「もう……昼か」
いつの間にか深く闇を落としていた夜は終わり、陽の光が地面を照らし暖める時間になっていた。それでも俺たちを取り巻く空気は、突き刺すほどに冷たい。
闇に隠れていた庭は、最早目も当てられないほどの惨状となっていった。土は抉れ上がり、植えられていたはずの大木は無惨にも折れ粉々になってしまっている。
これでこの状況を聞きつけた野次馬や、警察機関が捜査に訪れないということは、あまりに違和感を覚えずにはいられないが、ギリギリのラインでこの聖杯戦争が秘匿されている事実がなければこうはいかないはずだ。その点だけには胸を撫で下ろすことが出来た。
だがそれが指し示すのは、言峰綺礼という男が暗躍しているということでもあった。
しかし今そんなことを気にしていられない。俺の眼前で、不安そうに俯く少女のことを考えれば、そんなこと些末なことであった。
「何時までそんな顔してるつもりだ」
「……分かってる」
庭に面した部屋のほとんどは昨夜のアーチャーの攻撃により使い物にならない状態であったが、どうにか居間と洋室の方だけは無事だった。
その居間の隅の方で、膝を抱えるのは淡々と言葉を返した遠坂。
あの時、アーチャーから叩き付けられた離別の言葉は、余程彼女の中に深く突き刺さったのだろう。普段であれば人には見せないような困惑した表情を浮かべる遠坂は年相応に弱々しく見えた。
何の思惑があって、アーチャーがあの言葉を選んだのかは……正直に言えば理解出来るのだ。それでもかつて俺が遠坂を裏切り、かの魔女の軍門に下ったときにも彼女はこんなにも弱々しい表情は見せなかった。
きっとこの数日で様々なことがその身に降り掛かり、平静を保てていないだけなのだろう。
「そんなんでアイツのこと迎えにいけると思ってんのかよ?」
あえて突き放すようにそう告げる。勝ち気ないつもの彼女の言葉が返って来ると信じて。
「……分かってるわよ」
帰ってきたのは、先程と同様に気のない言葉だった。
しかしどこかそれには怒気が混じったように、苛立ちが感じられる。
「桜を迎えにいかないといけないってことも、アーチャーが敵になっちゃったってことも……全部分かってるわよ」
「なら、行くしかないだろ?」
俺が言葉を放った刹那、悪鬼を思わせる眼光が俺を貫く。
分かっていた。このやり取りを続ければ遠坂が激昂するであろうということは。
しかし現状の停滞したままを見過ごすことが出来なかった。だからこそ、遠坂が声を荒げる結果になったとしても、俺が責められても、彼女を正気に戻さなくてはいけない。
「分かってるって言ってるでしょ! 何よ、自分に隠し事がなくなったら人のことなんて考えもしないの? 何が最善なのか位、私だって分かってるけど、まだ整理がついてないの! そりゃアンタは平気でしょうよ。それだけ力を持ってて、それにアーチャーの考えていることだってきっと、手に取るように分かるんでしょうからね!」
放たれたその言葉の端々からはどうにか状況を飲み込みながら、必死に冷静さを取り繕おうとしている様、そして困惑している自分に対する苛立ちが感じられた。
しかしどうしようもなく俺に向けられたその瞳に、彼女が本来持つ強さが感じられない。
どんな状況下であっても、強さと優雅さだけは失わなかったその瞳が、今はあまりに弱々しい。
「そんなことない。俺にだって、アイツが何考えてるかなんて分かるはずがない」
「ーー分かりなさいよ! アンタ、アイツだったんでしょ? サーヴァントだったって、自分で言ってたのよ? だったら……」
音を起てて立ち上がり俺に詰め寄り、胸倉を掴む。その手は相変わらず、力強い。
あぁ……こんなにも強くあるのに、この少女の在り方はあまりに儚い。
しかしどんなに儚くとも、どれほど困惑していたとしても彼女が『遠坂』であることは決して揺るがない事実だ。
「ううん、ごめんなさい。こんな事言っても意味ないことくらい、私も分かってるわ」
音は掻き消える。視線の先にある遠坂の表情は悔し気に、その唇は言葉をそれ以上紡ぐことはなくキュッと閉じられてしまう。
これが彼女の強さ。自分が間違いを、優雅さに欠ける行いをしようとした時に、すぐに自らを顧みることが出来る。俺が真に彼女を評価しているのはその部分なのだ。
「いや、困惑してしまうのは仕方がないことだ」
「受け入れてはいるの。でも……」
「言いたいことは分かる。俺だって、本当にアイツが何を考えているのか分からなくなってきちまったんだ」
そう。俺には本当にアーチャーの考えていることが分からなくなってしまっていた。
『抑止の守護者』であるアイツが、人類の敵となるはずの間桐桜を捨てておいてまで、俺を殺すことを優先している。
きっと俺がサーヴァントとしてこの戦いに参加していたとすれば、自らの感情など捨て去り、自らの使命を果たすはずなのだ。
だが今のアーチャーは、英霊エミヤはどうだ。まるで人間であるかのように自らの意志を優先しているではないか。
しかしアイツがどう考えていたとしても、俺が為すべきは一つなのだ。
「ーー桜のことを迎えにいくのに、イリヤを助けにいくのにアイツが……アーチャーが邪魔をするって言うのなら、俺は戦うさ。多分、アイツもそのつもりだと思う」
「そのつもりって……」
「かつての俺がそうだったように、俺はエミヤシロウを殺してしまいたかった。俺はエミヤシロウという偽善者の総てを消し去りたかったんだ。アイツがそう思っているってことだけは……理解出来るから」
俺自身もそうであったように、アーチャーとしての俺がエミヤシロウを終わらせたいという感情はあまりに大きいモノであった。
「それまでのアイツが積み上げてきたものが無くなっちゃう訳じゃないのに……そんな無意味なことに必死になって、アイツ……その為に私を切り捨てたの?」
「……分からないさ。本当に、俺はアイツのことが分からなくなってんだから」
俺もそのことには気が付いていた。
いや、あの戦いの後、ようやく気が付いたという方が正しいのかもしれない。
あの戦いで俺が衛宮士郎を殺せていたとしても、俺自身が『抑止の守護者』という枷から解放される訳ではない。様々な可能性の中の一つである『あの世界の衛宮士郎』が終わるというだけなのだ。
遠坂が『無意味』と切り捨てても仕方がない。
だからこそ彼女は許せないのだろう。あまりに大きな闇をそのまま捨て置いて、しかもその闇に組しているのだから。
その事実を自分の中で反芻すると思わず俺も口を固く閉じ、言葉を発せなくなってしまう。俺も遠坂と同様に心の中では整理を仕切れていないのだ。
ジッと俺の俯く表情を目にして、遠坂は気まずそうな表情を見せる。
「ねぇ、士郎……」
彼女自身、これ以上答えのでない会話をすることは不毛であると考えているのだろう。遠慮しがちに声を上げる。
「なんでアイツ、わざわざここに来たのかな?」
「イリヤを攫うことが一番の目的だってことは間違いないと思う。言ってただろ。『イリヤを連れて行けば、自由を約束されている』って……」
そう。アイツは桜に対する義理を果たす為だけに、イリヤをここから連れ去ったのだ。アイツ自身もイリヤがどう扱われるかなんて理解しているはずだ。
その一点のみで言えば、俺はアーチャーを許すことが出来ない。
自らの為にイリヤを犠牲に出来るヤツを、俺は『エミヤシロウ』と呼ぶことは出来ない。
「自由なんて、今更そんなのに意味があるの?」
ボソリと遠坂が皮肉を呟く。自分勝手に振る舞うアーチャーにそんな自由など必要ないはずなのだ。ならば何故アーチャーは『自由』という言葉を使ったのか。
それは少し考えれば簡単だ。バーサーカーを屠った桜の行動を顧みればよく分かる。
きっと桜は『俺を傷付ける総て』を許さないのだ。
「桜がアーチャーに対して、何かしらの枷をつけていた……」
それは考えるまでもなく契約をし、パスを繋いでいるという事実だろう。
そしてあの時、簡単にバーサーカーを殺してしまった桜なら、アーチャーを消すことなど赤子の手を捻るよりも容易なはずだ。
だからこそアーチャーは桜に従った。一番確実に、俺を殺す為に。
しかし同時に俺を傷付けることを許さないものに従うということは、本末転倒ではないか。
「それを解き放つメリットが、桜にあるとは思えない」
いや、その前提が間違っていたとすればどうなる。桜がアーチャーを『エミヤシロウが行き着く可能性』だと知っていたならば一体どうなる。
その考えた瞬間、悪寒が背筋を駆け抜けていく。
桜にとって重要なのが、自分の傍にいるのがエミヤシロウであれば、何も問題ないとするあらば……アーチャーの言ったように、本当に桜の感情の箍が外れかかっているのではないか。
自らのその考えに、一瞬目の前が暗くなる。
確かに暖かな陽の光が差し込んでいるはずなのに、身震いが止まらないのだ。それを感づかれまいと、必死に平静を取り繕っていたからだろう。遠坂は俺の様子に気付かないまま話し続ける。
「でもあの子に……桜にサーヴァントなんて必要なの? バーサーカーだって簡単に消し飛ばしちゃうくらいの力を持ってたのよ」
「サーヴァントが必要でないほどに力を有している。でも聖杯を掴むには……」
そう。人間が聖杯を手にすることは出来ない。
ならばサーヴァントを介し、それを掴むしかないのだが。
「だからこそイリヤが必要だった。でも、私でもあの子の願いなんて分からない。あの子が抱く夢なんて、私じゃ分からないわ」
「いや、それこそ今の桜にイリヤが必要なのか?」
桜に願いがあるとは俺には思えない。それに理由は分からないが、桜にはイリヤやサーヴァントがいなくても、聖杯を掴むことが出来るのではないかと思えてしまうのだ。
「結局あの子の所に行ってみないと、何も分からないってことなのかな?」
遠坂の言葉通り、これ以上の推測は不毛。桜の傍に行かなければ何も分からないままなのだ。
だた一つだけ、何も分からない俺だったが、充分に理解出来るモノがあった。
「あぁ。でもアイツがランサーに止めを刺した理由は分かるさ」
「理由って……それこそ桜に命令されたからじゃ?」
「違うよ。アイツは単純にランサーと戦いたかったんだ。間違いなく、きっとそのはずだ」
それだけは信じたい。
セイバーとランサーとの戦いを目にして俺自身が高揚したように、アーチャーにもその感情があってほしいと思う。
それが無くなっては、俺はアーチャーのことを『エミヤシロウ』だとは本当に思えなくなってしまうから。
「とにかく夜には出るぞ。桜が動かないままでいるのは、きっと今晩までだ。それを過ぎれば……この間の柳洞寺の時みたいに、関係ない人が犠牲になる」
災厄がきっとこの街を飲み込む。
それはまるであの時の、今でも覚えているあの時の火の海と同じように。
「それこそ、10年前のあの火事の比にならないくらい、人が死んじまう!」
「えぇ。分かってる。でも今だけ、もう少しだけ時間をちょうだい……」
嘆息し、遠坂は呟く。
「後少しで、きっといつもの私に戻れるから」
あと少し、もう少しと、この戦いを迎える前の俺と同じように、煮え切らない表情を浮かべながら。
今の遠坂に無理強いは出来ない。
同じ空間にいることが苦痛に感じた瞬間俺は焼け焦げた庭を通り、半壊した道場に足を伸ばしていた。
「ホント、これだけは治らない悪癖だ。自分のこともままならない癖に、人のことばかり気に掛けて……」
淡々と自嘲の言葉を口にする。
受取手のいないままに吐き出されたその言葉は、ただ俺だけの、俺の為だけのモノだ。
「こんな誰もいない所で口にしたことを後悔するなんて。ホント、バカ野郎だよ」
「ーーそうですね。貴方は酷く愚かしい」
凛と、最早見る影もない道場に声が響く。
振り返ってみるまでもない。その声の主の姿を家の中で見つけることは出来なかった。
「なんだ。開口一番そんな皮肉だなんて、いつものお前らしくないじゃないか」
「いえ、本来の私という人間はこうだったのでしょう。それを思い出させたのは、エミヤシロウ……貴方なのですよ?」
「俺、か……何か変な気分になるな」
「何を言っているのですか。巫山戯るのは止めていただきたい」
「そこまで言うなよ。傷付くじゃないか」
ゆっくりと振り返るとそこには少し頬を赤らめたセイバーの姿。
戦いの時のような勇ましい姿ではなく、どこか少女らしい華やかな印象を感じられた。
「当然のことでしょう。一度我が剣を預けた男の軟派な様など、見たいと思うはずがないでしょう」
「でも、今のお前のマスターは遠坂だろ?」
「えぇ。確かに凛は我が主。自らの意志で剣を捧げた人だ」
「ならお前は遠坂のことを一番に考えてやってくれよ」
「無論、私とてそのつもりだ」
「なら俺のことなんて……」
そう、俺のことなど考える必要はないのだ。今でも昨夜の話をしたことを思い出すだけで身体が震える。なぜなら、俺はセイバーとの決別を既に口にしているからだ。その俺が今更彼女と近づくことなど許される訳がない。
しかしそんな俺の考えなどお構いなしに、セイバーは俺のすぐ後ろに立ち、言葉を続ける。
「ただ私は凛に勝利を呼び込む為に、この剣を振るい続けよう。そしてそれを為す過程で、貴方の手助けを出来ないとは私は思わない。それとも貴方は、一度自分の手を離れてしまったら、もう元には戻せないと思っているのですか? 私たちの関係は、貴方の中では既に終わったことになってしまっているのですか?」
肩に置かれた手から感じるのは、昨夜までの怒りではなくどこか聖人ではないかと思わせるほどの清閑さ。それは今までの彼女に欠けていたモノ。
どこか達観したようにも感じられるその雰囲気に、俺は知らず知らずの内に飲まれていた。
「それぞれに意志がある。同じ答えを持っていなくとも、同じ道を歩めないとしても、私は貴方を助けようと思う。そのことくらい、彼らも許してくれるはずだ」
「何だよ、お前……」
彼女の声を、その澄んだ声を聞く度に、俺の中で渦巻いた疑念が確かなものになっていく。
「聖杯を求めていない……貴方はそう言いたいのですね?」
「そうだ。それがお前の大願だったじゃないか。お前が何度も繰り返して、何度も血を吐き出しながら求め続けていたじゃないか」
「その通りです。えぇそれは紛れもない事実だ」
「なら……!」
そう。その為にセイバーは、いやアルトリアという少女は何度も聖杯戦争を戦ってきたのだ。自らの手に有り余る願いを抱え、その願いにずっと首を絞め続けられた。
今の彼女の物言いは、それら全てをなかったもののようにすら感じられたのだ。
「ーー貴方も分かっているのではないですか?」
正面から向き合いながら、話を続けるがどこかつかみ所がない。
いやここまで変わってしまったセイバーを、俺自身が受け入れることが出来ていないだけだ。
何度も言い聞かせてきたではないか。
俺がかつてと違うことを行えば、あったはずの人間関係は崩れていくと。そして変化してしまった俺と関わって、俺には見えていなかったその人物の隠れた一面を露にしていく。
それに当惑しないように、必死に覚悟をしていたはずのことに俺は今まさに直面してしまっている。
「エミヤシロウ。確かに貴方はかつて、この聖杯戦争を経験してきたのでしょう。それを強みにこの戦いを有利にくぐり抜けてきたのでしょう。しかし貴方自身の変化は周囲にも影響を及ぼしている」
「あぁそれは俺だって覚悟してたさ。でも桜のことは正直何も考えていなかった……覚悟していたとしても、きっと足りなかったと思う」
違う。覚悟が足りていないのは今も一緒だ。
事実、俺の手はこんなにも震えている。受け入れらずにいるではないか。
「そうでしょうね、あの森での貴方の表情は本当に困惑という言葉がよく似合っていた」
「だからもう一度、あの子の傍に行くんだ。桜とちゃんと話をするんだ」
「それで良い。シロウ、貴方はそれで良いのです」
そう口にするセイバーの表情は和やかだった。
「私は私の思い描くよう戦います。これを、この聖杯戦争を最後にする為に……私が守り通すことの出来なかった民と、我が王道を共に歩んでくれた朋友たちの思いに報いる為に」
「最後……って、お前、何言ってんだよ!」
「えぇ、この戦いを最後にする。私の迷いを正してくれた人の為に、私は私の願いを終わらたいのだ。これは迷い続けた私の贖罪だ」
言葉にしてしまった。
俺は聞いてしまった。
今までの彼女であれば、真っ先に否定していたはずのその言葉を。
「……」
その事実に言葉を失う。
言うな、もう止めてくれ。変わらないままいてくれた、精悍な表情を浮かべながら戦場を駆けるお前のままでいてくれ。
しかしそんな傲慢を口にすることは出来ない。
「終わらせたい……いや、この言葉も何か違う」
そう。彼女は終わりを望んでいる訳ではない。
「……そうだ。私は見たいのだ」
そう。彼女は自分の命が終わったとしても、それを求めている。
「ーー私はその先を見たいだけなのだ。私の生き抜いた世界が、私の命が果てても尚立ち上がり、各々が幸せを摑み取らんと求め続けた朋友や民が作った世界を。私は、我が生が潰えた終わりの続きに広がる世界を……それに思いを馳せたいのだ」
そうだ。聞かなくても分かっていた。
『終わりの続きに思いを馳せたい』
彼女が死に絶えた世界で、彼女の背を追い続けた人々が必死に造り上げたより良き国を。
彼女の遺志を引き継ぎ、幸福を求め続けた人々が守り続けた世界を。
それこそアルトリアという少女が、最後に抱いた心からの願いだった。
「ーー貴方はどうするのですか? この戦いを、どう終わらせたいのですか?」
「終わらせる……一体何を終わらせろっていうんだ!」
「何も出来ていない俺に、何を終わらせろっていうんだ!」
「……そう言いながらでも、分かっているのでしょう?」
キッパリ彼女はそう告げ、答えを求める。
もう答えは出ている。しかし口にしていいのか。
「分かってるってーー」
「いや、貴方が分かっている」
詰め寄るその瞳が湛えるのは怒りや憤りではなく、優しい色。
「貴方は自分の為すべきを既に理解している。この戦いで自らが望む願望すら、貴方には見えているはずだ」
その声にはもう逆らえない。
だってもうその声に、自分の中に巣食っていた靄は完全に消え失せてしまったから。
「だからこそ、今この場で言葉にしなさい……これはこの戦いを始めた、貴方の義務だ」
「……俺は」
陽の光は暖かく、まるで夢の中にいるような幸福感を与える。
この光の中に逃げていていいはずがない。
ただ口にしろ。
セイバーとの決別ではなく、ただ共に歩む友としてのケジメをつける為に。
ただ、空っぽになってしまったエミヤシロウに残った最後の望みを口にしろ。
胸を打つ鼓動は穏やかだった。でもどこか気持ちだけは高揚していく。
以前、俺は似た感覚を味わっていた。
いつだったろう、あの朝焼けの草原であっただろうか。
月明かりの差し込む土蔵であったろうか。
いや、そんな特別な場面じゃない。
いつもの、あの風景の中にそれはあった。俺を支え続けてくれた人がそれだった。
「ーー俺は、桜を救いたい……俺には、俺には桜が必要なんだ」
口にしてしまった。本当に変わってしまったことを指し示すその言葉を。
「お前を求めて生きてきた。どれだけ辛くてもそれだけがあれば俺はよかった」
そう。俺はそう思い続けることが幸せだったのだ。それ以外のことから目を背け続けることが出来たから。それを望み続ければ、目の前で起こることに心を揺さぶられることはなかったから。
「でもさ、変わっちまった。変わってはいけなかったのに。変えてはいけなかったのに」
その事実を受け止める決心がついた。
「俺はお前から見れば、どんなに滑稽な男なんだろうな……」
でもそれでも構わない。そんなことはもう言われ慣れてるから。
「それでも、俺は……救いたいんだ。自分がどんなに罵声を浴びても、どんなに愚か者と言われても構わない」
どれだけ泥を被ろうとも、また桜の笑顔を見ることが出来れば……こんな俺にも、切り捨てたばかりの俺にも、意味はあると信じたいのだ。
「俺の一番なんだ……あの子が、桜が俺の一番大事な人なんだ」
愚直に求め続けよう。
この足が、手が動く限り。目がその光景を捉え続ける限り。
「これが最後だ。俺も、この戦いで踏ん切りをつけるさ」
ただ桜が欲しい。
それだけで俺の心は満たされていた。
「ーーエミヤシロウ。その言葉に嘘偽りがないというのなら、私は貴方を友と認めよう」
その手に顕われるのは一振りの剣。人々の願いによって練り上げられた聖剣。
それを掲げながら、優し気な表情の中に勇敢さを湛え、彼女は宣言する。
それはまさに英雄譚の中に名高き騎士王の姿そのもの。
いや、そのものだなんておかしな話だ。だって彼女こそその騎士王なのだから。
「その手に剣を執れ! そして私も、貴方の思いに応えよう!」
その言葉に従い、この手に顕すのは白と黒の一対の剣。それに力を籠め、俺は口にする。
セイバーの友として、最初となるその一言を。
「あぁ、後一度だけで良い。俺に、俺の我が儘に付き合ってくれ……!」
“何だよ……筋書きが変わっちまったじゃねぇか”
“兄弟、それはねぇよ。心変わりして、しかも進んじゃ行けない方に進んでる……”
“お前がそんな野郎だったなんて思わなかったぜ……”
“でもな、充分溜め込んでくれたぜ”
“お前の愛しい愛しい、俺のお母様はな……”
“俺を産み落とすのに、充分な『悪』を溜め込んでくれた”
“さぁ、そろそろだ”
“楽しい楽しい悲劇の、幕開けってやつだ……!”