暗闇を抜け、一番に視界に入ってきたのは地下とは思えないほどに広大な、ただ荒れ果てた空間だった。
「……なんだ、お前」
しかしその荒野に対する驚きをさらに上塗りしたのは、その中心にそびえ立つモノ。
それは自然に出来たものではない。
それは建造物などではない。
確かにそれは息をしていた。根を張る大地から自らの養分となるモノ(魔力)を吸い上げ続けていた。
まるで、今すぐにでもこの世に生まれ落ちんが為に、それは蠢き続けていたのだ。
それが発する不快感にあてられてしまったのだろうか。一瞬茫然と眺めながら、口にした一言は自分自身も不可解なものであった。
「知ってる。見た事、ないはずなのに。オレは……いや俺もお前を知ってる……!」
そう。何故それが『生まれようとしている』と理解出来た?
何故初めて見るはずのモノに、既視感をもってしまう?
そして何故、過去にそれを見たことがあるのだと確信をもってしまう。ハッキリと、自分の始まりに関わりをもつはずなのだと、確信することが出来てしまうのだ。
そんなこと、有り得てはならないことなのに。
「なんだ……何を忘れてる。俺は、何を知らないままなんだ……」
自らの裡にある記憶の総てを頭の中で巡らせても、それに対する答えが自分の中から出てくることはない。
妙な確信と、不可解さが頭の中でグルグルと駆け巡っていた。
「あぁ、それが何だってんだよ……」
少し前に自分が吐き出した血を受け止めた左手を強く、出来る限り強く握り込み、正面に鎮座するそれを睨みつける。
恐れては、進めない。進むことは出来ない。
だからこそ強がりと分かりながらも、俺はこの傷だらけの身体を引きずってでも……。
「それでも……行かなきゃ、いけない!」
ただその思いだけで前に進んだ。
一つの目的の為だけに、その場所へと足を運んだのだ。
きっとそれは始まりの場所。
それはきっと友人たちが待つであろう、約束の場所。
「はぁ……はぁ、はぁ……ッ!」
急な崖を縺れる足で登っていく。
普段の状態であっても、少しは息が切れてしまうかと思うほどの勾配の崖を、文字通り這うように一歩一歩着実に進み続け……。
そして俺は辿り着いた。
「ーーあら。早かったですね、衛宮先輩」
総てが始まった場所へと、約束の場所へと辿り着いたのだ。
間桐桜の下へと、辿り着いたのだ。
生温い風に髪を靡かせながら、彼女は笑う。
語りかけてくるその声はいつもと変わらない。耳障りの良い、軽やかな響きだ。
ただ響いてきたその音が自分の鼓膜を揺らした瞬間、まるで芯から身体が凍っていくような感覚を覚えた。
ただ『怖い』という感情が頭の中を駆け巡っていった。
しかしどれだけ言葉が悪意に満ちていても、表情が狂気に染まっていても……
「そりゃな。桜……お前が待ってんだぜ? 来ない訳にはいかないだろ」
目の前の少女は俺の大事な、一番の女の子であることに変わりなかった。
だからこそ恐怖に心を掻き乱されたとしても、言葉だけはいつも通りのままで口にすることが出来た。
血の伝う腕から力を抜きながら、彼女の方に目をやる。
そう。言葉を吐き出すことが出来れば後はどうとでもなるのだ。緊張に震えていたこの身体だって、少しはましになってきた。
そんな俺の変化に気付いたのだろう。
目の前でこちらを見つめていた少女の口元が、ゆっくり、あまりにゆっくりとつり上がっていく。
「これまでずっと、ずうっと放っておいたのに?」
「あぁ分かってる。分かってるさ……」
「……ふふふ、本気にしないでください。少し意地悪したかっただけなんですから」
「うん。先輩のその表情も、やっぱり素敵……」
ただ、彼女は意地悪な笑みを浮かべていた。
しかし今までの彼女では決して浮かべることのなかったものだ。
その表情に不快感も感じながらも、同時に見惚れてしまった。
与えられた闇のお陰で、彼女が自らの内側に押し込んでいた感情を露にすることが出来ているのだとしたら、俺は憎悪を向けていた『アイツ』に少しは感謝しなくてはいけないのかもしれない。
「……何言ってんだよ、お前は」
桜の言葉に気恥ずかしくなり、血に濡れた左手で頬を掻く。決まりが悪くなってしまった時の癖が、ついつい出てしまう。
その仕草に苦笑しながら、桜は大きく両腕を広げ、俺を受け入れるかのような慈愛に満ちた表情を浮かべてこう口にする。
「ようこそ、先輩。わたしの……聖杯の元に!」
「あぁ。待たせちまったみたいだな」
「えぇ、待ってました! 貴方だけを……貴方だけを待っていました! 本当に、気が遠くなるほど!」
何も否定することが出来なかった。
確かに今まで、桜のことを一番に考えたことはなかった。
心配そうに見つめてくるその瞳も、何か言いたげなその表情すらずっと知らぬ振りを通してきたのだ。
見限られても仕方がなかった。
何も言葉を発さずに、消し飛ばされても文句の一つも言うことは出来ないのだ。
それでも彼女は待ってくれていた。
何もかもを失っても、まだ俺のことを求めてくれている。
しかし……きっと彼女が求めているのは今ここに立つ『弱い俺』じゃない。
ふと彼女の傍に倒れ臥す二つの影に目をやり、
「十分に、遊んだみたいだけど……」
静かにそう呟きながら、再び彼女を正面から見据えた。
「大丈夫です。この人たち、まだ殺してませんから」
「本気……なのかよ?」
「えぇ。まだ生きていてもらいます。でもこの子が生まれれば、この人たちなんて必要ありませんから」
「……」
身体が冷える。
まるで芯から凍えさせられるかのような、そんな言葉だった。
しかし不思議と『今の桜』を目にした時ほど、恐怖を感じることはなかった。
どうにか俺は自分自身を取り戻すことが出来てきたのだろう。
何より桜が求めているモノが何なのかを想像すれば、俺がこう答えるのはごく当たり前のことなのだ。
そう。桜が求めているのは『いつものエミヤシロウ』だ。
いつも通りの俺なら、こんな時に一体どんな態度をとる?
いつもの、『正義の味方』を完全に捨て去ることの出来なかったエミヤシロウならどうする?
桜がずっと見つめてくれていた俺は、どんな男だった?
だから多くの言葉を発するよりも、俺は彼女を見つめた。
その行いは誤ったものであると、それを訴えかけるように。
しかしその行為はきっと……
「そんな、冷たい目をしないでくださいよ……衛宮先輩」
こんな風に、彼女を困惑させる。
「この人たちは……そう。お客様なんです。わたしと貴方と、そしてこの子の新しい出発を見届けてくれる大事な人なんですから!」
「そうか……そうかよ」
色のなかったはずの彼女の瞳に、困惑の色が一気に広がっていく。そして冷淡に呟いた一言は、さらに彼女を掻き乱している。
「あれぇ? オカしい……オカしい、オカしいオカしいオカしいですよ先輩! なんで喜んでくれないんです? なんでそんな顔するんですか? なんで笑顔を見せくれないんですか? なんで、なんで褒めてくれないんですか!」
「……」
「兄さんもお爺さまも、姉さんにセイバーさんだって黙らせたのに……ここにはわたしたちしかいないんです。いつもみたいに、わたしに笑いかけてください! わたしを……いつもの困った笑顔でだきしめてください!」
そう。彼女の根底にあるモノは何も変わってはいない。
結局桜は誰かに依存しなくては自分自身を認識することが出来ないのだろう。それは今までは遠坂や慎二、間桐臓硯だった。そして今が俺がその一番の対象となっている。
その唯一の依存の対象になった俺から拒絶を受けてしまったのだ。だから悲鳴にも似たこんな声を出してまで、必死に俺に縋ろうとしているのだろう。
結局彼女は何も変わっていない。
どれだけ強大な力をつけたとしても、弱々しいままのただの女の子なのだ。
「やっぱりですか?」
「何のことだよ。それより……」
一歩彼女の方に近付きながら、血に染まってしまった手を差し出す。今出来る精一杯の声を振り絞る。
「そんなとこにいないでこっちに来いよ。俺のとこに戻ってこいよ」
「戻ってこい? そんな所? 何言ってるんですか、わたしと、貴方の大事な子の傍にいるのに……」
「そんなヤツより俺の傍にいろよ。俺も、お前の傍にいるから。とにかく今は遠坂とセイバーを治療しないといけないだろう?」
「やっぱり。やっぱりわたしよりその人たちなんですか?」
「……何言ってるんだ、桜」
「わたしより、その人が、大事……なんですよね? 良いことばかり口にするけど、先輩はいつもわたしのことを蔑ろにして! ずっと放ったらかしにして! わたしは……わたしは貴方の一番になりたいだけなのに!」
そうか。これが桜の本音か。
こんな状況になってようやくそれを聞くことが出来るなんて、あまりに滑稽じゃないか。こんな簡単な言葉を聞くことがこんなにも難しいことだったなんて、思いもしていなかった。
そうか。俺たち……同じこと考えてたのかよ。
「……何言ってんだ」
そうだ。こんなにもボロボロになっても傍に来たって言うのに……何て嫉妬深いんだよ、ウチのお姫様は。
笑みを作り、言葉を口にしないまま桜に近付いていく。フラフラと足元は覚束無いが、進めない状態ではない。視界もハッキリしているではないか。
さぁ、我が儘なお姫様の目を覚ましにいこう。
「ほら、反論しない! やっぱり……あぁ、やっぱりその人、殺しておくべきでした! 先輩を占有していいのはわたしだけなのに……その人がいるから!」
「……そんなことしたって、何にもならねぇよ」
「————————! 馬鹿に、するなぁ!」
ただ激情の向くままに。
きっとこれまで誰にも向けたことのないほどの大きな思いが煩く響く。
桜の総てが刃へと姿を変え、奔り始めた。
—interlude—
奥深く、おそらく始まりの祭壇であろう。
地響きのような、重々しい音がそこから木霊している。
まるで地獄からの呼び声のように、まるで少女の苦痛に耐える喘ぎ声のように、その響きはそれを耳にするこの男を興奮させた。
「……始まったようだ」
男の口から零れたのは、今までにないほどの嬉々とした言葉。
努めて淡々と言葉にしたのだろう、しかし彼は自らの中にある狂喜をこれ以上隠し通すことなど出来なかったのだ。
単なる聖杯戦争の監視者だったはずのこの男、言峰綺礼はようやく自ら動き始めたのだ。
それこそ最後の仕上げをせんがために。
「凛、そしてセイバー……贄には相応しい。そして幸いにも、コレは我が手中。あの粗悪品の少女を、マキリの聖杯を止めた所で、これから始まる厄災を止める事など出来ん」
幾重にも策は巡らせた。
それをより強固なものとする為に前回からの協力者と、自らの走狗を見殺しにした。手痛いモノではあったが、今彼を取り巻いている充足感はそれをも上回るモノだったのである。
しかし満足げに笑みを浮かべたつかの間、言峰の表情はどこか達観したようなものへと変わっていた。
「否、直にアレが孵るのだ。私がしようとしている事など、瑣末事に過ぎん」
生まれ出ようとする者を拒む権利など彼にはありはしない。それが自らを『愉しませる』者であるならば、
「しかしな、私は気がすまないのだ。コレが、この娘が創る悲劇を目にせずには、きっと私は……」
そう。ただ『愉しむ』ことが出来ればそれで良かったはずなのだ。だと言うのに、今彼は観察者としての立ち位置から、一歩踏み出そうとしている。
自らの意志でもって、地獄の蓋を開けようとしている。
「さて、貴様が生み出す絶望は、どんなモノなのだ?」
かつてその姿を闇そのものへと変えた一人の女性の姿を思い出しながら、彼はそう呟いた。
美しいなどとは思わなかった。
羨ましいなどとは思わなかった。
ただ彼女が結果的に生み出した厄災が、伽藍堂だった自らの心を初めて埋めた。初めて彼は満たされたのだ。
だからこそ彼はもう一度目にしたいのかもしれない。
自らを活かし続けている怨嗟の大元となるものが、この世に再び顕われる瞬間を。
「前回のような……地獄の業火か? それとも総てを覆い尽くす黒の獣か? それとも、私の想像しえぬものか?……なんにせよ、それが私を愉しませる事にかわりはない……そうだ、この瞬間をどれほどまでに心待ちにしていた事か! なぁ、アインツベルンの人形よ?」
そして彼は自らの腕に抱く少女に視線を落とす。
「衛宮士郎……その少女を止めた所で、貴様の悪夢は終わらんさ」
そして歩みを進めてきた洞窟に背を向け、言峰綺礼は歩き始める。
自らに与えられた、最後の舞台へと昇る為に。
どれだけ愉悦に浸ろうと、どれだけ悪意をその身に溜め込もうと、彼が今夜迎える『死』という現実は、逃れざるものであるというのに。
—interlude out—