ツーアウト一・二塁。絶体絶命のピンチで浜矢は結城と向かい合う。
浜矢自身に興味は無い、早く投げろと言わんばかりの目線を送るのは結城だ。
全身から流れる冷や汗を止める手段は無い。
仲間から送られる声も、観客席から結城に向かって送られる声援も浜矢には――否、この二人には聴こえていなかった。
結城と浜矢、相手と自分。二人だけの世界に入り込んだように感じられた。
(落ち着け……向こうだって人間だ。少なからず緊張してるはず、そこを突くぞ)
鼓動の高鳴りを抑え、息を一つ吐く。
ストレートを高めに外してボール。
結城レベルの打者は当然釣られてくれなかった。
二球目はスライダーがワンバウンドしてツーボール。
(ここでストライク欲しさに甘い球を投げちゃいけない……とにかくコーナーを突くぞ)
カーブは見送ってもらいストライク。
心臓の高鳴りが増した。汗の噴き出る量も増えた。
ここで投げミスをすれば一瞬で終わりを迎える、悔いなく全力で投げ切るしかない。
(覚悟しろ、結城っ!)
浜矢は投げた瞬間、抑えたと確信した。
それほどまでに良い球を投げられたとリリースの瞬間に感じた。
――だが、その想いは結城の一振りで砕かれる。
「ぁ…………」
「よっしゃー! 逆転!」
「結城さん最高です!」
「ナイバッチー!」
5回表、四番の逆転タイムリー。
一番打たれてはいけない場面で打たれてしまった。
浜矢はこんな事になるなら敬遠しておいた方がマシだったと思った。そう思ってはいるが。
「伊吹、大丈夫か?」
「キャプテン、私……」
ここで降りる事だって可能だ。
このまま打ち込まれるくらいなら降りて青羽に託した方が何倍も良い。
打ち込まれた場合の彼女の精神面での苦痛を考えた時、その選択は間違いではないと言える。
だが、それでも。
「まだ投げたいです」
「そうか、頼んだぞ!」
「……はい」
けど、このまま負けっぱなしで終われない。
ここで降りたら一生後悔するし、一生このトラウマを引きずって生きていかなければならない。
それだけは嫌だった。自分はまだやれると京王義塾に見せつけたかった。
こんな所で終わってたまるか、こんな所で折れてたまるか。それが浜矢の心の叫びだった。
浜矢の目の色が変わった。
どこか自信なさげで不安そうだった瞳は消え、ただ目の前の敵を仕留める事しか考えていない、熱く燃える瞳をしている。
――この状態の浜矢ならどんなコースに要求してもいい。
ただ一人しか立つ事を許されない先発というマウンドに立つ後輩を見て、柳谷はそう直感した。
当たりそうになってしまう内角でも、繊細な技術が必要になるアウトローへの投球も、フロントドアもバックドアも。
今の彼女なら全てを要求できると脳が理解した。
その直感は的中した。
まず手始めに五番は追い込んでからの高めの釣り球のストレートを振らせて三振、六番にはカウント0-2からフロントドアのスライダーを見送らせて三球で三振に仕留めた。
浜矢伊吹、京王義塾打線を相手に5回4失点でマウンドを降りる。
「せんしゅーごめん……逆転されちゃった」
「けど、5失点はしなかった」
「だけど……」
「カッコよかったよ、伊吹ちゃん」
「あ、ありがと……」
千秋の容姿はとても可愛らしい。
そんな彼女に真っ直ぐと見つめられて褒められるのは悪い気がしない、というより照れ臭いようで浜矢は顔を赤く染めてソワソワしている。
「それに、伊吹は良い投手だよ」
「中上先輩……けど逆転タイムリー打たれましたし」
「確かに打たれないのが一番だけど、それでも死球を引きずらなかったのは良かったよ。セーフティーは仕方ないし、三番は三振に出来た」
そして何より、自ら続投を志願した後にキッチリと抑えたこと。
それこそが良い投手の条件だと彼女は言う。
「死球を出そうが逆転されようが切り替えられる。それがエースの素質があるってことだよ」
「エースの素質……」
「私だって四球連発しても抑えられるでしょ? そういうこと」
良い投手は気持ちを切り替えられる。
それが出来た浜矢もその素質を持っている。
「それに、伊吹ちゃんはまだ体が出来てないからね……いずれエースになると私は思ってるよ」
「私がエース?」
「うん! それも全国でもトップクラスのね!」
「せんしゅー……ありがとう」
褒めて励ましてくれるだけではなく、将来の活躍まで見据えてくれている仲間がいる。
それなのに、たった一度打たれただけで凹むのは情けない。
今日が終われば結城とは一生対戦しない。浜矢が真に越えるべきはスタンドにいる一・二年生。
であれば、彼女は今日のことは引きずらずに前を見て進み続ければいい。
「いつか私が至誠最高のエースになってやる!」
「よく言った! 応援してるよ」
「私にもそのサポートさせてね」
「勿論! てかせんしゅーがいなきゃ無理!」
自分のことを一番信じてくれていた千秋だからこそ、自分がエースになるまでサポートしてほしい。
そしてその恩は、エースとなって至誠を全国制覇に導くことで返す。浜矢はそう決心した。
「よしっ、応援するか!」
「うん! 美希ちゃん頑張って〜!」
「……伊吹ちゃん」
「なにー? って、近い近い」
声に反応して顔を上げると、視界全体に鈴井の顔が広がる。
一応入学式の日に一目惚れのようなものをした浜矢にとって、この距離感はかなり心臓に悪かった。
「私と中上先輩で同点にするから」
「へっ?」
「伊吹ちゃんはそこで見てて」
それだけ呟いて鈴井は打席に向かう。
一体何が起きたのか理解が追いついていない浜矢は、口をポカンと開いていた。
「美希ちゃんなりの励ましかもね。援護するからそんな落ち込まないでいいよって」
「素直じゃないなぁ……」
「けどそういう所も好きでしょ?」
「うん、せんしゅーもでしょ?」
「もちろん!」
鈴井が素直ではないことなんて二人はとっくに理解している。
冷たいようで本当は大事に想ってくれている。
浜矢も千秋も、彼女のそういう部分が好きなのだ。
さて、鈴井の持ち味はミート力と選球眼だ。
際どいコースは粘り少しでも外れたら見極める。
だから一年生でショートという負担の大きいポジションなのに高打率を残せているんだ。
「おっ! 長打コース!」
鈴井は甘く入ったボールを逃さず打ち返し右中間。
外野が彼女の長打力を甘く見て前進していた事もあり、捕球にはまだ時間が掛かりそうだった。
「二塁蹴ったぞ!?」
「美希ちゃん……!」
「逸れた! 右右!」
だからと言って、二塁まで蹴るとはこの場にいる誰も予想していなかった。
外野からの送球が僅かに逸れたのを見て、コーチャーの青羽が少しでもセーフになる確率の高いコースを指示する。
鈴井は二塁を蹴ってからどんどん加速していき、最後は指示通り三塁ベースの右側に滑り込む。
「セーフ!」
「あいつ……」
「執念、かな」
あの常にクールな鈴井美希が、呆れ以外の感情を滅多に露わにしない鈴井美希が吠えている。
彼女があそこまで感情を剥き出しにしているのは珍しく、同級生の二人ですら見た事がない姿だった。
余程この打席で打てたのが嬉しかったのだろう、浜矢を支えられて安心したのだろう。
「佳奈恵! 繋げ!」
「美希をホームに帰してやれー!」
中上はベンチに向かって微笑む。
そしてこの期待に応える犠牲フライで同点。
どれだけ打たれてもその分援護してくれる、それは投手からすればどれだけ心強い事か。
同級生が活躍したんだ、自分も負けていられない。
浜矢はそう思って右打席に入る。
(いくらでも食らい付いてやる、どんな球でも当ててやる。鈴井が執念を見せてくれたんだ、私だって)
2割も打ってない安パイ打者だとか、至誠唯一の癒しポイントだとか、逆5ツールプレイヤーだとか。
このまま舐められっぱなしというのは彼女のプライドが許さなかった。
犠牲フライの後は打線が繋がりにくい。
ランナーが居なくなることで勢いが途切れるから。
つまり、犠牲フライの後の打者が出塁すれば流れは変わる。
藤咲程ではないが古城も制球力が高い。
そして、球に力がある方ではないのでコーナーを突く投球が多い。
コーナーを突くという事は際どいコースに投げ込むという事、際どいコースに投げ込むという事は必然的にボール球も増える。
「ボールフォア!」
「よしっ!」
「ナイセーン!」
そんなサインは出ていないのに、浜矢はセーフティをするフリをして揺さぶりをかけて四球をもぎ取った。
見た目だけは俊足なのが功を奏した。
(さてと、サインは……特になしか。まあそんな頻繁にエンドランなんか出来ないよな)
糸賀なら出来そうだが、仮に打ち上げた場合浜矢の走力と打球判断では帰塁出来ない可能性が高い。
だがここは確実に進塁させたい。であれば彼女が取る行動は。
四球を出した直後の一球目、糸賀が選んだのはセーフティーバント。
(そう来ると思ってましたよ!)
ノーサインでセーフティーを仕掛けた先輩に驚いて二塁で刺されるなどという間抜けな事はしない。
それは彼女のこの行動を予想していたから。
四球を出して動揺しているところを狙ってセーフティー、先程浜矢が水瀬にやられた事だ。
打力が心配な菊池の打席、バントか強攻か。
灰原は長考した末、強攻を選んだ。
1点では足りない場面、アウト一つをタダでやる訳にはいかないと判断した。
この采配が吉と出るか凶と出るか。
――答えは吉だった。
菊池の打球は前進守備のショートの横を抜けてライトの前に転がっていくヒットとなる。
これでワンアウト満塁、そしてクリーンナップ。
珍しく金堂は外野フライに打ち取られる。
それなりの飛距離ではあったが、浜矢の脚ではホームで刺されるだろう。
糸賀と浜矢が逆なら……とベンチの全員が、何なら本人たちも思っていた。
ここで投手交代のアナウンスが流れる。
1番を背負った京王のエース・永田の登場だ。
投球練習から既に素晴らしい球を投げている。
先程まで投げていた古城が二番手だったのも頷ける実力の高さだ。
だが、打席には至誠最強打者の柳谷だ。
「キャプテーン! 私をホームに還してくださーい!」
「じゃあ私もー!」
浜矢の声に糸賀も便乗する。
柳谷は二人を見てニッと笑うと、それぞれに向かって右の拳を突き出した。
後は任せろ、そう言っているようだった。
(伊吹、5回4失点で抑えて凄かったよ。そして由美香もこんな良い場面で回してくれてありがとな)
永田の投じた初球、アウトローいっぱいに決まる146kmのストレート。
ノビがあり、球速はそこそこ、制球も悪くない。
総合的に見れば好投手と呼ばれる選手だろう。
だが柳谷は一流。好投手は一流打者には勝てない。
柳谷がスイングをすると白球は一瞬にして外野フェンスに到達した。
あまりの打球速度に浜矢は反応が遅れてしまったが、無事走り出して生還。
糸賀も余裕のホームインで勝ち越しに成功。
「キャプテーン! ナイバッチー!」
「サンキュー真衣!」
4対6、まさかあの京王義塾がこれだけの点を取られるとは誰も予想していなかっただろう。
しかも自慢のエースも自責こそ0だが打たれた。
山田はこの打席も打ち損じた。
今日打てなかったのは山田と青羽の二人。
青羽は登板の事が頭にあってそれどころではなかったのかもしれないが、山田は来年の四番候補なのにこれはいかんでしょ。
この二人が挽回できるチャンスはもう決勝しか残っていないが、頑張ってもらおう。
「先輩、あとは任せました」
「伊吹がここまで粘ってくれたんだ、私も打たれはしないぞ」
「はい! ライトには飛ばさないで下さいね!」
「なら飛ばしてやるよ」
そんな軽口を叩き合って笑い合う。
青羽は見た目は怖いし感情が顔に出ないが、冗談を言うと返してくれるノリの良さがある。
「あ、そうそう。下位打線はストレートで押せば打たれませんよ」
「分かった」
浜矢も下位打線にはストレート中心で攻めた。
見た感じ力負けをしている様子だったし、そもそもタイミングが合っていなかったのでストレート主体に攻めていくのは悪くないだろう。
青羽もここまで投げて来て、投手としてのノウハウや能力も鍛えられている。
そこに浜矢のアドバイスと柳谷のリードが加わった。そんな彼女は誰にも打たれない。
下位打線を圧倒して6回表の守備を終えた。
イニングはあと1回、リードは2点。