ヌメラのいる生活   作:餅は餅や

1 / 1
1.ちいさな来客

 モンスターボールが八個と、プレミアボールが一個。最後にそれを放り込んで袋の口をとうとう縛った。

 旅を終えた今、もう使うこともないものたちだ。少しくらいの寂しさはあるけれど、思い出に取っておくようなものでもない。

 だのにきっぱりと捨てる気にもなれなくて、四五リットルの袋で二つ分にもなった旅ごしらえをひとまず部屋の端に追いやった。

 

 ぱたりとフローリングの床に寝転がる。仰向けのまま腕をかさかさと動かして、ずいぶんとスリムになったリュックを引き寄せた。

 胸の上でくるくると丸めたそれを後頭部にあてがい、なんてしたところで、タイミングの良いやら悪いやら、ふと玄関のチャイムが鳴る。

 

「あー……誰だろ、やだな」

 

 のそのそと起き出して姿見をちらと見た。少しだけハネた黒のセミロングに、うっすらと隈に(ふち)取られた茶色の瞳。

 そこから視線を下げれば部屋着である飾りっ気のない黒のジャージ上下、中には白地のTシャツ──ただし『ど根性オタマロ』のイラスト付き──つまり総じて人前に出るのは躊躇われるライン。

 着替えは、と考えてはたと気づく。そういえば、見られる服装の類いは今すぐ取り出せる位置にないのであった。どこぞの段ボール箱に眠っているか、はたまた洗っている途中か。少なくとも見渡せる範囲には存在しないようだった。

 

 草むらに入るような気分だ。それも一匹の手持ちもなしに。

 ジャージのファスナーを閉め、胸に秘めたオタマロと心中する覚悟を決めた。往生際悪く、手櫛ではねた髪を撫でつけておくくらいはしたけれど。

 

 素足のままスニーカーを履き、ドアスコープを覗き込む。小指の先ほどの穴の先には、はたして誰も居なかった。

 小さなレンズ越しの光景に、ドアノブをひねろうとして、ついでに首もひとつひねった。

 

 少なくとも知り合いではないだろう。なんせ越してきたばっかりで、しかも持ち前の筆不精がたたって誰もそのことを知らないのだから。

 となれば大家か隣人か。壁の薄そうな六畳一間のアパートだ、先ほどまで荷物の整理でどたばたとやっていたのが気に障った可能性もある。

 いやなことを考えた、とげんなりする。謝罪と反省を喉の奥に用意して、やけに重い扉を開け放った。

 

 錆びた蝶番がきいきいと音を立てた。木枯らしの冷えた風が吹き込んで、ジャージの内に滞留していた体温を奪い去って行くような心地がする。

 ドアの向こうのまだ見慣れない景色に目を細める、というより、単に南からの日差しが眩しい。広がった瞳孔を通り抜けた光が目の奥であばれまわって、氷を口いっぱいに頬張ったときのような頭痛がした。それをおくびにも出すまいと、努めて口を開く。

 

「すみません、お待たせしました……?」

 

 誰もいない玄関先。思わずチャイムに目をやると何やら泥混じりのネバつく液体がべっとりとついている。すわ何かのイタズラかと辺りを見回して、足下近くにワインレッドのキャスケット帽がひとつ落ちているのが目についた。

 イタズラ犯の落とし物か、あるいは風に乗って律儀にチャイムを鳴らしたちいさな来客か。どちらにせよアパート共用部の掲示板にでも吊り下げておけば良いだろうか。なんて考えて、膝を曲げたその時──

 

「ぬめっ?」

 

 ──キャスケット帽の下から顔を出したのは、二〇センチほどの丸っこいポケモンだった。

 

「……ヌメラ?」

「ぬめっ!」

 

 上目遣いにこちらを見つめるつぶらな瞳。薄紫色の体表をぬめぬめした粘液で覆ったボールのような一頭身に、体の半分はあろうかという大きな口──ヌメラというそのポケモンは()()()とだらしなく笑って、いくらか大きいらしい帽子を額に生えたツノでしきりに押し上げていた。

 

「わ、かわい……じゃない。これ、チャイム、きみが?」

 

 べとべとになったチャイムを指差して言うとヌメラはこくこくと大きく頷いた。帽子がずるりとずり落ちる。

 指でちょいと戻してやるとヌメラがお辞儀するように頭を下げて、また、ずるり。ぬめ、と悲しげに鳴くのがあんまりかわいくて、にやけそうになる頬を必死にこらえた。

 

 しばしして、さて、と仕切り直すようにヌメラは胸を張った。胸にあたる部位があるかどうかはさておき、そういうふうな動きを見せた。

 

「それで、どうしたの? なにかわたしに用かな」

「ぬめ」

 

 今のは肯定の「ぬめ」か、などと思っていると、いつのまにかヌメラは帽子の中に顔をつっこんでいる。ともすればこのぼこぼこと蠢く布のドームは、小さな体にぴったりの旅ごしらえなのかもしれなかった。

 

 ほどなくして顔を出したヌメラの口にくわえられていたのは、なにやら白くて()()()()の、てのひらほどのかたまりだった。

 ゆるめていた口元をひくつかせ、ありがとうだなんて空々しくも言ってみる。達成感の三文字が得意満面に書かれた笑顔を裏切ることなど出来るはずもなく、おずおずと左手を差し出した。

 

 受け取った白いかたまりがダイレクトに伝えてくる不快感をひとまず横において、その正体に思考をめぐらせてみる。

 もはや摩ったヤマイモのような有様ではあったけれど指にへばりつく繊維質には覚えがあった。むかし何かで見た、植物の繊維を取り出して漉かす光景。これはたぶん、紙だ。

 その右下、あるいは反転して左上には黒いシミが付着していて、材質が紙で正しいとするならばこれはインクだろう。となれば──

 

「これ、手紙?」

「ぬめっ!」

「なんでヌメラに届けさせ……あー……ていうか、あの、ごめん。これなんだけど、にじんでてちょっと読めないかなー、なんて……」

「ぬめっ!?」

 

 驚愕、そして落胆。まさになめくじに塩といった様子で、ヌメラは溶けるように力なくしょぼくれはじめてしまった。

 慌てて口を開く。なんだか泣き出しそうなヌメラを見て、どうにも黙っていられなかった。

 

「ぬめ……」

「あ、や、違う! 読める読める、ぜんぜん読めるよ。だいじょうぶ、届けてくれてありがとうね」

 

 嘘をついた。全然読めない。まったくもって、これっぽっちだって読める気がしない。ボールペンか何かのインクで書かれた文字なのだろうけれど、これではもはやただの黒いシミだ。アンノーン文字の方がまだ読めるのではないか、なんてふうにすら思う。

 

 ただ、もうひとつ、思うことがあった。

 私はここに来たばかりで、ヌメラはたぶん、それよりも前から手紙を届けようとしていた。つまり宛先は私ではなくこの部屋で、顔も知らない前の住人だ。

 言ってしまえば、こんなものは徒労でしかない。届ける相手はもう居ないのに、眼前のヌメラはこの小さな体でぴょこぴょこと無駄足を踏んだのだ。

 しかも運んだ手紙は誰とも分からない女が素知らぬ顔で受け取ろうとしているだなんて、考えるだけで気の重くなる話だった。

 

 ワインレッドのキャスケット帽に右手を置く。ごわごわでぬめぬめの布越しではあったけれど、なんだか少し温かい気がする。

 

 受け取った手紙をもう一度見た。粘液をさんざに吸ったそれは宛名すらインクがぼやけて読めないばかりか、そも封を解くことすら危うく思える。

 そのまま乾かすなどもっての外、粘液でぐずぐずになった白い繊維は今にもほどけてしまいそうなほどだ。

 手紙を運んで来たヌメラを見た。足下どころか体の半分くらいは泥にまみれ、粘液に覆われているにもかかわらず乾いた土くれが付着している箇所すらある。

 きっと長い距離をやって来たのだろう。懸命に歩いた時間は、皮肉なことに手紙に染み込んだ粘液の量が証明している。

 

 その結末が人違いなんて、こんな報われない話があるか。

 

「……うん、せっかくだし上がってってよ。まだなんにもないんだけど、ご飯くらいなら出せるから」

「ぬめ?」

 

 まず手紙の確認。それで何かが分かればよし、分からなければ大家なり隣人なりに聞いてみるところから。目の前で小首を傾げるポケモンのために、私に出来ることはそれなりにありそうだった。

 

 ∩  ∩

( 0 °〜°0 )

 

 ところ変わって浴室。ご飯の前にまずはヌメラをきれいにしよう、なんて意気込んだは良いものの。水色タイルの床にしゃがみ込み、蛇口を前にして唸っているのが残念ながら現状であった。

 

「おのれドラゴンタイプ……」

 

 濡れないよう透明なビニールの袋に入れたスマホを横に置き、ふがいない検索結果に悪態をつく。どうやらヌメラ種はドラゴンタイプの例に漏れずそもそも生息数が少なく、また飼育難度も高いらしい。検索ボックスに放り込んだ『飼い方』のワードでは望む情報は引き出せないようだった。

 

「とりあえず水で洗っちゃおうか。石鹸は使っていいやつか分かんないし」

 

 視線を落とすと白いホーロー引きの風呂桶に入ったヌメラの姿がある。ただし、その頭にキャスケット帽はなく素のままのヌメラだ。

 シャワーのレバーを捻る。ぬるま湯ならば問題はあるまい、とたかを括って、くっついていた落ち葉などを取りつつ水の温度が上がるのを待った。

 

 人肌くらいの温度になった水を指に伝わせてヌメラの頭にかけてみるも、これではどうやら熱すぎたらしい。ぬめっ、と短く悲鳴をあげて風呂桶から跳びすさるヌメラに慌ててあやまりつつ、温度調整のレバーをまた捻る。

 そうか、外温性。調べた情報の中に、ヌメラ種は体温が気温などの環境によって変化する性質を持っているとあった。帽子越しの接触では分からなかったけれど、晩秋も近いこのごろ、ヌメラの体は相当に冷えていたはずだ。

 そも、ヌメラは日中ですら水分を失うのを嫌って日陰にじっとしているようなポケモン。人間の基準でのぬるま湯はヌメラにとって熱湯もかくやであったに違いない。

 ポケモンという生き物のことなのだ。安易に考えるべきではなかった、とほぞを噛む。

 

「ごめん、熱かったね。……このくらいならどうかな。熱くない?」

 

 最低まで温度を下げたシャワーをちょろちょろとヌメラに向ける。先のこともあってかおそるおそるではあったけれど、ヌメラは足──節足のようなそれではなく、あくまで部位としての──を伸ばして浴室の床を流れる水に触れた。

 

 

 

 ややあって、ヌメラは風呂桶を小さな浴槽に見立てて透明な水に浸かっていた。水を入れ替えること七回、ようやく水の濁りも取れた。

 鼻歌でも聞こえてきそうなほどに満足げな表情を浮かべ、だらりと体を弛緩させているヌメラ。タオルでも額に乗せてみようか、いや、布地に吸われきってしまうかもしれない。そんなことを思うくらいには、どろどろした液体のように溶けていた。

 

 目を閉じてくつろぐヌメラをよそに勢いよく立ち上がると、固まった膝が悲鳴をあげて思わず喉から鈍い声が漏れた。こちらを向いたヌメラに引きつった笑顔を返して、取り繕った声をかける。

 

「うん、きれいになったね。そろそろ出よっか、ずっと水に浸かってるのも良くないと思うし」

「ぬめ?ぬ〜め」

「よしよし、拭いてあげるからじっとしてて」

 

 ぴょんと風呂桶から飛び出したヌメラに、真っ白なタオルをあてがう。

 ところが。当然と言えば当然の話なのだけれど、粘液をすべて洗い流した訳でもなし、軽く水気を取るつもりであてがったタオルには薄緑色の粘液がべっとりと付着していた。予定変更、風呂桶から水を拭き取り、そこに戻るようヌメラに頼む。

 ヌメラが入るサイズの防水加工がなされた器はおそらくこの風呂桶しかない。荷物に侵食された六畳一間のフローリングを思えば、ヌメラにはそれこそ泥をかぶってもらうしかなさそうだった。

 

 ホーローの刺すような冷たさを両手に味わいつつ短い廊下を歩く。幸いなことにヌメラは私のことを愉快なアトラクションか何かだと思っているようで、胸の前に持った風呂桶のふちから楽しげに顔をのぞかせては引っ込めてを繰り返していた。

 

 ラグも何も敷かれていない剥き出しのフローリング。その真ん中にぽつんと配置された横長の座卓と、風呂桶を取り出すために封を解いて放置した段ボールが数箱。

 そこに旅の荷物だったものたちを二袋ぶん加えた、簡素にすぎるワンルーム。それこそが私の新たな住処だった。

 

 座卓の黒茶の天板には白い長方形──先だってヌメラに受け取った手紙が置いてある。ヌメラを連れて家に戻った折、あまりにも脆くくずれそうだったためにひとまず置いておいたものだ。

 見ればほんの少しは水分が飛んでいるようで、依然でろでろとしてはいたけれど、封筒と便箋の分離くらいならばなんとかこなせそうな様子ではあった。

 抱えていたヌメラ入りの風呂桶を天板に置き、手紙へと手を伸ばす。

 

 はたして取り出した手紙は、案の定と言うべきか、読むことが出来る代物ではなかった。

 薄い植物紙の便箋はあちこち貼りつき、ちぎれ、カビのようにまだらなインクがあちこちでシミになっている。寒天培地めいた、糸をひく粘液漬けの白いかたまり。およそ人の怖気を掻き立てる要素がこれでもかと詰まったそれに、えずきにも似た感覚が背すじをさすった。

 手紙が貼りつかないよう、崩れないよう、なんとか広げて両の手のひらに乗せる。つまんだ瞬間破けてべちゃり、その光景が目に見えていたために。()()()()なんてオノマトペは一切合切知らないのだ。そういうことにした。

 

 ふむ、ふむ、なるほど。白々しくもそんな言葉を吐く。目で文字を追うふりをして、滲んだ青黒いインクを視線でただなぞる。

 

「……読んだよ、ヌメラ。届けてくれてありがとうね」

「ぬめっ! ぬめっ!」

 

 ヌメラの顔に浮かぶ喜色満面の笑み。なのにどうにも、目を合わせることが出来なかった。

 ヌメラは自身が風呂桶の中にいることも忘れてか、その喜びを表すように飛び跳ねた。風呂桶ががなりたてるように鳴り、危ないのとうるさいのとで苦笑して、やんわりと制止にかかる。

 

 その時だった。ヌメラが風呂桶のふちに着地して、ひっくり返るように座卓から落下したのは。

 

「あぶなっ……!」

 

 座卓の長辺に私、右方の短辺にヌメラ。だから座卓に飛びこむようにヌメラへと両手を咄嗟に伸ばした。手のひらひとつ分の距離の先に、状況が分かっているのだかいないのだか、口をぽかんと開けてヌメラが逆さになっている。

 座卓のふちで腿を、かどで薄い腹をしたたかに打った。自然、体は右へ倒れ込む。酸欠めいて神経の鈍麻するのを感じ、貧血じみて唇の凍りつくのを覚え、それでも手だけは伸ばしたまま。

 やがてフローリングに体を投げ出す形にはなったけれど、手のひらには確かに冷ややかな感覚があった。少し遅れてぬるりと粘液が皮膚を撫で、なんとか間に合ったと胸を撫で下ろす。

 腿が訴える鈍い痛みであったり、胃袋からこみあがる吐き気であったり、あるいは達成感にも似た安堵であったり。そんな綯交ぜの頭の中を、深く吐きだした息に乗せた。

 

 ほうほうの(てい)で顔を上げ、両の手のひらの上で目をぱちくりさせるヌメラをみとめた。瞬間、突如ヌメラが赤い光に包まれたかと思えば、光もろともに掻き消え──なぜか床に転がっていた真っ白なボールに吸い込まれていく。

 

「……へ? あ、え? えっ、ちょっと待って!」

 

 てん、てん、てん。訳もわからぬままプレミアボールが三度揺れ、無情にも鳴り響く捕獲完了のファンファーレ。そういえばそんな機能もあったっけ、と思うのは現実逃避だろうか。

 

「なんで? 人のポケモンじゃ……」

 

 そんな言葉がするりと口をついて出た。ワインレッドのキャスケット帽、でろでろの手紙、明らかに人馴れしたヌメラ。今まで見てきたもの全てが目の前のできごととちっとも符合しない。

 混乱、そう、混乱している。ヤドンよりよっぽどノロマになった頭からはうんともすんとも応答がない。何のせいだかも分からない冷たい汗が頬をしとど伝っている。

 

 転がったプレミアボールを手に取り、ボタンを押した。赤い光に形作られるようにボールから繰り出されたヌメラはまたもぴょんぴょんと跳ね、当然、抗議の意を示すような顔を──違う。

 首を振る。わけがわからなかった。なんせヌメラの顔に浮かんでいるのは怒りではなく、紛れもなく喜びの表情だったから。

 

「……ええ?」

 

 ぬめっ、ぬめっ。鼻歌のような鳴き声と、床を叩く粘液の水気を含んだ音。情報量にパンクした頭で、蚊の鳴くような声を漏らした。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。