終わりの続きに   作:桃kan

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エピローグ 2 

 

 一体どれだけの年月が経過しただろう。

 どれだけの時間を、私はこうして過ごしてきたのだろう。

 

 少なくとも、あのご夫婦のお子様があんなにしっかりとするくらいなのだから、優に片手では数えられないほどの刻が経過しているはずだ。

 

 あの冬の……聖杯戦争が終わった後、私が目覚めたのは冬木から随分遠くの、見も知らない土地のビルの一室だった。

 

 目を覚ました瞬間、自分の瞳に映った光景に、正直私は驚嘆してしまったのだ。

 だって意識を失う前の私は、既に視力を失っていた。

 温度だって感じられなくなっていた。

 

 だから言葉を失ってしまった。

 ありえないことが起こっている。聖杯の器になってしまった私には取り戻す事の出来ないはずのものが私の元へと戻ってきていたから。

 ここは一体どこなのか、私は一体どうなってしまったのか。

 全く考えがまとまらない。身体にかけられていた毛布を思い切り強く、ただ強く腕を抱きしめた。

 

「ーーやぁ、目が覚めたかね。アインツベルン」

 

 呆然としていた私に冷ややかな声が投げかけられる。

 不意に視線を上げるとドアにもたれ掛かるように佇む一人の女性の姿。

 少しくすんだ赤い、長い髪を後ろに結びジロリと見据えている。時折紫煙を吐き出しながら長くなった煙草の灰をデスクの上の灰皿に落としていた。

 

 一目でわかった。

 この人はただの『人』じゃない。いや、人なんて概念に納まらない何かだと。

 それを告げていたのは彼女の瞳だ。

 それは抉るように、突き刺すように私を眺めていた。

 捕食者とただの餌。そんな言葉がしっくりくるような感覚。

 

 それでも私にはそんな事すら考える余裕すらないほどに私は動揺していた。

 

「貴女……一体?」

 素っ頓狂な言葉が口からこぼれた。

 彼女も、私のそれに心底ガッカリしたように乱暴に煙草を灰皿に押し付けてこう答えた。

 

「私か? ただのしがない魔術師というやつだが……貴様も同じ穴のムジナだろう? そんなことも察することが出来ないほどに耄碌してしまったのか?」

「な……いえ、確かにあの状態の私がこうやっていられることを考えれば、貴女が魔術師か何かだということなんて最初に考え付くことだったわ」

「口ではどうとでも言えるがね」

「……そうね、貴女の言う通りだわ。正直私は今の状況を全くと言っていいほど理解していない。何でここにいるのかも、こうやって貴女と話が出来ているのかも……それに、私が生きている事だってびっくりしてるんだから」

 

 そう。私は死んでいたはずだった。よくて何も感じる事のできない人形に成り果てるはずだったのに。

 それなのにこんなロスタイム……信じる事が出来ないじゃない。

 

「だろうな。私もそうさ。お前がここまで回復して見せるなんて。さすがは名にし負うアインツベルンのホムンクルスといった所だが……しかし私もそれなりに『物を創る者』としては覚えがあるつもりでね」

「何が、言いたいのよ」

「なに、これでも驚いているんだ。あそこまで疲弊してしまった君の肉体が、冬木という街を離れた途端に回復し始めたのだ。しかしね、結末は決して変わらないぞ。その身体は聖杯の器と成るべくして創造されたモノなのだろう? 君のその身体……よくて後数年しか保たないはずだ」

 

 保っても後数年。

 

 どうした事だろう。冷たく言い放たれたその言葉に、やはりなんの感慨も浮かばない。

 そう。それは随分と前から覚悟していた事だ。

 お母様から受け継いだ、これは私にとっての呪いであり絆だったのだから。

 

「そう。なら放っておいていただけないかしら。こんな何時まで保つかも分からない私に世話を焼いたって、貴女には何の得もないでしょうに」

「あぁ、そりゃそうだ。私の時間を、見も知らないお前なんかのために使ってやる義理はない。これでも多忙なのでね」

 

 いちいちムカつく女だ。

 自分の言葉から私がどんな反応をするのか試している。否、品定めをされているのだ。

 

 私という……出来損ないの聖杯の器の人格がどんなものなのかを。

 だからこそこの女も自分を『物を創る者』だと語ったのだろう。

 アインツベルンがどれほどまでのホムンクルスを造り上げたのか、それに興味があったろうから。

 だから私はこの女を裏切ってやる。

 他愛もない、掃いて捨てるほどにありふれた凡骨だと知らしめるために。

 

「だったら放っておけばいいじゃない! こうして保護してくれたことには感謝してあげる。でももう私のことなんて……!」

「でもな、お前を助けてやると約束してしまったんだ」

 

 ドクンと、大きく心臓が跳ねる感覚。

 それは時間が経つごとに早鐘を打ち、身体を熱くさせる。冷静でいられない。困惑が頭を支配してしょうがないのだ。

 毛布を掴む手が痛かった。そしてそれを必死に隠すように私は大声をあげていた。

 

「なに……なに言ってるのよ! そんな事、出来るわけないじゃない!」

 

 喉が痛い。胸が痛い。自分が自分でいられなく感覚があった。

 それより約束って何? 一体誰としたっていうのだ。

 私が生きながらえることなんて、そんなことは問題じゃない。それよりもその約束を主だ。

 

 それが『あの子』だとすれば、私はきっと考えることのできないほどの重みをあの子に背負わせることになってしまうではないか。

 だからこれは苦し紛れの言い訳だ。この女に、諦めて欲しいがためのどうしようもない妄言だ。

 

「私が生き続けることなんて、できるはずない」

「そうだな、その通りだよ」

 

 そんなこと何もかもだと付け加えながら、胸ポケットにしまったシガーケースから一本の煙草を取り出し、火をつけながら虚空を眺める。

 長い長い時間だった。吐き出された紫煙がまるで雲のように形を成して消えていった。

 羨ましかった。こんなにも簡単に消えることのできるこの煙が、私はどうしようもなく羨ましかった。

 

「アイツの言葉を借りるなら……万物には全て綻びがある。それはこの世に生を受けたモノや形を持つもの、それこそ概念や思想すら……その滅びは変える事の出来ない宿命と言わざるを得ないものだ」

 

 それは確かな現実だった。誰も逃れることのできないモノ。

 

「ただお前のその身体に与えられた時間が、人のそれより短いだけではないか」

 

 淡々と語る。

 まるで死刑通告に似たその言葉に、胸が締め付けられる。

 

「でも、そんなの……なんの救いもない」

 

 頰に伝う涙が熱い。

 あぁ、私はまだ泣けたんだ。

 感情なんて、自分を憂う感情なんて随分前に無くしたと思っていたと思っていたのに。

 

 嗚咽を堪えるのに必死で、上手く息ができなかった。

 冷ややかに投げかけられる視線なんて関係ない。ただどうしようもない現実が悲しくて、ただ辛くてやりきれなくて。

 

 あのまま死ぬことが出来ていたらなんて思う自分がどうしようもなく愚かしく感じる。

 

 あぁ、そうか。私は嬉しいんだ。また生を実感することが出来て。 

 私は悲しいんだ。生きることに諦めを覚えてしまっている自分が。

 

 どれくらい泣いていたんだろう。

 毛布に零れ落ちていた涙が冷たく感じるようになっていた頃、女は再び冷ややかにこう呟いた。

 今にして思えばそれは私だけにではなく、あの子にも向けて放たれた言葉だったんだろう。

 

「何も生かし続ける事が救いではないさ。永遠の刻を生き永らえることなど……浅はかな夢ではないか」

「なに、それ……」

 

 本当に救いのない言葉。

 人として誰もが一度は夢見る思いを、魔術師としての永続性を、この女はそれら全てをまとめて否定してしまった。

 愕然という言葉が似合うのだろうか。終ぞ私の涙は枯れ果て、呆然と女を睨みつける。

 しかし我関せずと言わんばかりに、飄々と煙草を燻るこの女にはきっと私の態度や言葉など路頭に終わるのは間違いない。

 だから私はそれ以上に言葉を発することは出来なかった。

 

 また長い沈黙があった。

 紫煙が狭い部屋に充満し、視界を白く染めていく。

 あぁ、停滞はこんなにも優しいんだ。でもそんな優しさ私には必要ない。

 

 そんな風に思えたからかもしれない。

 起きてからずっと抱え込んでいた痞えが取り除かれた気がする。

 

 それに感づいたのか、何本目かの煙草を灰皿に押し付け、肺に残っていた紫煙をゆっくりと吐き出して彼女はこう呟く。

 

「死ぬために生きよ……などと彼の御人のように言うつもりはないがね」

 

 誰だった。そんなことを言ったのは。でもその言葉はきっと後に続くものがある。

 優しい、人を奮い立たせてくれる言葉のはずだ。

 

 それを示唆するように、女が続ける。

 

「小娘……君は何もしないままに死ねるのかね?」

「なにを決まり切った事を……」

「だろう? それに約束したのではないのか?」

 

 そう。約束をした。

 目も見えない中、懐かしい匂いに包まれながら、私はあの子と約束をした。

 

 一緒にいよう。ここで暮らそう。

 

 私にとっては、聖杯の器になることを決定づけられていた私にとってはあまりに悲しい約束だった。

 でもそれ以上に優しくて、かつてキリツグとした約束と同じくらいに私を満たしてくれた。

 

「約束……えぇそうね、したわ。無責任な約束……でも、すごくあったかい約束を」

 また涙が溢れ出した。

 さっきまでとは違う。悲しいから泣くのではなく、嬉しさから溢れ出る涙。

 あぁ、私はこのまま死んでしまうことなんて出来ない。

 

 最期の時が訪れるまで私は何度でも、何度だって立ち上がって……歩き続けていくんだ。

 

「なら最期の刻まで足掻け。少しくらいなら手助けをしてやらんでもないさ」

 

 これが、私がアインツベルンという名を捨てた瞬間の出来事。

 『ただのイリヤスフィール』が蒼崎橙子という変わり者の魔術師と出会った時の一幕だ。

 

 

 

 

 それから、目紛しく私の環境は変わっていった。

 

 トウコからは様々なお使い、いや……厄介ごとを頼まれ、それを処理するために彼女から身体を強化していくための術を教えられた。

 そりゃ血反吐を吐いたこともあったし、何をするにも億劫になって逃げ出そうかななんて思ったこともあったりした。

 それでもどうにかして今までやって来れたのは、これまでの生活が退屈とは程遠かったからだ。

 

 本当に、本当に色んなことがあった。

 

 ある時は魔術協会からの執拗な接近。ある時はアインツベルンからの追っ手。

 おかしな洋館に閉じ込められてアザカと謎解きに奔走したこともあったし、リンと再開してある組織とドンパチやらかしたこともあった。

 それに奥様と旦那様、カメクラとマナと一緒に取材旅行と称して甘々しくて辛くなるほどの光景を見続けるという責め苦を与えられたりとか。

 

 甘々しいで思い出したけど、トウコからあの子達がつい最近一緒になったって聞かされたっけ。あの冬から随分の時間が経っていたはずだけれど、あの二人もようやく身を固めたのだと思うとなんだか不思議な気持ちになった。

 

 そんな風にいつ終わるともしれない自分の人生に恐怖を覚えながらも、それでも毎日が本当に楽しかったのだ。

 お城の中にいた時には、書物の中からでしか知ることの世界をこの身体で感じることが出来たのだから。

 

 ただ楽しくても、本当に終わりは近づいていた。

 

 

「何年も何年も……ホント死ぬ死ぬ詐欺ってやつに等しくないかしら」

 

 確かに、周りから見れば今の私は健康そのものといっても過言ではない。

 事実こんなにもいろんな街を行ったり来たりする体力なんて、かつての私にはなかった。だとすれば自分の今の言葉も大正解……だが分かるのだ。

 

 身体の健康不健康など問題ではない。

 肝心なのは、機能するか否かなのだ。

 

 本来の私の身体は聖杯の器として造られたモノだ。

 いくらトウコの教えに従って、肉体の寿命を延ばすことに成功させたとしても、あの冬の戦いに向けて調節された私の精神は、時を経るごとに磨耗を重ねている。

 そう思うと笑いがこみ上げてしまう。

 

 『生き続けることが、救うということではない』

 

 そう言われたはずなのに、やはり私はいつまでも生きながらえたいと心の底で願っているのだから。

 

「笑い話じゃ、ないわよね。ただ……」

 

 そう。なによりも私を後悔させているのは自分自身の行いだ。

 

 私はあの約束から逃げ続けている。目を逸らして、逃げ惑って、無視をしたまま今日まで放っておいたのだ。

 

「私……今キリツグと同じ事してるんだよね」

 

 でもキリツグはきっと私を迎えに来てくれようとしていた。ずっと私の事を愛してくれていた。

 

 私は違う。逃げている。逃げ惑っているのだ。

 

 トウコからの言葉を隠れ蓑にして、もう永くないから、悲しませたくないからだなんて言い訳をして。

 

 なんて無様な事だろう。

 

 そうやって街灯が映し出す自分の影を眺めながら、そんな事を考えていた。

 いつか、あの冬にもこんな事がなかったろうか。

 

 私の器が満たされていくたびに、私はイキモノであること失っていった。

 それでも戦うことを強いられて、逃げることが出来ないと諦めていた。

 

 あぁそうだ。あの時は目の前ももう見えなくて、肌も何も感触を得ることは出来なかったのだ。

 でも側には彼がいてくれた。私をいつも守ってくれていた。

 

 思い出す。大きな掌。

 ゴツゴツしてて、強くて、そして優しかったあの掌。

 

「ねぇ、私……やっぱりなにも出来ないのかな? ねぇ教えてよ。バーサーカー……」

 

 いつぶりだったロウ。私を守ってくれた優しく、雄々しい彼の名を呼ぶ。

 それだけで涙が溢れ出し、視界をグニャリと歪ませていく。

 

 あぁ、私はこの数年で弱くなってしまったんだ。

 

「ねぇ、助けてよ。助けてよ……バーサーカー」

 違う、隠していた弱さが表出してきただけだ。大人ぶって、強がって……いつまでも子供みたいに振舞っていたから、どうすればいいか分からなくなっているだけなんだ。

 

「いつまでも頼ってなんて……いられないじゃない」

 

 そうだ。それが今を生きている私の役目じゃないか。

 そう思ったから、ずっと遠ざかっていたこの土地へと帰ってきたのだ。

 

 まっすぐに家に歩いていけばいいのに、その決心が付かなくてウダウダとしている内に周囲は暗闇に染め上げられ、空には黒を彩る光の粒が燦々としている。

 私の知らない風景はまだこんなにもあるんだ。

 知っているつもりだったこの街のことだって、きっとあの子達のことだって。

 

 そうやって悶々と歩みを進め続け、気付けばあの子と一番最初に会った街灯の下に辿り着いていた。

 目を閉じるとあの時の光景が瞼の裏に蘇った。

 そうだ。あの時は確か…•すれ違いざまに声をかけられたんだ。

 

「どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」

 

 こんな風に、不意に声をかけられたんだ。

 

 優しい声。まるで春に吹く髪を揺らす穏やかな風のような声だ。私の記憶より、その声の響きは落ち着きを増しているようだった。

 

「……なに? なんでこんな夜中に出歩いてるのよ」

 

 敢えて視線はその声の主の方には向けず、意地悪にそんな取り留めもないような言葉を口にしてみた。

 ただ泣いている事を悟られなくなくて、動揺を隠すためだけの苦し紛れの言葉だった。こんな時まで私は本当になんて大人気ないんだろう。

 

 するとどうだろう、クスクスと上品な笑い声が私の鼓膜を叩くではないか。

「いつまでも子供じゃありませんよ」

「相変わらず生意気……久しぶりね、サクラ」

 

 ようやくそうして私は彼女に視線を向けた。

 髪が背を覆い隠すくらいに伸びていたからだろうか。彼女の容姿を言い合わらわすのに『可愛らしい』という言葉は最早似つかわしくなく、ただ『美しい』と素直にそう思えた。

 きっとこれは奥様に抱いている感情と同じものなのだろう。

 

 綺麗になったね、サクラ。

 危うさがなくなった。きっとあの子のおかげで貴女はこんなにも綺麗になれたんだね。

 

 そんな事をぼうっと考えていたからだろうか、不安げな表情を浮かべるサクラ。

「橙子さんから連絡があったんです。昨日あっちに戻るはずだったのに、全然戻らないって」

 だからこっちに戻ってきているかもと言われたのだと、そう付け足しながら言葉を締めくくるサクラ。

 

「ハハハ。ホント、なんてお節介な人」

 そう言ったのはトウコじゃなくて、きっとあの子だ。

 私の事を理解してくれているから自らではなく、サクラを迎えによこしたんだ。

 あぁ、ダメだ。それに気が付いては。崩れていってしまう。持ち直していたはずの心の中の砂の城が、一気に崩れ去ってしまう。

 

「本当に、本当にお久しぶりです。イリヤさん」

「そうね、貴女とは確か……リンに会いに行った時以来だったかしら」

「そうです。あれからずっと……イリヤさんは冬木に帰ってきていない」

 

 やっぱりそう言われるのだ。

「……」

 それを言われてしまうと私は言葉を失ってしまう。

 きっとサクラは私の事を責めてはいない。でもそれでも逃げ惑っている私にとって、彼女のその言葉は何よりも重くて、思わず顔を伏せてしまうくらいに悔しいものだ。

 

 そう。私はこの街に、冬木に帰ってくるのを拒んでいたわけではない。あの子に、自分の弟に会うのが怖かっただけなのだ。

 それこそ私がこの街から遠ざかり続けた理由。

 救いのない私が、終わりを認めたくないが故に貫き通した意地だった。

 

「ねぇ、やっぱりわたしのこと、嫌いですか?」

「嫌いって……」

 

 彼女の言葉に私は思わず俯いていた顔をあげる。

 目に入ってきたのは彼女の泣きそうな顔。先ほどまでの優しい表情が嘘であったかのような、不安そうな表情がそこにあった。

 

「正直、わたしは自分が怖いです。いつまたあんなことをしてしまうかもしれないって思ったら、正気を保てなくなりそうなくらいに……だからきっと貴女はそんなわたしが嫌いなんじゃないかって思うんです」

「でもさ、貴女にはあの子がいるじゃない」

「でも、彼はいつも貴女のことを思ってます」

「……ホント、貴女もあの子も」

 

 そうか。こんなにも私はサクラに心配させてしまっていたのか。

 こんなにも正直に、自分の思いをさらけ出してくれているのに、私が困惑したままでいいはずがないではないか。

 

「ーーそうね、この際だから言うわ」

 

 私も、その思いに応えないといけない。

 じっとりと纏わりつく空気を、遠くから流れてきた風が解きほぐしてくれる。

 だから私も口にしよう。今まで誰にも語らなかった自分の弱さを、そして恐れているものについて。

 

「私ね、怖かったのよ。あの子に会うのが」

 正面から見据えるサクラは驚きを隠せないようだった。

 確かに、あの冬を戦っていた私の姿からは、こんな事考えもしない事だろう。

 

「ねぇ、あの子から聞いた? 私とあの子の約束」

「えぇ、聞いてます。聞いてるからこそ帰ってきてほしかったんです。でもきっとイリヤさんはわたしのことが嫌いだから……だからここに帰ってくるのを避けていたんだって、そう思うんです。そうじゃないとあなたが帰ってこない理由が見つからないから」

 

 分かるよ。

 きっとサクラは私と同じものを見ているはずだから。

 一度でもこの世全ての悪に飲み込まれてしまったことがあれば、自らの行いを後悔してしまうことは否定することは出来ない。

 でも、それじゃダメだ。

 それを簡単に受け入れちゃいけないんだ。

 

 だから言ってあげなくてはいけない。

 サクラと同じだった、私だからこそ言ってあげられる言葉を。

 

「……ねぇそれ、本気で言ってる?」

「だって、そうじゃないと」

「自分が悪者にならないと、他の人を正当化できない?」

「いえ、そんなこと……絶対にありません。わたし、あの人と一緒になって変わったつもりです」

「そうね、きっとそうだと思うわ」

 

 なんだ、大丈夫じゃないか。

 サクラはどうしようもない弱さを支えてくれる人と一緒に歩んでいっているんだ。自分の弱さに正面から向き合うことが出来ているんだ。

 

 なんだかそれは自分のことのように嬉しくて、胸がほんのりと優しい気持ちに満たされていった。

 でもまだ私が何も口にしていない。私がずっと向き合ってこれなかった弱さを、私は認めることが出来ていない。

 

 身体が震えた。

 勇気がない。言葉にすればそれはとても簡単なものだけれど、こんなにもそれが大事だなんて今まで思いもしなかった。

 

「ダメなのは……」

 さぁ、言うんだ。言うんだ……イリヤ。

 

「ダメなのは……私なんだよ」

 弱さを自分だけの中に押し込めるんじゃなくて、サクラに……そしてあの子にも伝えるんだ。

 

「まだ変われていないのは、きっと私の方なのよ。あの子とも貴女とも向き合うことが出来ていない、約束を守ることが出来ていない私の方がきっとダメなのよ」

「イリヤさん……」

「そう。ダメなのは私。勇気がなかったのよ。それに私なんて言う余計な荷物をあの子に背負わせちゃいけないって、そう思ってた」

 これは目覚めてから私の中でずっと横たわっていた傲慢だ。あの子のためだと言い聞かせていた自分勝手さの総てなのだ。

 

「でもあの子は、精一杯の気持ちで約束……してくれた」

 なんでだろう、息がしづらい。上手に言葉が続かないんだ。

 それに涙が溢れて、止まることなく流れていってしまう。

 あの冬、総てに絶望していた私に結ぼうとしてくれたあの子の言葉を思い出すといつもこうなってしまう。

 そうだ、ずっと知っていたんだ。

 それを私は同情じゃなくて、掛け値なしの優しさだってことを私は知っていたんだ。

 

 だからもう私は……

「だから応えたいの。逃げ続けたくないの」

 そう。だからこの街に、あの子の住むここに戻ってきた。

 

 またここから、一から始めたいから。

 

 でもそうするんだったらしないといけないこと、言葉にしないといけないことがある。

「だからね、ごめんね」

「なんで、謝るんですか?」

「こんなお姉ちゃんでゴメン。弱くて、自分勝手な私でゴメン。でも……ワガママ言ってもいいかな?」

「何でも、言ってください」

「あなた達と……シロウとサクラと一緒にいたいの。ここで、キリツグが最期に過ごしたこの街で生きていたいの」

 

 これが心からの望み。

 ただ終わりを迎えるのではなくて、やりきって、生き抜いて最期の時を迎えたいと思った私の望みの最期の一欠片。

 ほら、こう言葉にする事が出来たから私はこんなにも今笑顔になれてる。

 それに応えるようにサクラも、花が咲いたように可憐な笑みを私に向けてこう言ってくれるのだ。

 

「えぇ、だから帰りましょう。あの人が、士郎さんが待ってます」

 

 それ以上はもう何かを口にする必要なんてなかった。

 ただ街頭に照らされた少し肌寒い道を、二人手をつないで歩いていく。

 

 周囲の暖かな喧騒が少し心地よくて……これが郷愁の念にかられると言うのだろう。

 

 あぁ、こんな風に家路に着くことが出来るなんてすごく贅沢だ。

 それにほら……こんな風に、誰かが迎えてくれるだなんて、私はきっと誰よりも幸せ者なんだ。

 

 玄関の暖かい光を背に、あの時よりも少し大きくなったシルエットがそこに浮かんでいた。

 影になって表情は見て取れないけど、それでもきっと彼が浮かべているのは満面の笑みに違いない。

 そんなお人好しなまでに優しいのがあの子だ。

 

 

「おかえり、イリヤ」

「ただいま……シロウ」

 

 

 なんて優しくて、儚い姿なんだろう。

 でも何より私の心を満たしてくれるものだということはきっと間違いじゃない。

 

 本当の終わりはすぐそこまで近づいているけれど、私は幸福な道を歩いて行けるだろう。

 だから私も笑顔で応えよう。

 

 そう思いを馳せながら、私は夜空に目を向けた。

 大きな月、それも私たちを祝福してくれるみたいに、眩く光を散りばめてくれる。

 

 だから私の、私たちの物語はここでお終い。

 

 あぁ、でも終わりじゃないか。

 これからもずっと、私たちの物語は続いていくのだ。

 

 この先はきっと誰もまだ知らない、私たちだけの終わりの続きの世界なのだから。

 


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