少し建て付けが悪くなってしまったのだろうか。ガタガタと音をたてる障子を、少し強引に横に引く。
確かつい先程この障子を開けた時には気にならなかったはずなのだが、今はこんな些細な事に気が付いてしまうとは。
ようやく混乱した頭に整理をつける事が出来たのだろうと、少し嫌らしい笑みを浮かべながら、俺は開け放った視界の先に広がる夜の空を眺めた。
この数時間、今まで自分の中で渦巻いていた……鬱積していた感情を一気に吐き出したからだろう。セイバーにも遠坂にも、そしてイリヤに対しても俺は全てを打ち明けたのだ。憑き物の全てが俺の中からなくなってしまったような、不思議な満足感が俺の中にあった。全く……なんて自分勝手な話なのだろう。未だに目前に迫っている問題すら解決する事が出来ていないというのに。
しかし俺の中には一つの答えが生まれていた。
だからこれから先、この戦いが、この聖杯戦争が、俺が始めたこの繰り返しの物語がどのような結末を迎えようと、俺はきっと素直に受け入れる事が出来るはずなのだ。
そんな風に考えながら空を眺めていた視界の隅、月夜に映える黒髪が見て取れた。ずいぶんと待たせてしまったのかもしれない。しかし彼女は苛立ちを見せず、少し待ち疲れたような笑顔をこちらに向けながらこう告げる。
「終わったの?」
髪を撫でながらそう口にする彼女に、俺自身も笑みを返しながら視線を送る。
彼女が発したそれは、様々な感情が込められた故の言葉だったのだろう。だからこそあまりにシンプルなその言葉に俺は、自然とこう返した。
「あぁ、色々話したよ。俺の事も……親父の事も」
内容は敢えて伝えない。
俺とイリヤとの会話の内容だけは、どうしても他の人には伝える事は出来なかった。この遠坂凛という、一番の親愛を寄せている人物であったとしてもだ。
「ーー意外だわ」
しかし俺の言葉に、遠坂はその一言だけを返した。
「あっさりとしてるのね。もっと色々と話し込んで、かなりの時間がかかると思っていたけれどね」
「そう、だな」
それは素直な彼女の感想なのだろう。数時間前のセイバーとの会話は、イリヤとのそれは比べ物にならないほどに短い時間であった。
確かにイリヤの体調を加味し、手短に用件を済ませたという事も事実ではあるのだけれど、ただ俺があの子としたかったのはただ一つの事だけだった。
「約束しただけだからな。そんなに時間もかからなかったんだよ」
「約束?」
「あぁ。絶対に守りたい……守らなくちゃいけない大事な約束だ」
そう。俺はイリヤと一つの約束を交わした。
しかし彼女にとって、約束をするという事はあまりに辛い事だろうという事は充分に理解しているつもりだ。結果的に果たされなかった親父との約束が、彼女を傷付けているという事は想像に容易かった。
それでも俺は彼女と約束を交わしたかった。
これはエゴだ。
誇れるものではない。ただ親父とイリヤが繋いだはずの絆を、もう一度結び直してやりたかった。俺たちの間には、しっかりと絆があると確認したかったのだ。
だからこれはエゴだ。
誇って良いものではない。ただこの戦いが終わってしまった後、イリヤが生きる意味をなくさないように、生きるという鎖を彼女にかけたに過ぎないのだから。
だからこの約束については誰にも話さない。
それは俺と、イリヤだけが心に留めておけば良い……あまりに小さな、それでもはっきりと俺たちの心に残るもののはずだ。
「……そう。まぁ私には関係のない事よね」
淡々としたその言葉の中にどこか澱みがあった。無関心を装ったはずのその言葉から、俺に対する違和感を形にする事が出来ないのだろうと言う事は理解出来た。
「ーー最終的にはお前にも……」
不意にそう口をついてた。
「ん? 何か言った?」
俺の言葉が理解出来なかったのか。きょとんとした顔を見せた遠坂であったが、もうこれ以上の説明は必要ないだろう。それに俺自身もう話し疲れてしまったというのが本音な所だ。やはり自分のことを話す事は、存外に体力を使うものなのだ。
俺は少し愛想笑いを浮かべながら、縁側に腰掛け庭の奥の方をに視線を移す。そこには見知った金砂の髪。
さぁもう続きを始めよう。この戦いの、聖杯戦争の続きを。
「いや、大丈夫だ。早く桜の話に戻ろう。今は少しでも時間が惜しい」
縁側に用意していた外履きに足を通し、再び庭へと足を伸ばす。
「シロウ、もう良いのですか?」
「あぁ、待たせてすまなかった」
かけられた声に手を挙げながら応える。未だに最後にかけられた言葉に納得出来ないまま、彼女との差し障りのない会話を続けようと努めるが、どこかぎこちなくなってしまう。いや、それでもどうにかならない訳ではない。
「いや、イリヤスフィールとしっかり会話する事が出来たのであれば、最早私から何も言う事はありません。後顧の憂いなど、戦場に立つ者にとっては邪魔に他ならないのですから」
簡潔にそう告げながら、セイバーはこちらへと歩を進める。
互いに俺たちは歩み寄り、そして会話を交わす。もし最初からこんな風に語らえていたらと思いもしたが、そんな過ぎ去った事を顧みても意味はないと自嘲しながら、俺は言葉を紡ぎ続ける。
「そうだな。じゃぁこれからの話だけど……」
語るべきはこれからの事。
一番大事な、一番危険なあの子の事。
俺が殺さなくてはならない、しかし本当は誰よりも守りたいあの女の子の事だ。
「まずはあの子が、桜が一体どこにいるのか……って事だけど、正直目星が付けられないって言うのが本音な所ね」
頭を掻きむしりながら、俺の後ろからついてきた遠坂は苛立ちを隠さないままにそう告げた。
そう。何度聖杯戦争を繰り返していると言っても、こんな状況になってしまうのは、俺にとっても初めての体験だった。常識的に考えれば、魔術師が根城にするであろう場所はすぐに推察する事が出来る。
しかし相手は桜。間桐桜なのだ。
魔術師の常識を桜に当て嵌めていいのだろうか。それが未だに測れずにいたのだ。
「間桐の家にいる可能性もある……それに全く別の所を拠点にしている可能性もあるってことか」
「そうよ、ひょっとしたらすぐにでもここに突っ込んでくる事だって考えられるんだから」
遠坂の言葉にまさかと笑いながら、しかし否定しきれない自分がいた。
かつてこのような場面に訪れた敵は確かにいたのだ。こちらの所在地も割れている状態なのだから、最悪の可能性として考えの中に留める必要がある。
「しかし、我々にはこれ以上時間的余裕はありません」
冷静に俺たちの置かれた立場を口にしたのはセイバー。おそらく現状で最も理性的に判断する事が出来るのは彼女だろう。
「勿論その通りよ。だからこそ効率的に動かなくちゃならないのよ」
丁度庭のど真ん中くらいに辿り着いたくらいだろう。
セイバーの言葉に同意する遠坂は、口にした言葉ほど冷静な様子ではなかった。
「今更、アイツがいなくなった事が悔やまれるなんて……」
口惜しそうに遠坂はそう告げて顔をそらした。
そう。アーチャーの存在。アイツがいないという事だけで、戦局はあまりに不利な状況になっている。
それに遠坂自身も、この事実を上手く理解出来ていないのだろう。
「言い合いをしてても何も変わらないさ。とにかく、出来る事をしよう」
「そうね、まずは間桐の家に……」
遠坂の言葉に同意しようと少し余所に視線を外した瞬間、俺には何かが聞こえた。
いや、確かに聞こえたのだ。
風を切る、全てを貫く狂気の到来を。
「シロウ、凛! 上です!」
「ーーッ!」
刹那、赤の軌跡を描きながらそれは到来した。
ただその名も告げられず、その狂気は俺たちの立つこの庭に轟音と共に打ち立てられたのだ。あまりに無様な恰好でその場から飛び退いたのが幸いしたのだろう。どうにかその狂気から身を退ける事が出来た。
土煙で視界が利かない。しかしその突き立つ赤はありありとその存在感を示し、其の禍々しい様を現していた。
「ちょっと! 一体な……あの赤い槍……まさか?」
突然の衝撃に困難した遠坂自身にも、突き立つそれが何であったのか理解出来たのだ。
俺も、そして遠坂だってその担い手とかつて相対した事がある。
「ーーゲイ……ボルグ」
それは呪いの槍。
そしてその担い手はあまりに勇敢で、そして粗暴な槍の英霊。
「まさか自ら敵地にやってくるとは……しかし背後からの襲撃など、貴方らしくないのではないですか。ランサー?」
唯一、その到来から瞬時に甲冑を身に纏い、セイバーだけが彼の名を呼んだ。
彼の担い手はサーヴァント・ランサー。
俺が知る英霊の中で、おそらく一番馬が合わない。
しかしどこか羨ましささえ感じる事の出来る男。
どこまでも、真っ直ぐな男だ。
「ーーうるせぇよ、ただでさえイライラしてんだ……ん? おいおい、何だよ。嬢ちゃんは呆けたツラかよ。そっちのセイバーは……なかなか良いツラしてんじゃねぇか」
突如として現れたランサーのその意図が理解出来ず、思考が止まってしまっているのだろうか、茫然とした表情を浮かべる遠坂を眺めながら、ランサーはニヤリと口元を歪める。
「ランサー……お前、一体どうして?」
「坊主、両手に花とは生意気な事してるじゃねぇか。」
俺の呟いた言葉を意に介する事なく、ランサーはただ今自分の目の前にある状況をただ淡々と口にしていた。
全く、的外れにもほどがある。コイツのこんな自分勝手な所は、何時まで経っても慣れる事はないし、苛立ちすら覚える。
「こちとら今までやりたくもねぇ事をしてきたんだ。今夜くらいはやりたいようにさせてもらうぜ」
「やりたいように? やりたくない事? 一体何を言っているのだ、貴方は?」
こんな軽いランサーの物腰を、不思議と嫌いになる事は出来なかった。好き嫌いは今は関係ない。何故コイツがここにいるのか、それを見極めなければならない。
土埃に塗れた身体を揺り起こし、ランサーを正面から見据える。
しかし、やはりランサーは俺の行動など意に介さない。ただギラギラと瞳を輝かせながら、彼が見据えるのは一人の英霊。
理解した。理解出来てしまった。ランサーが何を求めてここに来たのか。
何と戦う為に敵地に足を踏み入れてきたのか。
「あ〜あぁ。もうこれ以上話す事はねぇだろ」
「確かに。その言葉には素直に同意を示そう」
あまりにシンプルに、あまりに簡単に言葉を掛け合いながら、にらみ合い、一定の距離をとる。
「ーーそうだ。俺たちにはこれがある」
「そう。私たちには言葉で語るよりも、こちらの方が性に合っている」
赤の槍。黄金の剣。
両者それぞれに自らを象徴する得物が握られ、今にもそれをぶつけ合わんと互いの隙を窺っていた。
「ーーダメだ……ダメだ、セイバー!」
そう。ランサーの思惑はあまりにシンプルなのだろう。
しかしアイツは、ランサーの裏に暗躍するあの男の考えが全く読む事が出来ない。
今まで聖杯戦争に関わってこなかったはずのあの男が、何故今更になってランサーをここに寄越す必要が分からなかった。
「止められない……次から次に一体どうなってんのよ」
「遠坂……とにかく今はランサーの様子を窺うしかない」
困惑を隠せない遠坂に声をかけながら、一触即発の様相を見せる二人を見つめる。
「何だ、何が目的なんだよ……言峰綺礼」
口をついて、絶対口にしないでおきたかった男の名前が零れた。
そう。この戦いが合図だった。
俺にとってはあまりに長かった、この聖杯戦争の終わりの最終幕がついに幕を開ける合図だったのだ。
ーinterludeー
それはあまりに奇妙な取り合わせであった。
一人は黒を基調とした服に身を包み、興味のない瞳で相対するモノを眺めるのはその教会の神父。そしてもう一人の人物、それは最早人と呼び難い姿形をした老人の姿。
そう。そのにいるモノの名は間桐臓硯。身体は腐り果て、何時その身がなくなってしまってもおかしくない状況だったのである。
仄暗い地下室の中、別段何かをする訳でもなく、ただ向かい合いながら言葉を交わす二人。この十年間、決して顔を合わせる事のなかったこの二人が今になって対面するのか、それは互いに思惑があってのことだったのだろう。
「しかし、何とも趣味の悪い事をする」
「どの口がほざくのだ、妖怪変化が。今すぐにその身を滅ぼしてしまおうか」
老人の下卑た物言いに、吐き捨てた言葉ほど苛立ちを見せずに神父、言峰綺礼はただ自らの前に座する老人を睨みつけていた。
「何を言う。褒め言葉以外の何ものでもなかろうて」
しかし神父の挑発にも似た言葉に、老人は全く無関心なまま言葉を紡ぎ続ける。
「それにの、これはお前に対する褒め言葉ではない。我が孫への……桜に対するものじゃ」
「確かに、それについては私も同意せざるを得ない。あそこまで黒に染まるとは……流石は二百年の時を過ごし、その醜悪な外法を極めてきただけの事はある」
そう。素直に臓硯は桜の成長を喜んでいた。その肥え太らせた狂気と、自ら悲劇へと身を落としていくその滑稽さに、彼は歓喜に満たされていたのだ。
そして言峰にとってもそれは充分に同意出来るものであった。ここまで人を陥れ、自らの愉悦の為に暗躍する目の前の老獪な魔術師に彼は尊敬の念すら感じた。
そして魔術師自身も言峰の発言にはいささか驚かされるものがあったのだろう。崩れかけた身体を震わせながら臓硯は言葉を発する。
「何じゃ? 貴様すら驚くほどという事か?」
「あぁ。私にとっても彼女の行動はあまりに予想外であったが……しかし、それも今は自然と納得する事が出来るのだ」
言峰が先よりも一層口元をつり上げ言葉を紡いでいく。
違和感があった。その場にいる間桐臓硯にとってその笑みの意味する所は全く理解出来ない。何より目の前の言峰綺礼という男が一体、何を愉悦と感じる為に桜を闇に落としたのか、彼にはまだその総てが理解出来ていなかった。
「そして、その行動の意味も……」
何より、間桐桜が望むその思いを、少しも理解はしていなかったのだ。
「ーーーーッ!」
刹那、間桐臓硯の視線が高さを失う。否、高さを失うは正確な状況を示していない。
切り刻まれたのだ。
脚
腰
胸
首
かろうじて人の形を留めていた彼の身体は、暗闇から這い出した何かによって四分割されてしまった。
重い音をたてながら脆くも崩れ落ちた肉塊は、夥しい血を吐き出しながら痕跡を残していった。
その情景を見つめながら言峰綺礼は呟く。
何の感慨もなく、そして感傷もないままにただ呟いたのだ。
「貴様が育んだその黒の聖杯が、貴様自身を喰らい尽くす様を、私はただ眺める事としよう」
何故間桐臓硯は気付かなかったのだろう。その部屋にいたはずの彼女の存在を。
それほどまでに彼の肉体が腐り果てていたからなのか、それとも何か特別な仕掛けがあったからなのか、それは分からない。
ただ間桐臓硯の身体を分割した狂気を孕んだ影が、ニヤリと笑いながらその肉塊を見つめているという事は誰にも覆す事は出来ない事実であった。
「御機嫌よう。お爺さま」
その影は、間桐桜はただ笑っていた。
自らを育てたはずの老人をバラバラに解体しながら、友人と遊ぶときの屈託のない笑みで。
「サ、クラ……貴様……」
恐ろしくも臓硯の頭部であったものは、自分を見下ろす少女の名をなんとか聞き取れるほどのか細い音声で呼んだ。
その弱々しい声を耳にしても桜は顔色を変える事はない。
ただ優しい声を響かせながら、彼女は淡々と足下に転がる肉塊にこう告げた。
「分かってたでしょ? 理解してたでしょ?」
「何をしようと言うのだ! 一体、桜ーーーー桜!」
しかし自身が傷付けられた状態にあっても、臓硯だったものは蠢きながら孫の名を呼び続けた。それが彼女を苛立たせる行為であるとも知らずに。
「徹底的に心を折ったと思っていたのでしょう? 決して自分には危害を加えないと思っていたんでしょう?」
「貴様、キサマ正気か! 何をしようというのだ」
「ちゃんとお顔だけは残してあげたんです」
そのまま見ていてくださいと微笑みを浮かべながら、桜は自らの指を胸に突き立てる。
ただ少女の胸からは夥しい血が噴き出していた。先程まで臓硯だった肉塊が吐き出したものと混じり合い更に混沌とするその光景を目にし、地に這いつくばりながらそれを見せられる臓硯は未だかつて感じた事のない恐怖に思考を麻痺させていた。
「ーーほら。こちらのお爺さまは初めましてでしょうか。貴方たちみんな同じに見えるのでよく分かりません」
感情のない瞳のまま、泣き叫ぶ事も痛がる事もなく桜はそれを見下ろし続けた。
自らの身体を侵食していた、侵し続けていた大元の存在。余りにちっぽけで握りつぶすだけで滅してしまう事が出来るであろうその虫けらを、桜は血の滴る指でつまみ上げていたのだ。
「なーーーー桜、キサマ一体に何を!」
「ホント、こんなにも簡単な事を何で今までやろうとしなかったんでしょう」
「桜、まさか……」
ようやく混乱する臓硯の考えが整理されたのだろう。
彼の肉体が限界を迎え、桜に摘まみ上げられる本体へと映ったのだろう。その瞬間に彼は自分の孫が本気で自分を殺そうとしているのだと実感したのだ。
「確かに……わたしはお爺さまの玩具にされて、もう何にも感じないんです。でもね、先輩の事だけは別です」
「わ、儂はあの小僧に何もしておらん! ただ聖杯を得る上では、最も邪魔な者になるであろう男であった! だからこそ排除しようとするのは当然だ。しかし儂は直接手を下しておらん! あの馬鹿な孫に間接的にではあるが……!」
「それを判断するのはお爺さまじゃありません。お爺さまが先輩のことをどうこうするなんて、許す訳がないじゃないですか」
桜の顔から笑みが消える。
狂気と怒り、総ての負の感情に塗れた表情で、彼女は矮小な自らの祖父を睨みつけた。
「待てーーー待て待て待て! これまで儂はお前を第一に考えてきたのだ! それを儂があの小僧を傷付けるとも知れぬと分かればそうするのか? キサマは儂をそれほどまでに簡単に切り捨てるのか」
「えぇ。そうです。もうお爺さまは要りません」
そう。彼は考え違いをしていたのだ。決して自らを裏切れないと思っていた傀儡があっさりと自分を見捨てた。
「ーーーー! お前をここまで育ててやったのだぞ? お前にそこまでの力を授けてやったのも儂なのだぞ! それを……それを恩を仇で返すような真似など……正気になるのだ。いや正気になってくれ桜!」
それは最早懇願であった。この場を逃れる事が出来れば良いとするただの言い逃れ。これまで人を弄んできた彼が、この時初めて滑稽な道化に身を落とした瞬間であった。
「もう、良いです。もう結構です」
しかし少女は惑わされない。
「それ以上、言葉を発さないでください」
少女はこれまでの責め苦を、そんな甘言で忘れるほど優しくはなかったのだ。
「お爺さま。もうご無理をなさらなくても結構です。さようなら。もう二度と貴方の事は思い出しません」
血に汚れていたはずの桜の手に、更に赤が上塗りされる。
小さな悲鳴を上げ、かつて彼女の祖父と呼ばれていたその虫けらは、その余りにも長い生涯を終えたのだ。
「ふーーーーふふふ……あははははーーーー」
自らの枷を文字通り捻り潰した事に数分は微笑んでいた桜であったが次第に落ち着きを折り戻し、再び色のない瞳のまま宙を見つめた。
「こんなにも呆気ないなんて……本当につまらない人」
この十年、自らを縛っていた支配者の息の根を止めたというのに、彼女には何の感慨も浮かんではこなかった。ただ殺した。指先一つで。自らの手に滴る赤々とした液体だけがそれを示していた。
「ねぇ神父さま……どうです? 楽しめましたか?」
何かを思い出したようにクルリと振り返りながら、桜はその部屋の主に声をかける。
部屋の主は相も変わらず表情を変えないまま、ただ秘蔵のワインを呷りながら彼女の引き起こした惨劇についてこう語った。
「ーー別段語る事はない。しかし私には君が愉悦に浸っているように見えて仕方がないがね」
「愉悦? 何を言っているのか分かりません。そんなもの、わたしには必要ありません」
そう。言峰綺礼にはそう思えて仕方がなかったのだ。
今の間桐桜には表情はない。しかしその胸の内は歓喜に満ち満ちているのではないのだろうかと。
だがその答えを知る術は彼にはない。それほどまでにこの少女は純粋に力をつけ過ぎてしまった。間桐桜をどうにかしようと思考した瞬間に、きっと彼は縊り殺されてしまう。言峰綺礼にはその確信があった。そしてそれと同時に彼には殺されてはいけないとする理由を有していた。
「ーーそうだ、ちゃんと準備はしてくださったんですよね」
「我が飼い犬は既に衛宮士郎の所へと向かった。君の言った通りに、好きに行動して良いと言付けてね」
しかし彼女は面白い事を考えるのものだと言峰は感心した。
自らが恋い焦がれているはずの男を陥れる事をこんなにも簡単に決断しようとするとは、彼女は否定したがその思考こそ『愉悦』を求めているに他ならないのではないのだろうか。
「彼女の事は彼が連れてくてくれます。それよりも……」
「分かっている。『衛宮士郎は決して傷付けさせない』だっただろう?」
「そうです。もしあの人が先輩を傷付ければ……貴方の事を殺します。もちろん、あの狗さんも殺します」
まるでその言葉は慈愛に満たされたモノのように優しい響きでそう告げられた。
まるでその笑みは聖母。ただそれは総てを悪意によって包み込む存在であったという事だけだ。
「だって……先輩はわたしのもの。先輩で遊んでいいのはわたしだけなんですから」
楽し気にそう呟き、間桐桜は祖父の棺桶となったその部屋を後にした。
一人ワイングラスを片手に、再度凄惨たる光景を目にしながら言峰綺礼は誰に投げかけるでもなく独り言のように呟く。
「なかなかに恐ろしいではないか……あんなにも邪悪な、あれほどまでに純粋なモノに好意を寄せられるとは……」
否、それはとあるの人物に向けられた言葉。
彼にとって敵と認めたあの男の忘れ形見、この戦いを混沌に陥れている一人の魔術師に向けられたものだったのだ。
「衛宮士郎よ……お前は彼女と向かい合い何を選択する?」
ーinterlude outー