと杳は思った。
黒い靄は”平和の象徴の殺害”が目的だと杳達に宣言した。そのために彼らは雄英バリアを破壊し、USJという隔離された屋内施設に少人数のクラスが入る時間割を狙い、人海戦術を用いて大掛かりな奇襲を仕掛けたのだ。
警報センサーも作動していない今、ここはまさに
「早くなんとかして、皆の所へ戻ろう!」
「……そうしたいところだが」
しかし常闇は前方を見るなり、杳の肩に手を置いてスピードを緩めるようにと指示した。
――出入口を塞ぐようにして、数十人の敵が臨戦態勢で待ち構えていた。覚悟を決めた杳は雲を消して二人と共に地上へ降り立ち、鉄パイプを構える。
「奴らもそう簡単に行かせるつもりはないようだ」
「……!(二人共伏せて!)」
いざ決戦となったその時、口田が二人を抱き込んで地面に突っ伏した。
次の瞬間、後方から
とりわけ真正面からその風を受け止めた敵達の被害は甚大で、巻き込まれて天井近くまで高く舞い上がってしまう者や、お互いにぶつかり合って自滅してしまう者などが続出した。
やがて三分の一の数の敵を道連れにした風は、急速にその勢いを緩めていった。常闇はゆっくりと立ち上がりながら口田に尋ねる。
「口田、風が読めるのか?」
「……!(うん!)」
「また
「……!(もちろん!)」
「よし、奴らを手早く一網打尽にできる策が完成した。二人共、耳を貸せ」
三人はやおら顔を突き合わせてコソコソ噺をした後、それぞれ戦闘体勢を取りつつ前に進み出た。そこで常闇はふと右隣に並び立つ杳を伺い見る。
「……白雲。怖くはないのか?」
「え?全っ然!」
底抜けに明るいその返答に、常闇は
――”多勢に無勢”と言えるこの状況、戦闘能力に秀でた者ならさておき、通常ならば多少なりとも
だが、彼女にはそんな感情は微塵も見当たらない。まるでここには怖いものなど何もないのだ、と言わんばかりに快活な笑みを浮かべている。
……勇敢なのか、命知らずなのか。それはまだ判断しかねるが、彼女が無茶をして危険な目に遭わないように、主戦力たる自分がしっかり守らなければ。そう思った常闇はふと杳の足元を見て、息を飲んだ。
――
精神と身体の均衡が全く取れていないその様子を目の当たりにして、常闇はますます戦意を強めた。彼はヒーローだった。俺が前にいる限り、白雲にも口田にも一切手は出させない。
「やっぱりガキだな!正面突破ってか!」
元気良く雄叫びを上げる黒影をまとわせ、迷わず先陣を切った常闇に追従するように二人は”魚鱗の陣”を構えた。そんな彼らに対し敵達は扇状に広がる事で”鶴翼の陣”を取り、それぞれの武器や個性を発現しながら待ち受ける。
やがて遠距離系の個性を持つ敵達がエネルギー弾や石つぶてを撃ってきた。杳は雲の障壁を前方に創り出し、それらを受け止める。
一方、雲を踏み台にして高く跳躍した常闇は黒影を放った。威勢の良い返事をした黒影は肥大化させた両腕を振るい、付近にいた数人の敵をなぎ飛ばす。黒影はそのまま敵陣に突入し、派手に暴れ回って全員の注意を惹きつけていく。
――その時、前線で黒影が取りこぼした敵と格闘していた口田が叫んだ。
「
刹那、同じく前線で戦っていた杳は後方へステップバックし、両手を突き出した。
――今から創造するのはとても大きな雲。とても沢山の雲。ありったけの雲。それを射出式の捕獲網のように一瞬で出し切って絡め取る!
「”
次の瞬間、杳の両掌から凄まじい勢いで大量の雲が噴出され、そして網状に変化して辺り一帯を覆い尽くす。
巨大な捕獲網と化した雲は敵達の中にふわふわと漂うが、当たっても柔らかく跳ね返るだけで拘束力は微塵もなく、やがて風に従ってそよそよと凪ぎ始めた。敵達は拍子抜けしてマシュマロのような雲を突っつく。
「目くらましか?」
「……を、”
――
杳は気合を入れて両手をパチンと合わせた。主の命に従い、方々に広がっていた雲の網は敵達を残さず絡め取りながら、瞬時に収束していく。油断していた敵達は予期せぬ事態に焦り、必死にもがきながら喚き立てた。
「な、なんだこりゃ?!」
「こんなモフモフ、すぐに切り裂いて……」
「……いや、
「アイヨッ!」
黒影は大きな両手を地面に叩きつけ、十数メートルほど跳躍した。中空を舞う彼らを援護するように、杳の繰り出した雲がまとわりつく。
――コンマ数秒後、また
敵のたっぷり詰まった雲ダルマは風に煽られて、出入口に向かって飛んでいく。追い縋るように急接近した常闇は、強力な追い風の力を味方に付けて必殺技を撃ち出した。
「”宵闇よりし穿つ爪”!」
攻撃の直前に巨大な雲が創り出す影に入り込んだ事で、黒影はますます力を強めた。暗黒のエネルギーを取り込んだ体は巨大化し、吹き荒れる暴風と共に雲の塊へ渾身のカウンターを喰らわせる。
身動きの取れない敵達はその凄まじいパワーを受け止め切れずに
雲がクッションとなったおかげで大怪我こそしなかったものの、敵達は一様に軽い脳震盪を起こして失神してしまった。
かくして三人はやっと”暴風・大雨ゾーン”から脱出する事ができ、周囲に散らばる瓦礫や敵を避けながら、雨風のない平和な世界に感謝した。
「ぶぇきしっ!」
「……?(大丈夫?)」
ずっと雨ざらし状態で豪風に吹かれていた杳は、不意に鼻がムズムズしてくしゃみした。そんな彼女を口田が心配そうに見る。
しかし二人の歩みは、突然常闇が突き出した腕によって阻まれた。
訝しく思った杳は常闇の顔をひょいと覗き込んで、息を飲んだ。彼の表情は恐怖の感情に染まっており、その目線は
――見事な連携プレーで敵を退けた杳達は、自分達の力が通用したと思っていた。この勢いで皆も救けられる。それに全員が一致団結すれば、この危機的状況をも乗り越えられると信じていた。
けれど今、セントラル広場で起きている
さっきまで万夫不当の戦い振りを見せていた相澤が、脳らしき器官が剥き出しになっている大男にうつ伏せに押さえつけられている。
大男は相澤の片腕を掴むと、小枝を折るようにへし折った。相澤が苦痛にうめいて体を捩じるが、大男はもう片方の腕も同じように掴んで粉砕する。
続いて頭を掴んで容赦なく地面に叩きつけた。――クレーターが出来る程の威力だった。ゴッという鈍い音がここにも聴こえてきて、おびただしい量の血が飛び散る。その余りに陰惨な光景に口田はたまらず震え上がり、ヒッと小さな悲鳴を上げた。
☆
――”人生の転機”はいつだって突然に訪れる。
杳にとっては
そして今、杳に
……殺される。相澤先生が死んでしまう。
本当は分かっていた。彼はいつも厳しくて、嫌な事に無理矢理向き合わせようとする苦手な先生だが、それは全て自分のためを想っての事なのだと。杳が変化を受け入れたくないがために、意固地になっていただけだった。
心の内側を、あの冷たい穴から生まれた風が吹き上げる。穴が相澤先生を飲み込んで、奈落の底へと消えていく。――兄と同じように。
兄の模倣も、”本当の個性は封印する”というルールも、自分が死ぬかもしれないという事も。
――ただ今この瞬間、
☆
杳の体が不意に
十三年間、窮屈な思いをさせられていた個性因子は突然舞い降りた脳の指令に歓喜した。細胞の一つ一つと手を取り、血流に飛び乗り、蛹が羽化するように神々しく艶やかにその姿を顕現する。
一方、恐怖に呑まれていた常闇はふと我に返った。
……
凍り付くような冷気は杳の体表から放出されていた。
にわかに彼女の体の輪郭が淡く透け、そこから鈍色の雲が噴き出して周囲に滞留する。蠢く雲の隙間から眩い閃光が幾筋も走り、急激に熱された空気はゴロゴロと地を這うような音を立て始めた。雲の冷気と雷の熱気で大気が対流し、生温い風が二人の頬を撫でていく。
――それは
その光景を見た常闇は、数日前に行われた戦闘訓練での出来事を思い出す。白雲はオールマイトから”本当の個性を使え”と言われていた。――今までの個性とは全く様子が異なる。ならばこれが彼女の”本来の個性”。
(……封印されし
鈍色に輝く雲を透かし、杳がしゃがみ込んで両手を地面に付くのが見えた。野生の獣のように身を低くかがめ、駆け出すような体勢を取る。
次の瞬間、眩い閃光がほとばしり、世界は束の間真っ白になった。
二人は思わず目を塞いで地面に伏せたが、強く閉じた瞼の上からでも眩しさを感じられるほどだった。続いて鼓膜を突き破るような爆音と共に、イオン化された突風が吹き付ける。
もろに光の攻撃を喰らった黒影は「ヒドイヨー!」とマントの影でメソメソ泣き始めた。
☆
脳無は相澤から手を離し、驚異的な反射能力でそれを受け止めようとしたが、音速を超える事により発生する衝撃波を受け止めきれず、十数メートルほど吹っ飛んだ。数億Vに達する雷のエネルギーは凄まじい高熱でもって脳無の体を内側から焼き尽し、骨の髄まで炭化させる。
突然の事に身動きの取れない死柄木と黒霧の目前で、黒焦げになった脳無の足がたたらを踏み、やがて仰向けにゆっくりと倒れていく。
――杳は、今度は
常闇くんに”封印されし業(カルマ)”って言ってほしかったがために書きました。