殴られた左頬には湿布。切れた口の端にはワセリンを塗ってなんて姿で学校2日目の登校。教室に入った時にトウジの方をチラ見したら物凄い形相で睨まれていた。それもコッチが視線を寄越したと見るとそっぽを向かれたけれど。
「碇君、大丈夫?」
「うん。昨日はありがとう、委員長」
わざわざ席を立って声を掛けてくれた委員長に昨日の礼を伝える。
近くに居たクラスメイトがなんだなんだと視線を寄越したり聞き耳を立てて来るけれど、それ以上は何も言わずに自分の席に座る。
自分の席から斜め前。レイの後ろ姿が見える。まだ腕のギブスは取れていないし、頭にも包帯を巻いている。そんな痛々しい姿を見ると、エヴァに乗れない自分を呪いたくなる。
初号機に乗れない自分の所為で彼女は重傷を負った身体で戦わなければならない。ふと脳裏を過ぎるのは貞本エヴァで見た初号機に乗ってサキエルと戦ったあとのレイの姿。そしてシンジ君の記憶をほじくり返せば出てくる、苦痛に震えて荒い息を吐くレイの姿。
学校に来れているくらいだからあの時よりはマシになっているのだろうけれど、それでもキズの治りきらない彼女が戦わなければならないことはほぼ確定している。その事実に自責の念に駆られそうになる。どうして都合良くエヴァに乗れる様にならなかったのかと。
……そう言えばまだ自分はレイと言葉を交わす処か自己紹介すらしていなかった事を思い出す。
あまり会話らしい会話を出来る話題はないから単なる自己紹介で終わるだろうけれども一応声を掛けてみようと思った所で先生が入ってきたので断念した。
授業中頬の湿布はどうしたのかという感じのチャットが飛んできた。授業に各個人にパソコンが支給されるのは先進的って感じで、時代を先取りしていた描写だけれども、授業中にこんなチャット送ってログとかには残らないんだろうか? 確か第3新東京市のネットワークはMAGIの監視下にあるんじゃなかったか? となるとケンスケの所業の幾ばくかはMAGIに筒抜けか。てか確かケンスケってアスカの盗撮写真撮って売り捌いてなかったっけ? 良く諜報部に取り押さえられないよなぁ。まぁ、ケンスケの冥福を祈る。シェルター抜け出した前科があるから監視対象になっていてもおかしくはないだろうし、それで捕まらないのは敢えて見逃されていたのだろう。監視付きは公然の秘密として極力普通の中学生活を壊さないように配慮があったのかもしれないし。その辺考え出したらキリが無いのであるし。フロム脳搭載してるとこういう無駄そうな考えも色々と考えるのは果たして良いのか悪いのか。
取り敢えずスッ転んで打ち付けたと嘘で煙に巻く。真相を話してトウジを晒し上げたって仕方がないんだからこれで良いだろう。
昼休みになってレイの席に歩み寄って声を掛ける。
「こんにちは。僕の事、覚えてる?」
「……ええ」
返事が出るのに時間が掛かったのはシンジ君の事を思い出していたからだろう。レイからすれば初号機の第7ケイジのアンビリカルブリッジの上で会ってそれだけの相手なのだから。
「良かった。僕は……碇シンジ。よろしくね」
思えばシンジ君になって初めて自分を碇シンジと定義して名乗った気がする。
ネルフに居る時は殆ど自室に居たし、通路で擦れ違う職員と挨拶はしても名乗らなかったし、リツコさんとはシンジ君が自己紹介終えていたから改めて名乗ることなんて無かったし。
「ええ」
そう返事をレイがすると会話終了。うん、どうコミュニケーションすれば良いのかてんでわからん。
「えっと、名前…、なんて言うの?」
「綾波レイ…」
わかってはいたけれど、この頃のレイは基本聞かれれば答えるという受け答えスタイルで自分から何かを話すという事は殆どしない。とはいえそれを念頭に置けば一応会話を成立させることは可能……だと思う。
「じゃあ、綾波って、呼んでも良いかな?」
「ええ」
やっぱりシンジ君から呼ぶならレイは綾波って呼ぶのが自然である気がする。シンジ君がレイを名前呼びするのはなんか違和感あるし。その辺イメージの押しつけなんだろうけど、いきなり名前で呼ぶのは馴れ馴れしいかもしれないし、この年頃の男子が女子を名前で呼ぶのは色々と周りがめんどくさいからこれで良いんだろう。
「…ケガ、大丈夫?」
サキエル戦で初号機に乗ることを最初は拒否したシンジ君を乗せるために運ばれてきたレイ。その時サキエルの攻撃で第3新東京市の天井都市が崩れた衝撃で激しく揺れた第7ケイジでレイを乗せていたストレッチャーも倒れてしまい、そのショックで傷口が開いてしまった彼女。手に付いた赤い血が鮮烈にシンジ君の記憶に刻まれたのだろう。少し意識するだけでも鮮明に思い出せる。或いは自分の持つエヴァ知識が補正してくれるのか。旧劇はダビングしたVHSが擦り切れる程見返していたからなぁ。細々した台詞は厳しいけれど、大まかな内容は覚えているし、ゼルエル戦までは新劇の補完も入るから尚更色褪せることはない。
「ええ。日常生活を送る分には問題ないわ」
それでも目の前に居るレイはテレビの向こう側の存在ではなく、手を伸ばせば触れられる相手なのだから、それを肝に銘じて相対する事を忘れちゃダメだ。
「そっか。なにか困った事があったら教えて。なんでも手伝うからさ」
「…それは、何故?」
何気なくそう伝えたものの、何故と返された。今の彼女なら「そう…」と言われて会話が終わるかと思った。いや、それも勝手なイメージの押しつけか。
「……僕、アレに乗れなくなっちゃったから。だから、次はきっとケガが治ってない綾波に戦って貰わなくちゃならないと思う。……変だよね。こんなことで綾波を戦わせる事の罪滅ぼしなんて出来ないのに…」
そう、罪滅ぼしと言ってしまっている時点で、これは厚意じゃなくて自己満足な偽善でしかない。
「そう…」
そう言って此方に興味を無くした様にレイは学校の外へと顔を向けた。今はこれ以上の会話は難しいと判断して、自分の席に戻った。
そう、ただの自己満足だ。
どうして自分はエヴァに乗れないのだろうか。乗れるものならばいくらでも乗ってやる。
乗れないから乗ってやると躍起になっているのも自覚している。でもやっぱり、あんなキズだらけの女の子を戦わせて、自分が見ているだけだなんて耐えられないからって言うのも……ある。
◇◇◇◇◇
放課後。三度目のエントリープラグ。
CGで構成された第3新東京市の中で、EVA初号機とサキエルが再現されていた。
つまり目標をセンターに入れてスイッチである。
エヴァとのシンクロはしないが、エヴァがパイロットに要求すること。即ち思考制御・体感操縦を訓練できる。
足や胴体なんかの動きは思考制御が大半で、腕は思考とインダクションレバーで半々といった感じだった。
最初はただ突っ立ってパレットライフルを撃つ。照準マークが重なっても変な風に力んだりすると弾丸はあらぬ方向に飛んでいく。
マシンガンみたいに数撃てば当たるパレットライフルならまだしも、スナイパーライフルなんか渡された日にはちゃんとしたエヴァでの狙撃訓練をしておかないと当てられる自信がない。
そして、何も知らない状態でエヴァに乗って戦うのも不可能と判った。つまりサキエル戦のシンジ君詰みゲーです。暴走させる為の前座とはいえ可哀想過ぎるわ。思い出せばサキエルにへし折られたり貫かれた痛みが甦ってくるから進んで思い出したくはないけど、相当な痛みだったのは間違いない。
この日は実戦配備間近のパレットライフルを使った訓練と、既に配備されているプログレッシブ・ナイフを装備した格闘戦を訓練したけれど、ナイフ格闘なんてやったことないからどう動けば良いのか分からず、CGのサキエルの攻撃を避けてカウンターでコアにナイフを刺して撃破するという事しか出来なかった。
プログナイフはB型装備の武器だけあって非常時の格闘戦用兵装だ。シャムシエルとサンダルフォン、サハクイエルを倒している上にスパロボなんかでも使われる武器だから活躍の多い様に思われているけれどあくまで非常用の近接戦闘兵装である。
やっぱり対使徒近接戦闘用にはもう少し長物の武器が欲しい。だからソニックグレイヴやスマッシュホークなんかが開発されるんだろうけれど。
所感としてそうした感想をリツコさんに伝えて本日は上がりである。E計画担当責任者だからエヴァ関係はリツコさんに丸投げするに限る。
それにしても、一応訓練は見に来ているらしいミサトさんから何とも声が掛からないのはどうしたものか。
初号機に乗れないから態々コミュニケーションを取る必要はないと思われていたらそれまでだけどね。
ただそうするとどうしてリツコさんが自分の面倒を色々と見てくれるのかという理由が分からなくなる。
「シンジ君、今夜ミサトの所へ行くわよ」
「ミサトさんの所、ですか…?」
午後のコーヒーブレイク。訓練を終えてプラグスーツから着替えて向かったのはリツコさんの部屋。未だネルフの中で行く場所は自分の部屋かリツコさんの部屋くらいしかない。ゲームじゃないのだから用事もないのにケイジや発令所に行く様な事も出来ない。それでも取り敢えず停電した時の土地勘を養う為にウロウロと探検はしているけれども。取り敢えずジオフロントからネルフ本部に入って発令所に行ける最短距離は覚えた。
探せばターミナルドグマに降りる通路があるかもしれないが、迷子になると危なそうだから危険な冒険は避けている。
訓練上がりにリツコさんが淹れてくれたコーヒーを頂いていると、手元のパソコンから視線を外さずに声だけでそんなことを告げられた。
「アナタの退院祝いをしたい。ということらしいわ」
「僕は構いませんけど。その口ぶりだとリツコさんも誘われたんですか?」
「ええ。ミサト、貴方と一対一で会うのが怖いのよ」
「へ? なんでまた」
ミサトさんがシンジ君と会うのが怖い? 今一ピンと来ない理由だ。
「先の戦いの後、アナタは一週間も眠っていたのよ? 脳細胞にダメージは見受けられなかったとはいえ、初号機は顔面から頭部を貫かれるダメージを負った。作戦部長としての仕事は何も出来ず、そしてアナタを初号機へと乗せた一人の人間として、彼女なりに責任を感じて、アナタにどう顔向けしたら良いのか分からなかったのよ」
「だから僕になにも言ってこなかったんですか」
「彼女、ああ見えて繊細なのよ」
仕事中はキリッとしていて、毎回能力の異なる使徒に対してぶっつけ本番になるのは仕方がないとして、有効な作戦を立てて勝利に貢献している彼女は、一転私生活はずぼらでだらしのない残念なお姉さんだが、それでも明るいキャラクターを持っている人である印象がある。しかしその明るさの裏側は確かにリツコさんの言う通り繊細で、人との距離感というのに不器用である一面も垣間見えたりもする。エヴァの主要人物は悉く人付き合いが致命的に不器用であるけど。……自分も他人の事言えんけど。
つまり顔を見せ難い男の子を呼ぶのに気心知れた親友同伴である29歳。──普通それはどうなんかと考えるだろうが、ミサトさんの背景を識っているから、知っていれば頑張った方だというコメントが出る。
サキエル戦の翌日にシンジ君の意識が戻らなかったらこんなことになっていたのかもしれないと思うとホントシンジ君運が良かったと言える。でなかったら独り暮らしは良いとして交流関係がちとヤバいのではなかっただろうか。ミサトさんがシンジ君に対して家でだらしなくてずぼらな所を隠したりしなかったから家族っぽい間柄に、ミサトさんの家がシンジ君にとっても帰る家になったから精神的にも大分救われていたのだと思う。でなかったらずっと精神的マイナスで目も当てられなさそうな酷い精神状態に陥っていたかもしれないし。家があって学校があって。家族や友達と過ごせていたから中盤のシンジ君の笑顔があったんだろう。それがアラエルから始まるアスカのリタイアやらアルミサエルによるレイの自爆とかで家族も家も大切な仲間も友達も失って、最後にトドメはカヲル君だ。
繊細でなくったって心が壊れるわあんなの。
思考が脱線した。とはいえ断る理由はない。ただ問題なのは、ミサトさんの部屋がどれほどヤバいのか。退院祝いと称して手作りカレーなんて出てきたら。折角の祝い事なのに見えてる地雷を踏みに行く罰ゲームだ。
それでも自分が行くならリツコさんも来る。自分だけが地獄に踏み入るわけではない。赤信号も皆で渡ればという奴だ。旅は道連れ。毒を食らわば皿まで。リツコさん、今夜は付き合って貰いますよ?
つづく。