『君主論』要約   作:平 一

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Ⅱ 『君主論』感想

1 昔の感想

 

「君主論」は、

「君主には手段を選べぬ時もある」という内容で知られるが、

ルネッサンスの人間中心主義をあらわす著作としても必ず挙げられる。

人間性とは何だろうか?

 

人間の欲求は、他の動物より質的にも量的にも無制限的であり、

それこそが人間性の本質なのではないだろうか。

それは善なるものだけでなく、悪なるものも含んでおり、

人間の歴史は、善悪両面における発達史といってもよいかもしれない。

 

神と悪魔がどちらも、人間がもつ二側面の象徴だとすれば、

現代こそはまさに、人々の心の中で最大の、

もしかしたら最後の戦いを行う、

黙示録の時代といえるのかもしれない。

(現在の筆者注:今と変わらぬ中二病ですが[笑]、

当時は今より核戦争が心配な、冷戦時代末期でした)

 

このような時代にはなおのこと、マキャベリが行った、

彼自身のことも含めた人間性暴露の鋭さが実感される。

 

しかし「君主論」は、歴史上の事実を書いた歴史学書でもある。

歴史学とは何か。 「君主論」はそこでどう位置づけられるのか。

 

第一に、歴史学は物語や宗教ではなく科学なので、

あくまでも事実を基礎とする。

マキャベリが神その他の、

事実以外のものを持ち出さなかったことは優れている。

 

第二に、歴史学は事実の一般化を行い、

法則性を導き出そうとする。

「君主論」はこの点でもまことに実用的な、

歴史の教訓の宝庫である。

 

第三に、歴史学は「どうすべきか」という意思決定ではなく、

「どうなっているか」という事実認識を行う学問である。

もちろん無数の事実から、ある価値観で重要な事実を選ばねば、

単なる古記録収集に終わってしまう。

しかし重心は、あくまでも事実にある。

 

価値が事実を(ゆが)めてはならない。

それでは歴史小説になってしまう。

価値に反する事実を無視してはならない。

それでは宣伝文書になってしまう。

 

人々が歴史学に求めるものは、他人の判断でなく、

自分で判断するための材料となる事実であろう。

価値が事実に(まさ)ったのでは信用されないし、

事実がしっかりしていれば、選んだ価値も信用されるだろう。

歴史学ではやはり、事実が勝負である。

 

もちろん、政治家と歴史家の兼業もありうる。

知識提供を食材販売、政治活動を調理とすれば、

名コックは良い食材を選ぶことも上手いかもしれない。

しかし、調理は自分でしたいという、

意見をもった人々の気持ちも尊重したい。

 

第三の基準からすると、「君主論」は政治的文書であり、

純粋な歴史学書ではない。

マキャベリは、活きのよい素材を、

目の前で調理して出して見せた。

 

また、手段を選ばぬ君主による統治という価値判断には、

ゲテモノ料理の観もある。

その材料となった人間性の数々には、

とても好ましいと言えないものも多い。

 

だがその料理には、現実的手段による国家統一という、

大事な栄養素も含まれていた。

また人間性が悪をも含んでいる以上、

その材料は他の料理にも不可欠な素材かもしれない。

 

そしてマキャベリの料理が、

後に実際のイタリア統一という形で食されたとすれば、

少なくとも即効性の猛毒ではなかったことになるし、

その食材は以後も各国で同様の料理に用いられている。

 

歴史学の成果は、未来への貢献により判断され、

まさに歴史によって裁かれるが、

それは一方で「食べてみなけりゃわからない」

ということでもある。

 

「君主論」をどう評価するにせよ、最終的な当否の判定は、

今後我々がいかなる社会を築いてゆけるかにかかっている。

歴史学の成果が必ずや人類の自己制御に役立ち、

その永き反映と幸福をもたらしてくれるよう願いたい。

 

 

2 今の感想

 

『君主論』は戦乱時代の本なので、恐い記述もありますが、

近代的かつ現実主義的な政治理論を初めて記した、名著とされています。

『権力と正当性(強制力と支持)は政治の両輪』といわれますが、

マキャベリはこれらを力量(ヴィルトゥ)という言葉で表現したのだと思います。

 

この力量(ヴィルトゥ)とは人々を動かす統治技術、あるいは統治技術の活用政策と、

人々から支持を得る統治政策の内容と言い換えることができましょう。

一方、彼が言う運命(フォルトゥナ)とは、統治の成否に影響する、

技術や政策でも制御しきれない自然・社会環境を指していると思います。

 

またこの本は、イタリアの国家統一を、

その政治理論により解決すべき主題としてあげています。

確かにイタリアのような半島国家は、独自文化を持ちうる反面、

常に大陸からの圧力にさらされ、時には対岸との板挟みにもあって、

政治的な連続的変化(グラデーション)がついてしまうため、

国家統一が比較的に難しかったと思われます。

 

もっともその分、半島には大きな国家に頼らぬ独立の気風もあり、

この本にもあるように、個人が優秀な才能を発揮したり、

地域に活力があったりするという長所がみられます。

ヨーロッパ自体が巨大な半島とみることができ、

その地域間競争の活力が近代文明の発展を可能にしたという、

有力な説もあるようです。

 

当時から現在までに、科学・技術が発達し、

経済・社会活動ひいては制度・政策は変化してきました。

特に工業時代においては、イタリアを含む多くの大国で、

国民国家の設立や民主化が達成されました。

 

農耕~工業時代には灌漑や、この本でも多く書かれた軍事など、

富の安全を含む生産に関わる、技術的政策が主な政策でしたが、

工業~情報時代にかけては、産業立国や福祉国家のように、

富の再投資を含む分配に関わる、経済・社会政策も発達しました。

 

とはいえ私達はまだ、様々な国家間の紛争や、

資源・環境問題、不況、貧困などの問題を抱えています。

加えて私達は、少子高齢化などによる経年・経代的な健康水準の低下や、

社会の複雑化による教育難度の上昇といった問題にも直面しています。

 

情報時代~AI時代には、産業の変化に応じた人材育成や、

介護・疾病予防、教育困難の解消のように、

富を作って分ける人間自身の向上に関わる、

人的資源政策も可能、かつ必要になっていくと思います。

 

実は昔から、文明が発達すると人間は衰えるという

『文明の逆説(パラドックス)』(立花隆)は存在し、

それは災害や疫病、そしてこの本にも書かれた戦争などの

淘汰によって〝解決〟されてきたのかもしれません。

しかし今では犠牲や費用(コスト)危険(リスク)が大きすぎ、何よりも非人道的です。

人間の理想や欲望は、そうした〝無駄〟を許せなくなるでしょう。

 

富の生産と分配に加え、人間自身の維持・向上を可能にする、

新たな技術も生まれつつあります。

人工知能(AI)を中心とした知能ロボット、

IoTとビッグデータ処理、新素材・エネルギー、

生物工学(バイオテクノロジー)生体工学(バイオニクス)、先進医療・教育などの、

次世代技術です。

 

それは人体など自然物と、機械など人工物の間の

障壁を取り除いて双方の持続可能性を高める、

体内環境を含む自然・社会環境に優しい技術であり、

持続可能技術、環境親和技術ともいうべき技術です。

 

技術が進めば、経済・社会活動は拡大・複雑・加速化するので、

制度・政策もまた、必要とあれば大勢が動くが衆知も活かせるよう、

国際化・全球統治(グローバルガバナンス)など巨大化と共に、

民主化・自由化・地方分権など分権化してゆきます。

 

それが今後も進んでゆけば、世界規模の平和と共生が可能となり、

活力ある半島も、まとまりのよい島国も、規模の利益がある大陸も、

各自の短所を補い合いつつ、長所を活かして建設的に競争し、

共に発展してゆけると思います。

 

AIなどの次世代技術と、それを活用する人間的政策により、

マキャベリが正しく描いた人間性の、負の側面を抑えつつ、

正の側面を発揮させていくことで、

文明の持続可能性が実現できるよう期待します。

 

ああっ、すみません! 私も努力しますので……。

( ↑ もはや中高年となり、健康診断で要指導の中二病オタク[苦笑])


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