「はっ、はっ、はっ……」
逃げる、逃げる、必死に逃げる。
暗闇に覆われて閑散とした市街地を、俺は縦横無尽に駆け回る。もう何分間も走り続けているのに、不思議と身体に疲労の色は見られない。
後ろを振り返ると、緑色のイカの怪物がクネクネとした奇妙な走り方で俺を追跡していた。同胞を殺された恨みからか、まるで機関車のように蒸気を体のありとあらゆる所から噴射している。
余りにも奇怪なイカ星人の様子に目を奪われていると、俺の足先がアスファルトのくぼみにはまってしまった。そして受け身をとる余裕も無く、体が浮遊感を覚えた時にはもう地面が眼前に迫っていた。
「嫌だ……俺は、
間抜けにも転んでしまった事を俺の脳が認識した瞬間、制御を失った両足ががくがくと震えだした。こんな道端で止まっている場合では無いのに、膝に力が入らず、立ち上がることすらできない。俺の心は恐怖に支配され、戦意はとっくの昔に喪失してしまった。
「險ア縺輔s縲∬ィア縺輔s縺槭?√ワ繝ウ繧ソ繝シ繧!!!!!」
意味不明な叫び声を上げたイカ星人は俺の様子を伺っているのか、慎重にじりじりと距離を縮めてくる。
自身にとって二度目の死が間近に迫る中、俺は悲惨な現実から目を背けるように瞼を閉じる。すると、俺の脳裏に走馬灯のようなものが流れ始めるのであった。
*
*
「いやぁ~、やっぱりGANTZは面白いな。奥先生、マジで超天才だわ」
長時間かけて読みふけっていたGANTZの単行本を本棚に戻した俺は、枕元にあるスマホを確認した。すると画面は6:30分を示しており、翌日の支度を済ませて漫画を読み始めてから8時間も経過していることがわかった。今晩は完徹して漫画を読んでいたのに、眠気は一切ない。流石の集中力だと自分を褒めてやる。因みに、その集中が勉強に活かされたことは俺の14年間の人生で一度も無い。
カーテンを開けて、外の景色を眺めると俺が嫌悪してやまない中学校の校舎が視界の端っこに映った。
「……学校、行きたくねぇ」
勉強は嫌いだ。考えるだけで憂鬱な気分になる。俺が勉強嫌いになった理由は沢山あるが、一番悪いのは環境だ。低レベルな授業に無能な先生、そして俺を馬鹿にする同級生。そんな最悪な要素が一つに集まった最低最悪な場所が、俺が通う中学校なのだ。
現実はとても退屈だ。GANTZのように地球に星人が潜んでいるわけではなく、宇宙人がカタストロフィを起こす訳でもない。代り映えのしないそれなりの日常が始まり、それなりの日常がおわる。そのサイクルを毎日毎日繰り返して、何年か過ぎたら夢も希望も存在しない社会へと出荷される。
言葉を選ばずにハッキリと言ってしまえば、クソでゴミでサイテーだ。俺は前述したようなつまらない人生は絶対に送らない。いつの日か俺の秘めたる才能に気が付いた神様によって異世界に行き、最強の存在と化した俺は、玄野みたいに名だたる敵をばったばったとなぎ倒すカッコいい主人公になるのだ。
その情景をほんの少し想像しただけでも心が躍る。一刻も早く異世界に行きたいぜ!!
そんな空想に浸りながらリビングに入ると、しかめっ面で新聞を読みふける親父と目が合った。
「……おはよ」
「………………」
俺のあいさつに対する返事はない。親父は興味なさげにこちらを一瞥すると、すぐに紙面に目を戻した。相変わらずのクソ親っぷりだ。しかし、俺は親父にこんな冷たい態度を取られるのは慣れっこなので精神的なダメージは……ない。全然平気だ。
朝食をさっさと食べた後に諸々の用意を済ませた俺は、呟くように「行ってきます」のあいさつをしてから学校に向かった。
学校に行く意欲が沸かず、足取りが重い。俺の自宅と学校の地点間の距離は驚くほど近いので、どれだけゆっくり歩いても直ぐに到着してしまう。
ため息をつきながら歩みを進めていると、怪しげな風貌の男性と目が合った。男性はサングラスに黒マスク、そして黒いニット帽を深々と被っており、全身が真っ黒な彼の手元には一際目立つ真っ赤に染まったナイフが……。
「え…………」
無意識に口から声にならない声が漏れる。男性の後方に目を向けると、地面に広がる血だまりの中心に俺と同年代らしき少女が倒れ伏していた。
視界がぼやける。自分が目の当たりにしている光景は全くもって現実味がないが、紛れもない現実だ。急いでこの場から離れなければ、俺があの少女と同じ目に遭うことは自明の理だろう。そのことを脳では理解出来たが、思うように体を動かすことができない。
ビビッて立ちすくむ俺の姿を見据えていた男性が、迷いなく俺の胸元にナイフを突き刺す。そして流れるように俺に馬乗りになった男性は何度も何度も俺の体にナイフを突き立てる。意識をそこで手放せたら楽に死ねたのだろうが、断続的に襲ってくる痛みによって気絶することができない。それと同時に今まで感じたことがないほどの寒気が俺の全身を包み込んだ。
……死ぬのはこんなに辛いものだったのか。体の機能が停止していく感覚と共に、自分という存在が消えていく実感を感じる。瞼を閉じると、そこには今まで見た事がないほど真っ暗な闇が映し出された。
何も見えず、何も掴めない。つい先ほどまであんなに願っていた転生するチャンスがやっと訪れた筈なのに、俺は筆舌にし難い恐怖を感じていた。
「暗い……寒い……怖い……嫌だ、俺、ほんとは死にた…な……」
今際の言葉を言い終えることができずに俺の意識は深い暗闇の底へ沈んでゆくのだった。