その日、『黄昏の館』に一条の雷が落ちた。
「………………………………」
ノックも無しに、扉が開いていく。静かに、音も立たず。
その扉が開いた室内では、白髪が床にめり込んでいると思わせる程に頭を下げている少年がいた。と言うより、土下座をしている僕のことだった。
僕が目覚めたことを団員に伝えに行く、と言ってフィンさんが部屋を出て行ってから十数分ほど。僕は、この体勢のまま固まっていた。
待ち人は、とうとう来た。
「…………」
「…………」
額を床に擦り付けているため、周りの状況は全く見えないが、それでもわかる。目の前に、レフィーヤさんが立っている。
その距離、50Cほど。1歩踏み出せば、僕の頭を踏めるような位置。
「……………………」
「……………………」
たらり、と汗が出る。僕から言葉を発するわけにはいかないだろうと待っているが、あちらからも話を切り出す気配はない。
カチ、カチ、と、机の上に置いてある時計が時を刻む音が、なんだか酷く大きく、そして、遅く聞こえる。無限にも思える時間が過ぎてゆく。
気が遠くなりかけた、その時。
「……………ふッ!」
ガヅんッ!
レフィーヤさんが、力を込めた息を吐いた次の瞬間、僕の耳を掠めながら、何かが床に突き立てられる。髪の毛が数本、その勢いで千切れた気がする。
背中から、額から、首から。冷や汗が滝のように流れ出る。
「…色々と言いたいことも聞きたいこともありますけど…ベル」
いつもの優しい声ではない、まったく感情のこもっていない声に、僕はなぜか泣きそうになった。
「…はい」
「私の心配は、無意味なものでしたか?」
刺々しい声に、キュウっと胸が締め付けられる。
ハッと顔を上げて、レフィーヤさんと目を合わせる…その目には、色々な気持ちが綯交ぜになっているように見えて、僕の目を見ているのに、僕を見ていないような…そんな感覚に襲われた。
「私が貴方のことを思って言った、無理をしないでと言うお願いは、貴方にとって邪魔なものでしたか?」
「そ…」
れは、ちがいます、と答えようとして、僕は答えられなかった。
確かに。確かに僕は、その言葉を無視して行動したのだから。
そんな僕を見て、目を細める。
訥々と、声を振り絞るように紡ぐ。
「…貴方の気持ちは分かりました。でも、分かりません…貴方が何を、考えているのか…っ! いえ、そもそも考え方が違うんでしょう。言っても無駄なら…私はもう、何も言いたくありません」
それは、何かを悔やむような、そんな声で。
違うと、邪魔なんかじゃなかった、嬉しかったと。言おうとするのに、喉がひりついて声を出せない。
「冒険者は冒険をするな…とまでの言葉は言いません。それでも、安全を確保することもできたはずの状況でわざわざ一番危険な選択肢を選ぶ貴方のことが! 私は! 理解できません! どれだけ、どれだけ心配したと思っているんですか!?」
息を荒げながら、レフィーヤさんが言葉を発する。
言葉を出そうとしているのに、口は意味もなく開閉するだけで、一切の音が出てこない。
レフィーヤさんが目を瞑り、首を小さく振る。
…手を差し伸べたのが、そもそもの間違いだったのでしょうか。
その言葉が聞こえた時に、僕の目は決壊した。涙が溢れてきた。
それだけは、思わせてはいけないことだろうと。
言ったレフィーヤさん自身も、それは言ってはいけないことだと思ったのか、完全に僕が悪く、それに対して怒りを向けている最中だというのに罰の悪そうな顔をする。
泣き出してしまった僕に一瞬、狼狽えながらも首を振るって口を開ける。
「私は…貴方にも怒っています。でもそれ以上に、自分自身に怒っています! 私は、貴方のことを分かったつもりでいた。もう、危険な目に遭わないように行動してくれると、信じていた! 何度も何度も! 私が知る限りでもう4回も死にかけて! …貴方は、きっと冒険者なんかになるべきじゃなかった!」
きっと、僕が冒険者になっていなければ、1人の女の子をこんなにも泣かせるような今も、何度も死にかけるような今もなかったんだろう。
冒険者になれなくて死にかけていた僕を、何度も死にかける冒険者にしてしまったことを悔やんでいたのだろう。僕にとってあれは、神の救いだったというのに。
なんで、命を大切にしてくれないんですかぁ…泣きそうになりながら、レフィーヤさんがそう言いながら、僕の横に突き立てた杖を取り落とし、膝を突く。そして、僕の頭に拳骨を落とす。一切力のこもっていない、形だけ握り拳を作ったような。
その甘さと優しさに、胸を打たれた。
「なんで…なんでもっと…なんでぇ…私じゃ、貴方には寄り添えませんか…?」
ぐすぐすと、涙ぐむ彼女の顔を見る。目が、赤く腫れていた。
きっと、僕が寝ている間に泣いてくれていたんだろう。
恐らく、僕を1人にしたそのことで自分を責めて。
僕は、自然とレフィーヤさんに近寄り、縋り付いていた。
「ごめん、なさい…ごめんなさい……ありがとう」
もっと言いたいことがあったのに、ようやく絞り出せた言葉はそんな言葉で。それでも、十分に気持ちを汲み取ってくれたのからレフィーヤさんは薄く微笑んでくれる。
「謝るくらいなら…グスッ、もう…っ」
そんな僕に、彼女もギュッと抱き寄せてくれる。
優しい姉の、その体温を感じながら2人して泣きじゃくる。
2人、涙でぐちゃぐちゃな顔のまま笑みを浮かべる。
そのまま、立ち膝で僕のことを抱きしめていたレフィーヤさんが後ろに倒れる。抱き締めあったまま、僕もそれに引っ張られて覆い被さるように倒れた。
目の前に、エルフ特有の耳が見える。
ぽそっと、耳元に呼吸を感じて、こんな状況なのにどうしようもなく恥ずかしくなる。
「…生きて帰ってきてくれて、良かった」
囁くようなその声に、僕は、心の底から反省した。結局は、ただただ心配してくれていた。2ヶ月前まで、ただの他人でしかなかった僕のことをこれほどまでに想ってくれていることに感謝しながら、もう目の前の少女を泣かせてはいけないと、そう思った。彼女の泣いている姿は、もう見たくないと。
しかし、その怒りも本物だったのだろう。落ち着いて、2人とも泣き止んで抱き締めあったままポツリポツリと会話を始める。何があったのか詳細を聞かれて答えていくと、じわじわと背中に回されている腕に力が込められてきた気がする。というより、すでに僕の身体は痛みを感じていた。
「…ベルは、馬鹿です。大馬鹿です。世界一の馬鹿です。信じられないほどの馬鹿です。これはもう、手綱をつけるしかありません。団長からも貴方の教育を頼まれているのですから、これは正当な躾です」
「れ、れふぃーやさん、くる、くるし」
「…ふふ、なかなか言うことを聞いてくれない不出来な弟には、姉として罰をあげましょう…ベルには、首輪が似合いそうですね?」
「ぎぶ、ぎぶぅ…」
「嫌ですね、ベル、あげるのは私の方ですよ? 貴方はもらう方です…そうだ、せっかく首輪をつけるならケモミミ型のカチューシャなんてのもいいですね…ふふふ…」
…怒りと、心配と、その他様々な感情が止め処なく濁流のように溢れたレフィーヤが一時的に壊れたのと引き換えに、ベルはレフィーヤに今まで以上に可愛がられることとなったが、この時の記憶は幸か不幸か互いに薄くしか残っていなかった。やりとりを見たメンバーもいないため、何かがあったことは間違い無いが、薮蛇を恐れて誰も聞き出せずにいることになる。
どれほど時間が経っただろうか、数人が目撃していた無表情のレフィーヤがベルの部屋へと歩いていったのが、昼前。
今はもう、太陽もそのほとんどの姿を隠している。
流石に、魔法を撃つことはないだろうが…とみんなのママであるリヴェリアが心配しながら自室の中を意味もなくウロウロとしていた。
いやでも、さすがにこの時間までベルも出てこず、レフィーヤも戻ってこないのは…とベルの部屋へと向かう。
すると、部屋の前に幾人かが集まっているのが見えた。
ラウルやアナキティを筆頭に、ベルとレフィーヤの双方とそれなりに交流があるメンバーだ。
「…どうした?」
背後から声をかけると、その全員がビクッと肩を揺らす。
「…あ、リヴェリア様。いや、ベルを呼びに来たんすけど…その」
「…レフィーヤと抱き合ったまま寝ちゃってて…起こした方がいいのか、そっとしておいた方がいいのか…」
皆が身を引いてドアの隙間を指し示す。それを受け、中を覗き込むと互いに背中に腕を回し、すやすやと寝ている2人の姿が見える。
「…レフィーヤのことを考えると、何も見なかったことにしておいた方がいいだろう…」
パタン、と、ドアを閉じる。
年頃の少女である、そして、エルフである。
相手もまた、幼く見えるが同年代の男であるのだからそこにエルフとして抱える性質を考えると色々と問題があるだろう。個人間なら、レフィーヤが折り合いをつけるだろうが他人に知られるというのはまた別の問題である。特に、この少女は同胞達の中では一際に感情を表に出す。
今回とは違った意味で爆発する恐れがあるものに、むざむざ手を出すのもいかがなものかと放置することに決めた。
「…そろそろ夕食の時間だろう、行くとするか」
リヴェリアが食堂に歩き出すのを見て、皆がついていく。
何も見なかった。何も見ていない、と、自分自身に言い聞かせるようにして。
━━━それから、十数分後。目の覚めたレフィーヤが、自分に覆い被さるように寝ているベルに気が付く。ましてや、豊満とまでは言えないがエルフとしてはそれなりに膨らみのある胸元に顔を埋めている。先程まで何をしていたのかに思考を巡らせる前に本能で動き出す。
━━━貞淑なエルフに、乙女に、なんてことをしているんですかこの子は!?━━━
自分から抱き締めて、自分から床に倒れてベルのことを引っ張ったというのに酷い言い分である。しかし、それを諫める人間も諌められる人間もこの場にはいなかった。いるのは、哀れな兎が1匹だけ。
というより、先程の記憶は薄らとだがもちろんある。あまりの感情の濁流に記憶はハッキリとはしていないが、それでもぼんやりと自分からしたことも覚えている。
それでも、ネガティブな感情が薄れた彼女を今支配しているのは、羞恥。先程まで怒りで赤く染まっていたその顔は、今、羞恥心で真っ赤に染まっている。
起き上がり、ドンとベルを突き放す。床に強かに後頭部を叩きつけたベルが、情けない声と共に起きる。
立ち上がるレフィーヤが、落ちていた杖を拾う。
紡がれるは、高速詠唱。
『解き放つ 一条の光━━━
目を回しているベルの前で、彼女の得意魔法であるアルクス・レイの詠唱が滞りなく詠われていく。
━━━穿て 必中の矢』
そこまで来てようやく、ベルは事態に気がつく。
脳内で警鐘が鳴り響く。まずい、まずい、まずい、何故かはわからないが、先程までの比でないほどに怒っている? なぜ、なぜ、なぜ?
思考に気を取られ、体が動かない。必中の魔法が自らに向けられていることに恐怖し、身を竦める。
━━━アルクス・レ
頭を抱えて、防御態勢を取り小さくなるベル。
その瞬間、また、部屋の扉が吹き飛ばされる。
「イッ、きゃあッ!?」
「へブっ!?」
魔法は詠唱を紡れ完成したその瞬間、制御の手から逃れた。
「レフィーヤ、やり過ぎだ馬鹿者! …は?」
放たれた魔力の波動に気が付き、慌てて向かってきたリヴェリアがベルの部屋の扉を突き破りながらレフィーヤを止めようとした。Lv3の冒険者の魔法の一撃。それは、Lv1の冒険者にとって必死の一撃である。
リヴェリアの全力疾走という、珍しいもののおかげもあってベルに魔法が放たれることはなかった。
しかし、魔法の発動自体を止めるには1歩遅かった。吹き飛ばされたドアの破片はレフィーヤに当たり、それにたたらを踏んだレフィーヤがベルに覆い被さるように転ぶ。
意図せぬ衝撃に、ベルは耐え切れず潰れて、鼻を打つ。
そして、窓枠ごと窓を消し飛ばして走っていった一条の光が、『黄昏の館』の主塔、その先端を…貫いた。
轟音と共に。
多分、レフィーヤは本気で怒ると何故か感情が昂って泣いてしまうタイプの人間。
ちなみに、話を聞いた最初はリヴェリアにヴァース・ヴィンドヘイムの使用許可を取りに行って(その際、いつになく真顔で声も固かった)、あまりの表情に本気でやりかねんと思ったリヴェリアが必死に宥める。
一回死ねば…ベルも流石にわかるんじゃないですか? とか言い出したレフィーヤを前に、リヴェリアは盛大にたじろいだとか。
その後、情緒不安定になりつつも自責の念から怒ったり泣いたり精神的に不安定な1日を過ごす。一貫しているのはベルが心配だということ。無事ポンコツエルフにジョブチェンジ。