Fate/Nostalgia   作:静笠悠

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Fate/Nostalgia第一章

 

 「各地に残る神話、傳承に現れる英雄達は何故英雄と呼ばれるか。結論づけるのは簡単だ、彼らは常人を超越した存在だった」

 かつて騎士王と呼ばれた英霊が、その存在を呪う。

 「彼ら英雄と呼ばれる存在が真実、真の事実と証明するのは今や不可能だ。我々の想像を超えたその偉業は、そこに微かな事実が存在していたとしても、時が経つにつれ、語り継がれていくにつれ、人々が思い描く理想の英雄像を象っていった」

 二度と、このような争いが、戦争は起きてはならないと恨んだ。

 「セドリック=コンスタント。それはあくまで、英雄は我々人間が作り出した偶像に過ぎない、と?」

 どうして、何のために、このような醜い争いをしなければならないのかと憎んだ。

 「チハル=ソウセキ。英雄が偶像に過ぎない、というのは間違いではない。仮にその英雄の存在が歴史的に証明されても、その逸話が真実かどうかは残念ながら今となっては証明できるものではない。それが歴史学や考古学というものだ。

  ただ、人々が生み出す巨大な願望や希望の塊は、時に人を、時に時代を動かし、そして神秘を生み出す。我々魔術師が魔術師たる理由は、その神秘の源を求めているが故、だ」

 そこには伝説など、英雄など、ましてや騎士なんて存在しなかった。

 「我々魔術師は、皆求めている答えは同じだ。だからこそ十年前、イスタンブルの地で魔術師達による戦争が起きた。彼らが多くの血を流してまで求めた聖杯という聖遺物は、この時計塔の何処かに眠っている」

 彼らが得たものは何だっただろう。これまでの四回の聖杯戦争で一体、魔術師は何を望んできたのだろう?

 「またいつか、聖杯は英霊達をこの世界に顕現させる。私が今日ここで皆に教鞭をとるのは────魔術師としての答えを、己の力で辿り着いて欲しいからだ」

 あらゆる願いを叶える万能の願望器。奇跡の聖遺物を巡る大きな戦いが、再び始まろうとしていた。

 

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 ──彼は死亡した。この閉鎖的な暗い密室の中で、外界から閉ざされたこの空間で息絶えてしまった。どうして死んでしまったのか、それはその痛々しい無数の傷によるものか、脳や内臓が損傷していたか、もしくは予め口内に毒薬でも潜めていたのか。餓死? まだ捕らえて一日も経っていないのにそれはあり得ないだろうと、少女はその死体を目の前にして思う。

 「結局、奴は何を言った?」

 鉄の鎖で椅子に縛り付けられた死体の前に静かに立つ、セーラー服姿の少女。髪を留める黒いリボンが、銀色に輝く髪に映える。そんな彼女に後ろから語りかけたのは、赤髪で黒服のスレンダーな男。物静かな彼女に対して、この男の態度は柔らかげに見える。しかしその表情から感情は読み取りにくく、その長身でスレンダーな体格もあってか、やはり不気味な男だった。

 「『根源』って言葉を使ってた」

 その言葉が何を意味するのか。彼らには、それが魔術師とかいう不可思議な連中が目指している全ての源であるということは、魔術というシステムを理解していなくても理論上ではわかっていた。その源へ到達するためにどれだけ魔術師達は長きに渡って研究を続け、醜く争い、どれだけの血を流してきただろう。彼らもそれを知らないわけではない。

 「やはりアレがブツの正体か。ただの欠片にしか見えなかったが」

 「わかんない。詳しくは教えてくれなかった」

 「そうか……」

 せっかく捕まえた魔術師の男は、彼らが期待した答えを出す前に死んでしまった。これ程口が堅いとは、魔術協会とやらは余程教育が行き届いているのか、魔術師は協会に忠実なのか、ただ単に詳細を知らされていないだけかもしれない。

 少女は死んだ男の顔に触れ、力無くうつむいたその頭を軽く上げた。その時、生気を失っていた男の瞳がギョロッと動いた。

 「……真琴!」

 少女が赤髪の男にそう叫んだと同時に、魔術師の体が一瞬にして炎に包まれた。その業火はこの狭い部屋を炎で包み込むには十分な勢いだった。

 が、その炎はすぐに消し去れられた。部屋は少々黒く焼き焦げたが、少女も赤髪の男も傷一つ無い。椅子に縛られていた魔術師が跡形もなく消えてしまっただけだ。まるで、元からそこに存在していなかったのように。

 「やはりダミーか。これは人形の類か? それとも使い魔だとか精霊の一種か? やっぱり魔術師って不可思議な連中だな」

 この術に対して、真琴と呼ばれた赤髪の男は動じずに、むしろ彼らの生態に興味を抱いているようだった。ここで簡単に殺されるほど、魔術協会の魔術師達は一筋縄ではいかないらしい。

 だが真琴はすぐに出口の方を振り向いて口を開く。

 「いや、これ以上この人間もどきに構ってる場合じゃねぇ。今はその根源の器──聖杯を起動させないといけない。行くぞ、クロエ」

 「うん。何処に?」

 「香港だ。飛行機はもう手配してある」

 彼らは『冬木の』聖杯を時計塔から盗み出し、彼らの目につかぬよう上海まで輸送した。思いの外早く魔術師達による攻撃を受けたということは、次の目的地ももう割れているかもしれない。

 真琴と少女は急ぎ足で部屋を出て、出立の準備をする。とはいえ準備するものは財布や小さな鞄ぐらいで、大方のものは香港についてからでも手配できる。無人のビルのガレージに向かい、すぐに車を出して上海浦東国際空港へ向かう。

 「また、戦争が始まるの?」

 助手席に座った銀髪の少女、クロエはハンドルを握る真琴に聞く。彼はポップ音楽を車内に流しながら缶コーヒーを片手に答える。

 「あぁ、クロエちゃんは十年前の時にいたんだってな」

 一瞬だけ真琴の表情が曇る。横顔からでもクロエにはそう見えた。いつも明るい彼の珍しい姿から、その戦争の厳しさが伝わってくる。

 「危険なことだというのは百も承知してる。魔術師の連中が根源とやらへの到達を目指すように、俺達もまた目指すものがある。その場所が、かのイスタンブールから香港へ移っただけだ」

 聖杯、それはキリスト教における最高の聖遺物。それらしき遺物は今もこの世界の何処かに眠っていて、誰かがその在処を探している。度々それを巡って小競り合いが起きたり、大規模なオークションにまで発展することもある。

 冬木の聖杯戦争で用いられるそれは、かつてとある魔術師の三家が作り出した器、戦争はそのシステムに過ぎない。全ての願いを叶えるという願望器としての性質は、それに英霊達を呼び寄せるための謳い文句に過ぎない、はずだ。

 

 果たしてこの戦争に勝利した暁に、その聖杯は彼らを本当に根源へと誘うのか。本当に全ての願望を叶えてくれるのか。

 万能の願望器。聖杯が求め、そして聖杯を求める者達が、香港に集まろうとしていた。

 

 

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 修行の後は、美味しいご飯が待っている。

 彼女はいつもそれを楽しみにしていた。それは時計塔においても、こうやって修行先においてもだ。フランス、中華、トルコの世界三大料理だけでなくドイツやセルビア、インドやはたまた故郷の日本にまで赴いて、彼女は血反吐を吐くほど魔術の修行に励んだ。だって、修行の後には美味しいご飯が待っているからだ。それがあるからこそ厳しい修行に耐えきれるし、どんな旅でも最後は料理が美味しかったという思い出で締めくくることが出来る。

 「だから、あと一日だけいましょーよ! ね? ね?」

 だからこうやって彼女は必死にねだるのである。空港のロビーの真ん中でキャリーケースを片手に、黒い制服とコートに身を包んだ黒髪の少女は、人目もはばからず猫のように甘える。彼女が体を揺らす度、桜色のリボンと首にかけたペンダントが揺れていた。

 そんな駄々っ子の相手をする、金髪を束ねた三十代ぐらいの男……いつもは優しい師のセドリックも、これには呆れ顔だ。

 「あぁもう! 君がそんなに食い下がってくるとは思わなかった! 君ももう子どもじゃないんだから、それぐらいは我慢する! ロンドンに帰ったら良い店に連れて行ってやるから!」

 「いーやーでーす! 私は本場の中華が食べたいんです! せっかくロンドンからはるばる香港にまで来たんですから、この街の最後の思い出ぐらい本場の中華で締めくくってもいいじゃないですか!

  それに教授からすれば私なんてまだまだ子どもでしょう! ほら、お子様な私を甘やかしてください!」

 「じゃあ私はこの便で帰るからな! どうしても外せない用事があるんだから! どうしても残りたいなら勝手に残ればいい!」

 「え、残って良いんですか?」

 「君はホテルに泊まるだけの駄賃を持っていないだろう? ろくに資金がない状態なのに、この異国の地でどうするつもりだ?」

 「ま、その時はカジノにでも……」

 「どうやら君の頭を矯正せねばならないらしいな」

 二人が口論している中、二人の間に割って入るように黒ずくめの制服に青いブラウスを着た、長い金髪の華奢な少女が出てきた。

 「二人共。こんなとこで騒いじゃいけないよ。ここは香港だからって気にしていないのかもしれないけど、英語がわかる人だっているんだから」

 彼女が溜息混じりに苦言を呈すると、二人はキョロキョロと辺りを見回した。すると空港のロビーにいた人々は皆二人からバッと目を背ける。ふむ、どうやら頭のおかしいアジア人と欧米人が痴話喧嘩をしていると思われているらしい。

 二人はお互いの目を見て頷き、フゥと息を吐いて心を落ち着かせてから口を開く。

 「……落ち着こう、チハル。美味しいご飯はロンドンに帰ってからでも食べられる。確かに君にとってイングランドの料理はお気に召さないかもしれないが、ロンドンに帰れば中華料理もフランス料理も、日本料理だって選べるんだ。だから、な?」

 「落ち着きましょう、教授。それは本当に大事な用事ですか? もしかしたら明日や明後日でも問題ない用事じゃないんですか? それに大切なのは見えない未来より今現実にあることです。だから、ね?」

 先程より確かに静かにはなったが、二人はお互いに全く妥協するつもりはないらしい。それを見て間に入った金髪の少女は、諦めた様子でハァと溜息を吐いて下がっていた。

 「全く、君は本当に頑固だな。一体誰に似たんだか……」

 すると、セドリックの携帯に着信が入る。失礼、と彼は二人に伝え電話に出ると、空港ロビー内の人混みの中に消えていった。黒髪の少女は言い争いに疲れたのか、キャリーケースの上に座って大きく溜息。足をパタパタとさせながら、隣に立つ金髪の少女に言う。

 「あぁもう、ちょっとぐらい良いじゃない。ね、リリー。リリーも中華好きでしょ?」

 しかし彼女はなんとも興味がなさそうで、大きな欠伸をしている。

 「私は早く家でゆっくり休みたいかな」

 「ゆっくりご飯ってのも良くない?」

 「ホテルで寝てていいなら」

 「いや、あの教授を二人でご飯に行けっての? 無理無理、教授と親子とも兄妹ともカップルとも思われるのも勘弁してほしいわ」

 彼女は美味しいご飯にありつけるなら苦しい修行だって耐え抜くし手段も選ばないが、流石にアラサーの男と二人で食事をするような趣味はなかった。しかも相手は独り身のイギリス紳士。千春は彼の話を一度も面白いと思ったことがない。

 二人が話していると、電話をしていたセドリックが慌てた様子で戻ってきた。その表情から、ただならぬ知らせでも聞いたのだろうと彼女はすぐに悟り、表情を強張らせた。

 「……教授? 何かあったんですか?」

 セドリックはすぐに答えなかった。どうやらこの場所で彼女らにそのまま伝えるには難しい内容のようで、言葉を選んでいるようだった。フゥ、と息を吐いた後、セドリックはぎこちない笑顔を浮かべて口を開いた。

 「チハル、リリー。帰国は中止だ。何処か……美味しいレストランにでも行こう。詳しい話はそこでする」

 それは彼女、宗石千春が望んだ未来だったかもしれない。その裏で、彼女を、時計塔を、魔術協会を揺るがすような事態が発生していなければ。

 

 香港国際空港から香港の中心街へ繋がる鉄道、MTR機場快線で九龍半島へと渡り、ヴィクトリア港と香港島の夜景を眺められる中華料理店へ。高級ホテル内に店を構えるこの店のシェフも『魔術師』と呼ばれる技術を持つらしいが、千春やリリー、そしてセドリックらと同じ類の人間なのかは定かではない。まさか料理に魔術を使うわけではあるまい、そう思いながら千春は料理を口に運ぶ。

 香港島の超高層ビル群を光を眺めながら本場の高級中華を嗜むことなど、並大抵の階層の人間が出来ることではない。彼ら魔術師もとりわけ裕福というわけでもないが、セドリック曰く『時計塔の予算を有効活用させてもらっているだけ』だと言う。そんな環境にいても千春の気分が晴れないのは、この狭い個室の中で目の前に座る時計塔の師、セドリック=チャンの顔色が優れないからだろう。

 魔術師らに基礎的な教育を施す機関、時計塔で講師を務めるセドリック=チャンは結界魔術と水魔術の扱いに長けた魔術師で、険しい顔をしたどこぞのエルメロイⅡ世程ではないが人気のある講師だ。そんな彼が狭い個室で重苦しい雰囲気を醸し出していると、例え隣で黙々と夢中で高級中華を頬張っているリリーがどれだけ可愛くても、美味しい料理も美味しくなくなってしまう。

 「教授。ロンドンで何かあったんですか?」

 先に話を切り出したのは千春だ。彼女は決してお節介焼きではないが、単純にそんな雰囲気で食事を邪魔されるのが気に喰わなかっただけだ。美味しい料理はやはり美味しく頂きたい。

 セドリックは白酒を一杯呑んでから、その口を開いた。

 「いいや、仕事だ。この香港でな。しかも協会のお偉い人から直々に」

 「……それって、私みたいな一生徒が関わっても?」

 「いや、君達にも関係する話だ。それに時計塔の連中も、君達のような優秀な生徒……いや、魔術師なら問題ないと上は判断した。私一人で解決できる問題でもないからな」

 そう言ってセドリックは再び白酒を一杯。彼が酒を嗜んでいる姿を千春はあまり見たことがない。酒もタバコもしない、いたって素朴な、いやつまらない独身貴族という印象だ。

 セドリックはリリーが空にした赤い平皿を千春の目の前に置き、懐から赤い液体が入った小瓶を取り出す。瓶を開けて箸の先に液体をつけると、更に術式を刻んでいく。千春も魔術の扱いに長ける方だが、その術式は初めて見る、そして不気味なものだった。

 「これを、見たことがあるか」

 その術式が完成すると、皿の上には青字の服の上に銀色の鎧を纏った、金髪碧眼の蒼銀の騎士のような小さな人形が生まれていた。だが人形がその姿を保っていたのはほんの一瞬のことで、人形はすぐに皿の上で赤い液体へと戻ってしまっていた。

 「気持ち悪い」

 隣に座るリリーの率直な感想が聞こえる。食事を頂いている時に見るようなものじゃないだろう。魔術回路の形成にしろ魔術の詠唱にしろ、失敗したり不完全なものだとこんなものだ。リリーにはそれがただの人形にしか見えなかったかもしれないが、千春にはセドリックが言わんとしていたことを理解した。

 「……これ、サーヴァントじゃないですか? 十年前、確かイスタンブールで召喚されたセイバーが、こんな風貌だった気がします。どうしてそれを?」

 かつての英雄をサーヴァントとして召喚すること自体は魔術師にとってそれ程難しいことではない。ある程度召喚するサーヴァントを絞りたいならそれに応じた聖遺物を触媒として用意すればいい。それはあくまで、聖杯戦争においてマスターに選ばれ、聖杯から膨大な魔力を供給される環境下に限られるが。

 「この術式は、私の友人が……今は協会から離れてしまったが、彼が研究していた召喚魔術の一つだ。彼は聖杯の力をその目で見て、サーヴァントを召喚させる方法を探していた。協会から追われるような立場になってもな。

  彼がそんな研究をしていたのは、十年前に起きた聖杯戦争がきっかけだ。わざわざ協会を離れてそんな研究をしていたのは……これから起きることを想定してのことだろう」

 「ということは、つまり」

 セドリックの硬い表情は変わらなかった。千春もまた口をつぐんで話を続けるのを躊躇ってしまう。さっきまで夢中で食事をしていたリリーも、その手を止めていた。

 「この香港で、何者かが聖杯戦争を起こそうとしている。

  我々の任務はそれを未然に防ぎ、盗まれた聖杯を取り戻すことだ」

 ──聖杯戦争。かつて冬木という日本の地方都市で、遠坂、マキリ、アインツベルンの魔術師の三家が生み出した、万能の願望器を巡る戦い。先の大戦中、三度目の聖杯戦争の際に第三帝国の介入によって戦争は混沌と化し、聖杯は破壊されてしまう。破壊された聖杯の『欠片』の一つは時計塔に厳重に保管されているはずだった。十年前、その欠片をきっかけとする第四次聖杯戦争というイレギュラーはあったが。

 その欠片が何者かによって盗み出され、追跡していた魔術師が上海にて捕まり殺された。ただ魔力の痕跡から香港へ移動している、というところまでは協会も把握している。おそらく聖堂教会も動いていることだろう。

 聖杯戦争は、千春にとって無関係の事象ではない。魔術師の家系である宗石家の一人娘である彼女は、今でこそ時計塔に席を置く一生徒に過ぎないかもしれない。

 が、そもそも彼女が時計塔に入るきっかけとなったのは、十年前の聖杯戦争で両親を失ったことによる。知り合いの魔法使いの紹介で千春は時計塔で学ぶことになり、両親の友人だったセドリック=チャンを頼ったのだった。彼女はこうしてわざわざロンドンから遠く離れた香港にまで出向いて、欲にまみれた街でひっそりと暮らしている魔術師の元で修行に励むぐらいには真面目で、そして美味しい料理が大の好物だった。

 

 食事を終えてホテルの自室に戻った後でも、千春は心を落ち着かせることが出来なかった。いや、冷静さを取り戻せていなかった。それはセドリックもリリーも気づいていたことだろう。

 一体自分が何を慌てているのか、いや何に興奮しているのか、彼女自身も自分の全てを把握できていなかった。いや、本当はわかっているわかっているのに、それを深く理解しようとはしなかった。それは魔術師としての願いに過ぎないが、自分が宗石の後継者だから、という理由で事足りる。ただ願望器に願う。それさえわかっていればいい。

 千春は入浴後、椅子に座って本を読んでいるリリーに何も言わないまま、ベッドの上に倒れた。

 「チハル?」

 リリーが心配そうに、千春が眠るベッドの布団の中に入ってきた。

 「いや、何しようとしてんの」

 「一緒に寝よ」

 布団をガバッと広げると、リリーはあどけない様子でニコッと千春に微笑んでみせた。千春は溜息を吐くと、リリーを布団から追い出して布団の中にくるまった。いつもは千春の方から潜り込むというのに、その素っ気ない態度にリリーも驚いているようだった。

 「……今は、一人にして」

 それでもリリーはなりふり構わず布団に入ってくるので、千春は彼女に背を向けるしかなかった。

 「チハル、ここは二人部屋なんだから一人にはなれないよ」

 「……そういう事を言ってるんじゃないの」

 だからって同じベッドの中に入ってくる理由にはならない。だってベッドは二つあるのだから。確かに千春はリリーと同じアパートに住んでいるがちゃんと部屋もベッドも別々だ。度々リリーの部屋に忍び込んで彼女を抱き枕代わりにしているのは否定できないが。

 「チハル、怖いの?」

 千春の首元から、囁くようにリリーが言う。

 「……わからない」

 首にかけた桜色のペンダントを千春はギュッと握りしめた。

 「ただ、思い出してはいけないことを、思い出しそうになるの」

 十年前の記憶。何せまだ千春が八歳の頃だ、彼女はイスタンブールでの出来事を鮮明に覚えているわけではない。ただ彼女は、目の前で両親が死んでいくのを見てしまっただけだ。

 リリーにそっぽを向く千春だったが、そんな彼女の体をリリーは小さな体で優しく抱きしめた。

 「チハル。まだ起きるって決まったわけじゃないよ。怖いなら、教授に頼んで先に帰れば良いんだから。私はチハルについていくよ。別に私だって、興味があるわけじゃないし」

 リリーのその言葉が本当なのか、千春は少し疑ってしまう。何せリリーの両親も十年前の聖杯戦争に参加している。ただ千春の両親と違うのは、幸いにもかの戦争から生きながらえたということだろう。その代償は大きかったかもしれないが。

 「……ありがとう、リリー」

 首元からすぅすぅとリリーの寝息が聞こえてきた。その寝息が、リリーの温もりが、興奮していた千春の心も落ち着かせ、やがて眠りについた。

 

 聖杯が香港の何処にあるのか、それはまだ定かではない。そしてこの香港で本当に聖杯戦争が起きるのか。まだサーヴァントの召喚はおろか、令呪を持ったマスターたる人物の存在すら確認されていない。おそらくまだ聖杯に十分な魔力が蓄えられていないからだろうが、香港も霊脈が集まる地点とはいえ、特段古来から宗教的な拠点だったというわけでもない。その聖杯を誰が、どういう組織が盗み出し、どういった目的で──冬木の聖杯ということは願望器としての目的だろうが──どうして聖杯戦争を起こそうとしているのか。その全てを推察することすら難しい状況で、千春らは聖杯の奪還を命じられている。頭を使う仕事は、協会の賢い面々に任せるしかない。

 仮に聖杯戦争がすぐに始まらないとしても、千春らは香港に滞在しなければならない。セドリックは十年前の戦争に参加したマスターの一人でもあるし、前回の参加者の子どもである千春やリリーも、マスターとして令呪を授かる可能性は十分に有り得た。

 「この七百万もの人々が住む街で聖杯を探せ、とはな」

 千春の隣で、セドリックはコートを風になびかせていた。リリーも含めた彼女ら三人は、停まっていたホテルに近い香港国際金融中心ビルの屋上。地上四百メートルもの高さを誇る超高層ビルの頂上で、香港の街を眺めているのだ。

 「どうせ黒社会が絡んでいる話じゃないの?」

 リリーは屋上の上で佇み呑気に欠伸をしている。

 アジアでは有数の世界都市、あらゆる人や物が集まる街。この香港を拠点とするマフィアが何らかの形で聖杯を望むということも考えられないこともない。それはそれで、それを教えたであろう魔術師が誰なのか協会は調査しなければならない。今や魔術師の間で聖杯戦争を知らぬ者は少数だろうが、その儀式の神秘性は保たれているはずだ。

 「黒社会と魔術師が協力している、と判明すれば大問題だ。協会の連中が慌てふためくだろう。組織的な活動だとは思うが……それよりチハル、大丈夫か? さっきから体が震えているみたいだけど」

 先程から一言も喋らない千春にセドリックが聞く。千春は両手で自分の体を抱きしめながら、体を震わせながらも屋上に何とか立っているという状態だった。

 「な、何がです? 別に私は、親の仇がどうだとか、あまり気にしてないですよ? えぇ、はい、そうですとも」

 「いや、さっきから足がかなり震えているように見えるが」

 いいや、震えていない。震えていないはずだと千春は自分に言い聞かせる。足だけでなく体も震えが止まらない。別に両親が殺された聖杯戦争に畏怖し怯えているわけではない。

 ただこの超高層ビルの屋上、屋内ならともかく屋外で風を浴びながら平常心を保てというのは無理がある。千春はこの場所が恐ろしくて恐ろしくてしょうがないのだが、セドリックもリリーも平気そうで、自分だけが高所に怯えているという辱めを精神的に受けている状況だ。

 「ね、リリー。そっちはどうなの? 何か手がかりは見つけられそう?」

 話を逸らすように千春はリリーに話を振る。召喚魔術の扱いに長けるアーヴィングル家の生まれである彼女は、使い魔を召喚して香港の街を捜索させているところだ。リリーは千春の問いかけに対し首を横に振り、口を開く。

 「特に変わったものは見つからないみたい。多分、この街は平常運転だと思う。ただ……」

 「ただ?」

 「使い魔が、さっきから行方不明になるの。誰かに無力化されてるみたい」

 「場所は何処だ?」

 「あっちと、あっちと、その向こうと……」

 リリーが対岸の九龍半島地区の一角を指差して言う。

 「ふむ。もしかしてあのビルに近づけないか?」

 「うん、あの工事中のビル。何の中心?」

 「何でもかんでも中心とつくと思うな。あれは確かもうすぐ完成する環球貿易広場、もとい世界貿易センターか。さほど強い魔力は感じないが、まさかあのビルにあるというのか? リリーの使い魔が消えた場所は、あのビルから放射状に広がっている」

 不気味なほど超高層ビルが林立するこの香港で最も高く、そして気高きビル。まだ完成はしていないが、この国際金融中心よりもさらに高いビルで、当初はあのビルの屋上に向かう予定だったが……千春がセドリックに懇願し(あの高さには耐えられないため)、このビルから偵察することになったのだ。結果的には敵の本拠地に上がり込まずにすんだのかもしれない。

 「しかしチハル、何か見えるか? 協会の調査では確かに香港に聖杯が運ばれたらしいが、聖杯戦争を起こすならわざわざこんな場所に持ってこなくても、欧州で起こした方が手っ取り早いだろう、とのことだ。ここで聖杯戦争を起こす意味が未だにわからない」

 「もしかして、盗んだ奴らはただの金目当ての盗人なんじゃないですか?」

 「成程……しかし、あのビルを調査する価値はあるな」

 三人は建設中の環球貿易広場の調査へ向かう。ただ、中に入り込むのはセドリック一人だけで、千春とリリーは高速道路を挟んで向かいにある海岸沿いの公園で待機する。千春とリリーも時計塔の中では優れた部類の生徒だが、年長者、そして三人の中で一番戦闘力の高い彼が単身で向かうことになった。千春とリリーの仕事は彼のサポートだ。

 「首が疲れるね」

 千春の隣でリリーは呑気なことを言っている。ロンドンにも近代的なビルはあるにはあるが、これ程高いビルが建っているわけではない。百メートルを超えるビルが乱立する香港は雑多としているようで、ある意味統一感がある街なのかもしれない。

 それにしても緊張感の無い子だ、と千春は思う。

 「リリーは、もし聖杯が手に入ったら何をしたい?」

 ふとそんな質問を投げかけてみる。リリーはいつも何処か抜けていて、天然というか眠り姫で、長い付き合いになる千春も彼女の全てを把握できているわけではない。千春とは違って、リリーはワガママを言うタイプではないからだ。

 千春の質問に対し、リリーは無数のクレーンが並ぶビルの頂上を見上げたまま答える。

 「私は、自分の好きなことが許される世界が欲しいかなぁ」

 リリーの好きなこと。眠ること、ぬいぐるみを抱くこと、眠ること、人形を作ること、眠ること、使い魔と遊ぶこと、眠ること、マニアしか知らないようなB級映画を見ること……まだまだ上げきれないが、千春からすればそれは不思議な願いだった。

 「何だか、リリーらしいわね」

 「そう?」

 「うん。今じゃまだ満足していないの?」

 リリーも魔術師といえど、法や理に反するようなことをする少女ではない。だから彼女の行動を制限するようなものはないはずだ、と千春は思っていた。

 「だって、寝坊したらチハルが起こるんだもん」

 いや、それは当たり前だろうとチハルは思う。同じアパートで暮らすリリーを毎朝叩き起こすのが千春の日課だ。たまにリリーを起こすために魔術を使ってセドリック達に怒られることもある。それに例え一度起こしたとしても油断するとリリーは二度寝してしまうし、パジャマ姿で講義に向かおうとする程朝はボーッとしている。

 そんなリリーとの毎朝を思い出しながら、千春はハッと気づいた。

 「もしかしてリリーにとって邪魔な存在は私……って、それはつまり私がいない世界を望んでるんじゃ!?」

 「どーなのかなー」

 「リリー!?」

 それに気づいてしまった瞬間、突然強い不安にかられる千春。まさか十年も一緒に過ごしてきた友に、親友だと思っていた幼気な少女に邪魔な存在だと思われていたなんて。これからは少し優しく起こしてあげようと千春は心から誓うことにした。

 「千春は、聖杯に何かお願い事するの?」

 「うーん、そうねぇ……」

 リリーとは違い、千春はその問いにすぐに答えられなかった。彼女は今の生活全てに満足しているわけではないが、自分の心が何処かで、それ程強烈に願う物事があったかと考える。

 いや、無いわけではない。わざわざ考え込むほど。明確な答えは出せるのに、それっぽいリリーは答えでも察することは出来るだろうに。ときたま千春が柄にもなく空を眺めて黄昏、物思いに耽るのは、十年前の出来事があったからだ。彼女が今、宗石の家の当主たる所以だ。

 「私は────」

 千春が答えようとした瞬間、彼女が持つ携帯に着信が入る。千春に電話をかけてきたのは、ビルの中に入り込んだセドリックだった。

 「もしもし、何か見つけられました?」

 もし仮に聖杯を見つければセドリックから合図が来るはずだった。それは使い魔を通じて、という手筈で。そのため何もなかったという報告をしてきたのだと千春は考えたが、セドリックは深刻そうな声色で話し始めた。

 『チハル。緊急の事態だから手短に話す。この電話を私……セドリック=チャン本人だと信じなくても良い』

 「私が嫌いな講義は?」

 『国際関係史と哲学史だったか』

 「正解です。じゃあ本物ですね。何があったんです?」

 どちらもセドリックが受け持っている講義だからとからかっている場合ではないと悟ったチハルは、黙って彼の話を聞く。

 『ビルの最上階、おそらく展望デッキに聖杯が置かれている』

 「実際に見た、というわけではないと」

 『私は最上階まで辿り着けなかった。建設中と言って封鎖されていてな。だから裏を通って調査しようとしたんだが、何者かの襲撃を受けた。

  そして今、私はロンドンの工房にいる。どういう意味かわかるか?』

 セドリックのその言葉に千春は一瞬驚いた。先程ビルに単身で乗り込んだはずの彼が、この香港から数千キロも離れたロンドンにある工房にいる。その意味を千春は瞬時に理解した。

 「……教授を模した人形が、殺されたということですね」

 セドリックは極度のインドア派だ。千春らを世界中に連れ回しておいて何がインドア派かとも思うが、彼は飛行機という乗り物がなにりょいも苦手だった。そして日々魔術の研究に明け暮れる彼は時間が惜しいと自らの分身を千春達へ手配する始末。いつから彼が人形にすり替わっていたのか、おそらくロンドンに用事があったのは本当のことなのだろう。昨日の内に入れ替わっていたのかもしれない。

 まぁ、前科が数多くあれど言われてみなければ気づかないほど見た目は精巧な人形が用意できるのは、彼の魔術のレベルの高さを表している。そんな彼に千春は苛立ちを感じないこともなかったが、今は問い質さないことにした。

 『中に魔術師らしき奴は見当たらなかった。だが工事中というのは確かにそうかもしれないが、何かを隠すためのダミーかもしれない。

  それにビルには結界が施されている。向こうは私の侵入に気づいているはずだ。君達が今いる場所も危険だろう。元いたホテル……いやストロッツィ師の元を訪ねてくれ。私から話をつけておく。彼と一緒にいた方が安全だろう』

 ストロッツィ師というのは、この香港の地で千春に魔術を享受したフリーの魔術師だ。彼の邸宅の場所は覚えているのでタクシーでも拾えば向かうことも出来る。既に何者かがこのビルに術を施し罠を張っているなら、わざわざそれに入らない法が得策だ。

 「教授。聖杯は放っておくんですか?」

 わざわざ建設中のビルに結界を張り、周囲に使い魔まで配置しているのは、この地に聖杯があると自ずから指し示すようなものだ。確かにここは大陸を貫く霊脈の終着地点。その霊脈の真上に聖杯を置くために、ビルが用意されていたかのようだ。

 電話の向こうで、セドリックは慌てたような口調で言う。

 『チハル。今は自分達の身を案じた方が良い。聖杯は魔力を蓄え次第マスターを選び出すだろうが、まだその兆候は見られない』

 どの時点を持って聖杯が『起動』という段階に入るか定義は難しいが、少なくともマスターに令呪を授けるのは聖杯に十分な魔力が供給されてからの話だ。この香港に聖杯が運ばれてからまだそれ程時間は経っていないはず、霊脈からまだ魔力を蓄えられていないだろう。

 それでもチハルは譲らない。目の前に、聖杯があるとわかっているからだ。

 「例え目の前に聖杯があるのに、今すぐ起動するかもしれないというこの状況から逃れてまでですか」

 千春はビルの頂上の方を見た。誰かがそこで、そこにある何か……いや、万能の願望器を守っている。その時を待っている。

 『落ち着くんだチハル。君の気持ちもわからなくはないが、それは君の死を代償にしてまですることでは』

 「今聖杯が起動されれば、この香港で何が起こるかわかりません。もしかしたら数万、数十万の命が吹き飛ぶかもしれないんです。

  だったら私の命ぐらい、安いものでしょう」

 『待て、チハル!』

 千春はセドリックの叫びも聞かず電話を切った。決心した千春の目の前、この大都会の喧騒の中で環球貿易広場は堂々と佇んでいる。

 「チハル」

 隣からリリーが問いかけてきたが、チハルの目はビルの頂上を捉えたままだ。

 「何が起きたのか、何となくはわかった。チハルが行くなら、私も手伝うよ」

 すると千春はリリーの方を向く。決心はもうついていた。

 「ありがとう、リリー。私を援護して」

 この香港の地で起動を待つ聖杯を、絶対に奪還する。

 もう二度と、あのような惨劇を起こさせないために──聖杯戦争という儀式を、消し去るために。

 

 環球貿易広場の周囲に人気はなく、人払いの魔術が展開されている。監視用の使い魔もいるようだが、攻撃してくる気配はない。千春はセドリックが開けた工事用のゲートを通り、工事車両の間を通ってビルへ向かう。不思議と周囲は無人で、ビルのエントランスに入り、千春はその異様さに気づいた。

 中に入るまで、その強力な魔力に気づかなかった。ビル内に漂う魔力は尋常な量ではない。あまりの魔力に千春は息苦しさを感じながら、体中で魔力の流れを感じ取る。魔力は、遥か地下から空へ──このビルの最上階へと流れていた。

 千春はエントランスに置かれた不思議なモニュメントの脇を通ってエレベーターへ。工事用のエレベーターに乗り込み、一気に最上階を目指す。そのまま最上階へ行けると思っていたが、エレベーターは途中で停止してドアが開いた。それと同時に、千春は懐から回転式拳銃を取り出して身構えた。

 「へぇ、魔術師とやらは意外と物騒なものを使うんだな」

 工事用エレベーターを降り、ホテルらしきフロアのロビーに千春は立った。そして配管は骨組みがむき出しの廊下の向こうには、赤髪の、長身で黒服姿の男が佇んでいた。

 「だがお嬢ちゃん、その程度──」

 千春は彼の話を聞かずに、拳銃を向けて引き金を引き、魔弾を打ち込んだ。

 拳銃で撃たれた男は胸を押さえたが、ふらついただけで倒れることはなかった。彼は驚いた様子で自分の旨を擦りながら、自分が撃たれたという事実を確認しようとしていた。

 「残念。アンタに用はない」

 魔弾が撃ち込まれた男の胸に術式が発動する。その千春の術式は、対象の視界から一時的に千春の存在をかき消すというもの。

 不可視の魔弾。その魔弾を撃ち込まれた相手は、千春を目で捉えることが出来なくなる。彼が千春を見失っている間に、千春は彼の脇を走り抜けて階段で最上階を目指した。

 千春は、自らの魔術刻印が得意とする結界魔術や転換魔術だけでなく、自らの成長のため向き不向き考えずあらゆる魔術を時計塔で履修し研究していた。彼女が使う魔術礼装、コルトSAAという回転式拳銃を模したそれは様々な効果を持つ魔弾を放つもの。飛び道具を使うのは宗石家が代々受け継ぐ魔術刻印の影響だが、その拳銃は祖父の代から受け継がれているものだった。だがその不可視の魔弾は、殺傷能力を持ち合わせていない。

 無人の階層を駆け上がり、千春は息を切らしながら最上階に辿り着いた。建設中というわりには何の道具も置かれておらず、おそらく工事の進捗は止まっているのだろう。ただ簡素的な壁と床が張られ、まだ足場も撤去されていない。

 そんなフロアの中心に、それは置かれていた。

 「な、これが聖杯……!?」

 赤黒い台の上に置かれていたのは、金色に輝く器だ。予想外なことに、聖杯を警備している護衛は下の階にいた男以外に見当たらない。

 「随分と雑に置かれてるのね……」

 あまりにも無防備だった。万能の願望器たる聖杯を飾るなら、もっと大掛かりな警備だって必要だろうし、魔術結界だってもっと厳重に展開する。人形とはいえどセドリックの分身があんな男にやられたなんて、千春には信じられなかった。

 だが聖杯に近づこうとした千春は、突然体を地面に打ち付けられた。

 「か、はっ……!?」

 体全体を押し潰すような強い圧力が、刻まれた魔術刻印が滅茶苦茶になってしまいそうな破壊の魔力が千春を襲う。

 「な、何なのこれ、何の魔術……!?」

 起き上がろうとしても体に力が入らない。それどころか彼女の体内に存在する魔力が吸い取られていた。その吸い取られていく魔力が集まるのは、赤黒い光を放ち始めた聖杯だった。

 「まさか────!」

 聖杯は千春の体だけではなく、ここら一帯の魔力をその器に溜め込もうとしていた。

 おかしい。

 聖杯がこんな挙動をするわけがない。聖杯は英霊を英霊の座から呼び出すため、あらゆる願いを叶えるための膨大な魔力を蓄えるが、それは長い年月をかけて霊脈等から供給されるはずだ。

 だがこの聖杯は、今まさに千春から魔力を吸い上げている。千春の体内にある小源だけではない、そこら中にある大源さえその力にしようとしている。

 今すぐに、ここに聖杯戦争を起こすために。千春やセドリックが危惧していた以上に、聖杯はかなりのスピードで魔力を蓄えている。

 「くそっ、もう無駄だって言うの!?」

 コツ、コツと靴音が聞こえた。千春が背後を見ると、先程の赤髪の男が展望デッキに入ってきたところだった。

 「はて、もう頃合いか。全く、いざ目の辺りにすると恐ろしい。

  さてお嬢ちゃん。お前は何を願いに来たんだ?」

 赤髪の男は千春に対して流暢な日本語で話しかけてくる。この香港でアジア系の人間を一瞬で日本人だと判断したのか。おそらくこの男も日本人だろう、もしかしたらこちらの素性も知られているかもしれない。

 千春は地面に這いつくばりながら、男の問いに答える。

 「私は聖杯を奪還しに来たのよ。ここに聖杯戦争を起こさせないために!」

 千春がそう答えると、男は低い声で笑っていた。その姿は何とも気味が悪い。

 「ならば残念だったな。もうすぐ聖杯は十分な魔力で満たされる。後はこの戦争を勝ち抜くのみ。

  これが何か、お嬢ちゃんにもわかるだろう?」

 男は自らの右手の甲を千春に見せる。そこには花びらのような形をした赤い紋章──令呪が刻まれていた。

 「さて、お嬢ちゃん。君の願いは?」

 男が笑みを浮かべながら再度千春に問いかけると、彼女はフラフラと立ち上がりながら答えた。

 「だから言ったでしょ。聖杯を貰いに来たんだって。大体、アンタにお嬢ちゃんって呼ばれるほどお子様じゃないのよ」

 「無駄だ。時期にわかることになるよ」

 千春は何とか立ち上がって、男の方に少しずつ近づく。どうやら『彼自身に』戦闘の意思は見られない。だがなんだろうか、この気持ち悪さは。

 ここで倒しておくべきか。千春にはまだ多少の迷いが残っていた。無力化出来るならその方が良いだろう、だがこの男は一筋縄でいけそうな程簡単な男には見えない。それに千春にはまだ、人間を殺す行為に対する倫理観の抵抗が残っている。魔術師としての覚悟は、まだ宗石家の当主としても持ち合わせていない。

 千春は拳銃を男に向けて、再び魔弾を放とうとした。だがしかし、背後から感じた膨大な量の邪悪に背筋が凍りつき、彼女は後ろを振り返った。

 「な、何……!?」

 聖杯が、蓄えた膨大な量の魔力を一気に吐き出していた。赤黒く染まった聖杯からその渦が、今度は世界へ放たれていた。

 どうして──千春は驚いた。遥か地下の霊脈から、そして自分からも魔力を奪ったのに、今度はそれを吐き出す──その挙動の理由を、千春は理解した。

 通常、聖杯戦争において令呪を授かったマスターが使い魔である英霊、もといサーヴァントを召喚する。そのためには聖杯からの魔力供給が必要だ。彼らを呼び出すには、少なくともマスターがその儀式を行わなければならないはずだった。

 だがこの聖杯は、その儀式も介さずに自ずから無数のサーヴァントを召喚しようとしている。

 「来たぞ! これから始まるんだ!

  この世界を、新たに創造せしめんものが!」

 聖杯が放つ重圧がこの空間を襲う中で、男は恍惚そうに笑っていた。

 「一体、どういうことなの……!?」

 千春は男に向けて拳銃を撃ちまくった。ただ今の千春は体から魔力を奪われており、術式を発動できない。拳銃から放たれる弾丸はただの.45コルト弾だ。男は全ての弾丸を簡単に弾いてしまう。聖杯に魔力を奪われた千春は、今魔術を使うことが出来ない。千春は弾倉が空になると弾を装填しようとするが、思うように力が入らず手間取ってしまう。

 壁に残る弾痕を見て男はフッと笑い、口を開く。

 「残念だが俺には時間がない。後は、俺のサーヴァントに任せる」

 すると突然、外の壁を粉々に貫いて、一瞬にして千春の目の前に女が現れた。甲冑に身を包み、稲妻が走る黒い陣羽織を着た女武者。右手には刀を持っていたが、足をよく見ると義足のようだった。

 その姿は、ただの人間のように見えるかもしれない。ただその体全体から感じられる魔力、雰囲気、そして格が常人からかけ離れている。

 「さ、サーヴァント……!」

 聖杯戦争が始まると、聖杯は通常七騎の英霊を呼び寄せる。そしてその英霊を従えるものとして令呪を授かった者、マスターが聖杯に選ばれるのだ。今千春の目の前にいるのは、赤髪の男のサーヴァントに違いない。

 「さぁセイバー! この不届き者を排除しろ!」

 赤髪の男がこの場から立ち去ると、セイバーは千春に刀を向けた。千春は拳銃から銃弾を放つが、サーヴァントという存在にただの銃弾が、魔術を纏っていないただの弾丸が効くわけもなく、千春は駆け出そうとしたが聖杯の前で倒れてしまう。

 「くぅ……!」

 「なぁんだ、もう既にボロボロじゃねぇか」

 すでに千春の体力はゼロに近い。聖杯起動時の衝撃で体に異常なまでの圧がかかり、魔力まで吸い取られていた。時間が経てば魔力も回復するだろうし、サーヴァントを相手にしても逃げることは可能だろうと千春は思っていた。だが向こうは待ってくれるわけではない。

 「“雷よ穿て、闇空を駆ける斬雷よ”」

 セイバーが刀を天に向けると、無数の刃が稲光と共に千春に向かって飛んできたが、千春は間一髪で体を全力で床に転がして、その攻撃を交わしていた。刃が着弾するとその床は崩落してしまう。

 「こっちに来るな!」

 千春はそう叫び、最終手段を使う。右目に手をかざし、今持っている僅かな魔力全てを込めて『魔眼』を発動させた。

 「無駄だこの小娘が!」

 セイバーが刀を振るっても、その刃は千春に当たらずに空を切るだけだった。千春が持つ『魅了の魔眼』で相手の視界を一時的にジャックし、視覚から得られる情報を混乱させることが出来たのだろう。

 千春は懐から術式が刻まれた宝石を四つ床に投げた。するとセイバーの四方を囲うように結界が生み出される。セイバーはすぐに結界を壊そうとするが、例えサーヴァントの攻撃でも少しは手こずるだろうと千春は思っていた。そしてそのままリリーの使い魔を探し、それと合流して逃げようと考える。使い魔と合流できれば、例え高所でも外へ出て飛行できるはずだ。

 千春の胸に、刀が貫かれていなければ。

 「やっと仕留めたぜ、小娘」

 背後からセイバーの声が聞こえた。刀が抜かれると、千春は床に力無く倒れる。

 「え……?」

 千春が自分の胸に触れると、生暖かい液体が大量に噴き出していた。

 「な、なにこれ、どうしてこんなに……!?」

 「お前もわかってるだろ? 例え魔術師といえど、サーヴァントには勝てないってことをよ。

  さぁ、潔く死にな」

 すると、室内だというのに天井を暗雲が覆い始め、稲光が走っていた。これが宝具というものか、千春はそんな感想ぐらいしか出せなかった。

 息が苦しい。息をする度、穴の空いた胸に激痛が走る。もがき苦しみながら、千春は胸を手で押さえようとして、その物体に触れた。

 それは千春が首にかけていた、桜色のペンダント。形は歪だが一応桜の花びらを象ったものだ。十年前に死んだ両親の形見である。そのペンダントに触れると、何故かそれと魔術回路が繋がった。ペンダントに、何らかの魔術が施されている、千春はそう気づいた。

 千春はペンダントを握りしめながら、必死に願った。

 「聖杯、どうか私を助けて──────」

 

 

 ────素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。祖には我が神の使い宗石三頼──。

 手向ける世界は、この空に無限に広がる"星”。

 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。

 [[rb:閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。 > みたせ。みたせ。みたせ。みたせ。みたせ。]]

 繰り返すつどに五度。

 ただ、満たされる刻を破却する。

 ────告げる。

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ、誓いを此処に。

 我ら宗石は常世総ての善を願う者、我ら宗石は常世総ての悪を叶える者。

 汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!

 

 

 千春の願いがどうしてその召喚へ繋がったか。千春自身には理解できなかった。ただわかるのは、痺れるような痛みとともに右手の甲に仮面の形を象った赤い令呪が刻まれていたこと。

 そして彼を──サーヴァントを召喚したこと。

 「“サーヴァント、セイバー。ここに参上いたしました。さぁマスター、ご命令を”」

 眩い光と共に千春の目の前に現れたのは、白と紺を基調とした中華風の衣服と鎧を身に纏い、青と黄色の仮面を被った男、いや女か一見わからない麗しい人物だった。彼が発した言葉の意味がわからないまま、千春はがむしゃらに願った。

 「助けて、私のサーヴァント!」

 すると、仮面のセイバーは静かに頷いた。

 「仰せのままに、我がマスター」

 仮面のセイバーは鞘から剣を抜き、女武者のセイバーの攻撃をその剣で弾き返した。その剣戟が交わされた瞬間、その爆発が周囲のクレーンを襲い崩落する。光のような速さの女武者の剣戟を、仮面のセイバーは美しき剣舞で捌いている。その剣と刀がぶつかる度にグラグラとビルが揺れる。

 女武者は刀を床に突き刺した。するとたちまち彼女の体を稲妻が纏う。

 「ハッ、オレの刀に敵うかよ!」

 「いいえ」

 千春の前に佇む仮面のセイバー。千春の耳に入る彼の声は、こんな状況でもやけに冷静に聞こえた。

 すぐそばで、轟音──戦闘ヘリのロータ音が鳴り響いているというのに。壁に空いた大穴から、ヘリに備え付けられたガトリング砲が女武者を狙っていた。中国人民解放軍の戦闘ヘリ、Z-10だ。

 「な、なんだよこりゃあ!?」

 思わぬ乱入者に女武者も慌てているようだった。一方で尚も仮面のセイバーは落ち着いていた。

 「不思議なものですね。仮に聖杯から脳裏に刻まれたとしても、あまりに恐ろしい武器です──」

 千春の手に温もりが触れた。千春に見えていたのは、仮面のセイバーが自分の手を握りしめながら抱き上げていたこと。その温もりと共に、千春は自分の救援に気づかないまま、魔力の欠乏からか気を失ってしまったのだった。

 だが、今の彼女にはきっと理解できなかっただろう。

 今日が、新たな聖杯を巡る戦争の始まりの日であることを。

 ────それが、十年前から仕組まれた聖杯戦争の続きであることを。

 

 


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