アリーシャ・ヴィンセントはハリー・ポッターのファンである! 作:冬月之雪猫
エドモンドとロンの対局は静かに始まった。
扉は固く閉ざされ、観戦者はいない。
「……ふふ」
エドモンドは薄く微笑んだ。
魔法使いのチェスの駒は基本的に口頭で指示を与えなければ動かない。その仕組みは杖と近しい。
けれど、二人は駒に対する指示を言葉にしていない。にも関わらず、駒は淀みなく動き続けている。
それは無言呪文と呼ばれる技術と同等のものだ。杖と近しい仕組みだからこそ、駒は思念による命令を受け取る事が出来る。
しかし、それは杖による無言呪文以上に困難な技術だ。なにしろ、口頭の命令でさえ、曖昧であったり、聞き取り難い命令に対しては反抗したり、無視したりする。
思念で駒に命じる際、指し手は命令を明確に、そして、絶対的に下さなければならない。
強い意思と確固たる自信があって初めて、無言の一手を打てるようになるのだ。
そこから先、二人は口を閉ざした。
動き続ける盤面を俯瞰し、戦場の僅かな変化を自陣の有利に運ぼうと画策する。
呼吸さえ忘れかけるほど、二人は集中している。
第百六話『エドモンド・カーマ』
人は生まれてから生きる意味を見つけるものだ。
けれど、エドモンド・カーマは生まれる前から生きる意味を定められていた。
―――― いいか、エドモンドよ。お前は一族の悲願を叶える為に生まれて来たのだ。
彼の父であるサンゴールは一歳に満たない赤子にそう言った。そして、赤子は小さく頷いた。
驚くべき事に、その時点でエドモンドは言葉を理解していたのだ。
デザイナーベビー
それは受精卵の段階で遺伝子操作を行い、親が望んだ外見と知性、体力を持った赤ん坊を作り出すというマグルの技術だ。
エドモンドの母親であるカサンドラはマグルの科学者であり、遺伝子工学の研究者だった。
彼女は英国の隠された研究施設で日夜多くの研究と実験を繰り返して来た。
ホルマリン漬けになった赤ん坊の数は百を数え、その赤ん坊を嬉々として解剖し、次の実験に活かす様はまさしくマッド・サイエンティストと呼ぶに相応しい女性だった。
サンゴールは一族の悲願の為に彼女の知恵を求めた。服従の呪文では彼女の知性を万全に活かす事が出来ず、二人の失敗作を処分した後に彼女を術から解放し、頭を下げて懇願した。
結果、カサンドラは魔法を己の研究の為に利用する事を条件に受け入れた。
二人の子供を知らぬ間に産まされた事など、その子供を失敗作として生きたまま焼き殺された事など、彼女にとっては些細な出来事でしかなかったのだ。
それから三人の失敗作を素材に理論を完成させ、最も優秀な遺伝子を収集し、ようやく
―――― ああ、あの方の言う通りだった。マグルの遺伝子工学とは、実に素晴らしい!
サンゴールはエドモンドの類稀な知性と強大な魔力に歓喜した。
最も偉大な魔法使いと、最悪の魔法使いの遺伝子を紡ぎ合わせた究極の魔法使いが生まれたのだ。
◆
月日は流れ、エドモンドが十一歳の誕生日を迎えた日の事だ。
サンゴールは言った。
―――― お前は闇祓いになるのだ。そして、レストレンジ家を滅ぼすのだ。
その言葉にエドモンドは疑問を抱いた。
それは彼にとって珍しい事だった。なにしろ、彼はたいていの事柄に対して、自ら答えを導き出せる知性を備えていた為だ。
そんな彼の中に浮かび上がった疑問は『レストレンジ家の生き残りはすべてアズカバンに収監されている筈では?』というものだった。
アズカバンに収監されている囚人を暗殺するならば、闇祓いという職はむしろ足枷になると考えた。
すると、サンゴールは言った。
―――― アズカバンの囚人はそのままで良い。奴らは決してアズカバンから逃れる事は出来ないのだからな。
アズカバンでは、囚人は生きたまま殺され続ける。
そこに収監されている時点で、サンゴールにとって、彼らは死人だった。
ならば、誰を殺せばいいのか? その疑問の答えをサンゴールは口にした。
―――― ベラトリックス・レストレンジ。
エドモンドは実に子供らしく首を傾げた。
ベラトリックス・レストレンジはアズカバンに収監されているレストレンジ家の一人だ。
父の言葉に矛盾を感じ、エドモンドは困惑した。
しかし、次の一言で疑問は氷解するのだった。
―――― 二世だ。
どうやら、ベラトリックス・レストレンジとロドルファス・レストレンジの間には娘が一人居たらしい。
レストレンジ家は男尊女卑の家系であり、男児は家系図に名が乗るが、女児は花として描かれ、名前は刻まれない。
それ故か、あるいは別の理由があるのか定かではないが、彼女は母親と同じ名前をつけられた。
そして、数年前に突如行方を眩ませた。
―――― 我々が命を狙っている事に気づいたに違いない。悍ましきレストレンジの末裔を匿うなど、闇祓い局は悪に屈したとしか思えぬ!
サンゴールはエドモンドの細い肩を軋む程の強さで握りながら狂気的な相貌を浮かべ叫んだ。
―――― エドモンドよ! 闇祓い局に入り込み、奴らの真実を暴け!! そして、ベラトリックス二世を見つけ出すのだ!!! 然る後、殺すのだ!!!!
◆
エドモンドは父の命令に背く事が出来なかった。
彼の優秀な頭脳はカーマ家の狂気に対して呆れている。けれど、自らを生み出した父に対して反発する気にはなれなかった。
あるいは、そういう風に弄られたのかも知れない。
独自の調査によれば、ベラトリックス・レストレンジ二世は闇祓いとして活動していたようだ。
忌み名を隠す事なく、彼女は自らを正義と示し続け、任務の途上で命を落とした。
彼女がそもそも実際に生きている保証はない。そして、生きていたとしてもカーマ家の狂気によって殺されていい女性ではないだろうと思う。
それでも、エドモンドは彼女を殺す為に生きなければならない。
如何なる汚名を受けても、如何なる手段を用いても、それがエドモンド・カーマの使命なのだから。
「……エドモンド?」
ロンの声にエドモンドはハッとなった。
駒が停止していたのだ。
カーマ家のアサシンではなく、エドモンド・カーマという少年としての最後の時間に対して、彼は思わぬ程に感傷的になっていたらしい。
「……ロン。一つ、アドバイスだ」
彼は言った。
「君は天才だ。その天才が多くの棋譜を読み、多くの経験を積み、多くの勝利を重ねて来た。だから、最後の一歩を踏み出す方法を教えてあげよう」
「最後の一歩……?」
エドモンドは最高のライバルであり、最優の友であり、最愛の後輩である少年に微笑みかけた。
「すべてを忘れるんだ。そして、己の思うままに駒を進めてみろ」
「わ、忘れる……? で、でも……」
「知識は既に君の中にある。しかし、その知識が君の知恵を邪魔しているんだ。今の状況に最適な選択肢を君の知識の中から検索しようとしているな? それでは俺に勝てないぞ」
「エドモンド……」
ロンは視線を盤に移した。
彼はエドモンドを心から信じている。だからこそ、容易に最後の一歩を踏み出した。
そして、最後の攻防戦がスタートする。
ロンが握るのはキングの駒だ。あらゆる定石、あらゆる棋譜を無視した一手にエドモンドは嗤う。
「それでいい。今の君は最強だ」
作られた天才であるエドモンドはあらゆる分野で一流となる実力を備えている。
勉学であれ、運動であれ、魔法であれ、チェスであれ、常に完璧な結果を残す。
けれど、完璧とはつまり、それより先が無い事を意味する。
「チェック」
ロンはチェスの天才だ。それは人よりも多くの棋譜を知っているという意味ではない。
あらゆる可能性を瞬時に計算出来るわけでもない。
それは発想力と呼ばれるもの。彼は暗闇の中を歩いていても、正しい道を見つけ出す事が出来る。
「……最後まで足掻かせてもらうよ、ロン」
それから数度に渡るチェックの後、ロンは「チェックメイト」と呟き、エドモンドのキングを自らの手で掴み取った。
「僕の勝ちだよ、エドモンド」
「ああ、俺の負けだよ」
エドモンドは生まれて初めて歓喜の笑顔を浮かべた。
これでエドモンド・カーマという少年は終わりを迎える事が出来る。
「ありがとう、ロン」
そして、エドモンド・カーマは人でなしとなった。