雲一つない、綺麗な夜空だ。
雲一つないって単語は大体まっさらな青空を伝えるための言葉だ。
けれど、夜空だって雲が少しでもあれば一面に広がる星の絨毯なんて存在すら出来ない。夜なのに晴れている、なんて少し変だけど。
空っていうのはそういうもの。ちょっといい風に言ったけど、ごく当たり前のことだ。
「お茶、いる?」
「大丈夫。飲みな」
この季節でも夜はかなり冷えこむ。春の到来なんて言いつつも、夜になれば冷たい北風は体にこたえる。
地べたはタオルを引いたところで、ひんやりと冷たく。唯一、暖かいのは背中越しから伝わる彼女の体温だけ。
俺の吐く息は白くないが、水筒から漏れ出ている熱気は白い。ふーふー、と息を吹きかけながら、お茶をちびちび飲む彼女の顔は少し熱そうに顔をゆがめている。
自分自身そこそこ暖かい心を持っていると思っていたんだけど、どうやら水筒に入ったお茶に負けるくらいのレベルだったらしい。別にうまくもなんともないな。
「もう虫さんも元気なんだね」
「来週になれば、もう4月だからな」
車についてる電子時計の表示は22:08。
この夜更け具合なのに、夜の森は騒がしい。虫たちが奏でる、まるでオーケストラのような音符にに包まれている。
一流の演奏かと聞かれても、俺は虫界の音楽事情を知らないので正直よくわからない。けど、少なくとも人間界の音楽的には、聞き心地はとってもいい。
ただみんなが想像するような音ではないと思う。ジーっという、どちらかと言うとノイズのような鳴き声だ。オーケストラと言っても、ちょっと地味だ。趣はあるけどね。
田舎どころか山の近くの丘だし、てっきり鈴虫が鳴いているものかと思ったんだが、どうやら鈴虫の時期ではなかったようで。
「どうよ」
「何が?」
「空」
「んー……」
こんなド田舎に昼から親の車を走らせて、逃避行という名の小旅行。
……なんて名ばかりの、ただの可愛い可愛い彼女さんの我儘だ。どうやら今日はキレイな夜空をご所望のようだったらしい。
暗い山道を走ってる時はあんだけビビり散らしてたのに。それもつい数十分前の話。なのに今ではもうケロッとしている。人の感情ってホントに変わりやすい。こいつは典型的すぎるけれども。
可愛かったなぁ。彼女って生き物はなんでも愛おしく見えるから駄目だ。知能指数が下がる。
「すっごく綺麗!」
「……そーかい」
立ち上がって俺の目の前に来たかと思ったら、両手をいっぱいに開いて。小さな体でどこまでも届く夜空を掴もうとでもしてるのか。それとも俺に自分の喜びを精一杯伝えたかったのか。
ともかく、満足なのは分かった。それだけで十分。
家を出たころには若干濡れていた髪もいつの間にか乾いている。風邪をひかないかなどと心配していたが、これならもう大丈夫だろうか。
まぁ帰りに暖房でも入れて車を走らせれば、万が一にでも風邪はひかないだろう。バカは風邪をひかないなんていうが、念には念だ。
今の彼女の保護者は俺だからな。万に一つ、風邪の一つでもひかせてしまった日には、それはそれはもう恐ろしい彼女のトモダチさんのどえらいお叱りが待っている。
「晴れててよかったな」
「うん!」
本当に綺麗に笑うよな。笑顔って言葉が似合うよ。
時々。いや、時々でもないが、彼女は自分とは釣り合ってないと痛烈に感じる時がある。
今ではもう絶対に口に出さないようにはしているが、その気持ちを持つことは今も昔も変わらない。口に出したらこいつが怒るからな。
所詮、一般人。
彼女は、今も芸能界で燦然と輝くお星さま。
夜空を見上げていた彼女が満足したように顔を落とし、しばしの静寂。ふと、そんな言葉が零れる。
「キミは……今、私と居て楽しい?」
名前じゃなくて、キミなんて呼ばれたのは初めて会った時以来だろうか。ほんの少しだけ、ぽかぽかと懐かしい気持ちになる。
『楽しい』
その一言にどんな意味が含まれているのか。俺には理解ができない。
彼女との日々は毎日が『楽しい』でいっぱいだ。でも、本当にそういう意味なのだろうか。普段はアホなことしかしてない頭すっからかんな彼女の言葉が、今日はなんだか単純な意味に聞こえない。
「どーだろうな」
結局いつものこれだ。適当に濁して、ささっと逃げる。
昔から俺はこういう人間だ。それが彼女のためだと思って、逃げてきた。色んなことから。
彼女は俺のことを凄いだとかカッコいいだとかそう言ってくれるが、きっとそれは俺のことしか目に入っていないからだろう。
それがどれだけ幸せなことなのか。恵まれていることなのか。そんなの、俺だってわかっているつもりだ。
けれど、不安なんだ。
心の中でいつもこう思ってしまっている。彼女は、こんな程度の男に捕まってはいけない。それがぐるぐると頭で渦巻く。
「じゃあさ、質問を変えるね」
夜空に映る星がはっきりと見えるようになる為には、いくつかのの条件があるらしい。
例えば、人工の光が届かない田舎だとか。標高が高いところから見るだとか。大気汚染物が少ないだとか。気温と湿度が低いだとか。
でも空が真っ暗なのと同じくらい大切なのが、空気が澄んでいることなんだそうな。
空気が澄んでいないと大気汚染物やらで小さな星が見えなかったり、街明かりを反射して星空がより霞む。
彼女だって、きっとおんなじだ。
最初から周りの汚いモンを全部照らせるくらい強い光だったら、何にも問題はない。
けれども、そういうわけにはいかないのが現実だ。そんな強い光を放てる人間なんてこの世に一握り。
大抵のダイヤモンドの原石なんていうのは人に磨いてもらえるなんてわけでもなく、自分を磨いて、輝かせて、努力して、それでやっと輝いて、みんなに見てもらえる。彼女なんてまさにそうだろう。努力でこんな高いところまで上り詰めてきた。
だから、それを俺が邪魔していいはずなんてないんだ。星の欠片ですらない、自分は雲。風に流されて彼女のもとから離れるはずだ。当は、もっと早く。
「今、幸せ?」
少し本心を掠めるような、そんな一言に軽く口元が歪んで、笑い声が洩れる。
本当ならアイドルにとって恋愛はご法度。そもそもそれが許されていたのがおかしいんだ。
結局、甘えていただけなんだ。彼女の優しさに。世間の論調に。
月明かりに淡く照らされる。不安も、悲しみも、全部、全部包み込んでくれる、彼女の微笑みに。
きっと今の俺は、月明かりに照らされていても顔は影に落ちているんだろう。まぶしくて見れないや。
俺はずっと、寄りかかっていただけなんだ。強いようなフリをして。背中に顔をくっつけてたんだ。
「私はね、すっごい幸せだよ」
そうやって俺を甘やかすんだ。こっちの気も知らないで。
ピンク色なのは髪色だけじゃなくて頭の中もなのかと言ってしまいたくなる。
あっそ、なんて短い単語で適当に受け流したくなる。
それでも、めいっぱい抱きしめたくなる。
離さないように。
どこにも行ってしまわないように。
その光を自分一人のものにしたくて。
なんて、勝手だ。
「キミとこうやって一緒にいれるから」
俺だって幸せだよ、と。そう言えたらどれだけ楽なことだろうか。
立派なアイドルになった彼女ともう一度会ってから、いつの間にか決めていたこと。彼女が幸せになるまで見守るし、見届ける。そうやって男として決めた、最初で最後の気持ち。
「千聖ちゃんから聞いたんだ」
「……何を?」
「昔、キミが私たちの邪魔になるわけにはいかないって言ってたの」
「……高校生の時の話だろ」
「でも、今も引きずってるんでしょ?」
鋭い。女の子のカンというは、時に全てを見抜けるほど凄くなるなんて聞く。ここまでくると人格も多少変わってるんじゃないかと錯覚しそうになるな。
目の前にいる彼女の姿は何も変わらないのにさ。昔と比べても、俺から見たらほんのちょっと大人っぽくなっただけだ。
「キミは優しいし、それに頑張り屋さんだからね~。昔からずっと」
「気のせいだよ。そんなこたぁない」
「わかるよ。ちょっと間が開いちゃったからずっとじゃないけどさ。それでも近くで見てきたから」
確かにそうかもな。お前はずっと近くにいてくれた。それはもう、近すぎるほどに。
あまりにも近すぎてさ。その輝きの価値がワカラナクなるくらいには。
「もう我慢しなくていいんだよ?」
「してないさ」
「嘘つき。ずっと我慢してるでしょ。手も出してこない癖して」
「それは話が別だろ」
「私だって今年で成人なのに、ずっと未経験ってのは流石に恥ずかしいんだけどな~」
それに関しては、お前が一端の恋愛をしてこなかったのが悪いやんと言いたくなる。けれど、それもこれも俺のせいだと思うと何も言えない。
本当に俺は彼女から色んなものを奪ってきたのかもしれない。遠くに見える木々の暗闇に罪悪感と共に飲み込まれそうになる。
「アイドルを不治の病に落とした罪は償って欲しいんだけどな〜……なんて? えへへ……」
「自分で言って照れるなよ……」
彼女はとっても魅力的な女性だ。色んな意味で。
そりゃあ俺も男なんだから手は出したくなる時なんて腐るほどあるさ。でも。その度に親の顔を頭に浮かべて沈めてきた。
だって、手を出したら本当に戻れなくなりそうだから。
「……なぁ」
「なーに?」
「俺ってヘタレだと思うか?」
「うん。とっても」
「即答するなよ……」
「だって、事実じゃん」
ちょっと凹む。自分でも自覚はあるんだよ。ずっと。
「こんなにわかりやすく好きを伝えてるのに、絶対に信じようとしないんだもん」
「本当だとは思わんやん」
「じゃあ、もう一回ちゃんと告白してあげよっか?」
「恥ずかしいから、いい」
「それは『言っていいよ』ってことでいいのかな?」
「勘弁してくれ」
あの時だって、彼女以上に恥ずかしがってたのは、多分俺だ。情けないったりゃありゃしない。
初めて真っ直ぐな好意を向けられたから。どうしていいかわからなかったんだよな。
今まで向けられてきたのは全部避けるか、刺さっても見ないふりをしてきたから。逃げようがない中での正面からの確殺攻撃ってさ。卑怯だぜ。
「告白って、本当は男の子からするものなんだよ?」
「そうっすね……」
「私達の時ってどっちが告白したっけ?」
「そっちっすね……」
「私、まだ待ってるんだけどな〜」
若干ジト目になっているピンク色の視線が痛い。見る人が見たらご褒美なのだろうか。
少しむくれた様子が可愛いのは置いておいて、さっきから正論しか吐かれてない。これは不味い。非常に不味い。立場と人権が無くなる。
男女平等だのなんだの騒がれている今のご時世だけど、流石に告白は男性からってのは未だに共通だ。
というか、普通に男から行かないと色々ダサい。正直言ってただのヘタレだ。シンプルヘタレ。そしてそのヘタレはここにいる。
「……じゃあ、一つだけ先に聞かせてくれ」
「いっぱい聞いてもいいんだよ?」
「……わかった」
こういうところがすっごく良くないと思うよね。保険はかけておいても損がないなんて言うけど、ここまで来ると本当にチキンを超えた何かになる。
そんで、それを彼女は理解しているんだろうな。
「彩はさ。俺と会って、後悔してない?」
「うん。キミと会わなきゃこんな幸せな気分、知ってなかったと思うな」
「頼りがいとか全くないし、顔も良くない」
「カッコいいよ。私の中では貴方が一番」
「そんなにお金持ちでもないし」
「私アイドルだから! これでもお金持ちだから! 何かあっても大丈夫!」
「これから先、君の理想の彼氏になれるかわからない」
「それは……私も同じかな」
本当に、幸せな頭をしている。
いや、そうなる様になっているだろうな。不安とかも全部飲み込んで。俺のことも一緒に庇おう、なんて。優しさが過ぎる。
「だから、その……」
喉の奥まで出かかった言葉の出口に困って、頭を掻く。
あー、とか。んー、とか。そういう言葉しか出てこない。どういう言葉が一何彼女に喜んでもらえるのかがわからない。
「……あっ」
言葉に詰まって頭を上げると、夜空には大きな半月。もう片方揃っていれば、なんて言葉がお似合い。
三日月でも満月でもない、中途半端な半月。それがなんだか、やけに美しく見える。
「今夜は月が綺麗ですね」
口から零れるように出たその言葉は、むかしむかしにどこかで聞いた有名な恋文。
I love youを日本語の美学に直した。過去の偉人の作った、創造的な枕詞。
「貴方の傍にずっと居たい。これからもずっと」
愛してる、なんてくさい言葉は言えなかったけど、前の言葉で全部伝えたから。
これが俺の素直な気持ち。
過去の忌々しい思い出も、全部笑い飛ばせるようになる。大人になって、おっさんになって、ジジイになって、死ぬその時まで。彼女の傍に居たい。
この感情の事を言葉にする最適解が、『好き』の二文字に収まるなんて思えなかったから。
「えへへ……」
「……恥ずかしいから照れないで」
「増えちゃったね。色々と」
何が、というのを聞いたら自分が傷つく気がするから何も聞かない。
結局、この言葉が彼女にとって欲しかった言葉だったのかはわからないけど、何だか喜んでくれているから良しとしよう。そもそも彼女が言ってほしいっていうからやったんだしね。
「じゃあ、私も背負ってあげるね」
腕を後ろに組んで、その場でくるりと回る。アイドル稼業で鍛えられているだけあって、華麗なターンだなぁとか、少し暢気すぎるかもしれない。
後ろに手を組んで、少し俯きながらも口角は上がっている。相変わらず、月明りは晴れ時々カノジョ。いつもの可愛い印象とは打って変わって、やけに綺麗に見える。
「これから先も、ずっとずーっと! 貴方の傍に居させてください」
いつもの彼女とオトナな彼女が同時に見える。まるで昔と変わらないと思っていたはずなのに、何故か昔の影と重なって、今の彼女もいっしょに見えて。頭が混乱しそうになるはずなのに、何だかスッと入ってくる。
あの時もそうだった。こういう時、なんて返すのが正解なんだろうなって。
洒落たことなんか言えないし、抱きしめることなんてもってのほか。好きなんて言い返した日には、俺という存在が終わる。
「帰るか」
「えー! なんでさー! ちゃんと千聖ちゃんに言われたようにやったのにー!」
腰に敷いたタオルを拾い、さっき見たようにくるりと180度回転して丘を下る。
結局こういうのは受け流すに限る。後ろからポカポカと可愛く抗議する彼女を笑いながら、少し明るい夜道を歩く。
きっと、この先もこういう日々を消さないために過ごすのだろう。笑顔の絶えない毎日を過ごすために。左手にある、暖かい感触を離すことの無いように。いつまでも、守りたい人とずっと傍に居れるように。