最果ての譚詩曲《バラッド》   作:ノエ・レオン

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序幕ノ一.帰郷者の序曲(オーバーチュア)

 後悔をしたことがない人間というものは、果たして存在するのだろうか――朝宮奏音は、時折そんなことを思う。

 悔いのないように生きるべきだと、人は言う。

 『あの時こうしていればよかった』だとか、

 『もしああしていればこんな思いをしなくて済んだのに』だとか、

 『本当はもっと上手くやれたはずなのに』だとか、

 ――そんなことを思うのは時間と思考の無駄であるし、全くもって非生産的だ、と。

 成程、一理ある意見だ。悔いるくらいならば、そうならないように初めから努めておくべきだという考えは、頷けるものがある。

 しかし、現実にはそんなことは不可能だ。人生というのは選択の積み重ねであり、その選ばれなかった道の先を想像してしまうのは、人間の(さが)である。

 仮に一切の後悔を抱かない人間がいたとしたら、それは同時に一切の成長がない人間であると言えるだろう。人は失敗や反省を経て、二度と過ちを犯さないよう、より良い成果を上げられるよう、己を変えていくものなのだから。

 (ひるがえ)って己を鑑みてみれば、まだ十七年にも満たない人生には、既にうず高く積まれた後悔の山が出来ている。

 それは、授業の予習をしておけばよかっただとか、定食屋で悩み抜いた末に選んだ料理が不味かっただとかいった、一つ一つは他愛もない、いずれは記憶の海に埋没するようなものばかりだが、中には一生忘れることの出来ないほどの傷となったものもある。

 普段は厳重に(はこ)の中に仕舞っておいて、見向きしないように放ってあるはずなのに、ふとした時に意識の縁に上ってくる、そんな厄介な記憶だ。

 じくじくと、癒えぬ褥瘡(じょくそう)のように心を苛んでくるそれを、しかし奏音は在り難いと思う。それほどまでに大きな後悔を抱いたからこそ、今の自分は在るのだと確信を持って言えるのだから。

 故に――

 

「……やっぱ迎えに来てもらえばよかったな」

 

 と口に出して呟く後悔も、いずれは忘れ去るか、己を形作る一部となるのだろう――そんなことを思いながら、奏音はぐるりと周囲を見回した。

 

「やばい、何処だここ……」

 

 立ち並ぶ小洒落たブティック。綺麗に磨かれたタイルの上に置かれた観葉植物や、真新しいソファ。頭上の大きな採光窓を通った陽の光が、そこかしこに置かれたオブジェを照らしている。建物の中心を貫く吹き抜けを覗き込めば、一階の中央付近に備えられたステージでは高校生らしい学生服姿の吹奏楽団がコンサートを開いていた。

 そして蠢く人、人、人の群れ――何処からこんなに集まったのかと問いたくなるほどの賑わいを見せつけられ、奏音は軽く眩暈を感じてしまった。

 有り体に言って、道に迷ったのだ。しかも建物の中で。

 何故こんなことになったのか――その理由を説明することは容易だ。

 四年ぶりに故郷に帰って来た自分が、事前に申し出てくれた出迎えと道案内を断ったからだ。

 要するに自業自得なのだが、仕方がないというか、無理もないというか、しょうがないと言いたい。

 帰って来た故郷の島に、出て行く時には影も形もなかった巨大ショッピングモールが出来ていれば、思わず好奇心に駆られて入りたくなってしまうのは当然の心理と言えるだろう。更にその内部の予想外の盛況ぶりに目を回してしまったとしても、不可抗力だと主張したい。

 と、自己弁護をしながらも、奏音は別段焦ってはなかった。

 如何にこんな離島には不釣り合いなほど大きなショッピングモールだと言っても、案内板はそこかしこにあるので、出入り口に辿り着くのは容易だろう。問題なのは、その出入り口が複数あり、自分が何処から入ったのか、何処から出れば当初の目的地である幼馴染宅に近いのかが判断できないという点だ。

 とはいえ、いつまでも悩んでいても仕方がない――と、眺めていた案内板の前から歩き出そうとした、その時だ。

 足に軽い衝撃。少し身体がよろめくが、何とか身体のバランスを保つことで転倒を免れた。

 が、相手の方はそうもいかなかったらしい。

 

「きゃ」

 

 という短い悲鳴に引かれるように振り向けば、そこには尻餅をついて唖然とした表情を浮かべている少女がいた。まだ幼い、小学校にも上がっていないような年頃と思われる女の子だ。短いスカートから伸びた細い足とプリント柄の下着が丸見えになっている。

 あ、まずい――と思った時にはもう遅い。少女の瞳にジワリと涙が滲み、

 

「うわあああああああああん!!」

 

 大音声が響くと、即座に周囲から視線が集中した。皆一様に眉をひそめている。

 それは、単に子供が発する泣き声がうるさかったからというよりは、その傍で立ち尽くしている奏音を非難するために思える。不良、変質者、警備員――などといった不穏な囁きさえ聞こえてくる。

 阿呆の様に右往左往していた奏音であったが、野次馬の何人かが携帯電話を構え出すのを見て、慌てて動き出す。少女の前に片膝をつき、

 

「あああ、泣くな泣くな。痛くない、痛くないだろそれくらい!」

「あああああああああん!!」

「ほーら、痛いの痛いの飛んでけー。だいじょーぶ、君は強い子だ。これでもう痛くなーい」

「びやあああああああん!!」

「よし分かった! お菓子を上げれば泣き止むのか!? ちょっと待ってろ、確か飴があったはず……」

「うええええぇぇぇぇん!!」

 

 あっという間に阿鼻叫喚な状況の出来上がりだった。ふと我に返れば、そこには泣き叫ぶ幼女の頭を撫で繰り回したり飴玉で釣ろうとしたり変顔で笑わせようとしている不審者の姿があった。それが自分であるという事実から目を逸らしたいが、如何せん周囲から集まる視線の群れに釘付けにされ、否が応にも、逃げ出すことなど出来ないことを思い知らされてしまう。

 いっそのこと警備員が飛んできてくれれば、この子を引き渡して解放されるのではないか――そんなことを思っていると、

 

「あの……どうかなさいましたか?」

 

 何とこの修羅場に踏み込み声をかけてくれる人間がいた。

 天の救けかと振り返り――奏音は息を呑んだ。そこにいた相手を、まさしく天使のようだと錯覚したために。

 頭の右側で纏められた、ハープの弦の如く煌めく金髪。大海を思わせるほどの深い青を宿した瞳。すっきりとした鼻梁。膝丈まであるワンピースも、すらりと伸びた手足も眩しいほど白い。肩に纏った空色のストールには銀糸によってきめ細かい刺繍が施してあり、それがいっそう高貴な印象を感じさせている。服のデザインはゆったりとしているのに、その下にある身体の女性らしい起伏を充分に窺うことが出来た。しかしそれは淫靡さを感じさせるものではなく、神秘的な造形を持った美術品を思い起こさせられる。

 この島で海外からの観光客を見ることなど珍しくはないが、これほどまでに整った容貌の持ち主となると空前の経験だ。もしかしたら絶後と付け加えてもいいかもしれない。

 そう思ってしまうほど、美しい少女だった。

 惚けて固まってしまった奏音に訝しげな顔を向けながらも、少女は泣き叫ぶ幼女に歩み寄り、腰を下ろして目線を合わせた。

 

「大丈夫? どうして泣いているんですか?」

 

 幼女はいきなり近づいてきた異人に驚いた様子だったが、透き通った声で優しく話しかけられると、それまでの狂乱が嘘だったかのように泣き止んだ。

 少女はそれからも、幼女の頭を優しく撫でながら小声で言葉をかける。幼女の方は何度も嘔吐(えず)きながらも、ぽつりぽつりと応えを返す。

 ふんふんとそれを聞いていた少女であったが、やおら立ち上がると、すっと胸を張って大きく息を吸い込み、

 

「お母さーん!!」

「!? ……!?」

 

 突如声を張り上げ叫び始めた少女に、奏音は目を白黒させる。否、奏音だけではない。彼女の声が余りにも通り、そして耳に心地良いためか、幼女が泣き始めた時から集まっていた野次馬も、周囲の店の買い物客も、吹き抜けの下でコンサートを聞いていた者たちも、一斉に少女に視線を向けた。

 注目を浴びていることに気付いていないのか、もしくは慣れているのか、彼女は百を超える視線を一顧だにせず、更に声を上げる。

「サキちゃんのお母さーん! お子さんはここに居ますよー! 迎えに来てくださーい!!」

 そんな呼びかけは、高く遠く、ショッピングセンターの隅に到るまで響き渡った――かもしれない。

 

 

 

 

 

 何度もお辞儀をする母親と、大きく手を振る幼女が人ごみの波に埋もれるまで見送ってから、奏音は口を開いた。

 

「ありがとうな。助かったよ」

「そんな……大したことはしていませんよ」

 

 そう言って微笑む金髪の少女。こうして改めて目の前にしてみると、その美しさに気圧されそうになる。だが、少女の笑みは不思議と温かさを感じさせるものであり、おかげで幾分か緊張も紛れてくれた。

 

「それにしても、凄い声だったな」

「あ……ごめんなさい。うるさかったですか?」

「ああいや、そういう意味じゃなくて……凄く()()声だったなってことだよ。演劇でもやってるのか?」

「いえ、そういう訳ではありません。ただ、大きい声を出す訓練――練習はしています」

 

 微妙に言い直した理由は解らないが、奏音はそれよりも、少女の日本語の流暢さに驚いていた。発音や文法だけではなく、今のよう些細な言葉のニュアンスを含め、この国の言葉をよく理解しているのが窺える。

 とはいえ、そんな感想をわざわざ口にはしない。何となく、彼女にそんな賛辞を贈ることは無粋なように思えたからだ。

 

「ともかく助かったよ。ありがとうな」

 

 つい先ほども口にしたような礼を言って、奏音は「じゃ」と手を上げてその場を去ろうとした。出来ればもう少し話していたくなる――もっと言えばお近づきになりたい類の――美人ではあったが、ナンパもしたことがない自分には、この後どう会話を広げればいいのか分からなかったのだ。

 が、

 

「あ、その、ちょっと待ってください」

 

 踵を返そうとした奏音を、少女が呼び止めた。

 小首を傾げながら顔を向けると、少女が微かに頬を赤らめながらこちらを見上げていた。気のせいか、その蒼瞳が潤んでいるように見える。

 

(な、何だこの雰囲気……)

 

 思わぬ事態に動揺する奏音を置き、少女はしばしの逡巡を挟んでから口を開いた。

 

「あの……この後、お時間はありますか?」

「……え?」

「もしよろしければ、少しお付き合い頂きたいのですが」

「…………」

 

 何だこれは。どういうことだろう。流石に『お付き合い頂きたい』を『交際してほしい』と取るようなベタな勘違いはしないが、この状況はひょっとすると――

 

(逆ナン……? いやいや)

 

 脳裏に浮上した発想を即座に否定しつつ、しかし幾ばくかの期待を込めて答えを返す。

 

「別に構わないけど……」

「本当ですか? よかったぁ……」

 

 ほっと胸を撫で下ろす少女。彼女はしばし躊躇うように、恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、何度も口を開いたり閉じたりした。その仕草に、知らず胸が高鳴ってしまったとしても、男として無理もないことだと理解してもらいたい。

 沈黙は数秒のことだっただろうが、奏音の感覚としては数十秒にも思えた。己の鼓動が少し早くなっていることを自覚した頃、少女はようやく、言葉を発した。

 

「あの……」

 

 胸の前で――祈るように――手を組み合わせ、彼女は言った。

 

「出口が何処にあるのか、教えていただけますか?」

「……………………は?」

 

 何とも間の抜けた反応をしてしまったと、しばし経ってから後悔した。

 

「じ、実は、道に迷ってしまったので助けていただきたくて……」

 

 こちらのリアクションが微妙だったためか、少女は顔を赤くしてそう補足した。

 成程。何とも肩透かしなオチだが、同時に微笑ましくもある。美人な上に愛嬌もあるとは、神様という奴は持つべき者に二物も三物も与えるものらしい。

 とはいえ、その微笑ましさを呑気に笑っているわけにもいかない。

 

「あー……頼ってくれたところ悪いんだが……実のところ、俺も道に迷っててな」

「え? そうなのですか?」

「ああ……だから――」

 

 驚きと落胆を浮かべる少女に対し、少し言うべき言葉を選んでから告げる。

 

「一緒に出口を探さないか?」

「……え? ……いいんですか?」

「ああ。こんな迷子で良ければ、だけどな」

 

 意識して冗談めかして言うと、少女はくすりと微笑んだ。

 

「ありがとう。よろしくお願いします」

 

 少女はそう言って一礼してから、胸に手を当てて、

 

「私はクリステル・ド・ヴァロワと申します……貴方の名前をお聞きしてもいいですか?」

 

 もちろん否はない。

 

「俺は朝宮奏音。短い間だと思うけど、よろしくな」

「カノン……良い名ですね」

 

 実のところ、女のような自分の名前があまり好きではないのだが、純粋な賛辞を受けて気分を害するほど捻くれてはいない。「どうも」と短く返しておく。

 

「それじゃあ、クリステル……クリステルって呼んでいいのか?」

「クリス、と呼んでください。友人は皆そうしてくれているので」

「なら、クリス。取り敢えず、君はどっちに行ったらいいと思う?」

 

 まさか自分が問われるとは思っていなかったのか、少女は少しだけ目を瞠った。しかし、その問いかけに対し何故とは返さずに、秀麗な顎に手を当てて考え始める。

 答えは物の数秒で返ってきた。

 

「あちら、でしょうか」

 

 先ほどの母子が去った方向を指差す。それに対し、奏音は頷きを一つ。

 

「どうしてそう思ったんだ?」

「先ほどの女の子とそのお母様は、もう買い物を済ませた様子でした。なら、二人は出口に向かったのではないかと。その方向へ行けば――」

「出口へ辿り着ける、と……成程な」

 

 奏音は納得の声を上げる。しかしそれは、少女の洞察力を認めたからではない。この先、お互いの目的地へと辿り着くに当たり、彼女の意見は参考に出来ないということを確認したためだ。

 

「いいかクリス……道に迷った時の鉄則を教えてやる」

「鉄則?」

「ああ……それを守れば、八割方は目的地に辿り着ける」

「まあ、そんな方法が? いったいどんな?」

「簡単なことだ」

 

 と言いつつ、身体を捻り、視線を背後にあるそれ――先ほどまで自分が見ていた案内板に向ける。

 

「道に迷ったら地図を探すか――」

 

 そして、案内板の一点を指差す。

 

「人に訊くんだ……どっちかでもいいが、両方なら尚いいな」

 

 その指先には、“総合案内所”という文字が啓示のように記されていた。

 

 

 

 

 

 道中、奏音は共に歩く少女が迷うべくして道に迷ったのだということを理解した。

 と言っても、別段注意力が散漫であるとか、方向感覚がないというわけではない。人ごみを避けながら進む様もなかなか自然だ。

 では何が問題なのか――その理由が今まさに眼前で示されていた。

 

「お婆さん、大変そうですね? お荷物お持ちしましょうか?」

「あら悪いねぇ。いいのかい? 外人さん」

「はい、遠慮なさらず。さ、どちらに行くんですか?」

「…………」

 

 老婆の荷物を持ち、その歩調に合わせて歩き始める少女の背中を眺めつつ、奏音は溜め息をついた。

 これである。要するに、困っている人間を見かけると脇目も振らずに近づいていき、手を貸そうとするのだ。対象は足の不自由な老人であったり、駄々をこねる子供に難儀している母親であったり、往来で喧嘩をするカップルであったりと様々だ。中には訝しげな表情でクリスの助力を断り去っていく人間もいるが、それにもめげず、彼女は声をかけ続けている。クリスと歩き始めてから既に三十分、一向に目的地である総合案内所に着かない。

 

(人が良いっていうか……良すぎるっていうか)

 

 とはいえ、奏音も人のことは言えない。

 初めは――つまりは、一人目の相手に声をかける時は――流石にクリスも気を遣ってか、奏音に言葉をかけてきたのだ。

 

「ごめんなさい、カノン。私、少し用事が出来たので、ここで別れましょう」

「用事……?」

「はい」

 

 と頷いた彼女の視線の先には、如何にも大人しそうな印象の学生らしい少女が、チャラっチャラにチャラけたナンパ男に絡まれているという分かりやすい景色が広がっていた。

 先日までいた都会の街中では見慣れた光景だが、この島では珍しい――少なくとも、四年前までは見られなかった。

 ともあれ、どうやらクリスが少女を助けようとしているようだということはすぐに解った。

 

「……別にあれくらい、放っておいても平気だと思うけど」

「そうかもしれません。でも、困っている様子なので」

 

 クリスは微笑みながら、しかし固い決意を滲ませて言う。きっと、彼女は今までずっとそうしてきたのだろうと感じさせられた。

 困っている人間がいたら助けたい。人によってはお節介と取られるかもしれないが、それでも――奏音にとってそれは、とても共感できる感情だった。

 くくっと喉を鳴らす奏音を見て、クリスは小首を傾げる。そんな仕草も可愛らしいなと思いつつ、少年は言った。

「俺も行くよ」

「え? ……いえ、ですが、私がそうしたいだけなので、カノンの手を煩わせるわけには――」

「君が一人で割って入っても、標的が君に代わるだけだと思うぞ。それに……」

「……それに?」

 

 問うた彼女に、少し照れくささを感じつつ答える。

 

「俺もそうしたいと思ったからな」

 

 ――というやり取りの後、しつこいナンパに半泣きになっていた少女を助けたのが、一件目。以降はクリスもこちらに遠慮がなくなったのか、困っていそうな人を見つけるや否や飛び出していくようになった。

 凄まじいのはそのアンテナの感度だ。この人混みの中、些細な表情の曇りも見逃さないという気概を抱いているのか、まさしく引っ切り無しに助力に回っている。異人ということで奇異の目を向けられることも多いが、二、三言葉を交わせば警戒を解く者が多いのは、彼女の気品や流暢な日本語のためだろう。

 他人のために力を尽くすことを厭わない――お節介だとか、偽善的だとか評価するのは簡単だが、彼女ほど徹底していると、素直に感心する気持ちしか湧いてこない。付き合わされる身としてはいささか難儀するが、そうしてクリスに助けられた者たちが残していってくれる笑顔とお礼の言葉は、ただ付いてきただけの奏音にも向けられており、そうしたお零れを授かれるのは悪くないと感じている。

 結局、当初の目的地であった総合案内所についたのは、それから更に三十分後のことだった。

 

 

 

 

 

 総合案内所の店員に互いの目的地を告げると、それぞれどの出口から出ればいいのか、更にはそこからどの道へ出ればいいのかを教えてもらえた。

 丁寧かつ気配りに満ちた日本人的対応に感動を抱きつつ、礼を言って案内所の前を離れる。

 

「何から何まで、本当にありがとうございました、カノン」

 

 別れの挨拶を切り出したのはクリスの方だった。彼女は折り目正しく一礼し、

 

「ここまで連れてきて下さったこともそうですが、途中、寄り道ばかりする私に付き合って下さり、ありがとうございます」

「ああいや、それは気にするな。楽しかったし……そもそも、最初に助けてもらったのは俺の方だしな。君がそういう人間じゃなかったら、俺は今ごろ警備室で説教されてるか、警察に連れて行かれてたかもしれない」

 

 冗談めかして言うと、少女はくすりと笑ってくれた。その笑顔を報酬として、奏音は道案内の役目を終えることにする。

 

「じゃ、縁があったらまた」

「はい。道に迷ったら地図を探すか人に訊く……憶えておくことにします」

 

 軽く手を振るこちらに、クリスはやはり丁寧なお辞儀を返してきた。

 そうして、それ以上の言葉は交わさずに二人は別れた。

 『縁があったら』とは言ったものの、恐らくはもう会うことはないだろうなと、奏音は感じていた。どう見てもクリスの方は観光客、数日たてば島を去っていく人間だ。もしこの島を気に入ってくれて、再び訪れることがあったとしても、その頃には相手は自分のことなど忘れていることだろう。奏音としては、あれほどまでに印象深い少女を忘れることなど出来そうにないが。

 時間にして一時間少々の邂逅。一期一会。いつか、そういえばそんな出会いもあったなと思い返す想い出になるだろう。そんな予感を抱きつつ、奏音は歩き去った。

 

 ――自分が抱いた当然とも言える予感は、わずか二日後に否定されることとなることを、無論、この時の彼は知らなかった。

 

 

 

 

 

 流石に開発が進んだと言っても、それは空港やビーチの周辺だけらしい。モールを出て二十分も歩けば、見慣れた景色が広がるようになっていた。

 奏音の故郷、静海島(しずみじま)は人口約五万人の、離島という区分ではかなりの規模を誇る土地だ。

 島の北側ある静海港。その、島で最も大きな港から内陸に向かって土地は徐々に高度を増し、そこに作られた街全体はなだらかな坂によって構成されている。

 町並みは古く、しかも洋風。条例で保護された砂岩タイル張りの洋風建築通りが、静海港から街の最奥の静海学園まで時代錯誤なほどの景観で続いている。

 静海島の発展は、通常の観光地とはやや趣を異にする。

 元々漁村と田畑しか広がっていなかった静海島が都市としての機能を持ち始めたのは戦後、離島振興法が公布され、“日本にいながらにして海外を感じさせる街を目指す”というコンセプトで計画されたのが最初だという。

 日本人の奇妙な――そして本場からすると明らかに間違った――洋風趣味を全面的に反映した建築群。それを基礎として発展した静海島は当時から、そして現在に至るまで、極めて日本離れした様相の街へと成長していった。

 石畳、砂岩タイルの壁、壮麗な切妻屋根――幸運にも大きな災害に遭うことなく生き続ける町並みは、島の条例によって保護を受け、景観を崩す建物の建築が大きく制限され、島全体、特に中心部は時代に取り残されたような統一感を持った造りになっている。

 島のそこかしこに文化財、とまではいかないものの相当に古いビルディングが立ち並び、景観の保護のために電線はほぼ地中を通っているという徹底ぶりだ。だから、空港を出てすぐの所にあのような現代的なショッピングモールが建てられていたのには驚愕してしまったのだが。

 閑話休題。

 閑静な住宅街の中、記憶にある赤色の屋根の家が見えてくると、奏音はほっと息をついた。何とか迷わずに――モールでは盛大に迷っていたが――今日から居候させてもらうことになる家に辿り着けたことと、この周辺は昔のままの景色が残っていることに安堵したために。

 肩の荷物を背負い直し、視線を屋根からその家の門扉に向けたところで、その前に誰かが立っていることに気付く。

 短い栗色の髪の少女だった。年の頃は十五、六歳ほどか。彼女は門扉に背を預け、退屈そうに空を眺めていたが、近づいてくるこちらに気付いたのか、視線を下ろしてくる。

 目と目が合う。その大きな瞳を覗き込んだことで、ふっと口から言葉が漏れた。

沙織(さおり)……か?」

 やや惚けたような口調の呼びかけに、少女はすっと視線を細くした。

「随分と遅い到着ですね、兄さん」

 その懐かしい呼称に、奏音は自然、頬を緩めた。

 『兄さん』――天涯孤独の身の上である奏音をそう呼ぶのは、この世で柏木沙織(かしわぎさおり)ただ一人だ。

 第一声が小言から始まるのも、全くもって彼女らしく、帰って来たのだという実感が湧いてくる。

「いや驚いたな……見違えたぞ」

「そうですか? 自分では分かりません」

「俺が島を出て行った時は、まだ小学生だったもんな。ぶっちゃけ垢抜けたっていうか、大人っぽくなったと思うぞ」

「そう言う兄さんは、随分と女性の扱いが上手くなったようですね。今の褒め方なんて、凄く手慣れた感じがします。やっぱり東京は怖い街ですね」

「?」

 折角褒めたのに、何故か幼馴染の視線も口調も刺々しいままであることに、奏音は小首を傾げた。

「えーっと、沙織? 怒ってるのか?」

「いいえ、怒っていませんよ」

「いや、明らかに怒ってるだろ……俺、何か悪いことしたか?」

「別に何も。ええ、四年ぶりに帰って来た兄さんが、何処で誰と時間を潰して来ようと、私には全く関係ありませんので」

「……は?」

 何処で誰と時間を潰して来ようと――その言い草が引っかかり、即座に思い到る。

「お前……見てたのか?」

「何をですか?」

「いや、ほら……モールで、俺が」

「物凄く綺麗な女性と歩いているところを、ですか? ええ。はっきりとこの目で見ましたよ。予定の便はとっくに到着しているはずなのにいっこうに来ない兄さんを探しに行きましたので」

 にっこりと笑って言ってくる。目だけが笑っていないその笑顔が、やけに怖い。

「いや、あの……沙織さん?」

「ふふふ……迎えを断ったのはそういう事情だったんですね。私、思いもしませんでした。まさか兄さんが、故郷に帰って来た直後に女の子を引っ掛けるような人間になっているだなんて」

「おいおい、それは誤解だぞ?」

「へぇ? ナンパではないと? なら逢引きですか? いったいいつお知り合いになったんです? 付き合ってどれくらいに? いえ、それよりも何処のどちら様なんでしょうか。兄さんの恋人なら私の姉も同然。その素性から人となりまで、きっちり聞かせて頂かなくては」

「だから何でそうなる!? あの場で会ったばかりの相手で、事情があって一緒にいただけだ! っていうか、見つけてたんなら声かけてくれよ……」

 脱力感を覚えながら言うと、沙織は唇を尖らせながら、

「だって……兄さんがあんまりにも楽しそうだったから、邪魔しちゃ悪いと思って……」

「別に楽しくは――なかったわけじゃないが」

「ほら」

「でも、お前が考えてるようなことは何もない。本当に、あの場で偶然会っただけだよ」

 尚も疑わしげな視線を向けてくる沙織に対し、ひらひらと手を振りながら告げる。

「遅れて悪かった。待ちぼうけにさせたなら謝るよ。ともかく中に入れてくれ」

「……いかにも『めんどくせぇ』的な雰囲気を出していることについては言いたいことがなくもないですが、分かりました。兄さんもお疲れでしょうから、今はこのくらいにしておいてあげましょう」

 『今は』の部分を強調している辺りに怖さを感じるが、指摘はしない。昔から、怒っている沙織に抗弁して聞き入れてくれたためしはないのだ。今はさっさと荷物と腰を下ろすことを優先させるべきだろう。

 ほっと息をつく奏音に対し、沙織は「それに」と付け加える。

「その様子だと、到着が遅れたのには別の理由もあるようですし」

「…………」

「行って来たんでしょう? 姉さんの所に」

「ああ……ちゃんと手を合わせてきたよ」

「ならいいです」

 言って、沙織は後ろ手に門扉を開けて、踵を回す。

 奏音は先を歩く少女の背を追って、門扉をくぐった。

「お邪魔します」

「……兄さん?」

 と、いきなり半眼を向けられた。

 また何かまずいことをしただろうかと思っていると、

「月並みなことを言いたくはないんですけど……今日からここは兄さんの家でもあるんですから……」

「……あー……悪い」

 確かに月並みなやり取りだな、と苦笑してから、奏音は言い直す。

「ただいま、沙織」

 その言葉に、沙織は再会してから初めて、笑顔を見せてくれた。

「おかえりなさい、兄さん」

 

 

 

 

 

 静海島の中心街より、やや西の郊外に、小さな丘がある。

 地元の企業が設立した天文台が置かれたそこは、彗星が流れる時などは多少賑わうのだが、普段は閑静極まりない土地だ。のどかな田園風景が広がり、薫風が吹き抜けるその様は、まさしく田舎そのものといったところだ。

 あまり人は寄り付かず、さりとて忘れ去られたわけではない。ただ自然にそこに在る、そんな場所。

 丘の周囲へ広がった森も、そんな土地の一部だ。

 地元の者もほとんど近づかない鬱蒼と茂った森の只中に、思わず息を呑むような、大きな屋敷が佇んでいる。

 否――ここまでくれば、むしろ城と言った方が近いだろうか。

 入り口から屋敷までは徒歩で十分以上の距離にもなり、その半ばには、丁寧に職人の手を加えられたフランス式庭園が幾つも連なっていた。日本の庭園とフランスのそれの違いは、つまるところ自然の姿を活かすか人の手を優先するかだと言うが、だとすればこの庭は人工美の極致に違いない。

 敷地を囲む樹林。中央から中心軸を引き両サイドに花壇や並木、通路、噴水、池などを左右対称に配置することで、奥行きと広がりが強調されている。中でも花壇が最大の特徴で、ツゲを基本として作られたトピアリーは、規則的なデザインで各部分のバランスが完璧に取られていた。四角や円形、渦巻きなどに刈り込まれたトピアリーは、まさに『緑の建築術』と呼ぶに相応しいだろう。

 とりわけ、鮮やかなのが薔薇の庭園だった。

 赤、白、黄、紫――午後の光の下を、おびただしい色彩が溢れている。艶やかな花弁には水滴が揺れ、水滴にはまた別の花弁が映り、どこまでも連鎖していく夢幻の花園。

 そんな薔薇の間を抜けて、黄金の煌めきが世界を割った。

 一人の青年の金髪である。

 纏うスーツは夜そのものの漆黒。

 薔薇に触れた指先は、どんな白薔薇よりも白く。

 これらの薔薇も全て彼を際立たせるためにあると、そう言うようだった。

 あるいは、久しぶりに主を迎えたことに、屋敷全体が歓喜しているようでもあった。

 青年は血のように赤い薔薇の花を一つ摘むと、口元に運んで香りを楽しんだ。

 女性ならば誰もが見惚れるような、満足げな笑みを一つ。

 と、その視線がすいと横を向いた。来訪者――いや、帰還者に気付いたためだ。

「クリスか……遅かったね」

「申し訳ありません、お兄様。少しトラブルがありまして」

 そう言って困ったように眉尻を下げるのは、クリステル――奏音がショッピングモールで出会った少女だった。

 彼女の言葉に、青年は眉をひそめ、声を硬くした。

「トラブル?」

「あ、いえ、そちら絡みの問題ではありません。その……出先で少し道に迷ってしまって」

 少女はそう言って、恥ずかしそうに頬を染める。それを聞き、青年は肩の力を抜いた。

「そういうことなら良かった……だが、あまり気を緩めすぎないでくれ。まだ正式に始まってはいないとはいえ、魔法戦争が開催されるまで、そう日がないことも確かなんだ。既にこの島には、他の魔法使いたちが潜入しているはずだ。先んじてこちらを潰そうとしてくる輩がいないとも限らない」

「はい……ですが、敵も人目があるところでは襲ってこないのでは? ルールによれば――」

「“魔法使いが魔法使いでない者の命を奪うことを禁ずる”、か……確かに、他の人間が巻き込まれる可能性があるところで襲撃を懸けてこないかもしれない。だが、相手が賢明であることを期待するのは愚かな考えだ。用心するに越したことはない」

「……ごめんなさい。軽率な行動は慎みます」

 少女は折り目正しく一礼した。その悲しげな表情を見て、青年は苦笑を浮かべる。

「いや……言い過ぎたな。すまない、私も気を張りすぎているらしい……クリスを見習って、多少は肩の力を抜くことにするよ」

 言って、青年は先ほど摘み取った花をクリスに差し出す。

 それを受け取り、自分と同じような所作でその香りを楽しむ妹を見ながら、青年は微笑んだ。

「夕食までまだ少し時間がある。イリスも誘って、お茶にしよう」

「はい……そう言えば、イリスは?」

「また私室で絵を描いているよ。少し根を詰めすぎているようだから、彼女にも息抜きをしてもらおう」

 眉目秀麗な兄妹が、柔らかく語り合いながら歩き去っていく。

 その場には、草木と花たちだけが、変わらず残されていた。


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