北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~ 作:tanuu
傷心の勝千代は、一人狭い山道を武田家の本拠地躑躅ヶ崎館の北にある積水寺温泉へと向かっていた。勝千代はここで産湯につかった。幼い頃から体調を崩したときはよくこの山の麓の温泉に入っていた。それに加え、誰にも会わずに長考するには便利だったのだ。
駿河に出向すれば、おそらく二度と甲斐の土は踏めない。せめて思い出深い積水寺温泉で最後の一夜を過ごしたかった。しかし、護衛も付けず単騎なのが災いする。諏訪頼重より放たれた刺客がその命を虎視眈々と狙っていた。
山道をのぼる途上でいきなり一人の忍が来襲する。
「武田勝千代どの、お命ちょうだい致すっ!」
忍の声は陽気そうな少女のもの。しかし、その体より放たれる殺気はただ者ではない。間違いなく強者の気配であった。勝千代も武家の娘。武芸は取得している。しかし、この忍はまるで猿のごとき身のこなしで直上より迫り来る。騎馬武者の剣術は馬上攻撃並びに敵は同じ騎馬武者であることを想定しているので頭上よりの攻撃は想定外であった。
「な、何者?どうして?」
「これから死に行く者に教える義理は無いでござる!」
忍が容赦なく手裏剣を放つ。逃れようのない死が迫る。
だが、この時。勝千代の瞳の奥に猛然と燃え上がる何かがあった。瞳がまるで別人のように獰猛に光る。それは何なのか。あるいは、恐れている父信虎より受け継いだ血の持つ闘争本能なのかもしれない。『愚か者!死の意味もわからぬまま、死ぬな!抗え、戦え!』
彼女の耳には確かにその言葉が聞こえていた。
「あああああっ!」
叫び声をあげ、空を舞う忍から放たれた手裏剣を太刀で凪ぎ払う。そして、いささかも躊躇わず頭上から落ちてくる忍を殺すべくもう一閃。凄まじい太刀捌きだった。
「う、うわぁぁぁぁぁ!並々ならぬ殺気!危ないでござるっ⁉️」
真っ直ぐに落下していたはずの忍は冷や汗をかきながらふわりと浮き上がりその太刀をかわした。
気がつくと忍は勝千代のまたがった馬の首の上に立っている。そんなところに立てば馬の首がやられるのだが、まるで重力などそこには無いかのようにすらりと佇んでいた。
「あなたは、な、何者っ!」
「ふっふっふっ。忍は雇い主の名を明かさぬでござる。拙者、猿飛佐助はちと仕事にあぶれておりましてな。たまたま甲斐で宴の用心棒に雇われただけでござる。さんざん飲み食いして信濃に戻るつもりが、いきなりお主を殺せと言われたでござる。奴は最初から刺客として拙者を雇ったのでござるな。暗殺仕事は苦手なれど、前賃は貰ってしまったのでござる。不運と思い諦めるのでござるな。」
「猿飛?」
信濃の真田の里の忍がそのような技を用いると聞いたことがある。それがこれか、と勝千代は気づいた。太刀を放った瞬間にこの忍びはあたしの頭上から移動した。ただの体術じゃない、もっと不可思議な何かだわ…と震えた。
「しまったぁ!うっかり名乗ってしまったでござる!い、一体いつの間に拙者に秘密を暴露させる術を⁉️」
「あ、あなたが勝手に喋ったのよ?」
「うぬぅ。誤解しないで欲しいでござる。拙者は真田の庄を根城としておりますが、今回の仕事は主の真田幸隆殿とは無関係でござる。そもそも幸隆殿は現在城を奪われ、上野に落ち延びているでござる」
「あなたを雇ったのは真田じゃない…なら首謀者は北信の村上義清?でも村上義清は常に戦で勝敗を決する人間。ということは…もしかして、諏訪頼重があたしを暗殺しようと?禰々との祝言の日なのに、そんな…」
「うわぁ!な、なぜ拙者の雇い主を⁉️」
どうやらこの忍は身のこなしだけでなく、口も軽いようだ。技は超人的だけど、忍としてはどうなのかしら…と勝千代は首をかしげた。
「泣き虫と聞いていたのに意外にも聡い奴でござる。万が一殺し損ねた場合はお父上の仕業に見せよとの命でござったが…かくなる上は、今度こそお命きっちり頂くでござる!」
しかし、黙ってやられる勝千代ではない。
「でも、この距離なら…!猿飛の技は使えない!」
目の前の忍の急所を狙い短刀を真っ直ぐに突き立てる。普段の文弱な少女とはまるで別人のような眼光で。
「ふん!この程度!」
突き立てたはずの短刀は空を切る。
「嘘っ⁉️」
気づけば、短刀の上に佐助が乗っていた。こんな技は人間のものではない。まるで手品だ。その不可思議さ故に勝千代は思わず野獣の闘志を忘れて、猿飛の術のからくりを暴こうと頭を動かしてしまった。だが、理性を取り戻すと恐怖心が突如として湧いてきて、それが勝千代の心を怯ませた。
「あれま。元の気弱な姫に戻ってしまったでござる?」
その隙をつかれた。佐助は再び宙へ舞い、白い粉を投げつける。
「けほっ、けほっ、けほっ!ひ、卑怯な…」
「忍の術は武士の剣法とは違うでござる。まさに外道!」
視界を塞がれた。
「卑怯卑劣でも勝てればよかろうでござる。お命頂戴!」
「けほっ、けほっ」
一度気弱な姫に戻ってしまった勝千代はもう抵抗できなかった。このまま死んじゃった方が良いんじゃないかしら…父上には厄介払いが出来たと喜ばれるだろうし…次郎ちゃんが、後を継いだ方が…。
心は折れかけていたが、体が生きることを欲していた。無意識のうちに、クナイを避けるため咄嗟に手綱から手を放して馬を飛び降りていた。
「なかなかの執念、落馬を恐れぬ英断!だが、拙者の前には無力っ…!」
クナイを振りかざし仕留めにかかる。刃が迫る。が、その時。
「だ、だめ~っ!姫様、逃げて~!」
その声と共に佐助の背後より小刀が飛んできた。恐るべき正確性のある投擲は見事に佐助のクナイを割っていた。
「む、拙者ともあろうものが!」
慌てながらもなおも勝千代を仕留めんとその身体を追うが、今度は真正面から巨大な鎚が振り下ろされてきた。あの宴会の後、次郎より『姉上を守って』と命じられた馬場信房が間に合ったのである。
「……やらせない」
無表情なまま阿修羅のごとき殺気を放つ信房。片手で勝千代を抱えながらもう片方の手で鎚を操る剛力は姫武将のものとは思えなかった。
更に、後ろからはなおも小刀が飛んで来る。片方だけならまだしも、両方を相手にして戦うのは流石の佐助であろうとも不可能に近かった。加えて、これは雇われの仕事。諏訪頼重のために命を張る義理など毛頭ない。
初手で殺れなかった時点で拙者の負けか…と悟った佐助は離脱を決め、広範囲に白い粉塵を巻き上げる。
「今宵はこれにて御免!」
「むっ、目眩まし…」
「今です!逃げましょう!」
佐助は僅かな隙に完全に姿を消し去っていた。
「二人とも、命を助けてくれてありがとう。ここは密談には丁度良い場所。殿方は入ってこれないし」
積水寺温泉に浸かり、城下を見ながら勝千代は二人に告げた。右隣には馬場信房。左隣には小刀投げの術で勝千代の命を救った少女。
「あ、でも…百姓娘の私が武田の姫様と一緒に温泉に入って良いのでしょうか?」
あどけない笑顔が妹の禰々に似ていた。
「いいのよ。あなたはあたしを救ってくれたんだから」
「小刀を手裏剣のように…正確に投げていた…立派な武術」
少女は照れ臭そうに鼻まで湯に浸かる。
「ええっと、あなたのお名前は…?」
「か、春日村の百姓で源五郎と言います。狩りをしていたところ、憧れの姫様が忍に襲われているところに出くわしまして…い、いつもなら逃げてるところですけど、憧れの人を助けるためなので頑張りました!いやー、食い扶持が足りなくて野山を駆け巡ってきた成果が出せて嬉しいです」
さらりと告げられた食い扶持が足りないという言葉で、勝千代は改めて甲斐の現状を突き付けられた。
「…ごめんなさい。連年、武田が無茶な戦を続けて、その度に村から強引に食糧を巻き上げているからなのね」
「いえっ、姫様のせいではありません!」
「それにしても、見事な技。春日源五郎…あー、今より…姫の小姓として、その、姫様をお守りするように」
「ええっ!わかりましたっ!あぁ、憧れの姫様と共に居られるなんて、夢のよう!」
食い気味に答え舞い上がる源五郎。この少女、いわゆる百合の気があるのだが、その単語を知るのは現状この世界にただ一人である。
「この者の姫様への想いは…ある意味本物。…信用できる」
「信房がそういうなら安心ね。でも、あたしといると危険が多いわよ?」
「…その件について、次郎様よりお伝えすべきお話が」
馬場信房がゆっくりと語りだす。諏訪頼重が勝千代暗殺の刺客を放ったこと。次郎がこれを防ぎ、姉を守るように信房に命じたこと。次郎は打開策を練るため、板垣、甘利らの四天王を召集したこと。
「婚儀の日に…これじゃああんまりにも禰々が可哀想だから内密にね?」
「…承知。次郎様よりも同じお言葉を」
「頼重は最初からあたしを暗殺するために甲斐へ来たのかしら」
「準備だけはしてきたはず…おそらく姫様と大殿の抜き差しならぬ対立を見ていけると判断したのかと。失敗しても…姫様は駿河へ逃げるだろうと…。あれは、策士」
「血筋を重んじない考えが警戒されたのね…」
「難を逃れるには駿河に逃げるしか無いです!最近の大殿様は滅茶苦茶です。実の娘でも廃嫡…最悪は切り捨てもありえますっ!逃げましょう!」
「諏訪頼重に報復すれば、今度は禰々様が悲しむ……。八方塞がり…」
勝千代の命運はもはや尽きかけていた。
「ごめんなさい。信房、源五郎。あたしは決断力に欠ける性格だから…どうすれば良いか一晩じっくり考えさせて。明日の朝までには必ず答えを出すわ。だから今だけ一人にさせてちょうだい」
「…承知」
「私たちはお側に宿を取りますので、何かあったら直ぐにお知らせ下さい!あのお猿もまだこの辺を彷徨いていると思うので」
「……長考の時間は少ないです」
「わかってるわ。朝までには必ず」
勝千代は頭を下げながら、何故自らが怯えているのか、その答えを得るため、自らと向き合おうとした。
一人きりで湯に浸かり、自分との対話を続ける。父上が怖い。己の無力が怖い。合戦も、人が死ぬのも、諏訪頼重の悪意も、忍に狙われるのも、何もかもが怖い。しかし、死か廃嫡かの瀬戸際だからこそ、見えるものがあった。
…甲斐は四方を山に囲まれた山国。米は取れず、国力は弱く、土地もない。海も港も産業もない。人が生きるために必要な塩もない。こんな片田舎から京に上洛して、あまねく天下に号令するのは不可能。足掛かりになれそうな信濃は、諏訪家との同盟のせいで侵入路が閉ざされた…。武田家の天下への道は詰んだ。あたしは……
ここまで考え、勝千代は愕然とする。
天下?天下ってなに?もしかして、あたしは、天下を欲してるの?父上以上の悪業を背負ってでも戦国最強の武将になりたいの?そんな野望があたしの胸のなかにいるなら…あたしは自分が恐ろしい。
佐助を斬ろうとしたあの時、あたしは確かに生きていると実感できた。もう一人のあたしが内側に巣食っている。それは、父上にそっくりで、野望に満ちていて、命を屁とも思わぬ残虐な武士で、もしかしたら父上以上に…。
「無理よ。何もない甲斐から始めて、他国を奪い上洛して天下に号令するなんて。できっこない。沢山の人の血が流れるだけ。父上だって戦い続けて多くの民を苦しめて結局信濃さえ取れなかった。こんな野望を抱いてる私より真っ当な次郎ちゃんが、甲斐の平和を守る。それでいいはず。いいはずなのに…」
それでも、心のどこかで逃げることを、駿河へ去ることを拒否する感情があった。そして、野望の根底にも気付きつつあった。
そうか、あたしは父上に認めて貰いたいのね。信濃を奪ってもっと先へ行ったら、父上にも認めてもらえるかもしれない。褒めてもらえるのかもしれない。それなのに、現実は非情。上洛なんて、現実味のないあたし個人の憐れな妄想。心が弱いあたしじゃ、足掻く内に命が尽きる。だから、いつまでも認められない。無能な臆病者のまま。知恵を言い訳にして勇気を出せない。だから愛されない。せめて、駿河の今川義元のような生まれだったら…。
それは、産まれてこのかた父親に愛された記憶のない一人の少女の悲しき夢だった。父親に愛されたい。そんな肉親からの愛を欲するのに一体何の罪があろうか。これが現代なら努力でどうにかなったかもしれない。現代なら、勉学もスポーツも努力すればそのリターンはある。だが、ここは乱世。平和な現代とは求められるものが違かった。これもまた、乱世が生んだ悲しき運命だった。
賢い勝千代には、儚いこの夢が叶うわけもないことをわかってしまっていた。湯気に混じってハラハラと涙が零れる。彼女は野望を夢見るには利発すぎる。その上、多くの命を奪うことをひどく恐れていた。一国の主になるには優しすぎたのだ。
父親に認められたいという気持ち。そして、残忍な獣のような生き方はしたくないという気持ち。相反する気持ちがせめぎあっていた。そして、それが終わらない恐怖心の原因でもあった。
やっぱり駿河へ去ろう。それが、多くの幸福のためだ。これ以上、武田家の和を乱してはならない。勝千代が決断しかけたその時。
一人の男のしわがれた声が、勝千代の運命を変えた。
「あいや待たれい、娘よ。お前に天下を盗らせてやろう」
かくして運命は変わりゆく。
武田家のお話は予定では後二話くらいで終わります。そうしたらまた北条家(河越城)に戻ります。
この小説はIfストーリーな訳ですが、無事完結出来たらIfストーリーのIfストーリーを書いてみたい気もする。北条じゃなくて他の家に仕えた場合の話も面白そう。武田家の瀬田に武田菱をはためかせるルート、上杉家の軍神の望む静謐を目指す血塗られたルート、伊達家の奥州覇王への道を突き進むルート、毛利家の中国地方制圧RTAルート、大友家の宗麟にかけられた弟殺しの呪いを解く修羅ルート、島津四姉妹の野望・九州制覇ルートとか。尼子に仕えて毛利と死闘とか、松平清康と打倒今川とか、三好長慶と行く天下の副将軍ルートとかも悪くない…妄想のみが膨らむ。
まずは本編完結出来るように頑張ります。……何時になることやら。