視界を煩く塗り潰す黒が掻き消える。
永久に続くと思っていた、まるで牢獄のような闇。しかし外に出てみれば何てことはなかった。
ただ、状況は何も変わっていない。
焼け焦げた荒野には満身創痍な二人の友人。そしてそれを見下ろすこの世全ての悪を裡に宿した、自分の大事な人。
相変わらずの満身創痍。相変わらずの絶対絶命。
しかしそんな言葉も軽く吹き飛んでしまうほどに、俺の気持ちは昂ぶっていた。
言うまでもない、再び彼女の姿を見ることが出来たのだから。
そうして気が付く。エミヤシロウはどうしようもないほどに、間桐桜という少女に骨抜きにされてしまっていたのだということを。
「せん、ぱい……」
闇から這い出るように現れた俺に、間抜けな声をあげる桜。
きっと考えすらしていなかったのだろう、自分の影が喰らったはずの人間がこんな風に姿を現すなんて。
冷静になって考えてみれば、確かに不可解な話だ。本来桜の影に飲み込まれるということは存在すべてを、彼女の養分にされることと同義であるはずなのに、俺は再び形を保ってその場に現れたのだ。
本当にご都合主義にもほどがあるなと心の中で自嘲しながらも、惚けた顔を見せる彼女に俺はいつも通りの調子で言葉を返す。
「なん……よ、ーーんな顔すんなよ」
思いだけは逸っているのに、言葉が上手く音にならない。
あぁ、そんな体たらくだから彼女を不安にさせるのだ。
こんな言葉が最初に口を吐くから、こんな表情をさせてしまうのだ。
「やっぱりわたしのこと……嫌いなんですね? だからわたしの中にいてくれないんだ! わたしと一つになってくれないんだ!」
それは視界が闇に染まる前に目の当たりにしていた、憎悪と失望に塗れた表情。
闇に消えてしまう前、これが心残りだった。彼女にこんな表情をさせてしまった自分自身が歯がゆかった。
しかし、そんなことで思い悩むことはもうしない。
「だから……何度も言わせんなよ」
これまでのツケを支払わなければならない。桜を蔑ろにし続けた俺ができる最初の贖罪がそれであるはずだから。
少し離れた場所で蹲るセイバーも俺の考えを理解してくれているのだろう。何も語ることなく、ただこちらに視線を送るだけであった。
「俺はお前のために来た。俺は桜のために此処にいる」
「そんなの! そんなの信じられる訳ないじゃないですか!」
「そう、だな……お前の言う通りだ」
桜の言葉通りだ。俺が吐いた言葉なんて、彼女が信じられるはずがない。
「きっと俺のことなんて、信じられないだろうな……俺だってそうだったよ。なんでこんな風になっちまったかなんて、分かんねぇんだ」
自分を振り返る。
これまで選んできた物、放棄した物。自らの意思で得た物と捨ててきた物。そうしてわかってきたのだ。俺はあまりに大きく、筋書きから外れすぎてしまっていると。
それこそあの時、暗闇の中でアヴェンジャーに、この世全ての悪(アンリ・マユ)に指摘された通りなのだ。
だからそんなにも苦しんでいるのだと。
だから無様に泣き叫んでいるのだと。
全く、アイツの言う通りだった。しかし筋書きから外れてでも手に入れたいモノがあるエミヤシロウにとって、アイツに言われたことなど瑣末ごとに過ぎない。
本当に、本当にそう思っているのだ。
「理由なんてないんだ。ただお前じゃなきゃ……桜じゃないといけないんだよ」
しかし口からこぼれ落ちたのはそんな安っぽい言葉。
こんなことを言いたい訳ではなかったのだ。それこそどんな結末になるか理解できているはずなのに。
「なんですか……何なんですか、それ?」
ワナワナと身体を震わせながら、より一層鋭い目つきで俺を見やる桜。それに呼応するように先ほど俺を喰らった影が戦慄く。
何故分からなかったのか。否、分かっていてもなお俺は桜にそんな、無責任な言葉を叩きつけることが出来るのか。
それでも、きっと言わなくてはならないことだったのだと今なら理解出来る。自分を正当化するつもりはないが、桜の考えの全てをするには必要なことのはずだから。
彼女が口を開く。
今まで知ろうともしていなかった『間桐桜』の真実を、俺はようやく知る機会と覚悟を得たのだから。
刹那、騒がしく蠢いていた桜を取り巻く影が動きを止めた。
「ずっと貴方を見続けて、好きになって……貴方が違う誰かを、セイバーさんを好きなんだって思い知らされて……」
静かに、その告白は始まった。
桜から見たエミヤシロウの全てが、その短い言葉全てに凝縮されているようにすら感じられる。
桜にとって、いや……誰から見てもその通りなのだろう。
「それでも良いって、良いって思っていたんです。わたしにとって先輩の側にいることができればそれが良いって……でも……それじゃダメなんです。我慢できないんです」
それは一体いつのからなのか。
桜が間桐の名を得た時からなのか。否、そんな最初の内からではない。
毎朝俺の家に来てくれるようになった頃からだろうか。否、その頃でもない。
聖杯戦争が始まろうとしていた、道場で二人になった時か。否、その日でもない。
それはきっと、あの日……俺とイリヤが二度目の対峙を果たしたあの時。俺が桜を聖杯戦争から遠ざけようとしたあの時からだ。
「……」
あの瞬間の桜の表情を思い出せば、今の彼女の状態になる事くらい想像に容易い。
だからぐっと口を噤んだ。
「貴方の一番になれなくても良かった……でも貴方の心の中にはセイバーさんがいて、わたしのことなんて見てもくれなくて……」
泣いている。
ただそれが悔しくて、救われなくて泣いているのだ。
彼女にとっての救いの光は……エミヤシロウという存在は、簡単に彼女を深い闇の底に突き落としていた。
「あんなに暗くて、汚くて、厭らしい蟲蔵に押し込められて……毎日死にそうだった。死にたかった。でも、そんなの怖くて、誰にも見つからずに居なくなるなんて厭だった。誰も……姉さんだってわたしの事を救いに来てはくれなかったのに……ねぇ先輩、貴方だけだったんです。わたしを正面から見てくれたのは……間桐でも、遠坂でもない。ただの『桜』としてわたしを見てくれたのは、貴方が初めてだった。なのに……少しだけでいいって言ったのに、貴方はわたしを遠ざけた」
そうか、これは懇願だったのだ。
そして思いがけず、彼女はそれを見つけてしまったんだ。出口のなかったはずの、自分の人生が潰えるまで永遠に続くはずだった暗闇を照らす灯りを彼女は見つけてしまった。
きっと受け入れられると考えたのだろう。
事実、俺は桜に対して何もいう事はなかった。ただ彼女の好きなように、考える通りにすればいいと、そう考えていたのだから。
その時の俺にはそれが最善なのだと思えていたのだから。
「わたしを見てくれない先輩の事、嫌いです……あれ……何で? わたし先輩のこと、好きなはずなのに……」
不意に、吐き出した言葉に違和感を覚えたのか。
感情を映さなかった彼女の瞳に、困惑の色が滲む。
「……ッ、違う! わたしはただ安心したかっただけなんだ。貴方が好きなわたしがいるって、わたしはちゃんと人として大事なモノを失っていないって思いたかっただけなんだ……ハハハ、何だろ、一体、わたしどうしちゃんたんだろう……」
声を荒げる。しかしその響きに彼女の影は応えない。これまで彼女の一挙に対し大きく揺さぶられていたそれらは完全に沈黙を保ったまま。
あぁ、そうだ……きっとそうだったのだ。
「ねぇ、先輩……わたし、こんなに汚い女なんです。壊れてしまっているんです。こんなわたしでも好きだって、愛してるって言ってくれるんですか?」
そしてその言葉を耳にし、俺はようやく理解した。
桜は桜だ。この世全ての悪(アンリ・マユ)に飲み込まれていようと、そんなことは関係ない。
俺が愛した間桐桜は、彼女の根の部分は何も変わっていない。
彼女が口にする『穢れ』も『暗い感情』も一括りにして、俺は胸を張って言うことが出来る。
エミヤシロウは、間桐桜を愛していると。
「……あぁ、ここまで言わせちまうなんて」
「何を、言ってるんですか?」
あとは最後の覚悟と、そして言葉を口にするだけだ。
「あぁ、全部お前の言う通りだよ、桜」
「なーーーーーー」
簡単だった。ただ抱き締めた。
俺の言葉に困惑する彼女の背中に腕を回し、ただ抱き寄せるだけ。
抱き締めると言えるほど、もう腕には力は入らないけれど。
「ーーッ、離して! 離してください……離せ!」
「いや、絶対離してやらない」
「……意地悪、しないで!」
その言葉にも、そして身体にも力強さはない。
年相応の、ひ弱な少女の力では、きっと振りほどくことが出来ない。
あぁ、意地悪だよ。
桜が俺を振りほどけないと分かっているのだから。
どんなに弱々しくても、もう心に決めてしまっているのだ。
この子をもう、離さないと……そう決めているんだ。
「どんなお前でも受け入れてやる。お前が悪い奴で、間違ったら怒ってやる。泣きそうだったら慰めてやる」
「でも、わたしは」
耳に届く声が潤んでいる。また泣いてしまっている。
あぁ、また後悔がつのる。
その涙の意味を、俺はとうに理解しているのに。
「こんなにも汚れていて、血に塗れているのに……良いんですか?」
そう。自分を責めることでしか涙を流せない彼女を、俺は理解しているはずなのに。
だから抱き締める腕を強く、離れないように強く。
遅すぎた俺に出来ることはそれしかない。
「何があっても俺が守るよ。お前を傷付けるモノから……全部からお前のことを守る」
薄っぺらい決意の言葉。
それでも、俺の精一杯の言葉。
それでも、桜のためにだけの言葉。
「なんて……なんて都合の良い人……」
「あぁ、言い訳も出来ねぇ」
「そんな先輩、大嫌いなのに……」
言葉に、そして身体に熱が籠る。
「ーー良いんですか?」
少し腕の力を緩め、彼女の表情を見やる。
目尻に光の雫を湛えながら、彼女が浮かべたのはいつもの表情。
朝、土蔵まで俺を起こしに来てくれる時に浮かべる、少しお節介やきな優しい笑顔。
きっと、俺はずっとこれが欲しかった。
この『日常』が何よりも大事だった。
「だから言ってるだろ。全部受け止めてやる」
「……せん、ぱい……」
戻ってきた。素直にそう思えた。しかしまだ完全ではない。
「だからさ、ちょっとお休みだ。少し痛いけど……次、目を覚ましたら……ゆっくり話そう」
「せんぱい……ッ」
俺の血で汚してしまわないように彼女の頬を張る。
甲高い音とともに青白い肌に赤が差し、ガクンとその体躯がその場に倒れこんでしまう。
緊張の糸が遂に切れてしまったんだろう。横たわる彼女が浮かべた表情には安堵の色が見て取れた。
そうだ。ただ叱りつけて、ポカリと叩いてやるだけでよかったんだ。
こんなに簡単なことだったのに……随分と遠回りをして、ようやく俺たちは同じになることが出来た。
俺の聖杯戦争が、この時ようやく終わりを告げた。