Mercenary Imperial Japan   作:丸亀導師

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暗い歩み

1996年1月

実家程ではないもののやっぱり寒い冬の中、TVに映るのは日本帝国神戸の様子だ。

ちょうど一年前のこの日、大地震が都市部を直撃し少なくない命が犠牲になったのだ。軍は1級国家緊急事態を天皇から通達され震災直後から動き始め、内閣が支援物資を確保する間に軍事物資や道路等の整備を始めていた。

 

そんな映像が流れていたのも、もう一年も経つ。今ではその景色に当時の様子は伺いしれないほどに修繕が行われているが、巨大な橋脚だけは未だに建設中だ。

あれは高速道路なのだそうだ、狭い敷地の有効活用とはああ言うことを言うんだな。

 

高い建物が無いのがあの国の建物の特徴、所謂百尺規制。(自立式電波塔等の例外あり)地震に対する、最大限の備え。

あの規制が存在するのは、英国本土と日本本土。並びに地震地帯の国々だろう。

 

『高層建築は景観を損なう』という単純な理由じゃないだけマシだが、世代交代の時期が来ているのか日本帝国では規制緩和の流れが出ているらしい。噂によると250尺までの緩和だそうだ、建造材と建築技術と景観を吟味した結果それ位が望ましいらしい。

 

アメリカのニューヨークのような景観は、日本ではあまり好ましく思われていないらしく。建物も花崗岩のような質感にしやはり、古風な感じの外観のようだ。

 

話がそれたが、そんな感じの無理の無い建物が多いからか被害は比較的に小さかったらしいのだが、やはり天災であるから人命は多く失われた。

建物は堅牢であるが、殆どの人が家具に挟まれたり落下物での死者であったと。

 

そこでふと、高祖父の文書を読んでいて気が付いてしまった。高祖父の書いている文中には一文も日本帝国、特に本土で起こった天変地異での対応等が書かれていないのだ。

1935年帝都大震災と言うものがあったと言うのに、それに対してすら一切記述されていない。なんの為に?意図的か?

何か隠さなければならない事が起きたのか、それとも隠さなければならない事を行ったのか。

 

 

 

 

1934年ネパール 

誰もがいつものように起き上がり、農作業を開始する。空は晴れ光が降り注ぐだけれども、動物たちは騒がしく牛や馬は暴れ猫や犬は怯えている。

 

そして、それはいきなりの出来事であったガダッと卓上の物が音を立て床へと落ちるもそれだけではない。周囲の物が揺れ動き、草木は根から逸脱する。

ビハール・ネパール大地震、ヒマラヤ山脈の周囲は危機に瀕した。

それに対して国連は援助物資の供給を行うと発表するが、それは地震から一週間経った後、つまり手遅れとなったあとの話だ。

 

それ以前に宗主国、いや英連邦の加盟国としてインド政府から援助を行おうとしていたが、地震の影響により道路は寸断され復旧まで大凡3ヶ月という概算が出された。

更に当時ネパールは鎖国政策をとっていた為に、ネパール国内ではどうなっているのか誰にもわからない状態だ。

 

そこで、鎖国の解除を促すために英国は援助を行おうとしたが、魂胆は明らかでありそれを拒否するのも当たり前のように行われた。

ああ、そうかと誰もがこれはもう手が無い、強硬手段はインド国民が嫌がるし行うことはできない。間者を送ろうにも文化すらわからないのだから、どうしようと?

 

と、そこまで考えたところで何を考えたのだろうか?当時の、日本の内閣は空挺降下による支援を真剣に思考した。

我々当事者に立つ軍人から言わせて頂けば、そんな空挺降下自体誰もやったことが無いにもかかわらず、大規模な物資を空中から散布する?そんな大量の航空機をどうやって調達するのか?

 

当時民間の旅客機だって、世界的に見ても双発機がせいぜいで4発機なんてものは実用段階になく、軍用機でもそんな用途のもの未だに手探りであったのだから、無理だと正直に内閣へと意志を示した。

そして、国連の発表の大凡2日前現地へと出発する。

 

救出団の人数は20名、航空機を乗り継いで現地近郊のプラカシュへと到着した。

当時の装備は諸外国と比べてもあまり特徴的なものはなかったが、どこよりも早く到着したことは誇りに思っていただきたい。

更に、唯一特徴的と言われれば犬を連れての飛行であった事だろう。

 

救助犬という物を考案したものは誰であったろうか?最早記憶の彼方だが、元は敵陣地攻略用に開発されたものの延長だったという記憶はある。

それが役に立った、未だに意識のある下敷きとなった者たちを少なくない人数救出したことは確かだ。

 

彼等は、帝都地震の時も活躍したがそれは諸事情により割愛させていただく。

 

ともかく、我々は名を上げてから直ぐに行動を行うことで、石碑に名を残したろう。両国間の関係は間違いなく良い方向へと向かった、全ては打算のために。

武士道なんて言葉を昨今良く耳にするが、私の世代から言わせて頂けばあんなもの綺麗事だ。

 

今でも、思い出すのはあの赤軍のもがき苦しむかの様な首、あれを思い出すと次も同じようにしなければなぁと、そう思ってしまう。何を書いているんだろうか?こんな事書いたところで、我々の世代の悪習をこの手から取り除くことは出来ぬのに。

 

さて、救助隊が帰ってきて一番に必要なものはなにか、それが少しずつ見えてきた。

他国の者たちもそうなのだが、まず軍隊の装備(・・・・・)そのものに問題があるのだが治安維持はその地の治安部隊に任せなければならない。

 

勝手が違う、というものは当たり前な事だ。宗教や生活、死生観そのせいでどういう埋葬をすれば良いとか、我々には資料が少なすぎた。実際、それが発端で一時戦闘というか暴動が起きるほどには。国際的な協調というには程遠い、準備不足も甚だしい。

 

まあ、これのおかげか一時的に協調路線にという風潮が出来つつあった、人種問題で直ぐに立ち消えたがそれでも効果はあったのだ。

 

 

 

だが、もう一つの事件がこれを打ち消した。

この年の暮れ、ソヴィエトでは大粛清が始まる。それが対外的にどういう結末を迎えたのかは、後に語ることとなるだろうがこの出来事はとある事に直結した。

 

突然赤軍が動き始めたのだ、何処へ向かってと言われるだろうが各地国境線に部隊が集結し、周辺国は直様戦時体制に移行するとともに大動員を始めた。一触即発、その言葉のような有り様は戦争の始まりを予見させた。

 

だが、ソヴィエトの兵は何を思ったのか国境の内側を向いて部隊を配置されていたという。まるで、内側から誰かが逃げ出さないように、と。

事実、ある日フィンランドとの国境で、複数人の逃亡者が確認されそれを射殺していたという。

生き残った者たちがどうなったのか、見せしめにされたのか?はたまた消されたのか。

 

そして、逃亡者は東欧だけでなくロマノヴァにまで来たという、そして国境線を跨ぎ亡命を言い出したのだが、それを追ってきた赤軍とロマノヴァ守備隊との間で偶発的な戦闘が勃発した。

双方ともに銃を使用せず投石や、殴る蹴るなどの肉弾戦を行い最悪の事態を免れたが戦争一歩手前には陥った。

 

鉄のカーテンと形容可能な防諜能力、当時は侮れないと私も思ったそれは、しかし思い違いでありただ殺戮の限りが尽くされたことにより、諜報員も一切合切が殺されただけだ。

 

どうやって外貨を獲得しているのか、未だにそれが腑に落ちない。サンクトペテルブルクしか港湾が無いにも関わらず、様々な国々と貿易を行っていた可能性が浮上している。

そこから導き出されるのは、相当数の国家の中に共産党員が紛れ込んでいたことを意味している。

 

特にその輸出品目は主に鋳物であった事から、大量生産技術の確率に成功していたようだ。

いったい何処からそんなものを調達したのか?フランスだろうよ。もしくは米国か?とにかく、その2つの国家から数々の輸入を行っていた事は確かだ。

一つの港湾では不可能であるのに…

 

 

 

 




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