――死は必然とされる。

夜になると部屋の隅を黒い影が走る。

指ほどの大きさをしたつややかな黒い体。

長い触角を頻繁に動かして周囲を警戒する。

太い脚で素早く移動した。

排水溝やエアコンのダクトなどから侵入する。

玄関や窓の隙間でも人間の生活圏に入り込む。

そして外敵の気配を察知して飛翔する。

私は虫が嫌い。

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ノベルアップ+他にて重複掲載。
https://shimonomori.art.blog/2020/07/12/mushi/

※本作は横書き基準です。
 1行23文字程度で改行しています。


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私は虫が嫌い。

私は虫が嫌い。

 

中でもゴキブリ嫌いには理由がある。

 

6歳の誕生日に、私は靴を買ってもらった。

 

エナメル革のつややかな光沢を放つ暗褐色(あんかっしょく)の靴で、

どこに行くにも大人びた気分でこの靴を履いた。

 

ところがある日、その靴に足を入れると、

何かが足先に触れた違和感ですぐに飛び退いた。

 

靴の中にはゴキブリの死骸(しがい)があった。

 

足を入れた時に死んだのか、

元から死んでいたのかは分からないが、

とにかく私は大泣きした。

 

それ以来、私は靴を履くことがトラウマになった。

 

まず私は靴べらで靴を叩き、

逆さまにして中身の安全を確認しないことには

まともに靴を履けないようになった。

 

そんな私の奇行を哀れんだ両親は、

家の中にゴキブリを捕獲する為の

薄い箱型をした粘着式シートを設置した。

 

箱はすべて家を模したデザインで、

扉や窓、そして決まって赤い屋根だった。

 

家の中にゴキブリの家でも建てたようだった。

 

私に配慮してくれた両親だが、

幼い私は理解に苦しんだ。

 

ペットのつもりなのかと、

両親を(いぶか)しんだりもした。

 

その影響で私は、友達に遊びに誘われても

赤い屋根の家に住む子の場合は頑なに断り、

目の前まで連れられても帰るようになった。

 

理由は絶対に言わなかったが、

今思えば面倒な子になっていた。

 

それと両親は殺虫スプレーを用意した。

 

ゴキブリなどが描かれたスプレー缶は

パッケージを()くことができて、

無地の質素なスプレー缶になった。

 

ゴキブリを忌避(きひ)する人への

需要を見越して配慮されたデザイン。

 

パッケージが剥かれて

部屋に上手く溶け込んだスプレー缶。

 

しかし咄嗟(とっさ)の判断の時に

有って無いような気配を消したデザインは、

スプレー缶の存在に意識が向くことがなく

食器用洗剤で代用することが多かった。

 

液体の洗剤をゴキブリにかければ、

泡で気門(きもん)(ふさ)窒息(ちっそく)死させることができる。

 

部屋中洗剤だらけになることはあったが、

不快感から後の掃除も(はかど)った。

 

両親はゴキブリを見かける度に

ヒステリックに騒ぎ立てる姿を見て、

私は逆に冷静なって対処するようになった。

 

過保護な両親のおかげか、

私はいつの間にか靴を履くことに

心理的な抵抗はなくなっていた。

 

ある時から友人や両親は、

ゴキブリを(ジィ)と呼び、隠語を使い始めた。

 

ジー、ジィと呼びつけるのは、まるで

虫の鳴き声のようで耳障(みみざわ)りであるし滑稽(こっけい)で、

同音で呼んでるお爺ちゃんが可愛そうだった。

 

社会全体でそんな軽率な行為が

まかり通ってしまうと言葉狩りにも見えるし、

それに認知を歪めるようで私は懐疑(かいぎ)的となった。

 

どうしてよりにもよって、記号や単位などでも

頻繁(ひんぱん)に使うアルファベットのGなのか。

 

英字ならばCockroach(コックローチ)のCが適当だし、

ゴキブリ(もく)ならBlattodea(ブラトディア)のBになる。

このまま行けばアルファベットを制覇(せいは)しかねない。

 

ゴキブリの頭文字でローマ字のGにするならば、

ゴキや御器(ごき)と省略するのと大差はない。

 

ゴキブリの名前はマイマイカブリという

カタツムリを食べる甲虫に似ている事に由来する。

 

食器の残飯(ざんぱん)を食べる様子から

御器(かじ)り、御器(かぶ)りと名付けられた。

 

生物学初の用語集は脱字があり

よりにもよってそれが広まり、

現在のゴキブリに定着した。

 

隠語を用いても、名称を変えても、

たとえそれが脱字脱字であっても、

定着すれば危険ドラッグのような

呼称のイタチごっこになるのは想像に容易い。

 

ゴキブリそのものに違法性はないが、

取り締まれるのであれば取り締まりたい。

 

『御』と略せば触角(しょっかく)や脚や(はね)を連想させる

象形(しょうけい)文字として使えないかと私は考えたけれど、

御苑(ぎょえん)御中(おんちゅう)など接頭辞として使われている現状。

 

これがゴキブリを表す新しい漢字です、などと

偉大な学者となっても鼻で笑われるのがオチだ。

 

大陸にはゴキブリを示す

曱甴(yuē yóu/ユーヨー)』という漢字もある。

 

パソコンの周辺機器そっくりの

漢字の見た目が面白いものの、

嫌悪感が薄れている気がしないでもない。

 

逸脱したが、呼び名や名称を変えたところで、

やはりゴキブリが不快であることに変わりはない。

 

ゴキブリを何と呼ぼうが、

どんな文字で表そうとも、

私にとってゴキブリはゴキブリだ。

 

まず脂ぎった見た目が苦手だし、

細かく動かす長い触角や、特徴的なすね毛、

あの俊敏(しゅんびん)さ、生態など枚挙(まいきょ)にいとまがない。

 

何故このような生物が存在するのか。

 

ビキニ環礁(かんしょう)の水爆実験の果てに生まれ、

人類を滅ぼす存在なのかと疑った日もあった。

 

怪獣映画のモデルにならなかったのが、

今となっては不思議でならない。

 

わざわざ映画館でお金を払ってまで

観たい外見ではない。

 

ゴキブリの歴史は人類の誕生より遥か昔、

3億年ほど前の石炭紀にまで(さかのぼ)る。

 

人間の家屋に巣食うことに特化した虫ではなく、

1千万年前に誕生したばかりのホモサピエンスに

とっては大先輩にあたる。敬いたくはないけど。

 

アルキミラクリスと(いか)つい恐竜風に名付けられた

ゴキブリを含むカマキリやシロアリたちの祖先は、

『原始的な翅』を持って飛翔し餌を確保し、

また両生類や()虫類などの捕食者から

逃げていたとされる。

 

ゴキブリはお尻に左右に別れた尾角(びかく)という

細い毛に覆われた2本の感覚器で、

空気の流れなどで危険を察知して

素早く逃げる能力を獲得した。

 

生きた化石などと呼ばれる程度に古い生物だが、

シーラカンスやメタセコイアほど(うやま)われず

嫌われ者扱いを受けている。

 

熱帯雨林を中心にして生息するゴキブリは、

湿地や高木の樹冠などでも生息が確認される。

 

他にも落ち葉の間や朽ち木の中、草原や畑などで

標高2,000mもある場所にも生息するが

多くは寒さに水と弱い。

 

幼虫からサナギを経ずに成虫になるので、

不完全変態のまま寒冷期を乗り越えたとされる

中々しぶとい生き物である。

 

昆虫史上で真っ先に翅を進化させたものの、

ゴキブリには海を超えるほどの飛翔力はない。

 

レウコクロリディウムという寄生虫のように

カタツムリや鳥に寄生するわけでもないので、

人間の食べ物目当てで乗り物に便乗して

世界各地に広がったと考えられている。

 

船員も船内に紛れ込んだゴキブリを、

内臓を抜き料理に混ぜて食べていたほどらしい。

 

船酔いしてないのに吐き出しそうな昔話だ。

 

人間のせいで世界中に広がった

ゴキブリは種類が多い。

 

世界で4,000種が種として記載されているが、

学名が付けられていないものなどを含めると

1万種が存在すると言われている。

 

私の知っているゴキブリは、

その中のわずか数種に過ぎなかった。

 

国内には害虫種として有名なものが

指先ほどの大きさの黒色のクロゴキブリ。

中途半端な大きさのせいで目視しやすい。

 

爪ほどで大きさで茶色のチャバネゴキブリ。

こっちは飲食店の隅で子どもを連れて

よく徘徊している姿を見かける事がある。

 

国内の固有種として唯一の在来種が、

クロゴキブリよりも小型で細長いヤマトゴキブリ。

寒さに強く冬には休眠することもできる。

 

暖房設備の普及によって、寒い北海道でも

すでにその3種が定着がしてしまった。

 

残念ながら日本のゴキブリは3種だけではない。

 

他にも琉球、薩摩、小笠原、八重山と

地域の名を(かん)するゴキブリたちに混じって、

民家から発見されたキョウトゴキブリという

実にピンポイントな地名で京都府民には

大変不名誉な種も存在する。

 

ゴキブリの中でもゴキブリらしくない種もある。

 

南西諸島に()むヒメマルゴキブリは、

名前の通り丸くなってダンゴムシそっくりだが、

悲しいことにオスはゴキブリそのものの姿だった。

 

ルリゴキブリは暗青(あんせい)色で、

丸く小さなホタルのように

美しい光沢を持つ種も見た。

 

他にも熱帯に()むゴキブリは透明な翅や、

派手な色彩で毒虫に擬態(ぎたい)する種も存在した。

 

さらにゴキブリは亜社会性と呼ばれる

家族で生活を送る種が多い。

 

親が子を育てることは人間や他の動物に限らず、

ゴキブリの世界にも共通している。

 

中でも()ち木を食べて生活するキゴキブリは、

木の主成分であるセルロースを体内で分解する。

 

しかしセルロースの分解は自前では行えず、

後腸に棲む鞭毛(べんもう)虫という寄生虫が行う。

 

親は鞭毛虫を肛門の分泌物に含ませて、

子に食べさせることで引き継ぐのだという。

 

この鞭毛虫は主にシロアリに含まれ、

体内の鞭毛虫を駆除することで

木造家屋の食い荒らしを阻止する

研究も進められているらしい。

 

他にもキゴキブリと同じ食性で

木の中で暮らすクチキゴキブリの仲間は、

両親と子どもたちからなる家族単位で暮らす。

 

それがひとつのコロニーに集まり、個体数が

最大で128体にまで達していたという。

 

木の中にみっしりゴキブリが詰まっている状況は

想像したくはない。

 

そのように繁殖(はんしょく)力の高さも

ゴキブリの特徴ともいえる。

 

ゴキブリは一度に20個前後の卵を産み、

(さや)に包んだ卵鞘(らんしょう)と呼ばれるがま口を作る。

 

害虫種はどれも赤茶の小豆(あずき)色をしており、

見た目も残念ながら小豆に似ている。

 

自然環境下の多くは樹皮下に産み付けるが、

前述したチャバネゴキブリは

孵化(ふか)直前までお尻につけたまま生活する。

 

卵鞘を一度産み出して、保育(のう)という

場所に入れて体内で孵化(ふか)させる

卵胎生(らんたいせい)のヨロイモグラゴキブリも居るから、

なんとも不思議で奥深い。

 

こうした様々な繁殖方法によって

世界人口の200倍を超えるほどの数が

存在するとまで言われている。

 

昆虫食の習慣があるタイでは

卵鞘を集めて油で揚げて食べたというが、

現地では「悪魔の虫(マレーン・サープ)」と呼ぶように、

普通のタイ人は食べないらしい。

 

何故そんな名前の虫を食べたんだろうか…。

 

日本でもへぼ(はちのこ)やイナゴの佃煮など、

一部の地域では食虫の習慣が根付いているが、

ゴキブリを食用にする地域はない。はずだ。

 

もし町おこしの食材に使うようであれば、

今すぐ考え直した方がよい。

 

ヨーロッパや台湾で薬として

ゴキブリが売られているが、

中でも漢方として売る中国は商魂(しょうこん)たくましい。

 

風邪を始め、消化剤、冷え性による不妊症、

便秘解消、閉経(へいけい)喘息(ぜんそく)、吐血、梅毒(ばいどく)の治療など、

まるで万能薬かのように並べられた

様々な効能の中に紛れて、致死(ちし)率100%とされる

狂犬病に効くというのもある。

 

狂犬病を運んでそうなイメージもあるが、

ペテンの域なので取り締まって欲しいところだ。

 

そんな根拠のない万能薬だが、

絶食させたチャバネゴキブリを実際に食べても

口当たりの悪さと虫の嫌な臭いしかしない。

 

料理としてはやはり見た目が悪く、

案の定私は食後に気分が悪くなった。

 

食べられたりもする当のゴキブリは、

有機物であればほぼ何でも食べる。

 

先述した朽ち木の他にも、紙、(のり)

皮、腐った肉、糞便や共食いもする。

 

生ゴミや糞便の上でも歩くので、

不衛生であると当然の指摘がある。

 

赤痢、チフス、ポリオなどを伝播(でんぱ)するが、

ゴキブリはノミや蚊の様に特定の病原菌を

伝播することはない。

 

狂犬病も運ばないらしい。薬としては怪しいが。

 

ゴキブリの糞によるアレルギーや

喘息発作の報告も存在する。

 

だがそれは貧困層の不衛生な環境下が原因で、

ネコやダニでも喘息発作の要因は無数にある。

 

菌の宝庫のようなイメージがあるゴキブリだが、

手を洗わず食事をするのと同じ程度の不潔さ、

と書かれることもある。

 

イヌやネコを触ってから食事をするのと、

ゴキブリを触ってから食事をするのでは

差はないとも言える、かもしれない。過言。

 

油っぽい体や時に粘液を出すので、

不快感の強さはやはりゴキブリが勝る。

 

そんなわけで見た目の不快さに反し

清潔な環境下で育てた綺麗な(?)ゴキブリを、

ペットの大型淡水魚や爬虫類の

生餌にする為に育てる人もいる。

 

前述の通りゴキブリは繁殖力が高く、

透明な米びつや衣装ケースなどに入れて

ドッグフードなどと水を与えれば

簡単に増やすことができる。

 

繁殖の容易さから何をどう思ったのか、

ゴキブリをペットにする人まで存在する。

 

中でも長寿命のヨロイモグラゴキブリは

ペットとして人気にもなっている。

 

卵胎生のヨロイモグラゴキブリは、

オーストラリアのサバンナ地帯に生息して

モグラのように地中にトンネルを掘って暮らす。

 

ずんぐりとした丸い身体付きで、

ゴキブリと呼ぶよりもメスのカブトムシや

深海生物のグソクムシに似ている。

 

体重が最大35(グラム)にも達し、

世界一重いゴキブリとして有名である。

 

つややかな暗褐色(あんかっしょく)をしており

ダンゴムシのような山なりの形状で、

翅を持たないので飛翔はせず

太い脚で名前の通り土を掘る。

 

10年間生活を共に過ごした

ヨロイモグラゴキブリが死んだ時、

先に世を去る虫の儚さに

私は再び大泣きした。

 

私は虫が嫌い。

 




参考資料
『ゴキブリだもん ~美しきゴキブリの世界~
 著 鈴木知之 幻冬舎コミックス』

Wikipedia(2020年6月25日時点)


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