歩いて帰ろう   作:夏目咲良

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第3話

7月下旬。

 まだ、明るくなっていないというのに、既に大気は熱を帯びていた。

 やがて、地平線から昇った朝陽が地上の生命達に牙をむき始め、今日も灼熱の

一日が始まる。

 欅(ケヤキ)が立ち並ぶ歩道をヒグラシの声援を受けながら、本田翔太郎は

走っていた。

 全身から噴き出た汗がトレーニングウェアを濡らし、肩に掛けたバットケースの

重みも気になってきた頃、翔太郎は目的地であるいつもの公園に入った。

 人通りの少ない公園内をペースを落とさず進み、滑り台が備え付けてある砂場の

前でようやく足を止める。

 翔太郎は上着を脱ぎ、Tシャツ姿になると、軽くストレッチをして、クールダウンした。その時、付け根辺りまで焼けた自分の腕に気付き、自嘲する。

 結局、今年も二軍なのか。

 降り注ぐカクテルライト、暴力的とも言える歓声、ヤジ。一軍でしか味わえない

ナイトゲームの記憶は、少しずつ薄れていく。

『ビビッてんのか!本田!』

『引っ込め!ボンダ!』

『ボンダぁ!これで二十五打席ノーヒットだぞ!一人でノーヒットノーラン

喰らう気か!?』

『無理無理。アイツがヒット打つのはペンギンが空を飛ぶより難しいって』

『……プロ初打席で死球喰らって、即登録抹消だもんなあ、可哀そうだけど、

持ってないんだよ、アイツ』

 ファンの期待は、時間と共に怒りに変わり、失望となって消えていく。

 本田から凡打(ボンダ)。名前に刻まれた濁点が、胸に突き刺さり、容赦無く心を抉った。

 いや、まだこれからだ。

 翔太郎は、屈辱の記憶を拭うと、砂場に立ち、バットを構える。

 『砂場で素振りをすると、足腰の鍛錬も一緒にできる』

 高校時代にやっていたある大打者を真似た練習方法で、ここ最近、早朝に二軍の

寮を抜け出してやるのが、日課になっていた。

 一日でも早く結果を出す、その切っ掛けを掴もうと必死だった。

 ゆっくりと一振り、一振り、確認するように振る。 アウトカウント、ランナーの有無、球種。 いろんな場面、いろんな相手投手が頭に浮かんでは消えていく。

――突如、すっぽ抜けた球が頭部を襲ってくる――

――頭が真っ白になって、左手首が疼き出す――

「……ハア、ハア……」

 翔太郎はバットにすがりつくように、砂場に膝を付いた。

 「……クソッ!」

 右拳を砂に叩きつけ、呪詛を吐き出す。

 怪我はとっくに治っている。何も問題なんて無いはずだ。 なのに、インコースを攻められたり、バットとボールが当たる瞬間に自分のスイングを見失ってしまう。

 あの死球が翔太郎の心に『恐怖』という楔(くさび)を打ち込んだ。

 体力や技術は、練習で鍛えることができる。

 怪我はいつかは治る。

 しかし、折れた心は簡単には戻らない。

 そして、大切な人との絆も。


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