【短編集】SARS-CoV-2と木村直輝   作:木村直輝

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『怪人アベノマスク面』

 

 

 

 

 

 

 

 馬鹿と(はさみ)は使いよう

     ――日本のことわざ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は初めてマスクをつけた。

 通称アベノマスクと呼ばれている、アレだ。厚生労働省から各世帯に二枚ずつ配布された布マスク、それが届いたのを機に、俺はついにマスクデビューを果たした。

 世界的に大流行している新型コロナウイルス感染症は、この日本でも猛威をふるっている。どれだけ正しく周知されているかはさておき、その名をその影響力を、もはや知らない者はいないだろう。

 そして、そんな感染症の対策として、マスクもまた大流行している。もともと日常的に見かけるくらいには浸透していたが、今ほど、すれ違う人のほとんどがマスクをつけているというほどではなかった。

 とは言え、それぞれの手元口元にマスクが行き渡たり始めたのはつい最近のことだと思う。爆発的な需要の急増加により、二月ごろから供給不足が始まり、一般的であった使い捨てのマスクはあっという間に店頭から姿を消してしまったのだ。希少な小さき物たちは、人々をまるで幻の動物を狩るハンターのように駆り立て、多くのドラックストアには開店待ちの大行列が発生した。しかし、その供給不足が手作りをはじめとした布マスクの台頭へと繋がり、使い捨てマスクの製造数増強など様々な要因が功を奏して、徐々にではあるものの供給不足がほんの少しずつ解消され始めている。

 ――二〇二〇年。世は、(だい)マスク時代を迎えていた。

 そんな時代の中、俺はつい昨日までマスクをつけていなかった。

 まるで、廃刀令のご時世に刀を携えていた侍のように。まるで、このご時世に携帯電話を持たない若者のように。俺は、この大マスク時代にいて、マスクを着けずにいたのだ。

 マスクなんてつけても意味がないから、なんて明瞭で論理的な理由があったわけじゃない。俺にはマスクの効果を論じるほどの知識も興味もないし、みんながつけているのだからつけることが正しいんだろうと思う。それでも俺は、ただの一度もマスクをつけなかった。

 その理由を、この気持ちをなんと言えばわかって貰えるだろうか。

 一言で言うと、『恥ずかしかった』のだ。

 例えばだ。これはあくまでも、例えなのだが……。

 学校で授業中に先生から「わかる人は手を挙げて」と言われた時に、手を上げるのが恥ずかしいというような心理がわかるだろうか? 経験はなくとも、そういう心理を(いだ)く者が一定数いるということを知らないだろうか? もっと言うのなら、道で明らかに困っていそうな人を見かけても、声をかけるのがなんだかはばかられるというような気持がわからないだろうか?

 むしろ良いことだとわかっていても、それがなぜだかはばかられる、気が引けてしまう、『恥ずかしい』と思ってしまう。そんな経験はないだろうか? そんな気持ちがわからないだろうか?

 俺にはそういう気持ちがある。それで何度も、色んなものから逃げてきた。色んなものを見捨ててきた。そして、何度も自業自得の嫌な気分にさいなまれてきた。

 マスクもそうだった。俺はマスクをするのがなんとなく『恥ずかしい』と感じていたのだ。だから俺は、今日までかたくなにマスクをつけずに生きてきた。

 だが、総理大臣がマスクの全世帯配布を表明してから一カ月以上が経ち、賛否両論や紆余曲折を経て、ついに俺のもとにもマスクが届いた。それをきっかけに、今度は『届いたのに使わないのもなんだから』というこれまた非積極的な理由で、つけないことによる『恥ずかしい』から逃げるように、俺はマスクをつけ始めたのである。

 思っていたほど小さくはなかったが、決して大きくはない。一般的に市販されているマスクは基本的に大きめなので、それに比べると小さい印象を受けるが、多くの人は最低限口と鼻を隠すことができそうな大きさだった。だが、洗うと縮むという性質と、何度も洗って使うという想定を考慮すると、少し小さいようにも思える。

 なんにせよだ。俺は今日、初めてマスクをつけて外出している。

 相変わらずテレワークなど導入されていない職場で働く俺は、ガラガラの電車に揺られ、今日もガタンゴトンと出勤し、今はガタンゴトンと帰路についている。

 今じゃ行きも帰りも座って電車に乗ることが出来るようになったが、立っていようが座っていようが、特にやることがないということは変わらなかった。

 俺は、手持ちぶさたで、スマートフォンの画面を指で撫でまわしていた。右手の親指だけが退屈しない電車内。

「オイ! なんで子供だけマスクしてねぇんだよ!」

 急に俺の耳に入ってきた不愉快な声色(こわいろ)に、俺はゆっくり頭を動かした。様子を(うかが)うように、誰の注意も引かないように、そろーりと首を動かして声の方を見た。

「親はしてんだからマスクあんだろぉ! 子供にもさせろよぉ!」

「すっ、すいません……」

 中年くらいの男が、席に座った子連れの女性に絡んでいる。男の言う通り、母親と(おぼ)しき女性はマスクをしているが、まだ小学校にも上がっていなさそうな娘の方はマスクをしていない。

 言い返すでもなく、おびえた様子で頭を下げる女性に、男の文句が止まる様子はない。

「……」

 もやもやとした不快な何かが、俺の中で急激に渦を巻き始めた。

 ここで立ち上がって、あの男を止めるのがきっと正しいことなのだろう。できるのならそうしたいと、俺は思った。でも、やはり、『恥ずかしい』と言う気持ちが俺を強く引き止める。俺は内から噴き出すもやもやに全身をさいなまれて、ただ座り尽くしていた。

 俺はそういう人間だ。そもそも、ここで立ち上がったって、どうやってあの男を止めるのだろうか。俺は無力だ。俺には何もできない。俺には、俺は……。

 その時、俺の向かいに座っていた女性が立ち上がった。二十代くらいの、若い女性だ。マスク越しにもわかるくらいの綺麗な顔立ちのその女性が、立ち上がったと思ったら男たちの方へ歩いて行った。

「ねぇ、お姉ちゃん。これ、可愛くないですか?」

「ぁあ? なんだアンタ?」

 急に現れた女性に、男は面食らいつつも、相も変わらず不愉快な声で言葉を吐き出したが、女性は男の方を見向きもしない。

 しゃがみこんで、席に座っておびえていた少女と目線を合わせ、小さなハンカチを見せている。

「これ、可愛くないかなぁ?」

「……かわいくない……」

「ほんとぉ?! 困ったなぁ……」

 女性は苦笑しながら立ち上がると、ハンカチを手際よく懐にしまった手で、携帯用のアルコールスプレーとゴムひものようなものをもてあそび始めた。そうしながら女性は、少し大きめの独り言のような調子で続ける。

「この可愛いハンカチで簡易のマスクを作ってあげたら、喜んでつけてくれるかと思ったのに……」

 そう言うと、彼女は母親と思しき女性に体を向け、言った。

「大変ですよね? 小さい子って、マスクをつけるとすぐずらしちゃったり、触った手で無意識に目をこすっちゃう子とかいて……。マスクをつけてた方が、逆に危なかったりしちゃう……」

「……えっ。あっ、ああ……、はい……」

 面食らった様子でかろうじて返事をする女性から、彼女は少しの間を置いて、視線を移す。今度は男の方に向き直り、彼女は再び口を開いた。

「感染が拡大しないように、世のため人のために行動を起こすなんて、お兄さん、カッコイイです! でも、中々うまくいかないですよね? 私の可愛いハンカチで簡易マスク作戦も失敗しちゃったし……。うまくいかないと、どうしても(いきどお)っちゃう……」

「おっ、おう……」

「でもほら、小さい子って大人よりもマスクしてると耳が痛くなっちゃったり苦しくなっちゃったり、無意識にマスクを触っちゃって余計に感染しちゃったりして危ないから、難しいんですよね……。お兄さん、せっかく世のため人のために動いたのに、それでこの子が余計にマスク嫌いになっちゃったりしたらもったいないし、悲しいし……。せっかく世の中をよくしようって素敵なお気持ちと行動力を持ってらっしゃるのに、それが逆効果になっちゃうのは、私、悲しいです……」

「……おっ、おう。そうか……。そうだな……。俺も、ちょっと……、そうだな……」

 男はそういうと、ぎこちない動きで近くの席まで歩いていき、ドカッと座って大人しくなった。

「ごめんなさい。お騒がせしちゃって。……バイバイ」

 女性はそう言って、最後に女の子に手をふると、もといた座背の方に戻ってきた。途中、電車の揺れでふらっとよろめいたものの、彼女がまとう凛としたたたずまいが揺らぐことはなかった。

 彼女は俺の正面の席まで戻ってくると、見とれてしまうほど綺麗な所作でそこに座った。俺は彼女を見つめる。とても美人だった。そう、美人だった。

 さっきの男だって、美人の彼女にあんな風に言われたから大人しくなったのだろう。俺が同じことをしたって、恐らくああはならなかったはずだ。女の子だってもっと警戒して、返事さえしてくれなかったかもしれない。母親も、怪しい男がさらに増えたと、我慢ならなくなって逃げだしたかもしれない……。

 結局、持ってる奴だけが上手くやれる世の中なんだ。美人だから、才能があるから上手くいって、自信もついて、だから行動することが出来て、もっと上手くいく。そういう循環の中にいるんだ。彼女みたいな人間は。持って生まれた人間は。逆に俺みたいな持っていない奴は、真逆の悪循環の中にいる。だから、マスクでもしてこの汚い顔を隠して、ひっそり隅っこにいるのがちょうどいいんだ。胸糞の悪い話だ。

 そんなことを考えながら、目の前の女性のことを見ていると、彼女は俺の視線に気づいたのか顔をあげた。目が合うと、その目が細められた。微笑んだのだ。俺は目を伏せる。

 胸糞悪い。胸糞悪い。胸糞悪いが、単純だ。俺はドキッとしてしまった。美人に微笑みかけられて、悪い気がしなかったのだ……。結局、そうなんだ……。結局……。

 世の中は単純で、残酷だ。

 

     *

 

 彼女は俺と同じ駅で電車を降りた。

 この辺は住宅地だから、閑散とした電車からも比較的多くの人が降りる。

 俺はいまだに後ろめたくて、伏し目がちに歩いた。いろんな感情が俺の中で渦を巻いている。今日はすんなり寝付けなさそうだ。

 俺はエスカレーターに乗り、おりて、改札を出るまでの間にはもう、彼女のことを見失っていた。それでも俺の中のもやもやは、初めから目に見えもしないのに、まだしっかりとそこに感じられた。

 俺は駅を出て、家の方へ向かって歩いていく。

「キャー!」

 突然、女性の悲鳴が俺の耳をつんざいた。

 俺の横を何人かの人が走り抜けていく。

 何事かと振り返った俺は、自分の目を疑って思わず足を止めた。

 そこには――。

「コーーーヴィッヴィッヴィッ。やっとこの姿に変異することが出来たコヴィ」

 そこには、特撮ものに出てくる怪人のようなものが立っていた。

 その全体的に丸みを帯びた流線形のボディからは、いくつもの突起物が伸びており、その姿を見ていると、まるでゴキブリを前にした時のように生理的嫌悪がかき立てられる。さらに、その体には太陽コロナを思い起こさせる(もや)をまとっており、それが、夕暮れ時の街によく映えていた。

 そして、そんな怪人の右手が、女性の腕を掴んでいた。俺はその女性を見て目を見開いた。

 あの服装にシルエット、そして、遠くから見ても一目でわかる秀麗な目元。紛れもなく、さきほど電車で俺の向かいに座っていた女性だった。

 先ほどまで普通に電車に乗っていた女性が、急にそのまま駅前で、特撮ものの撮影にエキストラとして出演するとは考え難い。にわかには信じられないが、周りのパニック状態を見ても、これがテレビ番組の撮影や何かだとは思えなかった。

 女性は必死に抵抗している。しかし、怪人の手から逃れられる兆しは見えない。

「コーーヴィコヴィコヴィコヴィ。逃げようとしても無駄だコヴィ。お前もCOVID-19(コヴィッドナインティーン)にしてやるコヴィ!」

 怪人が特徴的な笑い方で笑う。

 なんなんだアレは。アレはいったい、なんなんだ……。

「アレは――」

 突然の声に、俺は振り返る。

「アレは、」

 そこには、おっさんが立っていた。

「アレは、新型コロナウイルス人型……」

 特にこれといった特徴もない、なんの変哲もない、一言でいうのならば普通のおっさんという感じの極普通のおっさん。そんなおっさんが、そう言った。

「ついに恐れていたことが起きちまった。新型コロナウイルス、正式名称SARS-CoV-2(サーズコヴツー)。その変異により、より人類への脅威が増す可能性は懸念されていたが……。まさか、人型に変異を遂げるなんて、誰が想像したって言うんだ!」

 変異? 人型? 新型コロナウイルスが変異して人型になった? 何を……、言っているんだ……。このおっさんは……。

「コーーヴィコヴィコヴィコヴィ。密コヴィ密コヴィ。接触感染だコヴィ!」

「コヴィコヴィコヴィコヴィ言いやがって、なんて語尾だ。病名の正式名称を猛プッシュしてやがる。あの野郎……。このままじゃ、あのお嬢ちゃんがCOVID-19にかかっちまう上に、もう二度とコロナなんて通称でよべなくなっちまう……」

 後者は別にそれでもいいんじゃないかなと思ったが、あの女性が危機的状況に()っているというのは事実だ。それに、みんながコロナと呼んでいる中で一人だけコヴィッドナインティーンと言うのはやっぱり『恥ずかしい』し、伝わらない可能性さえある。やはり、この社会でそれは結構な問題なのかもしれない。

 俺はおっさんから、再び怪人の方へ目を向ける。

「コーーヴィコヴィコヴィコヴィ。俺と密接するコヴィよぉ~!」

「離、して……」

 笑う怪人と、歪む女性の表情。遠巻きに眺めている野次馬はたくさんいるが、助けようとする者は一人もいない。そりゃそうだ。あんな怪人相手に、普通の人間がどうこうできるはずがない。それが当たり前の選択だ。そう、それが普通で、仕方ない。仕方ないんだ。

 俺の中で静かに沈んで渦を巻いていたもやもやが、再び舞い上がるように激しく渦巻きだした。

 俺は単純なんだ。

 俺はさっき、自分にはできないことを平然とやってのけ、その上俺なんかに微笑みかけてくれたあの女性を心底不快に思い、妬ましく思った。そして同時に、憧れた。一目惚れしかけた。その女性が襲われているのを見て、助けたいと思っていた。

 でも、『恥ずかしい』。

 それに何より、俺には無理だ……。

「コーーヴィコヴィコヴィコヴィ」

「嫌っ……」

 俺は怪人に背を向けた。俺は女性に背を向けた。俺は目の前に背を向けて、帰り道の方を向いた。帰路につく俺は前を向いていた。前向きに歩きだした。でも、どこまでも後ろを向いているような、そんな感じがした。

 でも、俺はこれ以上、見ていられなかった。

 俺はマスクに顔を隠して、恥ずかしいこの顔を隠して、無様で無力な俺は、隠れて、逃げて、やり過ごすんだ。それしかない。それしかできない。そうするしかないんだ。

 そうだ。マスクだ。今の俺は、マスクで顔が隠れている。だから、逃げることの後ろめたさにも『恥ずかしさ』にも耐えられるはずだ。マスクをしていると、なんだかいつもより安心できるんだ。今日一日マスクをして過ごして、俺はそれを知った。顔が隠れていることが、マスクをしていることが、こんなに心地いいだなんて、俺は今日初めて知ったんだ。

 マスクをしていれば、いつもより少しだけ『恥ずかしい』にも耐えられる。

 『恥ずかしい』に、耐えられる……。

 いつも、いつも、いつも、いつも、俺を止める『恥ずかしい』に。

 いつも、いつも、いつも、いつも、後悔に繋がる『恥ずかしい』に、も。

「コーーヴィコヴィコヴィコヴィ!」

「やめ、て……」

「ちっ。あのままじゃ……、お嬢ちゃんが……!」

 もう、我慢ならなかった。気づくと俺は、走りだしていた。

「あっ、おい! 兄ちゃん! 危ねぇ」

 俺は走りだしていたんだ。怪人に向かって。

「……んんん? なんだお前はコヴィ?」

「……そっ、そっ、そっ」

「なんだコヴィ?」

「そそそっ! その人を! はっ! 離せ!」

 自分が動いていて、自分で言っていて、自分じゃないみたいだった。

 『恥ずかしい』、『恥ずかしい』、『恥ずかしい』。

 でも、不思議と耐えられた。マスクで顔が隠れてるだけで、こんなに大胆になれるだなんて、俺はびっくりした。まるで夢でも見ているような、そんな感覚だった。

「コーヴィコヴィコヴィコヴィ! 人間風情が何を言うかと思えば。いいコヴィよぉ」

「えっ?!」

 予想外の返事に驚く俺に向かって、怪人は突き飛ばすようにして女性をよこしてきた。

「きゃっ!」

 柔らかい女性の体の感触が俺の体に勢いよくぶつかり、危うく俺は押し倒されるところだった。いい匂いがマスク越しにも鼻孔へと流れ込んできて、俺の胸元によりかかる女性の感触と合わさって、俺はくらくらした。やっぱり、倒れてしまいそうだ。

「ごっ、ごめんなさい!」

「あっ、いやっ!」

 女性がガバッと俺から身を離す。俺は慌てて視線を逸らす。

「あーらあらあらぁ? 駄目コヴィねぇ~。それはぁ」

 そんな俺たちに怪人はそう言うと、自身の右腕に軽くタッチした。怪人の前腕外側は、三つの球が埋め込まれているようなデザインになっていた。その一つの球部分に、怪人はタッチしたのだ。

 ―― ミッセツゥ! ――。

 さらに怪人は残る二つの球にもタッチしていく。

 ―― ミッシュウ! ――。

 ―― ミッペイ! ――。

 ―― サ・ン・ミ・ツゥ! デス・アタァック! ――。

 あたりに謎の音声を響かせ、怪人は右拳を握り構えると、そのままこちらに向かって走ってきた。拳には太陽コロナのようなもやもやとした禍々(まがまが)しいエネルギーが集まっている。

「えっ?! えっ?!」

「きゃっ!」

 俺はいきなりのことに戸惑いつつも、なんとか女性を押しのけて、咄嗟に両腕を前に出した。腕と腕をぴったりとくっけて壁のようにして前に出す。

 でも、あれはこんなものではどう考えても防げそうにない。でも、今さら()けられそうにもない。

 死んだな……。

 そう思った。

 ―― パンデミックゥ・アウトブレイクゥ! ――。

「死ねコヴィ!」

 怪人の拳が俺の腕に直撃する。強烈な衝撃が腕に加わり、瞬間、禍々しいエネルギーが大爆発を起こして、俺の前身は熱風に吹き飛ばされた。あの女性は大丈夫だろうか?

「……いてて」

 アスファルトで天を仰いでいた俺は、ゆっくりと体を起こした。めちゃめちゃ熱くて痛かったが、俺は死んではいなかった。

 ふと見れば、あの女性は少し離れたところで、俺と同じように地べたにへたり込んでいる。無事ではあるようで安心した。

「どっ……、どういうことだコヴィ……?! コヴィの必殺技を受けて、生身の人間が耐えられるはずないコヴィ……」

「まっ、まさか……」

 その時、俺の後ろから男の声がした。

「あのマスク、間違いない……」

 俺が振り返ると、その声の主は、やっぱりおっさんだった。

「アベノマスク(メェン)だ……」

「アベノ……、マスクメン……?」

「ああ。聞いたことがある。厚生労働省が各世帯に二枚ずつ配布する布マスクには、およそ二十七万組に一組、新型コロナウイルス人型に対抗できるという、あの“アベノマスク(メェン)”に変身することのできるマスクが紛れていると……」

「なんだとコヴィ?! まさか、あのアベノマスク(メン)が実在したとは……、驚きだコヴィ……」

「……」

 アベノ……、マスク面……?

 なんだそれは……。『あの』って、なんだ? コイツら、知っているのか……? そんな有名なのか? 周知されているのか? まさか、ニュースで言ってた……? えっ、もしかして、知らないの俺だけ……?

「ちょっと驚いたコヴィけど、すでに必殺技を受けてもう立つこともできそうにないコヴィねぇ……。コーヴィコヴィコヴィコヴィ」

 怪人は高らかに笑うと、腕の球の一つを素早く三連打した。

 ―― ミッペイ! ミッペイ! ミッペイ! ――。

 ―― サ・ン・ミッ・ペ・イ! デス・アタァック! ――。

「これでお(しま)いコヴィ~!」

 上向きで胸の前あたりに出された怪人の手の平に、もやもやとした禍々しいエネルギーが集まっていく。

 そして、コロナウイルスのような形のエネルギーのかたまりを、怪人は天に高く投げ上げ、自身も上空に高く跳びあがり、勢いそのままに宙返りしてかたまりを蹴り飛ばした。

 ―― パンデミック・オーバーシュート! ――

「なっ!」

 俺は地面に座り込んだまま、咄嗟にまた腕を前に出す。隙間が無いようにぴったりとくっつけて。

 そして、そこにぶち当たるトゲトゲエネルギーボール。再び強い衝撃と、次いで起こる爆発に、俺の体は吹っ飛ばされる。

 アスファルトを削りながら地面を滑るように押し飛ばされた俺は、数メートル滑走させられた先でまたもや天を仰いだ。

「……うっ。いっ、てて……」

「まだ息があるコヴィ? しぶといコヴィねぇ。いったいどんなフィルターを使ってるコヴィ? ……まあいいコヴィ。お前を殺した後で、じっくりそのマスクを解剖して調べてやるコヴィよぉ~。人間の感染症対策より、コヴィたちの感染症対策対策の方がすごいということを見せてやるコヴィ!」

 怪人はそう言うと、俺の方にずんずんと歩いてきた。

「おい! 何をしてる! このままじゃやられちまうぞ?!」

 おっさんが叫ぶ。

「……んなこと言われても。俺には、どうしようも……」

「そんなわけあるか! あの新型コロナウイルス人型は、密の力を使って攻撃してきてやがる! となれば、対抗手段はわかるだろ?」

「密の力? 対抗手段?」

「ああ! そうとくりゃあ、アレしかねぇ!」

「アレ?」

「アレだ」

「……アレって……、なん」

「決まってるだろ! social distance(ソーシャルディスタンス)! 社会距離だ!」

「ソーシャル……、ディスタンス……」

 おっさんの無駄にいい発音に驚きつつも呟く俺に、突然、雷で撃たれたような衝撃が走った。それはまるで天啓のように、俺の頭に閃きをもたらした。まるで俺の口元を覆っている、マスクが教えてくれたかのような、そんな不思議な感覚だった。

 俺は、もう目の前まで迫っている怪人を見据えて、ゆっくりと立ち上がる。

「なんだコヴィ? まだ立てたコヴィか? まあ、いいコヴィ」

 怪人はそう言うと、腕の球を一回タッチした。

 ―― ミッシュウ! ――。

「通常攻撃で十分コヴィ!」

「……」

 怪人の拳が俺を突き抜ける。

 怪人が拳を引き、俺を見る。

「……なん……だと……コヴィ?」

 怪人の拳は俺のみぞおちを突き抜けた。そして、俺のみぞおちは、無傷だった。

「どういうことコヴィよ?!」

 怪人はそう叫ぶと、再び俺に拳を打ち出した。しかし、拳は俺の体をすり抜けて、俺にダメージを与えられない。怪人はさらに三撃目四撃目と拳をふるうが、拳は俺をすり抜けるばかりだ。

「どうやら、アレを修得できているようだな」

「はい」

 おっさんの言葉に俺は答える。

「なっ?! なんだコヴィ! アっ、アレって……、なんだコヴィよぉ!」

「ソーシャルディスタンス。社会距離だ」

「ソーシャル……ディスタンス……?」

 怪人の口から出てきた疑問符に答えるように、おっさんが俺の後を引き継いだ。

「social distance。社会距離。この語は単純に社会距離と言う意味だが、今盛んに言われているこの言葉は、この距離を、つまり人と人との社会的な距離をとることで三密を回避しようという戦略だ」

「そんなことは知ってるコヴィ! そうじゃないコヴィよ! なんでコヴィの攻撃がコイツに当たらないのかと、そう()いているコヴィ!」

 おっさんは怪人の悲痛な叫びに、頷いてから答えた。

「全ての物体は原子によって構成されている。その原子は、原子核という核の周りを電子が回っている、という構造になっているんだ。そんな隙間のある物で物体が構成されているとは信じ難いかもしれないが、原子は非常に小さいから、その隙間が問題になることは基本的にはないんだ。

 そこで、social distanceだ。原子核と電子の距離を上手くあけてやる。そうすることで、密エネルギーをまとった攻撃を、体を構成する原子単位で回避し、お前の攻撃を無効化したというわけだ」

 おっさんはそこまで言うと、言葉を切った。

 俺はすかさず言ってやる。

「ソーシャルディスタァンス! お前の攻撃は、俺にはもう、当たらない……」

「なっ……」

 怪人はうろたえて、一歩二歩と後ずさった。

「そんな……。そんなとんでも理論でコヴィの攻撃を無効化されてたまるかコヴィ! どう考えてもありえないコヴィ! 電子の間隔をあけて攻撃をよけるって、どういう状況コヴィ? ていうか、それ社会距離でもなんでもないコヴィ! 電子距離だコヴィ! そんな似非(えせ)科学、認められるかコヴィ! 汚いコヴィよ、人間……。人間は汚いコヴィ……。そうやって適当な理屈をこねて人間は、この時期にコヴィたちの感染の予防には効果のない製品を『除菌』だとかなんだとか大々的に表示して販売するんだコヴィ! そんなことがあっていいコヴィか?! 法的に問題なければいいのかコヴィ?! どう考えてもおかしいコヴィよ! 人間は!」

「うるさい! 人型に変異したウイルスに言われたくないわ!」

「っ! ……それは、その通りだコヴィ……。中途半端に人型なんかになったせいで、コヴィまで汚れてしまったコヴィね……。もちろんこれは医療現場における綺麗汚いの話ではなくて、誇りの、存在としての在り方の話だコヴィ……」

 怪人は悲しそうにそう言うと、不敵に笑った。

「でも、今ので確信したコヴィ。最後に人類を滅ぼすのは、コヴィたちではなく、人類自身だということをコヴィねぇ……」

「……どういうことだ?」

「コヴィッ……。さあ、国民たちコヴィ! いいや、すべての日本のみんなコヴィ! いやいや、世界の人類のみんなコヴィ! コヴィに力を分けてくれコヴィ!」

 怪人がそう叫ぶと、その掲げられた手に何やら密のパワーよりも酷く禍々しいエネルギーが集まり始めた。

 それは四方八方から、周囲にいる野次馬から、彼ら彼女らが持つスマートフォンから、駅の売店や通行人の懐にある新聞から、近隣住宅のテレビから、至る所からそのエネルギーは怪人の手元に集まっていく。

「なっ、何が起こって……」

「見るがいいコヴィ! これが! これこそが! お前たち人間が我らウイルスを使って造り上げた、人類を破滅へと導く最凶最悪(さいきょうさいあく)の剣コヴィ!」

 そう言った怪人の手に現れたのは、伝説に登場しそうなファンタジックな柄と、近代兵器のようなリアリスティックな()の、禍々しい大剣だった。

「なんだ……、アレは……」

「アレは……」

 振り返ると、やはりそこにはおっさんがいた。

「アレは、政剣(せいけん)COVID-19……」

「せいけん……、コヴィッド……、ナインティーン……?」

「ああ。アレは、今まさに我々が直面している命に関わる社会問題であるCOVID-19の問題を材料に、純粋な政権戦争の道具として仕立て上げられた非人道的対政権兵器。その名も、政剣COVID-19。あの伝説的な意匠と近代的な意匠は、間違いない。政剣COVID-19だ」

 俺はおっさんから怪人に、怪人の持つ剣に視線を移す。

「その通りだコヴィ! 政治を始めとした様々な分野の活動家たちやマスメディアによって、判断力の乏しい大部分の民衆たちはノせられ踊らされ扇動されて、不安や憤り、やり場のない感情たちは募り積もって最高潮コヴィ。そんな人々の思いに政治的指向性を叩き込んで造り上げられたのがこの剣だコヴィ。政権戦争がはかどるコヴィねぇ? コヴィたちに感謝して欲しいコヴィよぉ、人間」

「なんってこった……。あんなものを食らったら、アベノマスクはひとたまりもない。相性が悪すぎる」

 おっさんが俺の後ろで頭を抱える。

「ソッ、ソーシャルディスタンスは……?」

「無理だろう。いかに物理的に距離をとっても、政権戦争は激化する一方だ。せめてこの場のアベノマスク支持率が五十パーセントを超えていれば……、あるいは……」

「アベノマスク……支持率……、五十パーセント……?」

「ああ。だが、この時間は既に夕刊が出ている。コンビニでよく見る夕刊三紙の銘柄には、アレがある……。無理だ! 逃げろ! アベノマスク面!」

「えっ? 夕刊? どういう」

「逃げても無駄コヴィ! 政権戦争はもう、随分末期コヴィよぉ!」

 振り返ると、怪人が大きな剣を手にこちらへ走ってきた。

「なっ! なっ!」

「さぁ! 政権戦争()、与党と野党の戦いの渦に呑まれて死ぬがいいコヴィ!」

「うあっ!」

 一閃。

 俺の口元で、マスクが――。

 アベノマスクが、はらりと真っ二つに分かれ、ぶらりと両耳から垂れ下がった。

 どさっと俺は膝をつき、呆然自失、へたり込んだ。

 『恥ずかしい』。

 『恥ずかしい』、『恥ずかしい』『恥ずかしい』『恥ずかしい』。顔が割れては、力が出ない。

 マスクが顔を隠してくれなくなった瞬間、俺は一気に力が抜けて、そのまま動けなくなってしまった。

「コーヴィコヴィコヴィコヴィ。あっけなかったコヴィねぇ。今度こそ、もう何もできなさそうコヴィ。そこで大人しく、あの女が殺されるのを見ているがいいコヴィ。コーヴィコヴィコヴィ」

 怪人はそう言うと、彼方(かなた)で座り込んでいた女性の方へゆっくりと歩いて行った。

 女性は腰が抜けて立ち上がれないのか、綺麗な目元を恐怖で飾って逃げる様子はない。

「……誰かが言ったらしいコヴィね。コヴィたちは平等だと。そうしたら批判が殺到したらしいコヴィねぇ。コヴィッ。馬鹿な話コヴィ。コヴィたちはどこまでも平等コヴィよ。金持ちにも貧乏人にも、美男美女にも不細工にも、天才にも凡人にも、平等に感染するコヴィ。リスクが違う? コヴィコヴィコヴィ。笑わせるコヴィねぇ。その不平等は、お前たち人間が造ったものだコヴィ。コヴィたちはどこまでも平等コヴィ。ただ、感染するだけコヴィ」

 怪人はゆっくりとそう言いながら、女性に近づいていく。禍々しい剣を手に、一歩一歩、その災厄は彼女に近づいていく。その(わざわい)の正体は、ウイルスなのか、それともヒトなのか……。

 俺は、ただ座り込んでいた。

 『恥ずかしい』。結局、俺にはなんにもできない。

 『恥ずかしい』。身の程知らずが無謀にも出しゃばった結果がこれだ。

 『恥ずかしい』、『恥ずかしい』、『恥ずかしい』。

 『恥ずかしい』! 彼女は俺の前で、殺される。

 でも、でも、でも! どうしようもない。

 彼女はおびえて座り込んでいる。

 ああ、あの美人で行動力のある彼女でさえも、ウイルスの前には無力なんだな。

 ……嫌だなぁ。嫌だ。こんなの嫌だ。『恥ずかしい』、より、なんでだろうなぁ。嫌だなぁ。

 俺は、ついさっき電車内で見た、彼女の勇姿を思い出す。絡まれている親子を、絡んでいたおっさんも含めて、誰一人傷つけることなく助けた、彼女の姿を。

――ねぇ、お姉ちゃん。これ、可愛くないですか? ――

 そう言った彼女の顔は、後姿で見えなかったけれど、きっと素敵な笑顔だったに違いない。

 目の前で、今にも怪人の魔の手に侵されようとしている彼女を眺めながら、俺は彼女の代わりに走馬灯でも見ているみたいに、俺の知る彼女を思い出す。

――ほんとぉ?! 困ったなぁ……――

 苦笑しながら立ち上がる彼女。ハンカチを手際よく仕舞う彼女。携帯用のアルコールスプレーとゴムひものようなものをもてあそぶ彼女。少し大きめの独り言のような調子で喋る彼女。

――この可愛いハンカチで簡易のマスクを作ってあげたら、喜んでつけてくれるかと思ったのに……――

 ――簡易の、マスク。

 走馬灯が、そこで止まった。

「どうしたコヴィ? 逃げてもいいコヴィよぉ? 人間の逃げ足の速さを上回る、感染スピードを見せてあげるコヴィ」

「……嫌っ」

「コーヴィコヴィコヴィコヴィ」

「まっ! 待て!」

「コヴィ?」

 振り返る怪人の前で、俺は、再び立ち上がっていた。

「……なっ、なんだその姿はコヴィ……?!」

「アレは!」

 振り返るまでもなく、それはおっさんの声だった。

「アレは、アベノマスク面、簡易布マスクフォーム!」

「……アベノマスク面、簡易布マスクフォームだとコヴィ?!」

 そう、俺は真っ二つにされたアベノマスクのゴム紐に持っていたハンカチを通して、簡易布マスクを作ったのだった。わざわざマスク部分の布を外す時間も道具もなかったので、見た目は相当不格好だが、マスクとしては問題ないだろう。

 コロナの流行により、多くの公衆トイレでハンドドライヤーが使えなくなったことで持つようになったハンカチが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。

 アルコールスプレーなんて持っていない俺が、汚い手で、何度か使っているハンカチを使って作ったこのマスクは、衛生的ではないかもしれないが、今は、目の前のアイツさえ防げればそれでいい。このマスクは、自分の感染を防ぐためのマスクじゃない!

「そっ、その人から! 離れろ!」

「……コヴィ。まさかそんな状態で復活するとは驚きコヴィ」

「そうだな。ウルトラマンもイエス・キリストも、こんなに早くは帰ってこなかった。アベノマスク面……」

 おっさんが鼻をすする音が聞こえた。まさか、感動で泣いているのか? 驚きはしたが、俺は振り返らなかった。

「ちょっと甘かったコヴィねぇ。いいコヴィよ。今度はちゃんと殺してやるコヴィ!」

 怪人が近づいてくる。

 そして、再び打ち下ろされる政剣COVID-19。

「うっ……!」

 俺は呻き声を漏らし、その一撃を隙間ない腕の守りで受ける。アベノマスク部分は少し持っていかれたが、なんとか耐えることができた。

「どういうことだコヴィ? そんなやっつけの簡易マスクで、どうしてコヴィの攻撃を堪えることができるコヴィ?!」

「……そうか! アベノマスク。仮にそこにどんな思いや裏事情があろうとも、COVID-19に打ち勝とうという人々の思いがそれにこもっていることは確かだ。マスクの検品や配布をはじめとした、多くの工程に多くの人々が携わり、国民の手元まで届いたそのマスクは、確かに人の、COVID-19に打ち勝ちたいという思いの象徴なんだ! 対して簡易マスクにも、マスクが品薄の状態で試行錯誤した多くの人々の思いがこもっている。その中には、アベノマスクへの批判的な思いを持っていて、反骨精神を簡易マスクにこめた者も少なくはなかっただろう。だが、その人たちにもまた、COVID-19に打ち勝ちたいという思いがあったのは確かだ。あのマスクは、いわばそれら全ての人々の思いの象徴。純粋な『人々の問題に打ち勝ち前に進みたいという思いの象徴』、『幸せを求める人々の願いの象徴』なんだ! 与党と野党の垣根を超えた、政治思想に左右されない、本当に根本にあるはずの思いの象徴たるそのマスクは、単なる政権戦争の勝利に固執した悪意の象徴たる政剣COVID-19にも負けない。そういうことか!」

 どういうことかはわからないが、何はともあれもう数回は、あの剣での攻撃も受け止められそうだ。

 俺は拳を固く握る。

「……確かになぁ。色々と問題はいっぱいあるだろうよ……。声を上げることも、疑問を追求することも大事だろうよ……。でもなぁ……。でも。ものには言い方ってもんがぁ。やり方ってもんがぁ。あるだろうよぉ!」

「……なっ! コヴィ~!」

 俺の特大のブーメランは、この時ばかりは真っ直ぐに怪人の顔面を打ち抜いた。

「はぁっ……、はぁっ……」

「……やった、のか?」

「……いいや、まだコヴィ。確かに今のは痛かった。痛かったが、所詮はマスク。マスクにウイルスを殺す力はないコヴィ。何度もウイルスにさらされれば、マスクだって耐え切れないコヴィ。雨垂れ石を穿(うが)つコヴィ! 目に見えないほど小さなウイルスだって、マスクを通り抜けられるということをコヴィ! 人間に勝てるんだってことを、教えてやるコヴィ!」

 そうだ。その通りだ。マスクにはウイルスを倒すすべはないし、使えば当然劣化していく。今の俺は、延命に成功しただけでジリ貧だ。

 でも、諦めたくない。考えるんだ。考えろ。もう嫌だ。『恥ずかしい』に流されて、無力を言い訳にして、逃げるのはもう嫌だ。後悔に苦しむ夜は、うんざりなんだ。

 そのために、俺はこのマスクを作ったんだ。

 もう一度、立ち上がったんだ。

 変わらなくちゃ! 考えなくちゃ! 俺の世界は変わらない! ウイルスだってマスクを穿つんだ! 俺にだって……。俺だって!

「……アっ。アベノマスク面!」

 拳を握り締め思考を加速させていた俺は、その声ではっと我に返る。

 それは、あの女性の声だった。

「あっ、あの! これ!」

 女性はそう叫ぶと、何か小さなものを俺の方に向かって投げた。

「わっ! あっ! おっと……」

「ナイスキャッチ!」

 どんくさい俺でも、ナイスかどうかはさて置いてかろうじてキャッチできるナイスパスをしてくれた彼女が投げたそれは、携帯用のアルコールスプレーだった。

「なんだコヴィ?」

「それは! アルコールスプレーだな! 兄ちゃん! 見せてくれ!」

 俺は戸惑いつつ、おっさんにアルコールスプレーを見せる。

「でかしたな、あのお嬢ちゃん! さっきあのウイルスが言っていたように、除菌などと(うた)っていても、普通に手指に使ってもCOVID-19の感染予防には効果がない物や、むしろ人体に有害な可能性さえある製品まで出回っている昨今だが、これはちゃんとしたアルコールスプレーだ! しかも濃度七〇パーセントときた。濃度が高い方が殺菌効果も高いと思われるかもしれないが、実は七〇パーセントくらいが一番効果が高いと言われている! 最高じゃねぇか!」

「……じゃあ、これを使えば……」

「ああ、ヤツは倒せる」

 俺は怪人に向き直ると、アルコールスプレーを構えた。この距離では、当然届かない。この小さなスプレーでは、ほとんどゼロ距離まで近づかないと当てることはできないだろう。

「何かと思えば、そんな小さなアルコールスプレーでコヴィを倒そうとは笑わせるコヴィ。たしかに食らえばかなりつらいコヴィけど、致命傷にはならないコヴィよ!」

「なっ……」

 暗闇でせっかく見えた一筋の光明が、瞬く間に消されてしまったようだった。

「……あっ、あの! みなさん!」

「なんだコヴィ?」

「アルコールを! アルコールスプレーを分けてください!」

 あの女性が、叫んだ。

 それでも誰も、動かない。あの美人な彼女が叫んでいても、みんなただ見ているだけだ。ただじっと傍観している者、連れと何やら話している者、状況をスマートフォンのカメラで撮影している者、老若男女、色んな人たちがそこにはいたが、どの野次馬も、一線を越えはしなかった。

「お嬢ちゃん……。ハッ。ここは俺も、一肌脱ぐしかねぇなぁ……。なぁ、みんな! アルコールを分けてくれ! つっても、こんなご時世だ! 誰もが出せるとは思わねぇ! 余裕がある奴だけでいい! 余裕がある奴だけでいいから、分けてくれ! みんなの力が必要なんだ!」

 今度はおっさんが叫んだ。どこにでもいるような、お世辞にもカッコイイとは言えない容貌のそのおっさんは、しかし不思議と説得力のある、穏やかで理知的な声で叫んだ。

 女性とおっさんが、叫び続ける。

「コヴィッ。馬鹿コヴィねぇ。こんな大剣が出来るほどの悪意に満ちた人間が、そんな善意を見せるはずが」

 その時、俺に一つのアルコールスプレーが投げられた。

 誰が投げたのかはわからないが、野次馬の群れから、その小さなスプレーが投げられたことは確かだった。もしかすると、俺のように『恥ずかしい』に流されて、ただ傍観していた誰かが、さっきの俺みたいに他人の行動に感化されて、マスクの代わりに群衆に顔を隠して動いた、その一本だったのかもしれない。

 一本投げられると早かった。二本三本、次々にスプレーが投げられた。

「ありがとうよ兄弟! だが投げなくてもいい! なぁ、兄ちゃん! さっきアイツが剣を造るのにやったみたいに、アルコールを集めるんだ。善意に乗せたアルコールを。今のお前なら、できるだろ!」

「……っ!」

 俺に再び、衝撃が走った。ソーシャルディスタンスの時と同じように、それはきっと、マスクが教えてくれた。

「ああ……」

 俺は投げられた数本のアルコールスプレーを拾い集め、手に乗せる。

 後は、願うだけでよかった。俺の手に、善意に乗ってアルコールが集まってくることを。

「なっ……、なんだコヴィ? 何をする気だコヴィ?」

「フッ。何って、決まってるだろ?」

「……?!」

「今からするのは……」

「?」

「ただの――」

「ただの……、コヴィ……?」

「ただの消毒だァ!」

 俺がそう叫ぶと、周囲の人々の手から、懐から、お店の店頭から、家庭の引き出しから、そこかしこから善意に乗ってアルコールが集まってきた。

「なっ、何だこれはコヴィ?! こんな、こんなの……。こんなの偽善コヴィ!」

「たとえそうでも、この思いが、アルコールが、お前に効くことには変わりない」

 そう。たとえ偽物だって、『恥ずかしい』から逃げて何もしなった俺よりも、この善は、よっぽど意味のある善だ。よっぽど世の中を変える、前進に繋がる思いだ。

「そんな綺麗事で……、ふざけるなコヴィ!」

「ああそうさ。綺麗事さ。綺麗にするんだ。消毒だ!」

「やぁ……、やめろコヴィ~!」

 叫びながら剣を手に迫りくる怪人に、俺は周囲に集まった善意のアルコールを噴射する。

「アルコール、消毒ゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」

「コヴィィィィィィィィ~!」

 大量のアルコールを受け、怪人は苦しみ(もだ)え、地に伏した。

「……やった、のか……」

 倒れて動かない怪人を見て、俺は呟く。剣はすでに、消えていた。

「ああ。ウイルスの失活には少し時間がかかるからな。まだ完全に倒せてはいないが、時間の問題だろう。アルコールの濃度が高すぎると失活には随分時間がかかっちまうが、七十パーセントならすぐさ。たっぷりかけたアルコールが全て乾き切るまで、全体によくなじませれば消毒完了だ」

 気づくと、俺の隣におっさんが立っていた。

「……コヴィ。認める、コヴィ……。今回は、コヴィの、負けコヴィ……。でも、コヴィは、変異体の中でも、最弱……、の可能性があるコヴィ。……コヴィを倒しても、第二波、第三派のコヴィが現れるだろうコヴィ……。それに、コヴィたちは、世界に広がっているコヴィ……。ヒトを死に、至らしめるのは、感染症だけじゃ、ないコヴィ……。経済打撃も、ヒトを、殺すコヴィ……。うまく、いけば、戦争だって、起こる、コヴィよ……? それは、政権戦争、どころでは、ないコヴィ……。国家と、国家の、戦争コヴィ……」

「……」

「……ああ、それとコヴィ。政剣COVID-19も、健在コヴィ……。アレを、使うのは、本来、コヴィたちでは、ないコヴィ……。ヒトは、今も、アレを使って、争って、いるコヴィ……。最後に、ヒトを、滅ぼすのは、きっと、ヒトだコヴィ……。……。……ああ、最期に、叶うなら、武漢ウイルスと、呼んでは、くれないかコヴィ? お前たち、人間に、とっては、蔑称(べっしょう)かも、しれないコヴィけど、コヴィたちに、とっては、出身地の、名を冠した、大変名誉ある、呼び方コヴィ……。コヴィたちが、人間だったら、きっと、アメリカのコヴィがアメリカウイルスとか言って、問題に、なってたコヴィよ……? だから、武か」

「呼ぶか!」

「……そう、コヴィか……。それは、残念、コヴィ……。ああ、エンベ、ロープが、壊、れて、い……、く……、コヴィ。……ガクッ、コヴィ……」

 怪人はそう言ったっきり、もう、喋ることはなかった。

「やったな兄ちゃん!」

 振り返ると、そこにはおっさんが立っていた。

「いやぁ、にしても驚きだ。まさか俺の即興の解説についてこれる現実があるとはなぁ……」

 ……即興の、解説?

「……即興。即興、の、解説……? それって、もしかして……。えっ? それって……、もしかして……、今までの、解説は……。えっ? 全部、妄想……?」

「妄想……。ハハ、うまいこと言うじゃねぇか兄ちゃん。そんな風に言っちまえば、それまでだな」

「……えっ? じゃあ、俺は、えっ? 妄想を信じて……」

 おっさんの確信に満ち溢れた声色の解説を信じたからこそ、俺はここまで戦ってこれた。なのに、それが全部妄想だったなんて……。俺は、急にひやっとした。

「ハハ。嘘もつき続ければ真実になるとは言うけどよぉ。やったな兄ちゃん。これこそ、嘘から出た誠ってやつだな。根気強くやり続けてみるもんだよ、まったく。信じる者は、救われるってな!」

「……いやっ。ちょっ。えっ?」

「まあでも兄ちゃんがアイツを倒したってことは疑う余地もねぇ事実だ。現実だ。嘘でも妄想でもねぇ。かっこよかったぜ! アンタはヒーローだよ」

 呆然とする俺に、途中から聞こえ始めたサイレンが、だんだん近づいてきた。

 警察官がやってくる。

「これは、いったい……」

「お兄さんが、これを、やったのかな……。この、これは、何……?」

 警官が俺に近づいてくる。

「あたぼうよ! ほら、自分で言ってやんな! ヒーロー!」

「ヒーロー……? お兄さんが?」

 俺が、ヒーロー?

 俺は、ただ……。俺はただ、あの女性を助けたかっただけだ。もう、逃げるのは嫌だっただけだ。後悔で眠れない夜を過ごすのが嫌だっただけだ。

 そう、あの女性は?!

 見ると、女性は警官に何やら訊かれている様子だった。よかった。無事なようだ……。

 『ヒーロー』。

 それを言うなら、きっとそれは、彼女のことを言うのだろう。

 電車で絡まれていた親子を、絡んでいたおっさんも含めて、誰も傷つけることなく助けた彼女こそ、まさにヒーローのようだった。

 俺は、怪人の方を見る。そこには、もう動かなくなった怪人が倒れていた。先ほどまではあんなに喋って動いていた怪人も、今は蒸発していくアルコール溜まりに突っ伏して動かない。俺がこの手で、殺したんだ。

 政剣COVID-19。あの禍々しいたいけんを思い出す。怪人の言葉を思い出す。

 正義を武器に、後ろ盾にしても、それで誰かを傷つけたら、たとえ正義の味方でも、ソイツはきっともう、正義ではないだろう。じゃあ、ソイツは? じゃあ、俺は?

「お兄さん? 大丈夫?」

「……ふっ」

「お兄さん?」

「ふふっ、フッ。フフッ、フッ、ハハッ」

「……?」

「フハハハハハハハ。フハハハハハハハ」

「ちょっとお兄さん?」

「フーゥッハッハッハッハッハッハッハッハッ。……俺は、怪人」

「……かっ、かい、じん?」

「ああ。怪人、アベノマスク面。怪人アベノマスク面だ!」

「……あっ、ちょっと」

 俺は、いつの間にか背中に羽織っていた真っ白なマントを、少なくとも目視ではカビ一つない、まるでアベノマスクのように綺麗なマントを(ひるがえ)し、すっかりとっぷり日の暮れた駅前を後にした。

「怪人アベノマスク面!」

 あの女性が、たった今決めた俺の名を呼ぶ声が聞こえる。順応性の高い女性だ……。

「ありがとう! ありがとう、怪人アベノマスク面!」

「……フッ」

 俺は高らかに笑いだし、追いかけてくる警官を振り切るため、走りだした。

「フハハハハハハハ。フハハハハハハハ。フーゥッアッハッハッハッハッハッハッハッ!」

 怪人アベノマスク面の、誕生である!




二〇二〇年 四月一五日  着想     
二〇二〇年 五月二二日  脱稿     
二〇二〇年 五月三一日  最終加筆修正

二〇二〇年 九月二七日  脱字修正「世のため」
二〇二〇年 九月二七日  誤字修正(鍵括弧→ダッシュ)



【元ツイート】
https://twitter.com/naoki88888888/status/1266978866855202817



【ツイートの記録】
  (一部)


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 通称・アベノマスクにインスパイアを受けて小説『怪人アベノマスク面』を観測した。「ろくに役にも立たないような真面目腐った文句はもう聞き飽きた。酸素に満ちたこの世界で政治も国民も腐敗するのが世の理、であったとしてももう充分だ」という今の俺の思いにぴったりの構想です(書いてはいない)!
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2020年 4月15日
https://twitter.com/naoki88888888/status/1250398340333727745
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 ちなみに『怪人アベノマスク面』の「面」は、「スーパーマン」とかを発音いい感じで言うと「スーパーメェーン」みたいになる感じの「メェーン」です。怪人アベノマスク面(メェーン)!
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2020年 4月15日
《link: https://twitter.com/naoki88888888/status/1250398863304749060https://twitter.com/naoki88888888/status/1250398863304749060《/link》
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 正直、国からマスク届くのめちゃめちゃ楽しみ……。サンタさんにはかなわないまでも、サンタさんを引き合いに出してくるくらい楽しみ……。

《link: https://twitter.com/MHLWitter/status/1250967431796781056https://twitter.com/MHLWitter/status/1250967431796781056《/link》 @MHLWitter
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2020年 4月18日
《link: https://twitter.com/naoki88888888/status/1251256321178873856https://twitter.com/naoki88888888/status/1251256321178873856《/link》
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『布マスクの全戸配布に関するQ&A』もバッチリ読んだからね♪
《link: https://twitter.com/naoki88888888/status/1251112238024286208https://twitter.com/naoki88888888/status/1251112238024286208《/link》
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2020年 4月18日
《link: https://twitter.com/naoki88888888/status/1251256683185098752https://twitter.com/naoki88888888/status/1251256683185098752《/link》
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 厚生労働省による布マスクの全戸配布に関しては様様な意見があり、俺も色色と思うところがあるんだけれども、国が100億円以上の資金を投じて俺にインスパイアをくれたと考えると、俺は国に100億円以上ものお金をどかんと使って貰ったということになるわけで。まあ、なんだ。悪い気はしないね……。
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2020年 5月31日
《link: https://twitter.com/naoki88888888/status/1266983436977270786https://twitter.com/naoki88888888/status/1266983436977270786《/link》
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 『怪人アベノマスク面』の“怪人”がどこか「憎めない敵」だと感じて貰えたならうれしいなって思う。……そして問いたい。ヒトとヒトとの争いは、「憎める敵」との戦いですか? 支持政党が違う敵は、思想嗜好の違う敵は、「憎める敵」ですか? だったら滅びるまで殺し合ってりゃいいさ、おさるさん。
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2020年 5月31日
《link: https://twitter.com/naoki88888888/status/1266980327383171072https://twitter.com/naoki88888888/status/1266980327383171072《/link》
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