北条の野望 ~織田信奈の野望 The if story~ 作:tanuu
この間、次郎は武田家の重臣たち、通称四天王を密かに召集していた。武田家の家臣団の頂点に君臨するのが彼らであった。本当は一門も呼びたいが、甲斐の各地の守りで不在である。次郎から勝千代の駿河出向は事実上の追放であると聞かされた四天王は悩んでいた。何分寝耳に水であったため、驚きもそれなりのものである。
「よもやそこまで溝が…大殿も水くさい」
信虎股肱の臣の一人、板垣信方は勝千代の守役として今まで懸命に両者を取り持ってきただけあって苦り切っていた。
「儂と板垣は大殿とは兄弟同然の長い長い腐れ縁。勝千代様がお産まれになった日は大殿も大喜びであったのに…」
猛将甘利虎泰は酒が回ったのか昔を懐かしみながら男泣きしている。
「…俺たちが仕えるのはただ一人。大殿に従うのみ」
こちらも命知らずの猛将である横田高松は、ぶっきらぼうに盃を傾けながら呟いた。
「なんじゃと。横田、お主はあのお優しいお方を駿河へ追いやると言うのか!」
「感情でものを言うな。家臣など所詮は主君の犬よ」
横田高松は感情よりもしきたりを優先するようで、態度を変えることはなかった。一対二で勝千代が優勢だが、次郎は今晩のうちに全員を説得しなくてはいけなかった。
「飯富、あなたはどう?」
次郎は四天王最年少にしてただ一人の姫武将、飯富虎昌に問う。飯富兵部虎昌は姫武将に懐疑的な信虎がその腕前を認める程の卓越した槍術と馬術の腕を持っていた。戦場では自らの徒党の鎧を赤く染め、中央を突破していく。「血で染まる鎧だ。始めから染めておけば手間が省ける」と語り、その色について問うた信虎を沈黙させたと言う。
「あたしゃ興味ないね。誰が親分だろうと、あたしの役目は変わらないさ。なんなら、親子で合戦するかい?太郎はどっちにつくね?」
戦闘狂ならではの鋭い笑みを浮かべ、楽しそうに太郎に聞く。
「え、そんなの決められるかよ。親父殿は俺の親父で、姉上は俺の姉さんだぞ?どっちも裏切れるかよ」
「…聞いたあたしが馬鹿だったよ」
優柔不断な解答に呆れたように飯富兵部は頭を振った。
「だがよぅ、諏訪頼重は許せねぇ!禰々を嫁にしておきながら姉上を殺そうと企むなんて一門とは認めねぇ!今からぶっ殺しに行きてぇ‼️」
「あんたはもう黙ってな。会議が終わらなくなる」
飯富兵部は中立を選んだ。このままでは説得は難しい。皆、一人一人考えや性格、立場が違いすぎる。信虎がこの面子を使いこなせていたのは意見を求めなかったからと言う面もあるのかもしれなかった。家臣団同士で大事を話し合うという行為自体に彼らは慣れていないのである。
次郎が頭を抱えていると、席を外していた孫六が室内に入り、何事かを囁く。その言葉を聞いた途端、次郎の表情は一変した。
そして、四天王に向かって言い放つ。
「私の、武田次郎信繁の心は決まっている。私は誰が何と言おうと姉上に自分の命を託す!武田の当主は姉上しかいないと信じている!明日、駿河より来る使者には父上を引き取らせる。そして、そのまま甲斐には帰さない。これは、決定事項よ!」
既に勝千代が今川と接触していると、次郎は宣言していた。そして、さらりとだが、この時元服していても自らの名を次郎で通してきた彼女が、最初に信繁を自ら公的な場で名乗った瞬間だった。彼女は彼女なりに、様々な物との訣別を果たそうとしていたのである。
「今、孫六から姉上よりの伝言をいただいたの。『父上は甲斐の統一という偉業を成し遂げられたが信濃攻略で行き詰まられた。この戦乱の世で武田家の甲斐の民が生き延びるためには、父上の古いやり方を改め甲斐を生まれ変わらせなくてはならない。これより、この武田勝千代が甲斐の守護となり、身命を賭してこの仕事をやり遂げる』と。明日より、武田家の当主は姉上よ!」
四天王は、信繁の熱く激しい熱意と、勝千代の素早い行動に驚いていた。
「何ですと、あの勝千代様が既に動いたと」
「慎重なお方だと思っていたが、いざとなれば神速じゃな」
「ふ、だとすれば宴での泣き虫ぶりは演技か。実は食えないお人のようだ」
「うわ、信じられねぇ。謀ってるんじゃないのか?あたしたちを」
四天王は四者それぞれの驚きをする。話に付いていけてない太郎は頭を抱えていた。
「偽りではないわ。姉上は忍の者を用いて甲斐へ向かっている今川の使者と交渉して内諾を得たの」
そう説明する信繁だが、流石の彼女も真田幸隆と知り合いの山本勘助が猿飛佐助を逆に雇い返したとは知るよしもなかった。
時は少し戻り、温泉での邂逅のやや後になる。勘助は佐助を雇うべく昔の忍仕事をしていた要領で佐助を発見した。
「見つけたぞ、佐助」
「ぬ?山本勘助殿ではござらぬか。拙者に何用にござるか」
「お主は武田勝千代様を暗殺しようとしてしくじったな。それがしはその勝千代様の軍師として雇われたのだ」
「まさか、拙者を成敗に?まだ死にたくはないでござるからなぁ。猿飛の術で逃げさせてもらうでござる」
「それよ、お主の術に銭を払いたい!諏訪頼重の倍の銭を払おうぞ」
主君を暗殺しようとしていた忍を雇い返すなど、まっとうな武士のやることではない。が、勘助は駿河からの使者に勝千代の書状を渡すのにその術が必要だとわかっていた。
「勝千代様からの念書を預かっておる。これを上野に落ち延びている真田幸隆殿に。勝千代様が信濃に進出されたあかつきには必ずや真田の旧領を約束しようぞ」
「ふーむ、勘助殿はあの姫の器にすっかり参ったようでござるな。確かに面白い姫でござる」
面白そうだと佐助はこの仕事を受けることにした。去り際にふと、真田幸隆の言葉を思い出す。
「そうそう、勘助殿を見いだせる者が『人の王』だと幸隆殿が言っていたでござるよ」
そう言って笑いながら人ならざる技で空を駆けていった。
「四天王!今すぐどちらに付くか、答えなさい!」
凄まじい気迫をもって信繁が毅然と言葉を発する。例え四天王であろうとも、味方しないならこの屋敷より出さないという覚悟が滲み出ていた。
意外にも、最初に頷いたのは横田だった。
「承知した。俺は勝千代の姫様に仕える。策略に策略で返す。一晩で大逆転とは大したタマだ。優秀な軍師でもついてるのかもしれんな。何にせよ、大殿の敗けだ」
横田高松は傭兵だったこともあり、見切りが速いのだ。元々勝千代を推していた板垣信方は断腸の思いで
「拙者も勝千代様にお味方いたそう。次郎様が付いた以上、最早大殿は甲斐を保てぬ。これも安寧のため」
と涙目で頷いた。甘利虎泰も、
「姫様は今宵勇気を振り絞って甲斐の若虎となられた。大殿もいつかわかってくれるはずじゃぁ!」
と叫ぶ。飯富兵部は何かを口にはしないが、その目はぎらりと輝き、その意思がどうなったかは明白だった。太郎も、何とかやっと飲み込んだようだった。
「父上には駿河で何不自由ない隠居生活を過ごしていただくわ。姉上曰く、武田家が上洛したあかつきには都に邸宅を建ててお出迎えすると」
「「「「上洛…!」」」」
四天王は目を丸くしている。だが、決してそこに不満の色はなかった。むしろ、諏訪家との同盟に不満を募らせていたのだ。この上洛という途方もない目標は彼らの心に火をつけるには十分だった。
板垣と甘利は信濃攻略に人生を捧げていた。諦めきれないものがそこにはあった。横田と飯富はそこまでの感慨はないが、戦闘狂の性質を持つ彼らは、甲斐に籠るよりは暴れられそうだ、と息巻いていた。停滞していた武田家に光が差すと、皆が信じていた。
信繁は姉の命運を託されたことでその重さに震えると共に、信頼されていることへの感激から長い迷いから覚めた。かつて言われた言葉がよみがえる。
「自身のままであられたなら、いつかまたお姉さまと元の関係に戻ることも出来ましょう。それまでの辛抱です。心を強くもって、寄り添ってあげれば、必ずその思いは届くものです。」
その時は来ましたよ。彼女は小田原の方角を向きながら、涙をこらえていた。
「私は信じる。家臣が皆で姉上を支えれば、可能よ。明日から武田家に一門と家臣団との区別は消える。皆が武田家の家族となるのよ」
「ははっ!拙者たち老骨には過分なお言葉」
「時代は変わっていくのじゃのう」
板垣と甘利は長年の主・信虎を追放する罪滅ぼしとして人生の最期は戦場で散ることを誓った。
この会話の全てを盗み聞く者が一人。穴山信君である。
「勝千代さんは暗殺から逃れましたか。加えてこの四天王たちの反応。信虎様の敗けですね」
ふぅ、とため息をつきながら考える。上洛など微塵の興味もないが、退屈な日々よりは面白そうだ。それに、負け馬に賭けるほど愚かじゃない。彼女はそう思った。一門の中では一条信龍に続いて上位にいる彼女なら、他の一門への影響力もあった。
「ここで、恩を売っておきますか」
そう呟き、彼女は会議の場へと躍り出る。
パチパチパチと拍手の音が突如として響いた。
「いやはやお見事なお手並み。感服しました」
「……信君」
「はい、信繁さん。お久しぶりですねぇ。ご壮健そうで何より」
「ご託は良いわ。聞いていたのね?貴女も去就を明らかにしなさい。もし、姉上に敵対するのなら貴女でも…」
今にも刀を抜こうとする信繁に対し信君はちろりと赤い舌を覗かせ酷薄に笑う。
「いえいーえ敵対するなど滅相もない。信虎様の敗けは確定です。ただご提案に参ったのですよ」
「提案ね」
「ええ、ええ!私は一門の中でも上位。一門や武田家にあまり協力的でない豪族国人にも顔が利きます。根回しをしようかと思いまして」
胡散臭い笑みで彼女は答える。信繁は本能で、この女は信用ならないと感じとっていた。
「見返りは?」
「海」
間髪入れずに信君は答える。聡明な彼女はその知謀から上洛には海が不可欠。海とは駿河のこと。いつか必ず武田は駿河を奪うと確信していた。逆にそうしなくては上洛など夢のまた夢であるとも。
「その日が来たなら、必ず」
「その言葉、お忘れなきように。フフフフ」
これは楽しくなりそうだ、と信君は頬を染め嬉しそうに笑う。それは美形の武田家の血筋であるとわかる美しさだが、信繁はとても恐ろしかった。
「賽は投げられた。刀は抜かれ、弓は放たれた。覆水二度と盆には返らず。それでもやる?」
存在感を消していた信龍が問う。全員の視線は信繁に集まった。
「もう、後戻りは出来ないわ」
「そう。死の匂いは今はしない。これが正しい選択なのかもしれないね」
信龍はそう言いながら立ち上がる。
「おや、どちらに?」
「貴女に関係ある?貴女からは熟しすぎた果実のような匂いがする。裏切りの匂い」
「まぁ、酷い。いつ私がそのような事を?」
「まだ。でもこれからする。必ず。私は貴女を信用しない。例え姉上たちが信用しても」
「あらあら嫌われたものですねぇ」
それには答えず信龍は普段の眠そうな雰囲気など消し飛んだ冷たい目のまま、信君の横を通り抜けていった。
信龍の勘は鋭い。あの子の"匂い"は正確だ。信君には注意が必要なのかもしれない、と信繁は思った。
信虎追放の陰謀は周到に進められた。成功の要因は四つ。一つは山本勘助と猿飛佐助が旧知の仲だったこと。二つ目は信繁が四天王を説得できたこと。三つ目は信虎が諏訪頼重に引き留められ飲み続けていたこと。これはかなり大きな原因で、飲み続けていたため二人は張り巡らされている陰謀に気付かなかった。そして、四つ目。最後の要因は、太原雪斎と今川義元のところへギリギリで書状が届いた事であった。
雪斎は男に乱世は任せられない。可憐で雅な姫こそが、天下を治めるには相応しいと考え、姫武将に泰平の望みをかけていた。そして、それに相応しいと見出だされたのが今川義元だったのである。能力の不足は自分が補えばいいと自信家の彼は割りきっている。
「これは親子喧嘩ですなぁ」
大酒飲みの雪斎はこの日も遅くまで飲んでいた。
「あらあら、でも勝千代さんは気弱な女の子なのでしょう?やられたらやり返すなんて、らしくありませんわね」
「窮鼠かえって、とも言います。父娘いずれかを選ばざるをえなくなった家臣団が勝千代殿を選んだのでしょう」
「どこの大名家も家督を巡って争うのね。けれど、妾が目指すは京!甲斐などに興味はないですわ。どうしましょう」
「信虎殿を引き取れば、武田はこちらへは攻めてこないでしょう。父親と妹を預けた家を攻めるなど、あってはならないこと」
「じゃあ、信虎さんを引き取りましょう」
「ただ、勝千代殿の急変ぷりがいささか気がかりですが」
「いえいえ、あの子は追い詰められて切れただけですわ。甘くて気弱だからこそここまで追い詰められたのですもの」
確かにそうだが…と雪斎はいぶかしむ。勝千代が化ければ上洛は厳しくなる。そもそも、これほどの献策ができる者が甲斐にいたのか?信虎殿を除いて。と雪斎は不安を感じないでもなかったが、信虎が自らを犠牲にした罠を張るとも考えにくかった。彼の警戒はむしろ北条に向いている。
「ふうむ。甲斐の若虎を野放しにするよりも駿河で猫にしてしまいたかったのですが…。だがあの才を腐らせるのは惜しい。武人になりきれぬ拙僧は迷いますな」
「簡単なことですわ。考えてもごらんなさい。信虎さんは初老。娘の勝千代さんの方が長生きするでしょう?長生きする方に恩を売った方が得ではなくて?」
必ずしもそうとは限らないが、確かに常識的に考えれば信虎の寿命の方が先に尽きるはずだった。
「勝千代殿が駿河に目を向ける余裕ができる前に上洛してしまえばこちらのもの。拙僧もキリキリ働かねば」
雪斎は、危険でも天下を治めるには賭けも必要だ、と頷いた。
夜は明けた。すべての準備は整った。甲斐と駿河を繋ぐ中道往還の右左口峠にて、両家の手勢は接触する。
武田方には勝千代を始め、信繁・太郎・孫六・信龍、そして四天王と穴山信君が勢揃いしている。その一行の中には不機嫌そうな顔の信虎も混ざっていた。
信繁から「姉上は駿河行きを承諾され、私に家督を譲る決心をなさいました。これが今生の別れ。どうか、共に見送っては下さりませんか。もし叶わぬのなら、私も共に駿河に参ります。」 とまで言われればさしもの信虎も断ることは出来なかった。勝千代に厳しい分、信繁には甘かった。
だが、用心深い信虎は勝千代が何事か企んでいた時の対策と、当主が出る事への警備の意味を兼ねて四天王にも出馬を命じていた。信君はどこからか情報を聞きつけ勝手に付いてきたが、大方自分に媚を売るためだろうと考えていた。
よもや、四天王も子供たちも勝千代を支持しており、自らを追放する陰謀を巡らせているなど、毛頭考えていなかった。しかも、黒幕とも言える勘助は諏訪頼重を送り返す任務についており、いない。怪しげな新参がいれば信虎も警戒したが、そうでない以上気付ける筈がなかった。暗殺失敗を知った諏訪頼重は慌てて甲斐を出発した。
「だが……よくぞ決心した。勝千代よ。しばらく駿河の海を楽しんでくるとよい」
自分の娘を見つめる瞳には、意外にも瞳を潤ませている。娘を殺さずに済んだと安堵しているのだろうか、と勝千代は思った。一門は殺さない。それが武田家の掟である。
「父上。あたしは駿河の太原雪斎殿のもとでまつりごとについて学んで参ります」
「そうするがよい。あれは酔狂な坊主で姫武将の育成を己の生き甲斐としておる」
「海を堪能してきます。海とは風光明媚なものだとか」
「うむ、好きにせよ。心身をすり減らす武将稼業などやめて、定と共に駿河にてのんびりと過ごすがよい。お主の好きな読書も好きなだけせよ。それがお主の為だ」
「父上……?」
「儂にはわかっておる。戦とは狂わねば出来ぬ。狂い続ければ、お主は心を蝕まれ命を縮める。息災に生きたければ、戦の事など忘れよ。」
初めて聞く父親からの優しい言葉だった。だが、もう迷ってはいけない。引き返せないところまで来てしまったのだ。父上は感傷的になってるだけだと勝千代は自らに言い聞かせた。
「……父上。あたしは」
「もうよい。行け」
信虎が目を伏せたその時だった。
「武田陸奥守信虎殿。これより駿河に来ていただく」
今川方の侍は信虎の乗った馬を囲んでいた。信虎は訳がわからず思考が停止していた。
「これは、どういう事だ?約束が違うぞ。駿河へ参るは儂ではなく勝千代のはず」
「主命は、信虎殿を迎えよとのことでございました」
「次郎?勝千代?これはいかなることぞ?」
勝千代は胸に込み上げる様々な感情が邪魔をして言葉が出ない。察した信繁が「父上には隠居していただきます」と告げた。
「何だと、どういう事だ太郎?」
「親父殿、すまねぇ。駿河には俺も遊びに行くからよ。しばらく定のところで遊んでてくれや」
太郎は手を合わせて信虎を拝む。
「姉上とよりが戻るまで駿河で頭を冷やしてくれや」
「な、なんたること!孫六っお主はどうした!」
「えーと、ごめんね。姉上が毎月銭を送るからさ。駿河で後妻でも見つけたらどうかな」
信虎は、この二人では話にならないと憤る。最後の望みを賭けて信龍に目をやる。
「父上。さようなら。いつか、優しさを取り戻せたら、また会いましょう」
「ええいっ!勝千代よ、どういう事だこれは!このような真似…ただで済むと思っとるのかっ?」
「これより武田家は私が守ります。家臣を次々粛清し、信濃一国も切り取れなかった父上には隠居していただきます。」
勝千代は意を決した。信繁ではなく、勝千代自身がはっきりと口にした。その視線の猛々しさに、信虎は震えた。
「四天王!そなたたちは何をぼんやりしておる!これは謀反ぞ、勝千代の乱心ぞ!」
最後の頼みの四天王に声をかけるも、全員が勝千代を支持していると知った。娘の手際のよさに信虎は唖然とするしかなかった。
「大殿。我ら四人は皆、武田家と勝千代様のため戦場で死ぬ所存。どうか、お許し下さい」
「儂が不甲斐ないばかりにこんなことになってしもうた。かくなる上は百まで生きて下され!」
「子供はいつまでも子供ではないと言うことだ」
「あんたは殺し過ぎたのさ。ごめんな」
秘密主義がここで仇をなしたことを信虎は思いしらされた。諏訪頼重がいなければ気付けたものを!儂の最大の過ちはあのような輩を一族に引き入れたことよ。あやつは討たねばならなかった、と信虎は歯軋りした。
「穴山、お主は…!」
「私も死にたくはないのです。生き残るため最良の道を選んだまで」
腕に覚えはある。しかし、一門不殺の掟は破れなかった。
「諫言した家臣を殺す悪習は今日で終わりです。いずれ内藤や山県も復活させます」
「勝千代よ!何が望みか。父を追放してまで何を成すのか!」
勝千代は答えなかった。だが、その目には確かな炎を見た。まさか、今川に聞かれたくないような大望を持っているのか。こやつ、上洛を…考えているのか。いつの間に我が子はここまで成長した?儂の叱咤のせいか?
それに信繁も…。無欲な娘だった。親孝行な子だった。それがどうして…
「出来ることならもっと姉上と話し合っていただきたかった。そうすれば姉上の器を理解していただけたはず。おさらばです」
次郎よ、それは違う。こやつは合戦の地獄のような有り様に耐えられぬ。臆病者とはそういう意味だっ!と信虎は叫びたかった。今川方の侍が馬をせき立てる。最早甲斐へは戻れないのだろうか。
「おさらばです。父上。これからあたしは武田晴信と名乗ります」
「ええいっ!儂を追放したからには必ずその野望を成し遂げよ。死ぬなど許さぬ。お主より生きて、その帰結を見てやるわっ!四天王、お主らは武田家の為に死ね。よいなぁっ!」
信虎最後の咆哮だった。武田勝千代改めて晴信。策略と人望。相反するとも言えるこの二つを一度に示していた。
次は頼重ね…と晴信は呟く。禰々を泣かせるが、自分を殺そうとした男を放置は出来ない。
自らの重石だった信虎は去った。だが、晴信の心には寂寞たる風が吹いていた。この悪行は千年先まで伝わるだろう。果たして武田家は団結を保てるのか?あたしは大切な何かを失ったのではないだろうか?
爽快感ではなく、喪失感のみが残った。
「これで、本当に良かったの?」
空を見上げて呟く。答えは返ってこない。だが、時は戻せない。信虎が自分を認めるその日まで走り続けるしかないのだ。己の野望で自らを焼きながら。信繁が寄り添うように馬を進める。ずっと隣にいてくれた出来すぎた妹だった。
「姉上。私は自分の意思で姉上を選んだの。姉上は臆病者なんかじゃない。私には、後悔はないわ」
この追放劇を成功させた功労者は、家督を望まなかった信繁であることは明白だった。これから二人で天下への道を歩むのね。そう考えると心に温かい光が差し込むようだった。
もう、二人を引き裂く信虎はいない。やっと、姉妹が共に歩める時が来たのだと思うと、もう何もかもどうでもよかった。
「次郎にはこれからも苦労をかけるわ」
「四天王と同じよ。私も姉上のために戦場で散る覚悟はできているわ」
「……あなたはだめ。死なないで」
「依怙贔屓よ、姉上」
「贔屓するわ。あなたが死んでしまったら、こうして父上を追放した意味がなくなる。死なないと、約束して」
「はいはい」
もう泣き虫はやめましょうね、と信繁は姉小路手を握りながら、涙交じりの笑顔を浮かべた。空は晴れ渡っていた。
いつか信虎視点の物語も書いてみたいですね。