全になるエンタングル 作:飯妃旅立
皇紀3231年11月──。
しんしんと降りゆく雪々はしかし、地に落つる前に溶かされる。
熱だ。
遠方より眺むればまるで円状の硝子にでも囲われたかのようにぼやけて見えるその街は、賑わい、騒ぎ、活気や活気と満ちていた。
これは、そんな鋼鉄都市の下層に生きる、ある少女の物語。
カン、カン、カンと鐘が鳴った。音に驚き烏が飛び立ち、その羽ばたきから一枚の黒羽が落ちた。羽根はひらひら、ひらひらと揺れ踊り、舞い、太いパイプとパイプの間を通り抜け、噴き出る熱煙に押されて軌道を変えて、狭っ苦しいベランダに洗濯物を干す女達に目を向けられる事も無く落ちていく。
ひら、ひら。
ひら、ひら。
ひら、ひら──ぱさ。
落ちた。落ち着いた。着地した。
そこは何もない、強いて言えばゴミ捨て場。纏められなかったゴミ達が、回収され忘れたゴミ達の拠り所足る集積場。
そんな羽根がひょいと拾い上げられる。拾われる。抓まれて、持ち上げられる。
「……コレ、……がんばりゃ食えるかな?」
鈴を転がすかのような声。波間を彩る貝殻のような声。
少女だ。お世辞にも綺麗とは言えない、直接的な表現をするのならみすぼらしい襤褸布を纏った少女。未だ親元を離れてはならぬ程幼く、頼りなく、庇護欲を掻き立てられるその少女は、意を決したかのような相貌をして──羽根に、齧りついた。
つけなかった。
割って入った少女がそれを止めたからだ。
「ミネイ! 拾ったもの食べるのはダメって言ったでしょ!」
「ネコメ……でも、いけるかなって」
「明日には食料配給車が来る。チャンスは必ずあるわ」
少女よりか幾分年上。大凡16か17を数えるくらいだろうか。これまたみすぼらしい襤褸布を纏っている少女は、ネコメと呼ばれている。
「泥棒は、善くないよ、ネコメ」
「生きていくためには仕方ないと教えたでしょう? 何も食べずに死ぬ方が私にとっては良くないし、平等を与えてくれないこの都市が、何よりも良くないわ」
「……」
ミネイ、そしてネコメは、所謂ところの孤児である。
親のいない子供。親に捨てられた子供。育てられずか、半ばまで育てられてか、とかく何らかの理由で親から話された子供たちが、こうして下層も下層で日夜飢えに喘いでいる。
孤児。孤児だ。身寄りのない子供。孤児院なんて善意に模られた施設は存在せず、わざわざみすぼらしい子供を引き取るような者もいない。
彼女らを気に掛けるのは、人身売買を生業とするような裏の人間達だけだろう。この地獄のような環境で暮らすくらいであれば売られた方がマシだと自ら捕まった子供もいたけれど、彼ら彼女らがどういう扱いを受けるのかなんてわかり切った事だ。
そろそろ戻ろう、とネコメに手を引かれ、ゴミ捨て場の近くにある外れた用水路の蓋へ小さな体を潜り込ませた。
階段を下りて行く。そうして辿り着くは、一般的に下層と呼ばれるところ……熱い暑い蒸気の通る配管が幾つも張り巡らされた地下道だ。それらを冷却するための水と下水、硫黄酸化物と窒素酸化物の混じった汚染水が通る危険なこの道は、しかし多少なりともパイプの熱を防ぎ、僅かばかりの飲み水の確保が出来る穴蔵となっている。
孤児。食料にありつくためには盗みを行わなければならない子供たち。その善悪。
ネコメとミネイが静かに歩み、戻ってきた場所。
そこは少しだけ窪んだ通路の脇。かつてはメンテナンス用の通路と繋がっていたのだろうが、急激な開発により取り潰された開かずの扉のあるその場所に、数人の子供たちが纏まっていた。纏まって、肩を寄せ合って眠っていた。眠っている子と、呆けている子がいた。
ネコメはその子供たちの内の一人に近寄って、顔を覗き込む。
「ミネイ、こっち」
「うん。……大丈夫そう?」
「……このままだと、長くは保たないかもしれない。栄養もそうだけど、脱水が……」
「硝子瓶まだある? とってくるよ」
「ごめん、お願い。でも十分に気を付けて」
ネコメから渡されるは、ところどころに汚れと、水垢と、そして罅割れの目立つ瓶。元は酒瓶だったのだろう、深い緑色をしたそれが、ミネイの小さな手に渡る。少女の身体には些か大きいのだろうそれを大事に抱え、ミネイはネコメ達から離れていく。
彼女が闇に消えて行くその姿を、ネコメはずっと眺めていた。
「さて」
ある程度の所まで来て、ミネイは一息を吐いた。吐いて、酒瓶を持ち直す。抱え持ちから、酒瓶の首を握る持ち方に。
そうして、配管へ指を付けた。
「こっちか」
分岐する配管を確かな足取りで辿っていく。迷う事は無い。
ミネイの小さな歩幅がそれなりの早足で進むけれど、距離があるのだろう、中々着く気配がない。
否、違う。
行こうと思えば使える近道を使っていないのだ。
だって、尾行けて来ている奴がいるから。
「鬼ごっこは楽しめたかい?」
先程までのあどけなさは鳴りを潜め、どこか挑発的に、あるいは威圧的にミネイは問いを投げかけた。
返答は──網。そして縄。
投げつけられたそれらは狭い地下道を制圧するに十分な面を有し、たちまちミネイは捕らえられてしまう。小さな体に纏わりつく網。それらは簡単に彼女の体躯を引き倒し、ずりずりと背後──網の射出された闇へと引き摺って行く。
「おいおい、これは大事な水を入れるための瓶なんだ。割りたくないのさ」
「!」
その声は、地下道の横、配管の上から聞こえた。
裸足でその上に乗り、闇の中の人物へ面白そうに文句を垂れる。
「なぁ、お上に伝えておくれよ。もうすぐそこに行くぜ、ってな」
けらけら笑って、直後冷たい表情に切り替えて。
「だから──首ぁらって待ってろってな」
絵紙。呟かれた言葉は音に結ばれない。
そして、消える。消える。
ミネイの姿がまず消えて、次に消えたのは地面だった。地面だ。当然、落ちる。
「な、」
闇の中の人物が動揺の声を上げる。落ちる感覚。それは中層から上の層で生活していたのなら一度は想像する、高空からの落下という恐怖。それがまさか、地下道で。
次に消えたのは、ソイツの四肢。焼けるような痛み。次に消えたのは、胴体。首。そして、頭。
消えて行く。すべてが、すべてが消えて。
消えて。
「最近、多いな。……早いとこ水持って帰らねえと」
進む。最初から、一歩も動いていないミネイが。初めから、地下道になど入ってきてはいない人身売買組織の手の者から手を引いて。
配管を辿り、酒瓶を片手にミネイはまたも歩き出した。
「来た。ミネイ、お願い」
「……」
「お願い、ミネイ。今日を逃せば、次に来るのは三日後。みんなもう限界なのよ」
「……わかった」
シャリシャリと主連棒の回る音が聞こえてくる。ここから少し上の方にある大きな道に、食料配給を行う蒸気自動車がやってきた事を知らせる音だ。
ミネイとネコメは急いで階段を駆け上がって、位置につく。配給員や配給にありつかんと並ぶ人々からは見えない建物の死角。どこに路地裏があるのかを知っていなければ、二人の姿に気付くことが出来る者はいないだろう。
時を待つ。チャンスは、食料配給の終わったタイミング。最後の一人が受け取ったその直後。
未だ人の列は長く、途切れる気配など一向に見えないけれど、それくらいの我慢は苦にならない。我慢をせずに逃し得る苦の方がいっそう辛いから。
そうして、ずっとずっと、待って。
とうとうその時が来た。
「……そろそろ、準備する」
「ええ、合わせるわ」
言って、ミネイの手が仄かに光り始めた。温かい光だ。白色で、揺らめき、輝き、けれど周囲のパイプや油に濡れた壁には反射しない、不思議な光。
それがゆらりゆらり、ゆっくりゆっくりと球形に収束していく。ミネイの小さな掌の上で、直径5cm程の光のボールが浮かび上がる。
「絵紙」
呟かれた言葉はしかし音に結ばれない。けれど確と届けられたソレが、光球を動かした。
ふよふよと浮き動くそれが配給車へ近づいていく。揺れる、揺れる。ゆらりと揺れる。揺れ動いては──強く、光る。
ふと、食料配給員が光の球を見た。特に何気の無い視線だったのだろう。何かを感じ取ったとか、何かに勘付いたとか、そういう事でなく、なんでもない視線だったのだろう。
食料配給員が驚いた顔で口を開く。
「ネコメ、行って」
──そんな配給員の横を通り抜けるネコメ。堂々と、あるいは周囲にいる誰の事も気にしていないのではないかと思える程、おおっぴらに。
配給車に残った残飯──配給数の確認ミスや予備──を、根こそぎ奪う。多少零れようとも構わないとばかりに襤褸布を縫い合わせたバッグへそれを詰め込む。詰め込んで、即座にその場を離脱する。ミネイをも置き去りにして、下層へ帰る。
それはミネイも織り込み済み。次第に彼女の放った光球が萎んでいくのを見て、彼女もまた身を翻した。
せなかった。
「君か、大規模幻術を使っていたのは」
「──!」
パシ、と、腕を掴まれたからだ。
それほど強くない力で、けれど離す気はないとばかりに強固に。
ミネイがその下手人を見上げる。
見上げて──呆けた顔をした。
「あん? お前……竜司か?」
「……何?」
そこにあったのは、額に深い皺の刻まれた男の顔。
立原竜司──異能捜査課の刑事である。
中層、ある繁華街……よりは少し裏手目の、居酒屋。
そこの奥。奥の奥。個室となったその場所に、二人はいた。
方や齢10を数えないだろう程の少女。
方や30そこらの男性。
こと、と置かれるジョッキには、並々とミルクが注がれている。
対面に座る男の前には、水。酒ではない、水だ。
「真面目ちゃんめ」
「……そりゃ、仕事中ッスよ。飲めるわけないじゃないスか」
頬杖を突き、胡乱な目で目の前の男を見る少女──ミネイ。彼女にそう眺められて、少し不服そうに返答をする彼は、未だに信じる事の出来ないといった様子で何かを問いかけようとした後、一息飲んで水に口をつけた。
「三船とはどうだ、仲良くやってるか?」
「どうせ俺が噴き出すのを期待したんでしょうけど、引っかかりませんよ」
「なんだ、学びやがって。つまらんやつめ」
ケラケラと笑うミネイ。その様子、仕草、表情。どれをとっても少女のソレではない。
それではないのだ。
「はぁ……。はぁ。本当に、本当にテツさんなんですか。君のお父さんがそうで、俺をからかってるとか、そういう事じゃなく……本当に」
「信じられねえか」
「まったく」
「そりゃそうだ、俺だって信じられねえもんよ。くく、アイツらが見たらなんて言うかね」
「……その悪そうな顔。本当にテツさんなんですね」
溜息は二人の間に溶けていく。
竜司の目の前に座る少女は、紛う方なき少女だ。どこからどうみても少女だ。なんなら幼女やもしれない。あまり差別というものを好まない竜司をしてみすぼらしいと表せる襤褸布を纏う、今じゃどこを見ても必ずひとりはいると言える浮浪児。
その事実にこそ憤れど、片一方で常識として受け入れている……そんな子供。
それが。
「テツさん。峰威鉄さん。俺は、アンタが
「おうおう、ソイツはもう死んでんだよ、竜司。気安く名前を出すな、酒が不味くなる」
「ミルクで何いってんスか……」
「うるせぇなぁ、こんな上質な
峰威鉄。竜司の元上司で、数年前に死んだ──男だ。
それが、こんなにも可愛らしい童女の姿で、まさか、まさか。
「なんで……なんでアンタが、盗みなんかやってんスか」
「……なんでだろうなぁ、おい」
──気が付くと食料が無くなっている。
食料配給所に勤める職員が盗み食いをしているだとか横領をしているだとかで他の課が捜査に入った事件で、件の配給員曰く「本当に気が付いたら無くなっていた」の一点張り。様々に様々な検査や捜査が為された上で、医者より齎された「微かばかりの精神操作の痕跡アリ」の情報から、
異能。
文字通り、通常とは異なる能力を指す。離れた所の物を動かすだとか、誰かの記憶を読むだとか。とかく通常では考えられない異常を引き起こす能力を持った者が、少なくない数、この街に存在している。
「……テツさん。自首、してくださいや。アンタのせいで、食料配給員が一人職を追われてんですよ」
「そうもいかねぇのさ、竜司。知ってるか、この街にどんだけ孤児がいるか。蒸気の熱でうだるような暑さの下層で、どんだけの孤児が死と飢えに喘いでいるか。お前らが一向に捕まえられねえ、人身売買の奴らがどんだけ孤児を狙いに来ているのか。知ってるかよ、竜司」
「知ってます。……でも、犯罪は犯罪です」
「くく、真面目ちゃんめ。そうだなぁ、犯罪だ。誰かに迷惑もかけてるからな、生きていくための言い訳にゃならん。デケェ主語に、不確かな同情に惑わされんくらいの胆力はついたか」
「テツさん」
「だがよ、そうもいかねぇのさ竜司。俺だってわかってるよ、ドロボウはイケナイ事さ。子供らにも言ってる。だが聞かねえ。なんでかわかるか?」
「……」
「死ぬからさ。食わねえと死ぬんだ。飲まねえと死ぬんだぜ。知らねえだろ、お前。お前も、上の連中も、みんな」
「知ってますよ、それくらい」
「知らねえさ。知らねえから放っておくんだ。いいや、知ってるのかな。知ってるから──"放っておけば死ぬだろ"とでも思ってんのかね?」
偽悪的な笑みは、竜司に何かを訴えかける。威鉄がするものであれば威圧的に見えようが、幼い童女の姿は心を締め付ける。
竜司は、一度心を落ち着けるために話を逸らす事にした。
指を指すのは──ミネイの、耳。
「……それ」
「おう、乗ってやる」
「それは……さっきは隠してましたけど、作り物、じゃないんですよね」
「わざわざ扮するヤツがいるってのかい? そんな酔狂なヤツが」
「いいえ。いません。……何故なら、
エルフ。
エルフだ。ミネイの耳は、鋭く尖っている。ネコメの耳もそうだった。下層にいる孤児の六割くらいは、エルフだ。
親を連れていかれ、あるいは殺されたエルフの子供。人間の親に捨てられた、エルフの子供。
「人生、わからないもんだよ。昔は追っていた長耳の、その子供に……俺がなっちまうなんてな。……なってみて、わかったよ。なんら変わりゃしねぇ、普通の子供だ。親を求めて夜に泣く子供ばっかりだぜ」
「……」
威鉄は強面の男だった。その彼が追っていたのが、エルフの犯罪者集団。異能を用いてこの街を破壊せんとするその集団は、そのほとんどが彼に検挙され、お縄となっている。
異能はエルフの血が為す業だ。混血であれ純血であれ、ひとたびエルフの血が混じれば、その身に異能が宿る。けれど件のテロリスト達によってエルフのイメージは零落し、その身体的特徴も、異能も、迫害の対象となってしまった。
身体的特徴の現れぬ者は異能をひた隠しにして生を全うし、エルフの血が色濃くでてしまった者はそれを隠し、日陰でひっそり死んでいく。
今目の前でミルクを飲む童女も同じ。鋭く尖った耳と、紺碧に揺る瞳。紛う方なきエルフの特徴だ。
「俺が追ってたのは間違いなく犯罪者だ。あいつらを捕まえるために何度苦汁を飲んだことか。あいつらのせいで死んだ命がいくつあることか。……だがよ、何も俺ぁ、あいつらの家族に矛先を向けるつもりはなかったよ。あいつらの罪はあいつらの罪で、そいつの子供に、何も知らねえ、一人で生きていく事さえ難しい子供に咎を背負わせるつもりはなかったんだ」
「そりゃ……別に、テツさんのせいじゃないスよ」
「だろうよ。俺も別に背負っちゃいねえ。けどよ、そのせいで今、子供らは自ら食料を盗む選択を取ってる。俺が誘導したってワケじゃねえんだぜ。俺が物心つく前から、ずっと。アイツらは下層で飢えを凌いで、罪を犯し続けている。なぁ、生きるために盗むのが悪いっていうんなら、エルフの子供が生きていける……働ける場所を作ってくれよ。お前、今そこそこ偉いんだろ?」
話を逸らしたのは竜司だ。だけど、論点をずらしに来ている、とも感じられた。
「テツさん。やっぱ、自首してください。そんで……罪を清算してから、上にかけあってください」
「お上が売買やってる、っつってもか?」
「──っ」
反射的に周囲を見渡す竜司に、ミネイがケラケラと笑う。笑って彼を制止する。
「結界さ。音は漏れねえよ」
「……異能、スか。はは……アンタが異能を使うなんて、おかしな話だ」
「ごもっともでどうしようもねぃや。で?」
「……証拠が、無いッス。それに、俺が今追ってんのは食料消失事件で、そういうのは別課の仕事スから、手が出せないス」
「それもごもっともだ。ンな事がわからねえ俺じゃあねえやな」
「アンタが、子供たちを守る事は出来ないんスか? さっきみたいな大規模幻術がありゃ、目を欺く事くらい……」
「やってるやってる。だから最近はほとんど捕まってねえんじゃねえかな、俺の目の届く範囲は、だが。だがよ、お上が雇ってんだわ。じゃあどうしようもねぃやな」
「──
「やめとけよ、探ったら一発で首飛ぶぜ」
「でも」
「無理さ。少なくとも今はな。奴さん、自分の周りを固めに固めてやがる。中には"買われた"エルフもいるみたいだぜ」
ミネイの視線が、ふと壁を行く。壁だ。その先にあるのは家々で、家々の先にあるのは。
竜司がこの街の最高権力者の顔を浮かべてぞっとしているのを見てか、ミネイがまたもケラケラ笑う。笑って、飲みほしたミルクのジョッキをことんと机に置いた。
「ご馳走さん、竜司。すまねえが、自首はしねえ。あいつらを殺すワケにゃいかねえんだ」
「逃がしませんよ」
「ああ、でももう逃げてる」
消える。
消えた。童女の姿が、眼前から。
ミルクのジョッキさえも、そこには無い。誰かがいた痕跡も、微かたりと存在しない。まるで初めからいなかったかのように、竜司の前からミネイが消えた。
幻術だ。
「……テツさん」
かつての上司に、竜司は──。
「っ良かった、お帰り、ミネイ!」
「うん。ちょっと、警察に追われちゃって、時間かかった。けど、ほら、お土産」
「大丈夫? 怪我はない?」
「うん」
下層──廃棄されたパイプの隙間。
熱を運ばなくなったパイプが所狭しと立ち並ぶそこに、数人の少女がいた。襤褸布にくるまって、身を寄せ合って、そこで。
「これ……ミルク?」
「と、このジョッキもそこそこの値段で売れると思う。ミルクは栄養価高いから、みんなで飲んで」
「……ありがとう。でも、これはミネイが飲んで。今日の分でみんな少しはお腹が膨れたから……。だから、カラスの羽根なんて拾い食いしちゃダメよ?」
「う、はーい」
ネコメはここでは一番のお姉さんで、まとめ役兼保護者のような役割を担っている。とはいえ彼女もまだまだ子供だし、ミネイから見て危なっかしい所も多く、更には愛に飢えて泣いている事も多い。
ミネイもまた、ネコメに救われている。エルフの子供として生まれ、数年前に捨てられたミネイを拾い、共に育ち、育て上げてくれたネコメ。年の近い姉、あるいは妹のような存在だ。ミネイにとっては、だが。
ミネイの帰還に安堵したのだろう、ネコメは子供たちの塊に寄り添って壁に寄りかかると、そのまますぅすぅと寝息を立て始めた。気を張っていたのだろう。ミネイを心配していたのだろう。その様子に申し訳なさが募ると同時、ミネイはあどけない子供の顔を消して、無い髭を撫でる。
かつてはジョリジョリと無精ひげがそこにあって、思案に丁度いい刺激だったんだがな、なんて思いで掘り返すは先ほどまでの事。
「……わかってんだよ、俺だってな」
竜司。立原竜司。
峰威鉄が現役の頃に入ってきた新人で、正義感だけはいっちょ前で、時折見せる鋭い直感や演算能力に優れた……それでもその頃は、本当にただの捜査官だった。
それがああも、精悍になろうとは。
そして。
子供たちの塊から離れた場所で取り出すのは、一本の鍵。
無駄な装飾のないソレは、しかし複雑な形状をしている。
「脇が甘ぇのは変わってねぇなぁ、おい」
先程、ミネイが竜司からくすねたもの。
ある資料の入った机の引き出しを開けるための、大事な大事な鍵である。