結局藤ねえとセイバーが衛宮邸に戻ってきたのは、それから一時間後のことだった。
俺はというとサッサと朝食の支度を終え、今は朝のニュース番組を眺めていた。そこから流れてくるのは、やはり不可解な事故の数々。これら全ての事故の原因が聖杯戦争に在るということを理解しているだけに、正直俺は真っ直ぐにその事件を直視することが出来なかった。
それら全てが、俺がこれまで選択してきたことに起因するということを、心のどこかで否定したかったからだろう。思わず畳の上に身体を投げ出しながら、何の弁明の余地も持たない自分自身に、俺は不甲斐なさを感じていた。
「うぉーい士郎ー!! 朝ご飯は出来たかなぁ?」
ドタドタと足音をたてながら声の主、藤ねえは声をあげている。その声からは機嫌の良い様子を感じ取ることが出来た。おそらく……いや確実と言ってもいいほどに、セイバーの事を気に入ってくれたのだろうと胸をなでおろしながら、立ち上がり台所に向かいながらこう返した。
「あ~、ただ今日は桜が来てないし俺はかなり身体が辛かったから、簡単なものになっちまったぞー!」
「えーそれはショック! お姉ちゃんショック!!」
戸の開く音と共に居間に入った藤ねえは自らの指定席に腰かけ、ブーと顔を膨らましながら俺に抗議の視線を投げかけている。その視線に目もくれず、俺は淡々と朝食をテーブルの上に並べていく。
そう。今日、桜は衛宮邸に姿を見せていない。
昨日のことを鑑みるに、確実に間桐の家で何かがあったことは明白だろう。ただそれを俺がどうにか出来るとは思えない。俺は桜の『この聖杯戦争に関わる要 因』を断ち切った。だからこそ俺と彼女がこれ以上関わりを持てない。せっかく彼女が手に入れるかもしれない平穏な時間を、俺が壊すことなど出来るはずもな いのだ。
「じゃぁ、もう朝ご飯食べちゃおうセイバーちゃーん、何時までそこにいるのぉ?おかず冷めちゃうよー」
呑気な声が居間に響く。藤ねえは居間の外に目を向けながら、セイバーを手招きしていた。声を掛けられたセイバーはというと、恥ずかしそうに返事をしながら、躊躇いがちに居間の中に入ってきた。
「えっと、藤ねえ……」
「んー。どしたの、士郎?」
「いくらなんでもお揃いは、嫌じゃない?」
真っ赤な顔をして入ってきたセイバーの姿を見て、ズコッと力が抜けてしまう。今彼女が来ている服は藤ねえの良く着ている虎縞模様の服。何というか……うん、何とも言えない。
「うぅぅぅ、しょうがないじゃないー!パンツスタイルでコーデしようと思ってたのに……」
何故か瞳には涙を浮かべながら、しかし饒舌に話す藤ねえ。
「私の持ってるのじゃ、ウエストあまり過ぎちゃうのよぉー! きー何て羨ましい子なのっ!!」
ガオーとさながら虎のような雄叫びをあげる。
なんとなく予想はしていたのだが、それでもいきなり大声を出されるというのは、慣れたものではない。
ヨヨヨと涙を見せる藤ねえをとりあえず無視しながら、手早く朝食の配膳を終え居間の入り口で立っていたセイバーに目を向ける。
「まぁ、可愛いと思うぞ」
「しかし、これは機能性に優れません」
ピシャリと俺の言葉に返答するセイバー。しかしその表情は言葉とは裏腹に柔らかいものだった。
「確かに……褒められるということは、素直に嬉しいことではありますが」
彼女はそう呟きながら、ほのかに頬を赤く染める。その仕草に少しドキリとさせられたが、今はそんなことを気にとめている場合でもないだろう。
「さて……じゃぁ冷めないうちに食べるか」
自分の定位置に腰を降ろし、静かに手を合わせ、いつものようにこう口にする。せめて、この時間だけはいつもどおりに過ごしたいのだと心の中で叫びながら。
「いーただきまーす!」
「いただきます」
「いただきます……」
「じゃぁお姉ちゃんは出かけてくるわけなのだが……今日はどうするのかね?」
ズズっと熱い番茶をすすりながら、藤ねえはどこか神妙な顔つきをしながら呟く。
彼女の言葉に俺は首をかしげると、虎は俺の手首を指さしながら、こう吠えた。
「理由は聞かないけどさー。そーんな怪我してるのに、学校になんて行けると思ってる!? まぁお姉ちゃんのよしみで、今日くらいは休ませてやってもいいんだぜ」
フフンと得意気に鼻を鳴らす藤ねえ。意外なことに、しっかり俺の様子も見てくれていたんだと少しばかり感心してしまう。
実際のところ、藤ねえの言葉に甘えたい気持ちももちろんあったのだが、そういうわけにもいかない事情がある。
「あぁ、問題ないかな。学校行ってみて、もし無理そうなら早退するよ」
俺はそう返しながら制服に着替えるため、一路自室に戻ろうと廊下に出た。
今からは藤ねえの“無理しちゃだめだからね”という声が聞こえてくる。その言葉に相槌をうち、俺は自室に向かって歩を進める。その反応がお気に召さなかっ たのか、不満の声が居間から聞こえてきたりもしたが、この際気にしないことにしよう。それにそろそろ“彼女”が我慢の限界を超える頃だろう。
「待ってくださいシロウ! お話があります」
案の定予想通りに声をかけてきたのは、我が騎士王様。彼女は不機嫌さを隠そうとせず俺に詰め寄りこう口にした。
「シロウ! 貴方は自覚が足りないのではないですか!?」
「ん、何が?」
俺の回答に毒気を抜かれたのか、ポカンとした表情を見せるセイバー。
しかし即座に厳しい表情に戻り、彼女らしいまっすぐな言葉で言い放つ。
「何……がではない! 貴方にはマスターとしての自覚がないのですか?」
その言葉はもっともだった。
聖杯戦争に関わっているマスターが、それと関係ない者を身近に置いている。
それに加えて、今から外出するような口ぶりを見せる俺に、さすがのセイバーも我慢ならなかったのだろう。
「言いたいことは分かるよ……この状態で外に出るのは危険だってことだろう?」
「そうです!今は外出を控え、今は療養に努めるべきなのです!」
セイバーは俺の腕を掴みながら、矢継ぎ早に言葉を放ち続けた。その手の力強さから、その鋭い語調から、俺を心配してくれていることに嘘偽りはないだろう。
しかし俺は彼女の方に振り返り、こう呟いた。セイバーがこの言葉に反論出来ないことを知りながら。
「セイバー、お前が霊体化してついてくれれば問題ない話だろう」
「――そっ、それは……」
想定通り、俺の言葉に反論することの出来ないセイバー。無理もない。これは完全に俺の意地悪なのだから。
自分自身でも、既に聖杯戦争が始まっている現状を考えれば、療養に努めることが一番であることくらいは分かっている。しかしこの“俺たちがライダーを打倒したという事実”を上手く利用することが出来るのは、現状を除いて他にはないだろう。
だからこの先を上手く立ち回るために、俺は会いに行かなければならないのだ。あの魔術師にと、あのサーヴァントに。
「まぁ今日はどうしてもやらないといけないことがあるんだ。明日からの外出は控えるよ」
困惑気味のセイバーの表情を見ながら彼女にそう告げ、掴まれた腕を優しく取り払いながら自室へと戻る。彼女に悪いことをしたと思いながらも、俺は制服に身を包むのだった。
「――シロウ、何かあればすぐ私を呼んでください」
藤ねえが出勤した後、俺はセイバーに玄関先まで見送られていた。
やはり俺の選択を快く思っていないのだろう、終始不機嫌な表情を見せる彼女をどうすればいいか分からない。とりあえずこれ以上は遅刻の危険もあるので、俺はもう一度セイバーを見つめ、こう呟いた。
「帰ったらゆっくり話をしよう。君のこと、もっと教えてくれ」
そして俺はすぐさま踵を返し、学校への道を走り始めた。
特に他意はないのに、自分でも分かるほどに頬が熱い。大した一言ではないのに、彼女を目の前にすると動悸が止まらない。
本当に俺は、彼女にやられてしまっているんだ。きっと舞い上がっているのは自分だけだと理解しつつも、この気持ちを抑えることが俺には出来ない。
このズキズキと痛む昨晩の傷がなければ、きっと俺は正常な思考を……冷静な気持ちを完全に失っていただろう。腕から覗く真白の包帯を目にしながら足を動かし続けた。
いつもの交差点を越え坂に差し掛かった頃、ちらほらと視界に入ってくる通学途中の生徒たち。その姿にもう遅刻の心配はないだろうと、俺は走るスピードを緩める。さすがにこの時間帯ともなるとよく話す知り合いの姿はない。
「まぁ、一成くらいしか居ないんだけどな……」
そんな独り言を呟いたからだろうか。坂の中腹に差し掛かった頃、それは突然俺に襲いかかってきた。
「――ッ――」
それは身を刺すような殺意。
ここまで露骨にそれをぶつけてくる人物など、俺の知る中では一人しかいない。
「あら、今日は遅い登校なのね」
その響きはぶつけられる感情とは裏腹に、あまりに温和で心地良い。
「あぁ、少し色々あってな」
ゆっくりと振り返りながらその人物の、彼女の表情を見る。そこには殺気などは感じさせない、見惚れる笑顔があった。互いに見つめ合う形で立ち止まる俺たち。生徒たちが登校する中、それはあまりにおかしな光景であった。
彼女、遠坂凛は風に髪をなびかせながら、俺をジッと見つめ、向けてくる殺意を更に際立出せ、こう俺に告げた。
「そうなの。まぁ良いわ。放課後、お時間いただけるかしら?」
「分かったよ、遠坂。俺も丁度話があったんだ」
俺の返答に遠坂は笑顔でよろしくと呟き、羽織った赤いコートを翻しながら俺の脇を抜けて行った。その颯爽とした歩みを見送りながら、俺は緊張に高まっていた胸をなでおろす。
かつての主にこのような、敵意に似た感情を抱くのは、正直なところいいものではない。出来るなら衝突もなく、何とか穏便に事を済ませたいものだ。そう考えながら、俺は再び足を動かし始めた。
そんなこと、出来るはずもないと頭では理解していたのに。
夕暮れが世界を包む。
毎日見ている光景のはずなのに、どこか初めて見るような感覚に襲われるそれを、俺はどう言葉にすればいいのか分からなかった。
オレンジに染まる教室の中、俺と少女は向かい合う形で立つ。ただ目の前に佇む少女はきっと、俺のどんな言葉も受け付けることはないだろう。
「さて、衛宮くん。私が何を言いたいか理解してる?」
まるで挑発するかのように発せられた声に、正面から受け止めゆっくりとした響きで言葉を返した。
「すまないな。正直遠坂が何を言いたいのか、俺には分からないよ」
その言葉に気分を害したのか、遠坂の表情は急速に険しいものへと変わる。自分が意図してそうさせただけに、これからどうなるのか慎重にならざるを得ない。
しかしさすがという一言に尽きる。その雰囲気はまさに一流の魔術師と言っても過言ではないほどのものを感じさせる。手のひらに嫌な汗の感触が伝う。
「……令呪も隠さずに外出、しかもサーヴァントも連れていない。ここまで言えば分かるかしら?」
そうだ、普通ならそうに決まっている。これではまるで、殺して下さいと公言しているのと変わらない。しかしかつてのようにただの猪突猛進な自分ではない。
「そう思うのは当然だろうな。ただな……」
「なによ、一体?」
スッと息を吸い込み、同時に自分の中に在る撃鉄を起こす。
昨夜の戦いで負った傷も、もはや関係はない。今はただ、明確な“差”を見せ付けなくてはならない。
「――遠坂、お前に俺が倒せるとは到底思えないがな」
刹那、顔の横を掠めて行く黒の軌跡。
それはさながら弾丸のように、瞬きの間に俺の後方の壁にその後を残していた。
やはりその威力、速度、どの点から見てもやはり遠坂は一流だ。しかし、それでも付け入る隙はある。
「どう! これでもまだそんな口を叩けるのかしら!?」
不敵に笑いながら彼女は声を荒げる。隙があるとすればこれだ。
「それだよ」
「――っ! まだそんなっ!!」
再び手を掲げ、ガンドを放とうとする遠坂。重々しい音をたてながら打ち抜かれたそれは、俺を捉えることなく、再度壁へとめり込む。おそらく撃った本人は想像もしていなかっただろう。自身の二撃目が避けられるなどとは。
彼女からの強襲を避け、一気に詰め寄りながらこう呟く。手の平には馴染みの一対、莫耶を手にしながら。
「詰めも状況把握も甘い。それがお前の欠点だよ、遠坂」
静かに、ハッキリと事実を口にする。遠坂も一般的に魔術師戦うだけならば問題はない。しかしどれだけ魔術の練度が高くとも、どれだけ強大な魔術を行使出来ようとも、そう簡単に埋めることの出来ないものがある。
それは『実戦経験』。俺と遠坂では、その差があまりに広い。
だから相手の力量を読み違え、そして有効的な攻撃をすることもできない。遠坂が少しでも戦い慣れしていれば、こんな状況にはきっとならなかっただろう。
「っ! アンタ、それって!?」
遠坂は無力さに顔を歪ませながらも、その状況を打破するために俺を見据える。そして俺の得物を目にした時、その表情は先程までとは違う、驚き慄いたものになっていた。
「その剣……なんでアンタが?」
「とにかく、俺から話したいのは一つだけだ」
彼女の声に耳を傾けず、俺は話し始めた。
「前にも言ったがな、俺には聖杯は必要ない。だから争いに加担するつもりなんてないんだ」
「じゃぁ、なんでマスターになんてなったのよ」
「“マスターになる”ことが目的だっただけだ」
「何それ! 訳が分からないわ!!」
遠坂はキッと俺を睨みつける。微かに震える彼女の手から、苛立ちを必死に堪えようとしていることは明白。確かにこんな言い回しをすれば、彼女を怒らせることくらい分かっていた。
しかし彼女にしっかりイメージさせなくてはならなかったのだ。
“自分一人では、勝つことはできない”と。
そう思わせればヤツが出てくる。間違いに嘆くあの男が。
「……いいわ、もう容赦はしない」
決意の火を灯し、見開かれる目。そこには先程までの驕りの一片も存在しない。そして一つの言葉と共に、その男は……いやオレはそこに姿を現した。
「目の前の男を倒しなさい、アーチャー!!」
―interlude―
目の前で繰り広げられる少女と男のやり取りに、私は自分でも把握できるほどに混乱を隠せずにいた。
そう。私は知っていた。
目の前の男が何を優先して考える人間だったかを。理想を完遂させるためには自分の身が傷付く事を厭わない。そして見返りなどを求めることはしない。そんな男だった。
しかしどうだ?“今”の男はどうだ。
その言葉はかつてのそれとは全く違う、何かを意図しているかのように、そしてその態度は明らかに少女を牽制し、事を起こさせようとしている。
出来る事ならば、今すぐにこの男を殺してしまいたい。自身の得物を奴の背に突き立てたい。これは否定出来るはずもない、私の本心だ。しかし私の思考を、私の動きをこの男が鈍らせる。瑣末な存在であったはずのこの男が、私にストップをかけるのだ。
こんなことは絶対に起こりえるはずはない。
そう。かつて“この男”を経た私がそれを思うのだ。これが間違いのはずがないのだ。だから見極めなければならない。この男の目的が一体何なのかを。
しかし、私の意図とは別に状況は動いていく。私がいくら慎重になろうとも、少女の一声があれば、私は否応なく戦いに赴かねばならないのだから。
「目の前の男を倒しなさい、アーチャー!!」
棘のある響きで、少女が私の名を呼ぶ。
そして私はその場に姿を現す。エミヤシロウ……だったはずの男の目の前に。
―interlude out―
目の前に現れたのは、白髪褐色の男。
男は不敵な笑みを見せながらも、どこかその表情からは俺に対する憎悪の念が伝わってくる。いや。男の表情を見ただけでそれを理解出来るのは、俺がこの男を“経験した”事があるからだ。
「アーチャー、この男を倒しなさい」
遠坂の凛とした声が響く。
その声と共に、鉄と鉄の衝突音が教室中を包み込んだ。
「ツっ!」
手にした剣がガタガタと振るえ始める。
やはり昨夜に負った傷が問題だったのだろう。握りこむ手も、力を籠めているはずの足も、徐々に感覚を失っていく。
「終わりだ、少年」
男が、アーチャーが呟く。俺に聞こえるか聞こえないかというほどの大きさの響きは自分勝手に投げ出され、受け取り手のないままに霧散していく。鍔迫り合いが続く中、やはり男は納得の出来ないという表情を見せていた。
ならばと、俺はアーチャーの剣を払い上げ、一気に間合いを広げこう呟いた
「俺は殺されないぞ……正義の味方さん」
「――っ! 貴様!!」
その言葉に苛立ちを覚えたのか、開いた間合いを一気に詰めようとする。俺もそれに反応するように後ずさりながら応戦する。一合、二合、三合。幾度となく斬り結ばれる互いの得物。時に火花を散らしながら、風を巻き起こしながら、その攻防は続いた。
だがこのままの攻防を続けていては俺の負けは明白。昨夜からの傷もそうであるが、絶対的に今の俺とアーチャーでは体力が違い過ぎる。だからこそアーチャーが、かつての俺が想像もしえない行動をとればいい。そのアドバンテージが俺にはある。
「投影・開始(トレース・オン)!」
その響きを放った瞬間、アーチャーの顔が困惑の色に染まる。身構えた状態を崩す差ないことは、さすがとしか言い表しようがない。
背後には剣の群。この光景を目にすれば、どれだけ否定していても納得するしかないだろう。俺は、かつての衛宮士郎と別のものに成っていると。
「――停止解凍、全投影連続層写(フリーズアウト、ソードバレルフルオープン)!!!」
その言葉をきっかけに打ち出されていく数多の剣。そして俺は一気にその場を離れんと、教室を飛び出した。心配することはない、こんなくらいの攻撃でやられるほど、アイツと遠坂は弱くはない。
西日に照らされていたはずの廊下は、既にその影を濃いものにしていた。あまりに時間を掛け過ぎた。そう後悔しながら、目的の場所を目指す。アーチャーならば必ず一人で追いつくであろうと信じていたからこそ、俺は後ろを振り返らずに足を動かし続けた。