83年度の内閣改造で新しく民政尚書に任命されたフェルディナンド・ブリューニングはヴェルテーゼ離宮一階会議室にて深くため息をついた。自分の周りの閣僚が国家維新評議会、統合派の人間ばかりだからではない。議題が議題だからである。
バーラト自治共和国帝都駐留高等弁務官キースリング氏は一つの書類を国務尚書フォルベック中将に手渡した。それは兼ねてから帝国政府が期待していた食料供出に対する回答であった。
結論から言ってしまえば良い意味で予想外の結果が返ってくることとなった。合成食料とその製造機器に加え、ブラウンシュヴァイク熱のワクチンと特効薬の試作品が送られてくるのだ。それと引き換えの条件に目をつぶればの話だが。
バーラト政府の要求はこうであった。これらを提供する代わりに賠償金の大幅減額、可能であるならば一年から四年の支払い猶予を認めること。
当然ながら獅子の泉宮殿は大騒ぎになった。これを呑めば人類統一政権である帝国の威信が大きく落ちることになりかねないからだ。共和主義の一自治領がこれを要求してきたことも、愛国者達のはらわたを煮えくり返らせた。
ブリューニングがため息をついたのはこれだけではない。なんと自治共和国政府はブルック氏の伝手を使って極秘に圧力をかけてきたのだ。曰く統合派政権の中で唯一の開明派である貴殿が生き残るにはこの案を支持するほかないだろう、と。
「密約」の伝手が悪い意味で使われた形となった。おそらくシモンズ政権は「密約」の存在を解像度は知らないが掴んでいるだろう。
現在彼の周りの閣僚たちの間で紛糾しているのがこの話題であった。ブリューニングが見てみるに賛成意見よりも反対意見の方が勢いを増しているのが見てとれた。
「こんなもの呑むべきではない!一自治領の、それも共和主義者の足元を見るような要求など!帝国の沽券に関わる!」
力強く熱弁を振るうのは司法大臣のファルケンホルストである。相変わらずの根っからのタカ派愛国官僚である彼は何よりもイデオロギーを重視する人間であり、正直言ってブリューニングが最も苦手とする人間であった。
「しかし司法尚書殿、今や帝都でさえ餓死者の死体が溢れ、感染者が横行する始末。ここは臥薪嘗胆、ぐっと堪えて受け入れるべきではないのか?」
穏健な反対意見を表明したのが国務尚書のフォルベック中将である。この中ではわりかし付き合いやすい方であった。
「国務尚書の言う通りです。もし今ここで提案を受け入れなければ被害はネズミ算式に拡大することは目に見えています。受け入れるべきでしょう。」
ブリューニングはフォルベックの意見に同調した。
食料はもちろんのこと、ワクチンの試作品は帝国のためを考えるならここで手に入れておきたい。今の帝国本領の医療水準ではワクチンを一から作るのに10年以上の時間を要するだろう。新領土から手本だけは手に入れておきたい。
だがなによりも反対意見を明示している人間がいた。議長ルーデンドルフ上級大将である。
「ならん!絶対にならん!一自治領如き、それも共和主義者の要求を呑むことなど!時代が時代なら、艦隊を動かしてもまだ足りんわ!」
ルーデンドルフはその太い両腕をチーク製の長机にばん!と叩きつけながら叫んだ。確かに帝国のためを思うならこのような美味しい提案は呑むべきだろう。
しかし、長年帝国を守ってきた軍人としての、獅子大帝後に続くものとしてはすごぶる不満であった。共和主義者の提案を呑むことなど、あってはならないのだ!
「議長閣下の言う通りです。バーラトの賠償金及び駐留料は帝国の現時点における有力な財源。それに新領土を帝国に繋ぎ止める鎖の一端を果たしています。短期的な利益に釣られて長期的な利益を見逃す。これほど馬鹿馬鹿しいものはありますまい。」
理路整然と反対意見を述べたのは財務尚書のホレス・グレイリー・シャハトマンである。元帝国中央銀行総裁でありフェザーン有数の企業の持ち主である彼は経済政策に疎い軍人たちの経済的な支えを行なっている人物であった。
「それに彼らを調子付かせるという恐れもあります。今ここで呑むとしたら次も同じことを要求してくるに違いありません。そうですな、次は帝国本領の産業的防壁たる関税についてとやかく言ってくるかもしれません。」
シャハトマンはそう言いながらタバコを灰皿に押し付けた。新領土に対する高関税、通称「アレクサンデルの防壁」は帝国本領の経済を守る障壁である。
もしバーラトが帝国の足元を見て機を見てそれを要求してくるような事態になればどうするのか。防壁が破られれば新領土の商品が流れ込む事態になり、実質乗っ取られる形になるだろう。
「しかし帝国の現状を鑑みれば呑まないという選択肢はあり得ないでしょう。軍によってなんとか暴動を未然に防いでる状況ですよ?条件の改正などはできなかったのですか?」
「やってはみたんだがこの条件でなければ今回の支援は見送らせていただく、と言う返事だ。」
「プライドだけでは食ってはいけますまいよ。」
「鎖が緩むような事態はあってはなりません。」
「なんとしても呑むべきではないのだ!バーラトの増長は目に余る!」
「ああ、もうどうすれば…」
会議は踊る、されど進まずとはこのことだろう。実利とイデオロギーを天秤にかけた議論は遅々として進まなかった。
結局結論として最終的な意見をカイザーの決定に委ねると言う決定を、議長ルーデンドルフは下すこととなった。
「…なるほど。」
皇帝フランツ一世は眼前で平伏している軍人、ルーデンドルフから手渡された一枚の書類に目を通していた。バーラト自治共和国政府からの支援と引き換えの要求をしたためた文章である。
確かにルーデンドルフらの議論が紛糾するのもよく分かる。要は帝国の弱みに付け込んで恐れ多くも新領土の一領邦に過ぎない政府が色々と要求してきたのだ。
(しかしここでこんな面白いことが起きるなんてね。)
フランツは書類に目を通しながらほくそ笑んだ。まさに寝耳に水とはこのこと。この時ばかりは信じてすらいない大神オーディンに感謝するほどであった。
(普通なら呑まないけど…ここで呑んでみたら面白いことになりそうだな。バーラトは最近軍拡をしていると聞くし。)
虐待児のカイザーはまたしても世の中を掻き乱すような決断をすることに決めたようだ。彼は書類から目を離しルーデンドルフに仄暗い目を向けた。
「彼らとこの条件で締結しよう。」
「な、なんですと!?陛下、本気なのですか!!」
ルーデンドルフがカイザーの決断に飛び上がるほど驚いたようで目をひん剥いでこちらを見つめていた。
「ああ、本気だ。少なくとも帝国の現状を鑑みれば、な。」
これは嘘でバーラトが帝国という秩序を掻き乱すのを手伝いたいという後ろめたい理由があることをルーデンドルフは知らなかった。
もし知るようであれば間違いなく叩き殺されるだろうな。なんと言う大逆か。フランツは考えるだけで笑いそうになったがなんとか堪えた。
「イゼルローン近辺での食糧危機は帝都に餓死者が出るほどの規模であり、その回復には数年要すると聞く。これによる経済被害は計り知れないものになるだろう。ひょっとしたらどこかで民衆の堪忍袋の尾が切れて革命が起きかねないかもしれない。古今東西、革命とは食料不足で起きたのだからな。」
確かに歴史を鑑みるに革命はイデオロギーではなく食料不足で起きた。
古代フランスやロシアで起きた革命は記録的な不作や戦時体制による食料不足により起きたと言っても過言ではないし、あのルドルフ大帝期の共和主義暴動もその決起に記録的飢饉が大きく関わっていると学んだ。
変わった形ではコルネリアス一世の大親征に関してでありこれ以上の食料供出を恐れた一部貴族が私兵を引き連れて宮廷革命を起こしたとある。ルーデンドルフはこの青年帝の下した決断が英断に思えてならなかった。
最もこの口上はフランツが培われた天性の表現力で適当にでっち上げたものであり、ルーデンドルフはそのことを知る由もなかったが。
「さらに先帝とその皇太子を害すまでに至ったブラウンシュヴァイク熱は依然として猖獗を極めており経済活動に依然として大きな影響を与えている。現にいくつか大企業が倒産しているであろう。座視できるものではない。」
フランツはさらに弁を振るう。これも天性の表現力ででっち上げたものであった。
「朕は革命という概念そのものを許さぬ。出来るなら辞書から消してしまいたいのだ。帝国が炎に包まれ人民が苦しむようなことはあってはならぬ。それを照らしてみるにこの申し出はまさしく天からの助けと見なすことができるではないか。故に、私はバーラト自治共和国の要求を呑もうと考えている。」
ルーデンドルフは彼の熱弁に感極まったようで涙を流していた。フランツはそれを見て馬鹿馬鹿しく感じた。
「陛下にそのような志があろうとは…民を思うその心、臣はいたく感極まりました。」
統合派は所詮はロマンチストだ。このロマンチストの集まりが5年も政権を動かしてきたのだ。よくもまあ破綻が来なかったものだとフランツは内心感心した。いや、今がもう破綻かもしれないが。
「ともかくだ。余はこれを呑もうかと考えている。何、これもひと時の我慢だ。かの大帝でさえ臥薪嘗胆の時があったのだ。今がその時だと思い、努力する。後世の人民のために私は喜んで涙を呑もうではないか。」
フランツは感極まる重臣に向かってそう声をかけた。最も彼は後世の人民のためなど一ミリたりとも考えておらず、全ては彼にとって面白い世の中、混沌の世の中を見たいがためであったが。
「すぐに外交団を結成し交渉に向かわせます…!!陛下の御身心を無駄にしないためにも…!!」
ルーデンドルフは咽び泣きながらそう言った。
新帝国暦83年3月5日。一つの条約がここに結ばれた。
食料とワクチンの提供を受け入れる見返りとしてバーラト自治共和国に課せられた賠償金の大幅減額、並びに二年の支払い猶予を設ける。
一領邦に過ぎない共和国が巨大な帝国に対して対等な条約を締結したのだ。
締結地から「シャンプール条約」と名付けられたこの条約は後世から見ると帝国の終わりの始まりと捉えることが出来る。バーラト自治共和国にニ年という大きな猶予時間を与えることになったからだ。
ニ年の猶予を得た自治共和国は賠償金に充てられた資金を経済と軍事に集中させることになり、新領土内での彼らの影響力がこの日を境にさらに高まることになった。