全になるエンタングル 作:飯妃旅立
教会。
人々の信仰対象は"超常の力を使う異物"ではなく"目に見えた力や技術を齎す蒸気"へと移り変わった。謂わば科学信仰だ。その背景にエルフの姿があろうとも、マナ粒子の存在があろうとも、人々にとって関係のある事ではない。
彼らの心にはもう、神など存在しないのだから。
なればこの教会は何を祀る場であるのか。
「ヤスメ。ここにはもう、戻ってきてはならぬと言ったはずです」
「いいじゃない、シスター。ここはアタシの家なのだから」
そこだけは、異質な空間であると言えた。
中層下層と赤錆に包まれていたし、上層は上層で銀色のビルが立ち並ぶ場であったはずだ。
けれどどうだろう。ここ──教会の周囲は、これほどまでに明るい。明るいのだ。色彩豊かな花畑には蝶が飛び、白色を基調とした建物に汚れは一切無い。
教会。その名に足る。
「教えて、シスター。……アタシ達を、商品として外に売っているのは……誰なの?」
「ヤスメ。貴方は教会の手を逃れ、中層の住まう民となりました。それはとても素晴らしい事で、奇跡であると言えます」
「わかってるわ、それくらい」
今、訪藤と会話をしている女性。
シスターと呼ばれている、赤い毛先の特徴的な女性。目を伏せ──その手に拳銃を持つ、恐ろしい雰囲気を纏う彼女に、訪藤は臆することなく言う。
「シスター・ヨセフィン。いつかアナタは言ったわ。ここにはもう、戻ってきてはならない。けれどもし、ここに戻ってくる事があったのなら、相応の覚悟を持ってくることです、ってね」
「相応の覚悟があると?」
「だって、妻がいて、その妻を心より愛している男が、その妻を裏切る結果になってしまうかもしれないというのに、自身の目的を果たそうとしているのよ? そんな覚悟を目の当たりにして、アタシが黙っていられると思う?」
だから、と。
訪藤は指を二本立てた。
そこに挟まれているのは針だ。長い針。情報処理能力を買われ、護身術の欠片も習っていない訪藤。彼に戦闘能力は存在しない。しないことになっている。
なっているだけ。
「教えて、シスター。さもなければ、実力行使に出るわ」
「神の家を、血で汚しますか?」
「じゃあ、教えて。ここで子供たちを使えるように育てては、外に売っている人が誰なのかを。アナタが、ここが、信仰する神が誰であるのかを」
口は堅く、結ばれたまま。
だからそれが合図となった。ぶれる訪藤の右腕。それはシスターも同じで。
響いた音は、乾いた銃声。
弾けたのは──訪藤だった。
「は?」
「……」
眼前。文字通り目と鼻の先で、自身の頭が弾け飛ぶ。
自身の──靄で作られた、自身のカタチをした人形の頭が。
咄嗟に飛び退き、追加の針を取り出せたのは褒められるべきだろう。
引き金を引いた姿勢のまま動かないシスターは、けれど意識を失っている様子はない。どちらかというと、知っていたから対応しなかった、とでもいうような落ち着きを払っている。
そんなシスターの横に、少女が一人、立っていた。
「……誰、かしら、それ」
「お膳立てはここまでです。ミネイ、後で話があります。帰らない様に」
「はいはい」
「はい、は一度で十分です」
シスターが踵を返す。訪藤が制止をかける間もなく、彼女は靄の向こうへ消えて行く。
靄。
靄だ。先ほど弾けた自分の人形、だけじゃない。
教会の全体が、高く高く、深い深い靄に覆われている。
「大規模幻術……!」
「うん。こんにちは、初めまして、訪藤ヤスメさん。私はミネイって言います」
「これをやったの、貴女が? あぁ、ホントだ。その耳も、目も……エルフの特徴だものね」
「そう。それで、ヤスメさんにお願いがあって」
「……まずはその、気持ちの悪い喋り方をやめてもらえるかしら? 女の喋り方には一日の長があるのよ、アタシには」
言えば、ミネイと呼ばれた少女は素っ頓狂な表情を見せる。
その後くつくつと笑って──悪い相貌を見せた。
「うへぇうへぇ、アイツの周りにいる女ってなドイツもコイツも鋭い奴ばっかでヤになるね」
「あら、女扱いしてくれるの? 優しいコね。でもアタシは、女性の喋り方が好きなだけの男よ。それと、そういうアナタは真逆なのかしら? 蓋を開けてみれば随分と男らしい喋り方……声は可愛らしい女の子なのにねぇ」
「生憎と"女の子らしい"生き方ってのを学んでこなかったんでな。なんせ孤児だ、好きに生きてたらこうなるさ」
「それだけでそうなるとは思えないけれどね。それで? 孤児のミネイちゃんが、アタシに何の用?」
警戒を強める。これほどの幻術を扱える子供。シスター・ヨセフィンの知り合い。そんなの、警戒しないはずがない。
ふと、背後に気配を感じた。
「へぇ、投げねえのかい、ソレ」
「どうせ幻術だもの。攻撃手段は無駄遣いしないのが鉄則よ、お嬢ちゃん?」
「違いねえ。にしても暗器か。しかもそのマナ……エルフだぁな、お前さん」
固唾を飲む。
そうだ。訪藤はエルフだ。身体的特徴が現れなかった、人間とエルフの混血。異能を感じ取れるが故に配属された異能捜査課。けれど、そもそも、彼が異能を感じ取り得るのは、他のメンバーのように鼻が利くからではなく、彼自身が異能を使用できるからだ。
彼自身が、異能を用いて──犯罪を犯したことがあるからだ。
「他言無用でお願いしたいところだけど、大人との約束は守れるかしら?」
「くく、守れたんならこんなとこにいねぇやな」
容姿も声も、まだ10を数えない程の幼女だ。
けれどその存在感は、圧倒的で。
「聞きたい事、何なのかしら。早く話してくれない?」
「聞きたい事じゃねえよ。アンタにお願い事があるんだ」
「それを早く言えと言っているのだけど?」
「あぁ、簡単さ。ポッケのそれ、俺にくれよ。アイツが残した紙切れ。俺ぁソイツが必要でな」
回避行動。その先に、少女がいた。
素早く針を少女に突き刺すも、暖簾に腕押し、靄となって散る少女に刺突は効果を為さない。
「二つ、質問があるわ!」
「聞いてやる」
「アナタが何者なのかはどうでもいい──アナタは、竜司チャンの敵!?」
「違う。竜司は俺にとっても……まぁ、身内だよ。アイツを害すつもりはない」
「じゃあもう一つ──アナタは、
「ああ、そうだよ」
その言葉に、ピタりと訪藤が止まる。
そして大きな大きなため息を吐いて、ポケットから紙切れを取り出した。
「先に言ってくれたらよかったのに……シスター・ヨセフィンと仲がよさそうだったから、勘違いしちゃったわ」
「良い信念だ。んじゃ報酬ってワケじゃあねぇが、アンタの知りたい奴の名を教えてやる」
「知っているの?」
「ああ。ソイツの名は佐島だ。車椅子にのったご老人。それだけわかりゃ、あとはアンタで調べられるだろう?」
「……助かるわ」
おう。そう、返答があって。
風に吹き飛ばされるように靄が晴れていく。ミネイもまた靄となって──教会も、庭園も、上層さえも吹き飛ばされて。
気が付けば訪藤は、机の上で突っ伏していて。
気が付けばそこは、異能捜査課のオフィス──自らの席だった。
「──は」
幻術にも程、というものがあると思うのだけどねぇ、と。
訪藤は苦笑する。苦笑して、伝声管に手を伸ばした。自分の出来る事をするために。
「ん? なんだ、竜司か」
「……テツさん。何やってんスか」
「何って……ブランコだよ。知らねえか、真面目ちゃんは」
夕暮れ時。
煤けた地下道を出て、久しぶりに吸った空気に気持ちよくなって散歩をしていた竜司が、何の用もないのに、ふと、近所の公園へと立ち寄った時の事である。
キィキィと錆びた鎖の軋む音に目を向けてやれば、そこには一人の少女の姿。
襤褸布の幼子。オレンジ色の夕日。ノスタルジーか、郷愁か、あるいは寂しさか。とかく物悲しい光景を叩きつけてくる印象を捩じ伏せてそこへ近づけば、やはりそれは見知った少女であった。
「流石にそれくらい知ってるスよ。で、なんで結界なんか張ってたんスか。今の、人除けの奴ですよね」
「そりゃ、お前みたいな大人に入ってこれんように、且つブランコで楽しく遊ぶためさ。それ以外になにか理由があるか?」
「それが一番無いから言ってんスよ」
鬼、悪魔とまで呼ばれた威鉄が、ブランコで遊ぶ。
彼のかつてを知る職場の同僚に言って聞かせたのなら、半年ほどの休暇を言い渡される可能性さえある。
「ふん、子供なんだ、ブランコで遊びもするさ」
「……なんか、あったスか。アンタがそういう顔するのは……誰かが死んだ時だ」
キィ、キィ。静かに揺れるブランコに乗るミネイ。
ブランコを囲う鉄柵に座り、竜司は煙草を取り出し、けれどまた、懐へしまった。
「お前、前は吸ってなかっただろ。街中で吸ってるとあぶねえから」
「ストレス溜まんスよ、色々。でも子供の前で吸う程落ちちゃいねぇス」
「真面目ちゃんめ。で、俺の顔だって? あの頃と随分変わったってのに、よくわかるもんだな」
「女になったって、子供になったって、エルフになったって、アンタは変わんねえスよ。一度抱き込んだものに対しての責任感が強すぎる。……死んだんスか。その、孤児の、子らが」
「ああ」
即答。溜めも余韻も無い、ただただ事実の肯定。
けれどその表情は筆舌に尽くしがたいもので。
ミネイはキィ、とブランコを止め、天を見上げる。
「二人、逝っちまったよ。朝起きたら、起きなかった。そんだけさ。子供だ、自身の不調を訴えられねぇのが子供さ。大人とは違う」
「栄養失調スか」
「それだけじゃあねぇだろうな。ビョーキか、怪我からバイキンでも入り込んだか。普段飲んでる水だって蒸気くぐってる。普段吸ってる空気だって浄化されたもんじゃねえ。汚水排水下水汚染水。下層にゃいくらでも流れてくるからな、原因特定なんかできねぇさ」
「……」
慰められているわけではない。ただ事実を述べているだけ。
けれど、少なくとも中層で健康的な生活を送る事の出来ている竜司にとっては、心に刺さる事実でもあった。
そして、あの地下道のことも。
「一つ、問うていいか」
「鍵の事スか」
「そうさ。脇が甘いと思ったが、違うな。盗らせてくれたんだろ。じゃねえと、今の今まで探しに来すらしねぇのはおかしい」
「別に、盗まれたとは思っちゃいねッスよ。それは元々アンタのもんだ」
「そうかい。で、もう一つ質問だ」
「見つけてねえからスよ。犯人は」
「……先読みで会話すんのやめねぇか、三船を思い出す」
「まるで死んだみたいに言わんでくれませんか。……死んだのはアンタなんスから」
どうして犯人がミネイと言う名の少女だと報告しなかったのか。
そんなの簡単だ。ミネイが実は死んだ威鉄で、その威鉄が子供たちへの同情から悪事に手を染めている、など。そんな事言えるわけがない。
けど、それは、建前で。
「面白い、と……思ったからス」
「はん?」
「アンタの下にいた時は、確かに、アンタに揶揄われる通りの真面目人間だったスよ、俺は。……でも」
色々あって。色々なことを経験して、まぁ、いってしまえば、スレたのだ。
竜司は、ただの正義感だけの真面目ちゃん、ではなくなってしまった。
「表面上の平和の崩壊を望むか、刑事が」
「だってアンタ、これからなんかするつもりなんでしょう。悪事を裁くのか、無知を叩くのかまでは知らねぇスけど、何かするのは確実だ。そうじゃなけりゃ、過去の異能犯罪者リストの資料が入ってる引き出しの鍵なんて盗まねえ」
「ンなもんを持ち歩いてたお前もオカシイんだけどな?」
「……」
「まぁ、その辺を詮索する気はないよ。素直にありがとうと言っておく」
ミネイがよいしょ、とブランコを降りる。未だ鎖はキィキィ揺れているけれど、それも次第に収まるのだろう。収まって、大人しくなる。
ふと、懐が軽くなって、竜司は口を尖らせた。
「ダメすよ。子供が吸っちゃ」
「吸わねえよ。他の子供の肺に悪いだろうが」
「じゃあ売る気スか。こないだのジョッキ、上手く足隠したッスね。売人が誰から買ったかわかんねぇって、これまた今回のヤマみてぇな事言い出して俺が大変だったんスけど」
「ああ、お前の姿は隠してなかったからなぁ、仕方ねえや。しかし、便利なもんだろ、異能ってな。悲しい事に、便利な技術さ」
ポウ、と白い光を手に纏わせるミネイ。光は烏の姿を模り、空へと飛び立って、散った。
「俺からも、一つ聞いていいスか」
「なんだ」
「テツさんが、死んだ時の事ス」
「……お前、デリカシーって知ってるか?」
「テツさんがデリカシーなんて言葉使うと思ってませんした」
「そりゃ重畳。で、なんだ」
「俺達はテツさんの遺体も見ました。解剖まで立ち会いました。けど、おかしなことに、テツさんからは弾痕も、刺傷痕も、圧迫痕も、何もかも見つからなかったんス。体内から薬物が出たわけでも、栄養失調だったわけでもない。死因が一切、特定できなかった」
「おう」
「だから、異能であると判断されました。故にエルフの犯行とされました。……違いますよね」
「本当ですか、じゃないのか、お前」
「確信してるんスよ。エルフの犯行じゃないって。……再度聞きますよ。
沈黙。
そのまま、バツの悪そうな顔をして、ミネイは。
「どうしてそう思ったか、から聞かせろ」
「調べる手段が無いからス。今のアンタは、人身売買組織の親玉が誰か、なんて調べるツテもコネもない。孤児らを守るのに忙しくて、自分が生きるのにも一苦労で。そんなアンタが、お上と組織に繋がりがある、ってのを知ってるためには、ただ一つ……
「成程」
「加えて言うんなら、アンタ言ったスよね。探ったら一発で首が飛ぶって。今の俺は、昔のアンタと同じ立場だ。その俺の首が飛ぶってんなら、アンタも飛んだんだろう。ソイツの事にやけに詳しかったのは対峙したからスか。自分の周りを固めてて、エルフも囲ってる」
「……甘くなったのは、俺の方か」
「テツさん。俺はずっと追ってるヤマがあるんスよ。俺の大事な、一番尊敬してた上司が殺された事件。異能のせいにされた不可解な事件。……アンタを殺して、エルフ使って悪ぃ事してる奴は、誰だ。テツさん、答えてくれ」
キィ、と。
鎖が軋んだ。竜司は未だ、ブランコの方を向いている。
そんな彼の焦点が結ぶ先に、ブランコに乗ったままの姿勢のミネイが現れた。ブランコを降り、白い烏を飛ばして遊んでいたミネイが靄のように掻き消える。
「迎博士だ」
「……死んだッスよ、その人は。
「ああ。だから、死んでなかったんだろう。あるいは俺みてぇな
「それ、俺達の上は知ってんスか」
「さぁな。そこまで探れる程俺にゃツテもコネもねぇさ」
「俺には、あるス」
「自殺志願者か、お前」
「異能捜査官、ス」
あるいは、転生さえも異能だというのなら。
それは十分に捜査する価値もあろう。
「テツさん。俺は多分、一緒には行けねえ。アンタはアンタのやり方があるんだろう。だから俺も、俺のやり方でやらせてもらう」
「死ぬなよ、竜司」
「アンタからは色々なことを学んだスけど、道半ばで死ぬのだけは強制されても学ぶつもりはないスよ」
「うるせ」
キィ、という音。けれどそれは、鎖の軋む音ではない。
キィ、キィ、と。鎖ではなく──金属板の軋む音が、響く。
「結局ここ、どこなんスか。人除けの結界張ってた理由と関係があるんでしょ」
「ん、ああ。ここは──」
瞬間、すべての景色が靄になっていく。
そうだ。近所の公園にブランコなどないし、この街で夕暮れの光などというものを見るのは難しい。深く濃い煙が、空を覆ってしまっているから。
晴れていく。
そこは。
「拘置所……捕まったエルフ達のいる所だよ」
エルフという人種がいつからこの地にいたのか、という議論は未だにはっきりした決着がついていない。
突然変異説が有力ではあるものの、何か特別な証拠があるわけでもなく、一説にはエルフこそが初めにいて、異能の才能が無かった者達を人間と呼び、それが増えた結果が現代であるとするものさえある。
強いはずなのだ。
様々な事象を引き起こす事の出来るエルフの方が、何もできない人間なんかより。
けれど彼ら彼女らは少数であり続ける。
それは何故か。
「有用だから、だ」
老いたエルフが口を開く。もう長耳以外、人間の老人と区別の付かぬほどに老い細り、萎びた老人が言う。
「
手に嵌められた枷が落ちる。足に嵌められた枷が落ちる。
それでも誰も、逃げだしたりしない。騒いだりしない。
「蒸気の熱に肺を、飛び散る油に肌を、人間の幸福のために自己の幸福を焼かれてきた」
誰も、だ。
もう誰もが、下を向いて。
「ミネイ、と言ったか。見るに、純粋な……もう今となっては珍しい、一切の混じり血のないエルフの子よ。お前の掲げる理想は聞かせてもらった。だが、あいわかった、とはならんのだ。我らは知っている。知っているのだ。我らエルフを道具として見る奴の目を。奴らが変わらぬ事実を」
「……そう」
「逃がしてくれる事には感謝しよう。もう我らはこの街を破壊せぬ事も約束しよう。我らの抗議活動は無駄な犠牲を呼び、無駄な不幸を生み出した。反省している。故にもう、逆らう気は起きんのだ」
老人は萎びた腕に、光を纏わせる。その手で、ミネイの頭をぽん、と撫でた。
そして驚いた顔をする。
「不躾な爺さんだな」
「……お主」
「ああ、覗かれたんならもう取り繕う必要も無ぇや。なんだなんだ、揃いも揃ってよ。そうさ、お前らのやったことは誰にも、何の影響も与えちゃいねぇ。エルフの立場を悪くしただけさ。わかってんなら話が早えや」
「峰威鉄……。なんと、懐かしい名か」
「知ってるか、お前らの刑罰。表向きは懲役刑さ。だがな、俺は知ってるぜ。迎博士の部屋にいたエルフ達を。……そして、最下層に流れてくる、エルフ達の死骸を、知っている」
「……」
「逃げるって? どこに。外は酸の雨でどろどろ、海は有害物質で汚染され、山肌は茶け、雨宿りも飲み水の確保も出来やしねぇ。この街が無事なのは異能のおかげ。ンなこと、アンタなら知ってるんだろ」
「我らが防護程度を扱えぬとでも?」
「無いだろ、マナが。外には」
エルフの異能はマナ粒子を消費する。
なればマナ粒子は、一体どこから生成されるのか。
簡単だ。何故エルフが完全に身を隠してしまわないのかを考えたら、すぐにわかる。
マナ粒子を生成しているのが、人間だから、だ。
「外には人間がいねぇ。酸に弱いのは人間も同じだからな。だから外にはマナが無ぇ。マナが無けりゃ異能は使えねえ。その状態で外に出てみろ、死ぬだけさ」
「随分と、詳しいものだ。まだエルフになってから10年と経っていないのだろう。学者に会うたわけでもなく、資料を読み漁ったわけでもなく、独力でそこまで辿り着いたというのか」
「子供ってすげぇんだわ。嗅覚に関しちゃ大人なんかじゃ敵わねえ。特に自身の安全に対しての嗅覚はな。危険に対しちゃ、ちと危なっかしすぎるが」
「……では、なんとする。我らが逃げ得ぬと知っているのなら、お前は我らに何を指し示す」
「最初に言った通りさ。この都市で、ふんぞり返ってやがる奴さんを──
殺す、と。声に出した。
ミネイが。峰威鉄が。本来善なるものであるはずの彼が、そう、声にした。
「迎満三。……本当に奴が、まだ生きているというのか。我らを散々かどわかし、痛めつけ、殺し尽くした奴が」
「ああ、この目で見たんだ。会話もしたぜ。奴さん、ペラペラと色々喋ってくれたよ。そりゃそうだわな、こっちが死に際なんだ。誰だって自慢はしたいだろうさ。隠し事なら特に」
「協力しろ、と言ったな。何を要求する。異能か?」
「ああ」
「お前が追い続け、嫌い続けた異能を求むか」
「嫌ってねぇよ。人の役に立つ異能なら大歓迎さ。今回も同じだ。アンタらに頼みたいのは、街の……人間達の防護だ。潤沢にマナがありゃ使えるだろう」
言う。ミネイが言葉を編む。
峰威鉄の頃だって、追っていたのはそのエルフが犯罪を犯していたからだ。自身の細やかな便利のために、あるいは大切な人の命のためにと使う異能等を咎めたりはしない。出来るのだ。異能と言っている。走れるのだから走る。食べられるのだから食べる。話す事が出来たら誰だって喋る。
異能も同じだ。他者の迷惑にならぬのなら、それは単なる身体能力に過ぎない。
「頼んだぜ、爺さん」
「……わかった」
「それじゃあ俺は先に、」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
そう去ろうとする彼を、呼び止める声があった。
エルフの青年……。丁度、威鉄の所に新人としてやってきた頃の竜司くらいの若者。
「……結界張ってるとはいえ、叫ぶなよ。バレるだろ」
「あ、ああ、すまない。ええと、ミネイと言ったな。俺は」
「要件を手短に言ってくれ」
「ぬ、う、うむ。……聞きたい事があるんだ」
「ああ」
神妙な顔で、けれどどこかもじもじして。
青年は問う。
「その……君が見た、迎満三の周囲にいたエルフの中に、髪の長い……あぁ、ええと、黒髪で、毛先の赤いエルフはいたか? みっ、耳はあんまり長くない。あ、女だ。女のエルフ」
「……あー、多分、いた。すまんな、当時の俺は死に際だったもんで、あまりよくは覚えていないが」
「そ、そうか! 生きていたんだな?」
「当時はな」
「うっ、……けど、でも、ありがとう。それだけ聞けば十分だ」
ふむ。と思案するミネイ。
一瞬老人の方を見れば、老人は首を振った。
「恋人か?」
「ち、違う。……母親なんだ。に、ニコリアっていうんだけど」
「ん……あぁ、そうか。年齢的にそうだな」
反応があまりにもそれだったために勘違いしたが、そうだ。恋人になるには、彼が幼すぎるだろう。あるいは生まれていないか。
ミネイとしても死の際の記憶はあいまいだ。忘れてなるものかと記憶に刻み込んだ事実こそ覚えているが、迎博士以外の情報を克明に覚えているわけではない。ただ、幾人かの人間と、エルフがいたな、という記憶だけ。
もしかしたら夢だけ見せて、現実はそうでないのかもしれない。けれどわざわざ希望を潰す事もないだろう。
「それじゃ、俺はそろそろ行くよ」
「ああ」
もう言葉を繰る必要はない。
退路は無く、進路もあるとはいえない。ただもうミネイは──。