ーinterludeー
最後に視界に焼きついたのは、心の底から憎悪した男の絶望した表情。
きっと今の自分では打ち倒すことは叶わないと思っていた、自らが最初に悪と認識した男をこの手で葬りさった。
ならばもう自分には思い残すことなどありはしない。
後は静かに意識を閉じ、何も感じることのない真白の世界に舞い戻るだけだ。
しかし、何故だ……。
そう納得しているはずなのに、意識は閉じていこうとしない。
致命傷を受け、最早魔力も枯渇しているはずであるのに……何かが現世にこの身を縛り付けている。
いや、考えなくても分かっていた。自分の心を苛むモノが。
瞼の裏に焼きついた、いつも守れなかった少女の苦しそうな寝顔。
自分が裏切ってしまった少女の絶望した表情。
イリヤと、そして遠坂のあの表情がわだかまりとして心に残り続けていたのだ。
それらがオレを終わらせない。終わらせることを許してくれない。
あぁ、こんな後悔……なんと幸福なことなのだろうか。そしてなんて残酷なことなんだろうか。
結局、心に抱いた思いの何もかもを果たすこともなくオレは……『私』に還ってしまうのか。
「シロウ……いつまでそうしているつもりだ」
不意に、閉じ行く世界の中で寒々とした声が鼓膜を揺らした。
しかし虚ろに開かれた瞳が、その人物の像をはっきりと映し出すことはない。ただなぜか嗅覚だけはしっかりと声の主の咥える安物の煙草の紫煙を嗅ぎ分けていた。
どこか懐かしい……いや、そんなはずはないのにそう思えてしまった。
「……誰だ」
「あぁ、そうか。貴様は私を知らないんだったな。いや、気にするな。ただ貴様と同じ馬鹿者を知っているというだけだ」
声の主はこちらをじっくりと見て自らの中で何かを納得したのだろう。
オレ自身も納得出来たのだ。彼女が『同じ馬鹿者』と吐き捨てた人物が、アイツであるということを。そしてアイツがあそこまで完成に近付くことが出来た理由は、この人物にあるのだということを。
あぁ、それならば……アイツをあの段階まで導いたこの人物ならば……その言葉が頭を過ぎった瞬間、この言葉が口を吐いた。
「……誰でもいい……ッ」
しかしその後に続くはずの言葉が喉元に痞え、音になることがない。
自分の中に枷がある。あの理想を心に描いた瞬間に、固く閉ざされてしまった歪んでしまい解くことの出来ない枷が。
歪んでしまっているということを少なからず理解している。しかしそれこそ自分の軸として在り続けたものだ。そしてそれを否定してしまった瞬間、積み上げてきたもの全てが瓦解するということも理解できていた。
「つまらん顔をするな。全く、貴様の思い悩む顔は奴と同じで不快にすら感じる。どれだけ歳をくっても変わらんとは。本当に下らない……つまらない男だ」
見透かされている。しかし声の主も、気付いたその事実について言及することはない。
そうか。見透かされているのであれば何も強がる必要などない。
「……そうだな、つまらないさ」
最期の時まで取り繕う必要はない。そう思えた瞬間、口は動き始めていた。
「……何もできない、何も救えない、誰も……出来ることなど、目の前のモノを壊し尽くすことくらいだ……」
口を吐いたのはこれまでの贖罪だった。
飲み込み続けた嘆きだった。
こんなことを口にしても決して意味はないと、ただそれでも多くの人を救いたいと望み続けて目を逸らし続けた思い。それでも自らが救うことが出来ない命を目の当たりにした時、必ずと言っていいほどに重く立ち込めていた感情だ。
格好悪いことこの上ないではないか。それなのに、堰を切ったように言葉は止まらない。この後に返される言葉だって、既に分かっているのに。
「いつまでそう嘆くんだ?」
あぁ、分かっていた。むしろそう言われたいがために言葉を選んだ。
「……」
それでも返す言葉が出てこない。
「いつまでそうやって自らの愚かさに打ちひしがれるつもりだ。私の知るお前なら、泣き言を口にした後ですぐに立ち上がり前に進む。そうできる術を教え……いや、思い出させたはずだぞ」
あぁ、こんな風に言ってもらえるなんて……アイツはこんなにも恵まれていたのか。オレでは見つけることの出来なかったやり方で、孤独にすらなることなく多くの人に支えられて……なんて羨ましいことなのだろう。
「自分の手では救えなかった。しかしお前がなした行いの結果の果てに、救われた者は確かにいる」
「でも……それでも」
「自分が救えなかったから、それでお終いなのか?」
「オレが、救わなきゃ……」
その瞬間、気が付いたのだ。
これがエミヤシロウが抱え続けた本当の闇だった。
「ーーハ、ハハハハ! 何を言い出すかと思ったら。なるほど、貴様はそんなにも傲慢な男だったのか」
「……何を」
「なぜその果てを観ようとしない。なぜ人に頼らない?」
「それは、オレが……」
「『正義の味方に成り果てたからこそ……自分自身の手で救わなければ、意味がない』とでもいうのかね? 自分が救えなかった物以外にはなんの価値もないとでも言いたいのかね?」
本当に、この人はオレの……オレたちのことを見透かしているのだ。
そう。『正義の味方』になるという理想は、知らず識らずの内に、『自分自身が救わなくては意味がない』という曲解に塗り固められていた。
ただそれでも何かを救いたくて、多くの命を救いたくて走り続けてきた。自らの傲慢さをひた隠しにしながら。
「それが、その傲慢さがお前の……至っても尚残るお前の弱さだよ」
「……」
「まったく……呆れるのを通り越して笑ってしまう」
そうだろうな、オレですら呆れ果てているんだ。
この傲慢さに。それでも誇りに思いたいのだ。それを飲み込みながら走り続けて、オレの立っている地平よりもさらに遠くへと脚を進めようとするアイツに。
あぁ、なんだ。既に認めていたのか。
相対している時には、刃を交えている時には憎悪しか感じることの出来なかった今の『エミヤシロウ』をオレは許してしまっている。誇らしく思ってしまっている。
今のアイツならば、桜を救うことが出来る。そう信じることが出来てしまっている。
「それでも、まぁなんだ……こんな所まで来てしまった私も相当呆れ果てた女だがね」
苦笑しながら、彼女は何本目かの煙草に火を灯しながらそう呟いた。
そうしてきっと視線を今にも溢れださんとしている聖杯の器に移し、思いふける仕草を見せる。
魔術師ならばこの光景に何かを感じずにはいられないだろう。ただあまりに禍々しく鈍いその光に嫌悪以外の感情を持たなければの話だが。
しかしうっすらと映った彼女の表情は、何の色にも染まってはいなかった。
嫌悪もなく、興味すらない。
今にも成ろうとしている願望器のその様を、事象として捉えている。読み取れたのはただそれだけの事だった。
そして肺に満たされた紫煙をゆっくりと吐き出しながら静かにこう呟いたのだ。
「なぁ、今のお前の望みはなんだ? 世界に裏切られて、この世全ての悪意に呑まれても尚、今のお前が勝ち取りたかったものはなんだ?」
「オレの、望み……」
「こんな所にまで来たついでだ……叶えてやらんこともないと言っている」
聖杯にあてられてしまったのか。素直にそう思えた。
しかし目を凝らして見た彼女の表情は先ほどまでと何も変わっていない、冷静なものであった。
「オレは……オレは、望んでいいのか? 傲慢に振舞って独りよがりに願いを叶えたオレが、また願っていいのか?」
言葉が詰まる。
自らの望みなど、自身の手で叶えなければ意味がないと思っていたのに口にしてしまっていいのか。
いや、いいんだ。
その弱さと認める事が出来なければ、きっと今までのまま何も変わらない。
「そんなものは知らんさ。ただ、それが面倒でなければ……私がついでにやってやろうというのだ。まぁ対価はいくらあっても足りんだろうが」
「……は、ハハハ。ひどい、女だ」
「ほぉ、とうの昔に理解している思っていたが?」
どこまでも皮肉を口にする人だ。しかしそれが今はあまりにありがたい。
だからオレは口にすることができるのだ。
何も飾ることもなく見栄をはる必要もなく、オレが叶えることの出来なかった願いを。
「ーー救いたい。救ってくれ……イリヤを……その少女を」
オレに何の対価が払えるのかは分からない。しかしそれは絶望の中、世界と契約したあの時のような自己犠牲ではない。
「ほぉ、この器をかね。しかし今ここから引き摺り下ろしても……」
「それでも、アンタならどうにか出来るんじゃないのか?」
「……言ってくれるな」
そう。不思議とその確信だけは、彼女を目にした時からあったのだ。
オレたちが夢に見た、戦いのない日向の元でイリヤが笑う事のできる状況を創り出してくれるのではないかという確信が。
そしてこの表情を見れば、それはより強固なものになった。
「しかし、そこまで言われて出来ないなどと言えるわけがないだろう」
ニヤリと意地悪な口元から紡がれた言葉。あぁ、これで一つの心残りは解消された。
「あぁ……ならばオレは……」
「あぁ、消え去るまで走り続けるがいいさ。それがエミヤシロウの生き方だろう」
保って後数十分。オレは再び悪あがきを、最後の心残りを果たすために立ち上がった。
最後の望みを果たさんがために。
ーinterlude outー