知らぬ間に夜は更け、ポツポツと家々の灯りが点々と点る。
張り詰めていた心をどこか解きほぐされ、冷静さを取り戻せたように感じられた。
「ホント、巫山戯た話よね!」
この大声がなければ、直に訪れる戦いまでは、平穏な気持ちでいられたのだろうけれど。
「遠坂」
そう。夜が更けた。俺たちにとって、約束の時が刻一刻と迫っているのだ。
黒の支配する通りを三人で歩きながら、目的の場所を目指す。その間、互いに集中する為に無言のままになるのかと思いきや、俺とセイバーに先んじて歩を進める遠坂は饒舌だった。俺のかけた言葉にすら、遠坂は反応をしないまま、ただブツブツと先刻俺が語った恩人たちの話を反芻しているのであろう、そんなに衝撃的な内容でもなかったのになと、内心思いながら足を止めずに彼女の後に続いた。
「封印指定の魔術師? しかもアオザキって……」
「凛、少しは落ち着いてはどうです?」
「これが落ち着いてなんていられないでしょ! あ〜ぁ。ホント、凄くイライラするわ。こんな馬鹿げたヤツと正面から渡り合おうとしてたなんて……」
チラリとこちらに目線を向けた遠坂が、まるで自嘲するようにそう呟く。
しかし言葉ほど彼女の表情は落ち込んでなどいない。どこか新たに目標を見いだしたような、あっけらかんとした表情を見せていた。それはいつもの遠坂の優雅な様を更に際立たせていたのだ。
「おいおい、当の本人が隣にいるのにそれはないだろ?」
視線がぶつかった瞬間、俺も遠坂に向けてそんな言葉を口にしていた。
皮肉にはそれでもって返す。それがきっとエミヤシロウと遠坂凛の正しい関係なのだと、今の俺は素直にそう思う。長い回り道を経て、ようやくこの関係に戻れた事を思うと、感慨深いものがある。
「少しの小言、見逃しても良いんじゃない? それとも衛宮君はそんな余裕もないくらいに緊張しているのかしら?」
そう思っていたが前言撤回。
ここぞとばかりに口撃を仕掛けて来る彼女の姿は、可憐で優雅とは程遠い。彼女の不名誉な渾名である『あかいあくま』そのものであった。
しかしそんなやり取りが不思議と心地良いと思うのは、おそらく俺が少し疲れているせいだろう。うん、きっとそうだ。
言葉に詰まるが足は止めない。投げ出していた左手を顎に持っていき、少し遠坂への回答を思案しようと試みたが、そんな上手な言葉が浮かぶ訳でもなく、淡々といつものようにこう返す。
「あ〜なんか色々すまん」
グッと襲いくるであろう遠坂からの叱咤を覚悟したが、苛立ちの籠った言葉は何故か降り掛かってこない。
「でも何でしょうね……」
返ってきたのは、そんな落ち着き払ったそんな台詞。
「俄然アンタに興味が湧いてきたわ……」
ゾクリと背筋が凍る。刹那彼女の浮かべた表情に既視感を覚えてしまう。
「興味って、怖いぞ。お前、凄く目が怖い」
「魔術師の性よ。素直に褒め言葉として受け取っておきなさい」
そうだ。あの人とそっくりなのだ。
いつも言われていた。『飽きれば解体してやろう』と。何とも魔術師らしいと思ったものだが、しかしここまでそっくりだと本当に言葉に詰まってしまう。
「……なんか、似てるな」
「似てるって、誰とよ?」
「遠坂と橙子さんがさ。悪い事考えてる時の表情とかさ、もうびっくりするくらいに」
「アンタ、それ褒めてる?」
「もちろん『魔術師』としてな」
「何か刺のある言い方ね」
「そりゃさっきまでいいように言われ続けてきましたから」
「む……」
少しの皮肉を籠めて、彼女に返す。
以前の彼女も魔術師として非情に成りきれてはいなかった。この戦いの中で、ようやく彼女の魔術師らしい顔を見る事が出来たのだ。褒める事以外に、俺が彼女に出来る事が有ろうはずもない。
思わず足を止め、キッと俺の方を睨みつける遠坂。
俺自身も彼女に倣い足を止めてしまったのだが、連れ立って歩いていたもう一人の少女は、いつもと変わらぬ精悍な表情のまま俺たちにこう告げる。
「ーー二人とも、足を止めている時間はありません。先を急ぎましょう」
「あぁ、すまんセイバー」
「ごめんなさい。少しはしゃぎ過ぎたみたいだわ」
セイバーから向けられる鋭い視線に、素直に謝罪の言葉を述べる俺と遠坂。
その態度に拍子抜けしてしまったのだろうか、少し笑みを浮かべるセイバー。足を止めこちらを一瞥するも、すぐに歩き始めた。
「どうしたんだよ、セイバー?」
何かを言いかけたのだろうか。俺と遠坂はセイバーの歩く速度に追いつき、彼女の表情を窺ってみる。
「ーーあぁ、いえ……すいません」
そこにはどこか満足したような満ち足りた表情があった。それは今までに見た事のない、充足した表情に思わず言い淀んでしまった。
相変わらず、この少女はきっと誰もが見惚れてしまう。素直に美しいと思えるものだった。
「本当に、本当に頼もしいものです」
「何だよ、いきなり。今更お世辞なんて言っても、何もしてやれないぞ」
考えもしなかったセイバーの言葉に焦ってしまい、思わず乱暴な言葉遣いで返答してしまう。
それでもセイバーは顔色を変える事なく、そしてこちらに視線を向けないまま、こう続けた。
「二人とも良い意味で力が抜けています。自然体で戦場に臨めるという事は中々に稀有な事ですから」
まるで今までの自分は、そんな風に戦いに臨む事が出来なかったと言わんばかりのその口ぶりに、ここまでの自分を顧みる。
彼女の言う通り、これまで戦いに臨む時はいつも緊張したままだった。
初めて倒すべき悪として相対したあの男。
多くを救う為に犠牲にするしかなかった人々。
そして殺し尽くすと決めた、かつての自分。
どんな場面でも心は張り詰め、何も感じまいと自分を押し殺し続けてきた。
しかし今の俺はどうだ。桜と、そしてかつて自分自身と相対そうというのに、緊張とは違う感覚が俺の心を占めていた。
「確かに、今は何の憂いもない。あれだけウジウジし続けたからな……最後くらいはきっちり決めてやるさ。そうじゃないと男らしくないだろ」
セイバーの右隣に並び立つ。ただ俺の中にある、緊張とは別の感覚というものは、どうしても自分の中にある言葉だけでは語り尽くす事が出来ない。
だからせめて恩人に、幹也さんと式さんに教えられた『自分らしく在る』という強さが自分の中に根付いている事を表す為に、そう力強く言い放つ。
「そこのバカが迎えに行こうとしているのが私の妹ですからね。聖杯戦争を始めた一人の魔術師として、桜の姉として、この戦いの終わりを、キッチリ見届けるわよ」
セイバーの左隣を陣取り、風に靡く髪を片手で押さえながら、皮肉まじりに遠坂は呟いた。
おそらく今でも彼女は桜を止めるには、殺す以外の他の方法はないと結論付けているはずだ。しかしそれでも俺と行動を共にするという事の意味を、俺はプラスに捉えていた。
きっと遠坂はまだ桜の事を諦めてはいないのだと。そして俺の事を信じていてくれているのだと。
俺たち二人の言葉を受け止め、セイバーの表情は笑みから精悍なものへと変わっていった。この後に続く言葉を、最早予想する必要なんてない。
今から彼女が口にする言葉は、一人の騎士としての言葉。
「凛、シロウ……本当に恐れ入る。本当に、本当に貴方たちは強くなったのですね」
戦場を共に駆ける、友人に対する激励の言葉だ。
「何言ってるのよ。強くなんてないわ。ただ……やらなきゃいけないことをやりに行くだけなんですもの」
足早に遠坂が歩く速度を上げる。一瞬、街灯に照らされた彼女の頬が赤らんで見えたのは、きっと俺の気のせいではないだろう。本当に、いつも肝心な時に素直になれないヤツだ。
「そうだな。ただセイバーがそう感じるのは、いつもより俺たちが『俺たちらしい』からじゃないか」
そして俺も、彼女と同様に速度を上げる。俺自身、セイバーの言葉はひどく心に響いた。この戦いから、そして恩人たちからそう教えられてきたモノの意味を、真に理解する事が出来たのだろうと、実感出来たからだ。
だからもう何も迷う事はない。ただひたすらに、今自分の胸の内に見出した『答え』を実践するのみだ。
「我が主、そして友よ。貴方たちをこれほどまでに頼もしいと感じた事はない」
俺たちに遅れる事数歩、甲高い靴音を鳴らしながらセイバーが風を切る。伝説に違う事のない、勇敢で雄々しい姿がそこにはあった。
「さぁ、着きましたよ。聖杯を抱きし、戦いの地に」
そして俺たちは辿り着く。
総ての悪が生まれ落ちる場所。
そして、俺とアイツの約束の場所。
「ーー柳洞寺」
そう。口にした通り、俺たちは柳洞寺の石段前まで辿り着いた。
月を抱く山門の厳かさは、今も変わりない。その場に踏み入る人々が、生活をするはずの人々がいなくなってしまっただけだ。
むしろ人が立ち入らなくなったからこそ、聖域としての神聖さを漂わせているというようにも俺には感じられた。
「ーー静かだが……力の奔流を感じる。聖杯は上にあるのでしょうか」
沈黙したまま睨みつけるように山門を眺めていると、ポツリとセイバーが呟いた。
確かに柳洞寺の境内でないにも関わらず、石段の前であるこの場ですら魔力(マナ)が満ち満ちているのだ。彼女が導き出される答えは、柳洞寺の境内付近に聖杯が発生しているという事であろう。
かつての俺も、その場に現れる聖杯こそが総ての元凶なのだと考えていた。
「そうだな。確かに俺の経験則では柳洞寺の裏の池が、その場になっていた。でもーーーー」
「そんな、『表に出てくるような』聖杯なんて意味がないでしょ?」
俺の言葉を遮り、遠坂が前に出る。
「あぁ、流石だ遠坂。言いたい事、分かってるじゃないか」
聖杯を欲するマスターであれば、目の前に出現しようとしている聖杯に跳び付くのは必然だろう。しかしきっと桜は、そしてアイツはそんなものには興味はない。
「凛、すいませんが簡潔に述べてもらえませんか? 今は長々と講釈を聞いていられる時間はない」
怪訝な表情を見せながら遠坂に詰め寄るセイバー。敵の本陣を目前にして、悠長に話を続けていられる時間など最早ないのだ。
遠坂自身もそれは理解しているのだろう。少し考えを巡らせるように虚空を眺めた後、静かにセイバーに尋ねた。
「そうね。確認だけどセイバーと士郎は聖杯戦争を終わらせようと、聖杯を壊そうとしているんでしょ?」
「その通りだ。あんなモノ、在ってはならない」
「そう。それなら二度と聖杯戦争が起こらないようにしないといけないとは思うのよね?」
「無論だ。その根底から打ち崩さなければ、この戦いに意味がない」
最早聖杯に対する未練などない。彼女の放った言葉は、そしてその表情はありありとそれを示していた。そしてセイバー自身も石段を登り始め、俺もその後に続いた。
「ーー分かったわ。つまり私たちは聖杯の大元を叩こうとしているのよ。上に現れるのはあくまで『聖杯を欲しがるマスターの為』のモノなの。そんなのいくら壊した所で根源を潰さないと、際限なく溢れ出してくるわ」
「なるほど。大元を根絶やしにする……つまりその場は」
こちらに振り返り、彼女は確信めいた表情を見せる。
「そうよ。地下……差し詰め大聖杯(おおもと)は奥深くにて、眠り姫の胸に抱かれてって所じゃない?」
もっとも眠り姫というにはあまりに乱暴過ぎるけどと、遠坂はそう付け足しながら気だる気に髪を撫でた。
「なら地下に続く道を探さないといけないって事か。なかなか骨だぞ、これは」
そう。言うまでもなく柳洞寺の、円蔵山を調べ尽くそうと思うと、きっと朝まで時間をかけても足りないはずだ。しかし現実問題、俺の記憶の中はその手がかりは存在しない。とにかく手探りでそれを見つけるしかないと、三人で顔を見合わせる。
「愚痴を言っていても仕方がありません。すぐに別れて……いや、その必要はなさそうですね」
「そう、だな……」
セイバーの視線がふと上方にずれ、山門に注がれる。それにつられ、俺と遠坂の視線もそこに向いてしまう。
おそらく、遠坂は目にしたソレに言葉を失ったのだろう。そして俺自身も、あまりに出来過ぎたタイミングでの登場に、薄ら笑いを浮かべるしか出来なかった。その影はこちらを一瞥し、次の瞬間には境内へと向かって踵を返していた。
「一度上がってこいって事みたいね。そんな無駄な時間はないのに」
その後ろ姿を見送りながら、苛立ちの表情を浮かべる遠坂。やはり昨夜、あの影の主から告げられた言葉を気に掛けているのだろう。遠坂にとって、何の覚悟もないままに自らが召喚したサーヴァントが裏切ったのだ。表面的には割り切っていたとしても、内面ではまだそれを引きずっているのだろう。
しかしその登場はある意味でこの状況を打破するものだ。
「俺も大聖杯への入り口のことは知らない。虱潰しに探すなんて現実的じゃない。そして境内の方にはそれを知ってるヤツがいる。なら答えはもう出てるじゃないか」
「そう簡単に教えてくれるかしら?」
「いや、彼の目的が一つならば、存外に上手く事が運ぶとは思いますが」
冷静に状況を判断しながら、再び石段を歩み始めたセイバー。全く、やはり彼女の存在というものは心強いものだ。だからこそ、その強さに見合うな行動を自分もしなくてはならない。
俺は遠坂の肩を叩きこう告げる。まるで自分を奮い立たせるように。
「ーーーーさぁ、行こう」
石段を登っていくのに、そんなに時間を要するものではなかった。
ただ登っていくにしたがって、三人の口数が少なくなっていった。ついに戦いを前にして緊張してしまっているのか、それとも円蔵山という聖域の重圧に気圧されているのか、どちらなのか分からないままだった。
かつて陣羽織に身を包んだ剣士の守っていた山門を抜け、境内へと足を踏み入れていく。
「ここまでご足労いただき、感謝する」
誰もいないはずであった境内に、低く憎しみを籠めた声が響き渡る。言葉では感謝などと付け加えてはいても、それには俺に対する怒りだけがそこに在った。
境内の中心、露出された褐色の肌を目にするだけで、こちらも肌寒くなってくる。彼を象徴していたはずの赤の外套は見る影も無い。そこには狂気にその身を染められただけの戦士の姿があった。しかしコイツは自らの象徴を捨ててまで、今の状況を望んだのだろうか。まったく、苛立ちを通り越して清々しさすら感じてしまう。
「ーーアンタ、何でこんな真似するのよ」
刺のある響きを放った少女は、殺意を孕んだ視線を褐色の戦士に向ける。
しかしそんな視線を向けられても尚、戦士は彼女には気も止めず、ただ俺だけを睨みつけていた。
「アーチャー……私たちが何を言おうとも、貴方には何も響かないのでしょうね」
状況を冷静に見つめ、セイバーがそう呟く。昨夜のやり取りから、セイバーはアーチャーに何を言っても無駄なのだと理解したのだろう。だからこそどんな無礼な振る舞いをされたとしても憤る事はない。
その冷静さをアーチャー自身も十分に理解しているのだろう。俺に向けていた視線を遠坂とセイバーへとずらし、ようやくその重い口を開いた。
「その通りだ。この場に君たちが留まったといても、ただ『無様な殺し合い』を見るに過ぎない……ただ彼女からの最後の依頼として、少しばかり君たちを足止めせよと言われたのでね。もう充分だろう、君たちは早く彼女の所に行きたまえ」
ただ乱暴にそう言い捨て、再び俺の方へと視線を戻すアーチャー。
「そうやって、私の問いには答えないのね。ホント、もう何を言っても無駄みたいね」
「君たちの登ってきた石段の中腹から脇に逸れたまえ。少し進めば、そこにいる騎士王ならば簡単に出入り口を見つける事が出来るはずだ」
嘆息しながら踵を返し、来た道を戻ろうとする遠坂の後ろ姿に、再びアーチャーが声をかける。しかしその声に返す言葉を、遠坂は持っていない。彼女は今の短いやり取りの中で、かつての自らのサーヴァントとの袂を分けた。そして今、口にする言葉にアーチャーに対する別れではなく、この言葉を選んだ。
「ーー士郎、死ぬんじゃないわよ」
「シロウ、ご武運を」
二人は短くそう告げ、再び石段へと足を進めていった。
「ありがとう、すぐに合流する」
俺も笑顔を作りながら短く返事をし、正面からアーチャーを見据える。視線が絡んだ瞬間、アーチャーから放たれる憎悪がより色の濃いものになったように感じた。
そう。かつての俺自身もこんな表情をしていたのかもしれない。そしてオレはこんな何とも言えない、呆れた感情を抱えていたのだろう。
だがここに純然たる事実がある。
ついにこの時が来たのだ。自分自身との決着をつける時が。