万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
───谷川俊太郎:著
『二十億光年の孤独』より
……シンジが眼を覚ましたのは、サルベージされてから二日後のことだった。
綿密に身体を調査してもらったが、特段これと言った外傷もなく、むしろ健康体とすら言える状態だった。そのため、リツコから四、五日程度で家に帰ることを許された。
エヴァに取り込まれていたというイレギュラーな事態だったのだから、何も身体に異常をきたさなかったのは本当に幸いだった。
そして、いつかのお返しのように、レイはシンジが退院するまで毎日見舞いに来た。
「おはよう、シンジくん」
「ああレイ、今日も来てくれてありがとう」
前回、レイが入院していた時と同じように、シンジとレイは毎日顔を合わせ、語り合い、二人の時間を大切にしていた。
だが……前とは少し違う面もあった。それは、レイの心境であった。
「……もう、こんな時間か」
現在、18時12分。面会可能な時刻はとっくに過ぎている。だが、未だにレイは病室から出ていこうとしなかった。
「そろそろ帰らないと、また看護師さんに怒られちゃうよ?」
「……うん」
シンジが優しくレイへそう告げる。だが彼女は、返事自体はしたものの、一向にその場から動こうとしない。眉をハの字にして、下唇を噛み締めている。
「……レイ、また明日会おうよ。明日は僕の退院日だからさ、帰ってからもっと一緒にいられるよ。だからさ……今日のところはもう帰りなよ。早くしないと、外がすぐ暗くなっちゃうし」
「………………」
そう宥めていたら……レイの眼から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
(また……今日も泣いてる……)
「……ごめんね?私……寂しくて……」
「いや……」
確かにシンジも、もう少しレイと一緒にいたいという気持ちはあるし、寂しいなと思うのも分かる。だが泣くほど寂しいかと言われると、そこまではさすがになかった。
第一、明日は退院の日。むしろシンジとしては、これからまた一緒に居られると思えてワクワクすらしていたのだ。
だと言うのに、レイはなんとここ最近、シンジと別れる直前はいつも泣き出すようになった。
「……ごめんね、シンジくん。これじゃまるで、私、重たい女みたいだね……」
「あ、いや……そんなことないよ」
少しだけレイの気持ちが負担だなと思っていたシンジの心を、レイは察知したように呟いた。当然シンジには『そんなことないよ』と答える他なかった。
「私ね……最近思うの」
涙を手で拭いながら、レイは話し始めた。
「私たちには、本当に“明日”なんてあるんだろうか?って」
「え……?」
「だってね?もし今ここに使徒が来て、私たちみんな負けちゃって、それで死んじゃったとしたら……」
「………………」
「シンジくんが初号機に取り込まれて、何日も経っていた間、私はそのことばかり考えてた。好きな人がいなくなってしまう恐怖って、本当に耐え難いの。だから私は……生きている間の、全ての時間を……シンジくんと一緒に過ごしたいの」
死の恐怖。
彼女にとっては、己が死ぬことよりとよりも、シンジが死ぬことの方がよっぽど怖いのだろう。
(レイがもし死んだら……なんて、そんなこと、考えたくもない)
シンジにもようやく、彼女の泣いていた理由を理解し始めていた。そして、自分が彼女の気持ちを重いなどと、少しでも思ったことを酷く恥じた。
「……ねえ、シンジくん。お願いがあるの」
レイは何やら決心したような顔つきで、彼の目を見て告げた。
「私と、結婚してほしい」
「え!?け、結婚……?」
「理由は……今言った通りだよ。明日が来るなんて保証がないなら、もうなりふり構ってなれないの。本当は私も、シンジくんが退院してからゆっくり話し合おうと思ったんだけど、よくよく考えたら、そんな悠長なことしてる場合じゃないなって思って……今、シンジくんに話すことにしたの」
「………………」
シンジは恥ずかしさと嬉しさに、動揺と緊張もプラスされたような、混沌とした気持ちになっていた。
「それでね?明日から住む場所なんだけど、前もって私が二人だけで住む用の部屋を賃貸しておいたから、そこに引っ越そう?」
「二人だけ!?じゃ、じゃあ……同棲、っていうか新婚さんみたいな感じにってこと?」
「うん。ミサトさんちの部屋の隣が空いてたから、そこを借りたの」
シンジは淡々と話すレイの言葉を、あんぐりと口を開いたまま聴いていた。
「もちろん、中学生には不動産屋は貸してくれないから、ミサトさんに保証人になってもらったんだ。でも、私もミサトさんもネルフ所属の人間だからね、あっさり貸してくれたよ。しかも家賃半額で」
「ミ、ミサトさんはオッケーだったんだ?僕らの……その、結婚の話」
「んー、さすがにまだ結婚については何も答えてもらってないけど、二人で住む分には了承を得たよ。ただ、何か非常事態が起きても大丈夫なように、ミサトさんちの近くに住むって条件つきではあったけど」
「………………」
「でも、正直私としては、誰からも了承を得られなかったとしても、シンジくんとの結婚を強引に進めるつもりだよ?だってこれは、私とシンジくんのことであって、周りの人は全然関係ないもん」
……語るレイの瞳には、迷いなど一切なかった。
いや、と言うより“迷っている暇などない”といった、ある種の開き直りを感じられる眼の色だった。
「でも……もし、もしね?シンジくんが私との結婚……少しでも嫌だと思ったら、無理をせず言ってほしいの」
「そんなこと、全然ないよ。ただ、いきなり話が飛躍したから、ちょっとびっくりしちゃった」
「そ、そうだよね、ごめん……」
今さら恥ずかしくなってきたのか、レイの頬は熟れたリンゴのように赤くなっていた。
(明日なんてあるのか?……か)
今まで戦ってきた使徒の姿が、シンジの頭の中でフラッシュバックしていた。
「………………」
「……?どうしたの?シンジくん」
「ん、いや、なんでもないよ」
シンジはレイに微笑みかけると、真っ直ぐにこう伝えた。
「レイ。僕は、君のことが好きだよ」
「!」
「本当に好き……大好きだ」
「…………………」
「まだちゃんと、言えてなかったよね。ごめん」
「……あ、あの、ありがと……」
さっきも彼女は赤くなっていたが、今度はそれをさらに超えて、顔全体が茹でダコのように真っ赤になっていた。
ドキドキしている胸を押さえて、彼女は初めてちゃんと人から好きだと言われた喜びを、その心に染み渡らせていた。
そして、レイもシンジに微笑みを返して、こう伝える。
「私も……シンジくんが大好き」
「……うん」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
二人は目を瞑り、互いの唇を重ねた。
「………………」
「………………」
数秒ほどしてから、彼らは離れる。
「……そうだ、僕、レイに謝りたいことが」
と、そこまでシンジが言いかけた時、レイの人差し指が、開こうとしているシンジの口に当てられた。
「いいの、もうそのことは」
「………………」
「アスカとのキスは、もういいの」
レイはにっこりと笑って、指を口から離した。
「でも、約束して?」
「約束?」
「うん」
「どんな、約束?」
「……これから一生、私とだけキスをして?」
「……うん、もちろんだよ」
「えへへ」
レイの甘えたような声が、シンジの心をくすぐった。
「ねえ、レイ」
「なに?」
「もう一回だけ、良い?」
「……うん」
二人はまた、眼を瞑り、通算三回目のキスをした。