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蝶屋敷が鬼達の襲撃によって混乱している頃、伊之助は童磨に挑んでいた。
獣の呼吸 弐ノ牙 切り裂き
刀を×の字に交差させての斬撃。
伊之助は現在、ギリギリで上級隊士の地位ではない下級隊士であったが、その技の練度は明らかに上級隊士クラスのものであり、見方によっては準柱にすら匹敵する。
ちなみに今の伊之助の強さは、技量では遊郭編時より少し上だったが、上弦の陸戦を経験していないこともあって、全体的な戦闘能力は原作の同時期より僅かに劣っていた。
しかし、それでも腕はかなりのものになっており、おそらく下弦の鬼クラスならば単独でも互角に戦えるだろう。
だが、今相手にしているのは上弦の中でも2番目に強い童磨。
伊之助が放った斬撃は血鬼術を使うまでもなくあっさりとかわされる。
「見たことのない技を使うんだね。もうちょっと強かったらヤバかったかも」
笑いながらそう言う童磨。
しかし、実際は言うまでもなく余裕だ。
童磨は無惨の信頼を受けておらず、血を分け与えられていないため、その実力は原作と変わらないが、それでも今の伊之助を圧倒するのには十分な実力を持っていた。
「うるせぇ!」
獣の呼吸 参ノ牙 喰い裂き
一瞬で相手の懐に飛び込んで2刀で相手の頸を切断する技。
獣の呼吸の中でも攻撃技に限って言えば最速の技でもあった。
だが──
「おっと」
それすらも童磨は軽々とかわしてしまう。
「くそっ!」
「ははっ。そんな速さじゃ当たらないよ。ところで君凄いね。粉凍りを喰らっていないなんて」
童磨は伊之助が粉凍りを防いだことを称賛する。
先程から童磨は何時も通り、粉凍りを周囲に巡らせているのだが、伊之助は鋭い触覚で冷気を察してその空間から飛び退いていた。
鬼には全く効果が無いに等しいこの粉凍りだが、呼吸使いの鬼狩りにとっては相性が最悪であり、童磨の知るところでこれを初見で破ったのは、4年前に会った
まあ、正確にはお面の剣士の方は知っていて防いだので、本当の意味の初見で破ったのは伊之助が初めてだったのだが、それを童磨が知るよしはない。
「それに、なんでそんな変な被り物をしているの?」
「はっ、これはな。俺が山の王である証なんだよ」
童磨の言葉にそう返答した伊之助。
しかし、その直後、とあることに気づいた。
(ん?なんで、俺、被り物してねぇんだ?)
そう、つい今しがた童磨に返答するまでには確実にあった猪の頭の被り物がいつの間にか無くなっていたのだ。
そして──
「へぇ、よく出来た被り物だね。年季が入ってる」
その被り物は童磨の手の中にあった。
(・・・は?)
伊之助は何が起きているのか分からなかった。
それはそうだろう。
自分が被っていた筈の被り物がどういう経緯を辿って童磨が持っているのか分からなかったのだから。
しかし、その答えは物凄く簡単だ。
滅茶苦茶速く動いた。
ただそれだけである。
原作では五感組の中で一番の視力を持っていたカナヲでさえ捉えきれず、周囲の動きを敏感に感じ取る伊之助の触覚でさえ捉えきれなかったその速さ。
当然、それはこの世界でも健在であり、原作で対峙した時よりも弱い今の伊之助が彼の動きを捉えられる道理は無かった。
「それに君の顔。なんだか見たことあるなぁ」
「あっ?てめえみたいな蛆虫と会った覚えはねぇ!!とっとと俺の被り物返しやがれ!!」
「いやいや。俺は記憶力が良いから、ちゃんと人間の頃ですら覚えているよ。う~んとね」
そう言うと、童磨は突然自分の頭に指を突っ込み出す。
「・・・なにやってんだ?お前」
いきなりの意味不明な行動に困惑する伊之助だが、童磨はそれを無視して作業を続ける。
今童磨がやっているのは記憶を掘り起こす作業だ。
一見、無惨にしか出来ないように思えるこの行為だが、実は無惨でなくとも鬼なら誰でも出来る事だった。
実際に童磨は原作でもやっているし、愈史郎に至っては無限城の戦いで鳴女に対してこれをやって一時的ではあるが、鳴女を操っている。
「・・・・・・ああ、やっぱりそうだ。15年前か。割と最近だね。君、やっぱり琴葉の子供でしょう?」
「あっ?誰だ、そりゃ?」
「誰って・・・君の母親だよ」
「俺に母親は居ねぇ!俺は猪に育てられたんだ!!」
「いやいや。君は人間なんだから、猪から生まれてくるわけ無いでしょ」
少々呆れたような感じで童磨はそう言った。
人間が猪から産まれるというのはあり得ない。
それは生物学上において当然の理屈だ。
更に言えば、人間と生物的に近い猿やゴリラですら、人間の子供は生まないのだ。
それよりも遠い猪が産む筈が無かった。
「うるせぇんだよ!!とっとと返しやがれ!!」
獣の呼吸 参ノ牙 喰い裂き
伊之助は先程と同じように最速の攻撃技で童磨に斬りかかる。
しかし、それすらも童磨にあっさりとかわされてしまう。
「話している途中で斬りかかるなんて酷いなぁ。まあ、いいや。それより君の母親の事だけどね。喰うつもりなんて無かったんだよ。心が綺麗な人間が傍に居ると心地良いだろう?」
そう言いながら、童磨はあの時の事を語り出す。
「お母さんは頭が良くなくてね。でも、綺麗だったし、歌は上手で、よく君を抱いて歌っていたよ。ゆーびーきりげーんまんって。そればっかり君にね」
「!?」
その言葉を聞いた伊之助はなにかを思い出す。
『ゆびきりげんまん』
『お守りしましょう。約束しましょう。あなたが大きくなるまでは母さん一人で守りましょう』
『ごめんね、伊之助』
『寂しい思いをさせるけど、父さんの分も頑張って母さんが守るからね』
『命に変えても』
『伊之助は母さんが』
『守るからね・・・』
それは赤ん坊の頃の記憶。
普通の人間は誰でも赤ん坊の頃の事など覚えているわけはない。
しかし、伊之助は無意識のうちにその覚えている筈のない赤ん坊の頃まで覚えていた。
「まあ、途中で信者食べてるのがバレちゃってね。それでちゃんと俺の善行を説明したんだけど、聞き入れてくれなくて、寺院から逃げ出しちゃったから食べちゃった」
童磨はあまりにもあっさりと伊之助の母親にしたことを話す。
彼にとってその事に罪悪感などない。
童磨は無神論者であり、神など居ないと思っているが、自分の中で生きるという事は幸せなことなのだと本気で信じていたからだ。
実に狂った思考だったが、今から80年後くらい後に、とある宗教団体が地下鉄にサリンをばら蒔くなどの所業を行うことを考えれば、狂った教祖というのはみんな同じような考え方をするのかもしれない。
「てめぇ・・・」
童磨の言葉と思い出した記憶に段々と腹を立てる伊之助。
それは母親を殺されたという怒りを今更ながらも思い出したからであり、彼の人を殺す事をなんとも思っていない態度に腹を苛立ったからでもあった。
しかし──
「いい加減にしなさいよ!!」
ここで伊之助以上に怒った人物が存在した。
そう、神崎アオイだ。
彼女は突然の鬼の出現に恐怖で動けなかったこともあって、先程から伊之助と童磨の戦いを見守る立場だったのだが、童磨の伊之助の母親についての説明に怒りを感じ、その恐怖心は完全に薄れていた。
「あなた、人の命をなんだと思ってるの!!あなたがやったことはただ他の人を悲しませたりしているだけじゃない!!」
「心外だなぁ。俺は信者の救済をちゃんとしているんだよ?」
本当に心外だという風に童磨はアオイに抗議する。
当然だろう。
童磨からしてみれば善意で人を食べることをやっているのだから。
しかし、そんなものはアオイからしてみれば狂人の戯れ言でしかない。
「そんな狂った思考での救済なんていらない!!そんな考え方で人を救えるなんて、大間違いよ!!それに、そんな心の籠っていない感情で言われても説得力は無いわ!!」
「・・・」
途中まで笑って聞いていた童磨だったが、最後のアオイの言葉には顔色を変える。
そう、感情の籠っていないという事実は彼が一番気にしていた事だったからだ。
「なんでそんな意地悪な事言うの?」
「決まっているでしょ。あなたの考え方が嫌だからよ」
「ふーん」
童磨はアオイの言葉にそう返答するが、その表情には先程と違って僅かながら怒気が見られた。
「俺も君が嫌いになったよ。分かった、今すぐに琴葉の子供と一緒に・・・ん?」
2人纏めて殺そうと考えた童磨だったが、その時、脳裏に入ってきたある情報によって、それは取り止めとなった。
「・・・残念。もう時間切れみたいだ。でも、覚えておいてね。君たちは必ず俺が殺すから」
感情のない冷めた声で童磨がそう言った直後、琵琶の音がなり、障子が出現し、彼は回収されていく。
ちなみに先程の情報というのは一時的に童磨の配下となっていた鬼達が炎柱や態勢を建て直した鬼殺隊士達によって駆逐されたという情報であった。
童磨がやられなくとも、投入された鬼達が全滅する事態となったら、速やかに回収するように無惨は鳴女に言い渡していたのだ。
「なっ!おいこら待て!!」
慌ててそれを追いかけようとする伊之助だったが、当然間に合うわけもなく、障子は閉じて童磨は蝶屋敷から完全に姿を消した。
そして、後にはアオイと伊之助の2人が残される。
「くっそぉ!!!」
伊之助は仇の鬼を逃してしまったことに苛立ち、刀を思いっきり地面に叩き付けた。