Mercenary Imperial Japan 作:丸亀導師
1998年研究室映写機
記録映像
いきなり映るのは航空機の尾翼か、それが映り周囲を見渡すようにカメラが首を振るとそれには、広大な海と木の色合いを残した巨大な甲板が映り、それを囲むようにぐるりと艦艇が映り込む。
一旦止まるとそこには手を振る船員達の姿が映り込み、それと同時に急に機体が加速する。
次第に甲板から離れていく機体に映るのは壮大な海に浮かぶ、空母とその護衛である艦艇たち。
塔のような艦橋を見るが長門型であろう戦艦の姿もある。
見る見るうちに小さくなって行く姿、空には雲が無いのかそれともフィルムが古いだけか、それらが美しく描画される。
と、暫くの合間暗転し一旦撮影を停止したと思われる。十数秒経つと再び映像が映され、何やら海を映している。
この機体の下部は硝子張りなのだろう、股の下から映し出されたるは、艦隊。
胡麻を振り掛けたようにポツポツと空母のいない艦隊が3列縦陣で、北上している。
だが、暫くすると空中に突然何かが炸裂し煙が形成され始めた。対空砲火であろう、散発的なものが展開されるも機体は悠々と空を飛び続ける。
水上機母艦から何かが飛び立つのが見えると、それ等のが次第に上昇を始め撮影者を追尾し始めた。フロートを持つ下駄履きの水上機が、攻撃を仕掛けてきた。Late298、非常に良い動きをする。水上機にしてはかなり良いものだろうが、偵察機と言えど空母艦載機。その速度は水上機の比ではない。
クルクルと巴戦を仕掛けてくるが、それには乗らず高高度をとって悠々と空を飛び続ければ堪らず引き返していく。
後部銃座も仕事を無くし、それをただ眺めては上空から何かが来るのでは?と警戒をしている。
再び映像が暗転し、次に映ったのは自らに近づく黒い鳥の群れ。いや、艦載機群である。
発艦時映し出されていたものと同じである者たちが、大挙して押し寄せる姿は渡り鳥のようだ。
パラパラと幾編隊へと別れ、急角度での爆撃を開始する。所謂急降下爆撃は、同時に機首の機銃が瞬く。
何機かが、高角砲の餌食となるもその大半が艦上構造物を事如く破壊せしめ、艦艇を次々とボロ雑巾のようにして行く。
対空砲火が緩やかになると同時に、水面をスレスレに飛行し艦隊へと魚雷を透過する攻撃機達。
3筋の艦隊編成によって外側に位置していた巡洋艦、駆逐艦へと次々と命中し駆逐艦に至っては、命中した直後巨大な水柱と共に沈没して行く。
だが、盾としての役割は果たしたと言うべきか、戦艦への命中は僅かに二本。だが、同時に艦上構造物で傷を負っていないものは無いと言える程に、もはや甲板で動くものは確認出来ない。
映像はそれで終わりではない第ニ波攻撃が直様死に体の艦隊へと食らいつく、今度はバラバラになった艦隊へと各個撃破を狙って一つ一つ虱潰しに破壊していく。
もはや対空砲火等無く、ただ散り散りに逃げる艦艇だけが映る。
横に穴の空いたの防御陣、そこへ艦攻隊が糸を縫うように入り魚雷を投下する。
それは吸い込まれるように海へと着水すると、白い筋を描いて戦艦のド出っ腹へと食い込み巨大な水柱を作る。
一隻の戦艦はそれによって右舷の腹を見せ始め、いよいよ転覆するかと思われる程に傾斜している。
戦闘開始からものの2時間の出来事である、各国の海戦という概念が根底から叩き潰された瞬間でもあり、航空機と言うものの潜在的な力をまざまざと見せつけているが、まだ戦艦を完全に仕留めたという訳ではない。
と、その時周囲に無数の水柱が立つと戦艦の周囲を覆うように数多の砲弾が降り注ぐ。
飛翔してきたと思われる方角には、楼閣を備えた艦艇が4隻確認出来る。長門、及びその同型の陸奥、それと伊勢型が2隻確認された。
留めを刺しに来たであろう事は想像に難しくなく、事実この数十分後には仏艦隊は全滅した。
碌な反撃も出来ず、唯一出来たのはたった一度の射撃でそれは日本軍のはるか後方に落下した。
記録映像は最後の射撃その発砲から、爆沈までそこで終わる。
この映像はリアウ諸島沖海戦と呼ばれている、この世界大戦始まって最初の大海戦と呼ばれる戦い。
と言っても、戦いは映像を見た通り航空母艦を使用する日本軍の圧倒的な勝利で幕を下ろした、一方的でもはや勝利という曖昧なものですら無い。虐殺のようだ。
この海戦は、蘭領に駐留していた仏艦隊が仏領インドシナへ戦力の投入を行う為に北上してきた、そこを日本軍が網を張って罠にかかった。仏艦隊はインドシナを放棄しても良かった筈だった。だが、何故かそれをしなかったのだ。
今でも当時の状況を知っている生き残りの船員たちは、それを奇妙な事だと思っている。
一説によると仏艦隊は、本国より秘密の通信が入りインドシナへと艦隊を動かしたと言われている。
当時の記録には確かに通信があった事は解っているが、おかしな点としてフランス本国にはそのような資料は一切なかった事だろう。そして、日本軍の当時の機密文章に次のような事があった。
「忠臣の証作戦」
当時の仏国の機密回線はこの時既に破られていた可能性が、日英の研究者等の見解のようである。
実際戦後50年たった今でこそ公開された資料が見られるのだが、文章の節々に、偽装電波による仏領への情報の撹乱が行われていたようだ。
また、高祖父の手記にこのような事が書かれていた。
「なんと、哀れな艦隊は海軍の糧とされる。もはや戦艦の時代も終わりかと、この時の報告に私は驚きと同時に何かしらの確信を得ていた。後年海軍は、戦艦の対空火力を強化し戦艦は損傷担当艦と言われる立場になろうとは思わなかった。」
現在の日本帝国海軍の編成の一つに、打撃艦隊編成というものがある。これは、戦艦を中心とした防空及び対艦対地能力のある、非空母による最後の艦隊と呼ばれる代物だ。
恐らくは、このリアウ諸島沖海戦からこのような思想が生まれたようである。
ともあれこれは過去の海戦史の中でもっとも、片側の戦力との損害比率が偏る戦闘であった。恐らく、今後一切これが抜かれることは無い。そんな一方的であったそうな。
帝国海軍損害
航空機16機 人員20名
仏東洋艦隊損害
戦艦3
巡洋艦8
駆逐艦16
人員3208名
判明しているだけでこれだけである、軍事関係者は実際はもっと多いとも言われているんだとか。
その理由としては、先の大戦で本国でも身内諸共命を落としたケースが多いということ。その為、死亡届が無いのだとか。
ちなみに、この作戦とインドシナ攻略はほぼ同時に並行して行われ、更に蘭領インドネシアの軍港は、同時刻宣戦布告した英領より飛来した、戦略爆撃による空襲に見舞われバリクパパンが。
潜水空母艦隊によってパレンバン港が襲撃され、殆どの通商路が破壊されており、これ等の戦闘によって蘭領インドネシア政府は降伏を選んだ。
実際たった二ヶ月の間、経済封鎖されていただけで治安が悪化し内戦一歩手前まで行っていたようで、それこそ戦争なんてやっていられる状態ではなかったようだ。
住民たちの反乱によっていくつかの官邸は焼き払われ、今まで暴動を力で抑え込んでいた軍ですらその片棒を担いだ。
南方戦役はそんな形で終わりを迎えたのだが、彼等南方方面軍は自らの領地へと、一時帰国する。
本土組だけが現地へと残り、治安維持を始めとした処問題を解決するのに奔走した。
それだけではなく、彼等にはまた別の方面への作戦行動に向けて準備状態へと移行した。
それは南米ブラジル内戦の激化に伴う、戦力派兵であった。
もはや休む間もない帝国軍、それは北米大陸でも似たような事態へと移行して行っていたようだ。
日系人に対する迫害が表へ出て来ると共に、米国との関係は更に冷え込んでいったが、民間での出来事に国は口を出さなかった。
しかしながら、仏への軍事物資輸出の制限を行うよう国連よりの勧告を無視し続ける。
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