愛情、憎悪、憧憬──この世への未練が、人間の魂を現世に縛り付ける。もし負の感情を強く抱いて沈んだなら、幽霊はより凶暴化して人間を襲うようになる。誰かに救われない限り、永遠に船を沈めて人を殺し、浮かばれないままあり続ける。
村紗 水蜜は、かつて高名な尼僧により救われた。非常に稀な、そして幸運な出会いであったと自覚している。
決して船幽霊の為すこと全てを否定しはしない。人間を襲い殺さずにはいられない性を、自分自身でよく理解している。しかしその性は獣にも劣るもの。彼らは生きるために他者を喰らうが、船幽霊は衝動のままに人間を殺し続ける。
その性に待ったをかけたい。無差別に人間を襲う衝動は軽減できるのだ。自身の体験を基に、彼らと向き合ってあげたいと望む。一方で、自らが幻想郷の一員であるという自覚も有している。
異なる二つの立場・信念に板挟みになったとき、どうすれば良いのか。長閑な理想と酷薄な現実、どちらに身を寄せるべきか。
──天の海に。
「海?」
「ええ」
その来客はいつも通りに何の脈絡もなくやってきた。今となってはもう慣れたものだが、親しき仲にも礼儀あり。いつ来るかくらいは事前に教えておいてくれないものか。
話題は様々。人間が暮らす里で美味しい菓子を見つけたとかから、おいたの過ぎた妖怪の討伐以来まで、実に多岐に渡る。
「湖じゃなくて海なのね」
「そこには船が浮かんでいるの。今にも沈みそうな、ぼろぼろの木船がね」
「やれやれ。いつまで?」
「明日なんて言うと思って?」
時折この世界のルールを──明示か暗示かを問わず──侵す者がいる。そういった手合いへの対処こそが彼女、博麗 霊夢の主な仕事の一つである。……仕事を依頼主の眼前で堂々と先送りにしようとはできないわけで。
「今こいつの持ってきたお菓子食べてるから、夕刻くらいに出るわ」
「ちょっと兎さん?」
「多分物申すべきは私じゃないよね」
仲の良い知人が持参した甘味がとても美味しい。折角話も食も進んでいるのだから、少しくらい待ってほしい気持ちも分かる。とはいえ仕事は仕事、公私はきちんと分けてもらいたい。心を鬼にして霊夢を出動させるべく、兎の甘味をひとつまみ。成程、これは出発を渋るのも理解できる。
楽しみがひとつ減らされた霊夢は、渋々支度を始めた。持っていくものは普段の妖怪退治と変わらない。正確には、
「鍋でも用意しておきましょうか。具材はそこにいるのと葱に豆腐、とっても
「帰る理由がまた一つ増えたんだけど」
内臓を取り出して部位ごとに切り分けるのが、兎鍋を作るときのコツ。丸々鍋に入れると、火の通り方が不均一になってしまう。温まらないだけなら熱し直せば良いが、最も怖いのは食中毒だろう。どんなに強い人間でも、細菌やウイルスへの抵抗力を何倍にも鍛え上げることはできない。
霊夢は別段兎鍋が嫌いではないが、帰ってきて一番に見るのが友人の切り分けられた肉ブロックというのは、幾ら何でも勘弁してほしい。脂が少なめでさっぱりと美味しそうでも、食欲は九分九厘湧いてこない。
片方の命を賭けた掛け合いを他所に、さっさと準備を済ませて出発する。最後にちらりと見た感じ、鍋は本当に作っておいてくれるらしい。相当の年数を使い込んでいると一目で分かる古びた鍋に、瑞々しい青葉を付けた白菜が見えた。献立も悪くなし、今日の晩ご飯を作る手間が省けるのは素直に歓迎する。
海が出現した場所なんて聞いていない。聞かなくたって、霊夢は怪しい場所に何となしに惹かれていく。花の香りに誘われる蝶のように儚い少女は、地図も羅針盤も使わずにあっさりと目的地へ辿り着いた。
「うわー……あー?」
燦々と降り注ぐ太陽の光を跳ね返しながら、かなり遠くまで青色が広がっている。中々に壮観な光景だと魅入ったのは約三秒、それから彼女は気がついてしまう。別にこの景色、そこらの湖と何ら変わらないということに。綺麗だとは思えども、必ずしも貴重ではない。
同業者兼友人に聞いた話では、毎年夏になると外の世界では海開きなる儀式が行われ、海で泳いだりすることができるようになるとか。皆が大挙して夏の日差しの下で開放的な服装になり、泳いだり肌を焼いたり各々好きに時間を使うという。しかし、それらを海でする必要はあるのか。肩透かしを食らったからか、霊夢は身も蓋もない疑問を抱いた。
「水がしょっぱいんだっけ。塩気があって、飲んだら喉が渇く感じの」
あの妖怪が言っていた船は見当たらない。しかし異常は既に表面化している。底まで見通せそうな透明の水が、濁った赤色に変色していた。さらに変色の範囲は徐々に広がっていき、あれよという間に大きな建物をひとつ飲み込めるまでになった。
その鈍色の中心付近に『それ』は立っていた。下が水面であることを気にかける様子もなく、上空から睥睨する巫女を睨み返す。幻想郷に海を創り出した主犯であろうことは、容易に予想がついた。
「あんたがいなかったら飲んでみたのに。もう何が溶けだしてるか分かんないじゃない、この水」
獣のような唸り声をあげるわけでもない。霊夢とあまり変わらない歳頃にも見える霊体の少女は、ただ静かに自らの領域を広げ続ける。まるで全て海の底に沈めと言わんばかりに。
放っておけば、海は更に拡大していくのだろう。ひと夏の避暑地にしようにも、鉄錆が浮いているようで見栄えが悪い。例え全身汗だくで、奇跡的に水着を持ち合わせていたとして、この水域に浸かりたいと思う奴は断じて人間ではない。斯様な百害あって一利なしな輩にはさっさと成仏してもらおう、この海をどう消すかは後で考えれば良い。
──雲の波立ち。
呻くような声が門の辺りで聞こえる。用事で出かけていた同門が、里から帰ってきたらしい。残暑猛々しいこの気温だから茹だるのは理解できるけど、他の門徒もいるのだからもう少し貞淑にしてもらいたいものだ。取り繕わない自然な態度が、或いは彼女の魅力でもあるのだが。
「おかえり」
「お、村紗。丁度良いや、水出してよ。暑くて死んじゃいそう」
小さな溜息を吐き出して、にこやかに出迎える。言われるだろうなと予想した通りの台詞に再度吐息を漏らしつつ、持ってきた桶に水を入れてやる。村紗 水蜜の生み出す水は雪のように冷たく、法衣姿の少女は喜んで足を突っ込んだ。
「どうだった?」
「概ね上手くいきそう。私達は人間の支配なんて考えてもいないし、そこが好感度高いのかなぁ」
彼女のこなしていた用事は、村紗達の属する仏教寺院・命蓮寺にとって重要なものだ。里内部への自勢力の進出についての話し合いを、里の有力者達と纏めていた。
命蓮寺は宝船が変形し、里の外れに降り立った寺である。幻想郷の宗教勢力では最も里に近い。だが、それでも距離的な隔たりがある。寺に向かうまでに在野の妖怪に襲われ、命を落とす人間が僅かながら存在するのだ。
元宝船ということもあり、縁起の良い寺として認識されている。そのため来訪者は多く、換言すれば被害に遭う可能性のある母数が増えてしまう。救いを求めて寺を目指しながら、道中で救われぬ憂き目に遭う者がいることを嘆いた住職が、里の人間への被害を減らすために提案しているのが、安全な場所への支院の設立なのである。
「目下最大の
「あと廟の面子。やっぱり厩戸殿の威徳は人を惹きつける」
「あれは凄いよねー……」
里に入り込もうとする勢力は、命蓮寺だけではない。妖怪や他宗教の面々は、人間への影響力を求めて互いに牽制し合っている。そのうちのひとつが道教の派閥である。
命蓮寺の位置からして、かの道教勢力とは対立関係にある。しかし聖徳王の有するカリスマが、いとも容易く人身を掌握する程の凄まじい求心力を発揮していることは、否定のしようがない。
甘言で誘うのではなく、実利を示して焚き付けている。そこに嘘はなく、凡愚には理解し難い抽象的な世界を語りもしない。そこに己の言葉を他者に信じ込ませる天性の話術まで備わっているのだから、異教徒ながら手放しに賞賛せざるを得ないのだ。
仏教がこの幻想郷で広く信仰されるようになるまで、まだ遠大な道程がある。住職が望む世界の実現は、まだ先の話になりそうだ。とはいっても縁側で気を揉み他集団への恨み辛みを吐き散らす程に、村紗達は過激な思想を有してはいない。足を水に浸けて、暮れなずむ空に目移りしながらのんびりと話をするだけだ。
「そういえば、里で話題になってることがあってさぁ。見てもないし、ほんとかどうか分からないんだけど」
「なに?」
「幻想郷に海ができたらしいよ」
「……何かの比喩じゃなくて?」
入道少女が里に出かけていた中で、直接的に目的へ関係はしないものの、興味深い情報を幾つか掴んでいた。うちひとつが突然現れたあるはずのない海についてである。
「で、その海に何かいるみたいなの。巫女が退治しに向かったんだけど、仕留められなかったんだって」
あの巫女でも仕留め損なうのか。かつて異変で顔を合わせたときの、対象を叩きのめすことに何の躊躇もない冷徹な態度を思えば、取り逃がすことは有り得ないようにも思う。
曰く、かなり追い詰めはしたのだが、すんでのところで逃げられてしまったらしい。巫女は態勢を立て直しているところで、今夜にも再度出撃するとかなんとか。真偽の程は不明にせよ、目をつけられた標的さんに憐憫の情を抱かずにはいられない。なまじ一度は身を隠したせいで、次はより苛烈な攻撃に晒されることだろう。
「洩矢じゃないの。八坂の方ならそんな芸当もできそう」
「それが違うみたい。あそこの
「否定『してる』って、会ったの?」
「うん。一緒に蕎麦食べてきたもん」
呆れた。その一言が口をついて出ないくらいには呆れ返った。住職にばれたら説教だけでは済むまい。告げ口は性分でないが、悪事千里を走るともいう。遠くない将来、犯行現場を押さえられて固まる友人の姿が簡単に想像できてしまった。頼みの綱の相棒たる見越し入道も、魔法を駆使する阿闍梨が相手では分が悪い。
「えー、名前なんだっけ……サナエか。あの子も事態を確かめにいくってさ」
「解決できたら良い箔が付くからね。博麗の巫女が倒し損なった輩を退治した、って」
特に人間にとっては、喉から手が出るくらいに欲しい箔だろう。常に人間を守り、庇護的立場という玉座の上にふよふよと浮かび続けてきた博麗の巫女に対して、いわば一泡吹かせるにも等しいのだから。巫女は広く皆に感謝されると共に、決して小さくない数からの羨望や嫉妬を一身に受けている。
「異変認定されるかな。畜生界のごたごた以来の」
「さあ。ここから被害が出たら可能性はあるかも──」
「もう出ておるわ」
桶の水面に映る第三者の顔。寺の関係者ではないが、進入を咎める声は聞こえなかった。大方誰にも悟られることなく、正々堂々と門を通ってきたのだろう。それを正々堂々というかはさておき。
「布都じゃん。今聖いるから、放火したら意識飛ばされるよ」
「一度の過ちのなんと怖いことよ。……その話は置いておくとしてだな」
「ちなみに火が見えた瞬間うちの村紗が水を吹くよ」
「火じゃあないのか? それでは陸に上がった河豚よ」
常識人ぶった台詞を薄紅色の口から紡いで、物部 布都は即席の渋面を作ってみせた。時折常人離れした倫理観が鎌首をもたげることにさえ目を瞑れば、感性やそれに伴う反応は良識的な部類に入るといえよう。事実、命蓮寺とは対立している霊廟の勢力に属していながら、特に法衣の少女と親しい関係を結んでいる。
布都を一言で表すなら『女狐』。俊敏にして狡猾。だからだろうか、村紗は彼女に心を許せない部分がある。痛いところを突かれたような苦笑いも、笑いあって口元を袖で隠す可憐な所作も、全てが作り物に見えてしまうから。
「そう、お主らが話していた海と幽霊について情報を持ってきたぞ」
「なんでうちに情報持ってきたのさ。独り占めして有利取れば良かったのに」
「今回の件に太子様は関与しない。だからお主らに手柄はくれてやろうとのことだ」
天資英邁の仙人様は、やるべきことが山のように積もり積もっているそうだ。それこそ、幽霊一人に割く時間すら惜しいくらいには。別に本人が出向かずとも、戦力は他に複数人いるだろうに。それこそこの銀髪烏帽子ちゃんは、戦っても相当に強い。
ちらりと隣の村紗を見る。さっきまで愛想良く会話をしてくれていたのに、急に何も喋らなくなった。今更布都に対して人見知りをするわけもなし。ぱちぱちとアイコンタクトを試みるも、彼女は無反応を貫いた。
「というか、幽霊がいるの?」
「うむ。そいつが暴れたものだから、魔法の森はすっかり水没林になった。ついでに魔法使いが二匹、濡れ鼠になりよった」
雰囲気を変えようと、布都に話を振る。知ってか知らずか、相変わらず飄々と応えてくれた。何とか持ち直した場の空気に内心安堵を覚えつつ、一方で想像していたよりも規模の大きな被害に驚いた。
魔法の森はかなり広い。今回濡れ鼠にされたうちの片割れに用があって、一度だけ訪れたことがあるが、あの全域を水没させようと思えばどれだけの水量が必要になるか。もし一個人がやったのなら、数ある妖怪の中でも上澄みの部類に入るだろう。巫女が倒し切れなかったのも頷ける。……まああの森の土壌は水捌けが良いから、数日放っておけば勝手に元通りになってはいるだろうが。
「そんなわけで幽霊鎮めは任せたぞ。ではな」
「もう帰るの。ちょっと早いわよ」
「屠自古と幾らか予定がある。あれは怒らせると面倒でな」
用件を伝えるだけ伝えて、足早に布都は帰ってしまった。呼び止めてみたが予定があるのでは無理強いもできない。確かにあの電撃令嬢の機嫌は良く保っておきたい。
村紗はいつの間にかいつもの調子に戻っていた。しんと黙り込んでいたのは、時間でいえば二分となかっただろう。尋ねてみても平気だと笑ってくれた。それ以上は追求せず、桶を片付けに向かう。体に蓄積された熱も大分引いた、そろそろ住職に今回の話し合いの成果を報告しなければ小言を頂戴してしまうかも知れない。
──月の船。
どんどん高まっていく空気中の湿度に、海は近いと感じる。久方振りの上質なお相手が、彼女の到着を待ってくれている。逸る気持ちを抑えようともせず、霍 青娥は無垢な童子のように口角を吊り上げた。
忠実に部下を務める
「はぁい。こんばんは」
想像通り──否、それ以上。探し回ったってそうそう出会えない上物を前にして、いよいよその端麗な容貌を愉悦に歪める。天女を連想させる美しい肢体が満月の明かりの下に朧気に浮かび、その首から上だけが如何なる罵倒をもってしても足りない程の醜悪さで染められた。
「素晴らしい。貴女、何人殺したのかしら。そんなに恨みを溜め込んで、今にも爆ぜてしまいそう」
上空にいてもなお、濃密な怨嗟の香りが漂ってくる。ほんの少し嗅いだだけで垂涎を我慢できない。まさしく極上のディナー、欲望に任せてぺろりと平らげてしまおう。火の灯りに誘われる蛾のように、ひらひらと同じ目線まで降下する。
博麗の巫女が動いたと聞いたときは遅きに失したと悔やんだものだが、天は青娥を見放していなかった。ここを逃せば、彼女を頂戴する機会は二度と訪れやしない。巫女には悪いけれど、心からの賛辞を述べたい。よくぞ仕留め損なってくれた、と。
「私が抜いて差し上げます。貴女を苦しめるそれを、力の源たる負の感情を」
感情の抜け落ちたような虚ろな表情をしていても、目の前の女の危険性は本能的に察知できるのか。何処かに散らばっていた幽霊の意識が、青娥に集中する。常人なら腰を抜かすであろう剥き出しの敵意も、青娥の意欲を高めていくスパイスにしかならない。
「怖がることはありません。少し力が抜けていくだけで、すぐ楽になるわ」
彼女なら下僕の良い同僚になってくれるはず。そして何より、彼女自身の実利にも繋がる。あれだけの上質な魂があれば、相当に有意義な実験を行える。
幽霊に手を伸ばす。到底届きもしない距離、それでも青娥は魂を鷲掴みにできる。怖気のする引き笑いと共に、ぐっと手を握った。
同時、真横にまで迫る力を補足。咄嗟に振り向くが、姿を確認するより早く腹部に強烈な衝撃を喰らう。随分と乱暴な挨拶をされたものだ。笑顔から一転、舌打ちをひとつ零す。
被ったダメージは小さい。仙人としての修行によって得た堅牢な肉体は、怪力尼僧の拳でも容易には傷つかない。しかし予期せぬ乱入者の登場によって、幽霊は姿を眩ませてしまった。体勢を立て直したときには、もう何処へ退いたかも分からない有様であった。
「どうして邪魔をするのかしら。私に何か落ち度でも?」
「彼女は成仏しなければなりません。未練を残したまま現世に留まることは、幽霊にとって耐え難い苦痛。その苦痛は鎮められるべきなのです」
「生憎生臭坊主のご高説を聞きたいわけじゃないの。求めてるのは、いきなり横から私の行動を阻害してきた理由ね」
最悪な気分だった。最高級の料理を目の前でひっくり返されたような、怒りと唖然が入り交じった感情が青娥の心を支配する。怒気は言葉に乗り、普段滅多にない程の棘を言葉に与える。
許されるなら、この邪魔極まりない聖 白蓮を考えつく最も凄惨な方法で殺し、その死体を衆目に晒しあげたうえで内臓を全て磨り潰してやりたい。ミンチになった肉は寺に届けてやろう──たまには少しの肉くらい食べたって罰は当たるまい。
しかし青娥はそうしない。廟を抜け出したとき、全く何も言われなかったことの意味くらい理解している。心情的にはミンチ肉に美味しく召し上がれくらい書いた手紙でも添えてやりたいが。
「倫理に悖る貴女が彼女の心を穏やかにできるとは思えない。あんな悪趣味なキョンシーを従える貴女には」
「そんなことを考慮する必要が何処にあるのかしら。あれは幻想郷に現れた有害な霊で、仏法の教えに準じて丁寧に葬る義務なんてない」
どちらの言い分も間違いではない。仏教徒からすれば彷徨える幽霊を救いたいと考えるのはごく自然なことであり、他方邪仙の立場では霊の扱い方に文句を言われる筋合いなんてない。あれを好きに扱って、一体どの勢力にどんな迷惑が及ぶというのか。
いつもよりずっと刺々しい青娥の物言いに、さしもの白蓮も緊張をもって相対する。普段飄々としている者がふと見せる怒りは、彼女であっても涼しく受け流せるものではない。矛先を向けてくるのが未だ得体の知れない邪仙であれば尚のこと。
「あれは生半可な霊ではない。貴女なら分かるわよね? 身近にまたとない類例がいるんだから」
「……あの子を貶す発言は看過できません。撤回してください」
「ほら出た。自分の信じる教義以外は正さなきゃいけない、それもオシャカサマとやらの有り難いお考えってわけ?」
ぐっ、と白蓮がたじろぐ。辛辣な言葉に思うところがあるのか、すぐさま言い返すことはできなかった。青娥は言い負かしたのを勝ち誇るでもなく、ただ一切の冗談を排した黒い瞳で真っ直ぐに白蓮を見据える。
青娥を掌底で吹き飛ばしたのは、反射的な選択だった。彼女が取ろうとしている行動が怪しく思えたために、幽霊少女を助けるという目的のもと体術での制止を試みた。まさしく思えた『だけ』であって、よからぬ事が企まれていた証拠はない。つまるところ、白蓮は体良くいえば己の信条に従って行動したのであり、意地悪く言えば独善的な判断で推定無罪の人物に危害を加えた。
非を認めて謝るべきなのか。事実確認も碌にせず、先入観に囚われて攻撃を加えたことを。しかし青娥が干渉している状態で、幽霊が未練を断ち切り成仏できるとは思えない。だから彼女のために、自分は正しい行いをした。そんな気持ちが喉元まで出かかった謝罪の言葉を飲み込ませる。
ふい、と青娥が踵を返した。最早白蓮に目をくれることもなく、苛立たしげな早足で歩き去っていく。
「待ちなさい!」
「嫌。船も沈んだ、もう気分じゃないの」
唾棄するが如き冷え切った口調は、白蓮が二の句を継ぐことを許さなかった。終わってみれば、二言三言の口論でしかなかった。それ故に白蓮は台詞を失くした、青娥は無駄だと断じて立ち去ったのだ。対話による説得の試みも、怒髪天を衝き罵倒を尽くすことさえも。
満月はいつの間にか雲で隠されていた。星も殆ど見えない曇り空の下で、しばし白蓮は立ち尽くす。飛ぶわけでもなく、ただ歩いて夜闇に紛れていく背中に、目線さえ向けられないままに。
──星の林に。
海は好きだった。太陽の光を跳ね返して煌めく水面は、まるで一面に宝石が敷き詰められているようだった。暑い日はそこに飛び込めば、たちまち体を冷やしてくれた。
船はあまり好きでなかった。波が荒いと酔ってしまうから。風の強い日はいつも船の縁に体重を預けて、込み上げてくる不快感と格闘していた。
妙に風が強い日だった。肌で感じるのは微風、しかし船は大きく四方八方に揺れた。それでも船酔いを然程強くは感じなかった。嫌な汗が滲み出てくるあの感覚に慣れることはできなかったから、ちょっとした幸運がやってきてくれたのだろうと思っていた。
魚はいつもの曇りどきくらい獲れた。空には雲ひとつなくて、海中から船はよく見えたことだろう。海鳥に襲われる危険もあるのだから、こんな日に魚は海面近くを泳がない。それなのに、網には色とりどりの魚がかかり元気に跳ねた。珍しいこともあるな、父は訝しんだが一先ず大漁を喜んだ。
帰る頃には茜色の空が広がっていた。いや、もっと紅い。少しだけ血を連想させる紅だった。不吉だなあと船に乗っていた面々が口を揃えた。
横に別の船が航行しているのを見つけた。彼らも漁に出かけたのか。何となしにその船を眺めていた。接触しないように、一定の距離まで近づいた船は互いに減速する暗黙の了解があった。その船は速度を上げたように見えた。
新米の漁師が船を繰っているのかも知れない。若いうちは船の操縦で手一杯になるものだ。父も他も、その船が明らかに突っ込んでこようとしていることに気がつくまではおおらかに笑っていた。
海賊だ。誰かが叫んだ。和やかな雰囲気が一瞬で緊張に掻き消された。まさかそんなことがあるかと思った。海賊に襲われようとしているなんて、認めたくはなかった。
躊躇なく小さな船が側面に衝突する。とても立っていられない程の揺れに、顔から倒れ込んだ。辛うじて顔を打たずに済み、揺れが収まったのを見計らって立ち上がった。父だったものは目の前で首から真っ赤な噴水を噴き上げていた。転がった首がこちらを向き、その濁った瞳が無感動に見つめてきて、船上に黄土色の吐瀉物を叩きつけた。
混乱が船上を支配した。乗り込んでくる男達は、よく見知った仲間を知らない肉塊に変えていった。ひとり、またひとりと倒れていき、悲鳴の合唱は十重二十重から五重へ、四重へ、三重へ──船底の倉庫に隠れて僅かばかりの理性を取り戻した頃には、野太く野蛮な怒号しか聞こえなくなっていた。
見つかればどうなるか、幼い頭でも理解できた。嗚咽を噛み殺して息を潜めた。頭上で聞こえていた足音が乱雑に階段を降ってくる。一瞬遠ざかり、抱いた希望を丹念に磨り潰すように、足音は目と鼻の先まで迫った。
衝突されたときに破損したのだろう、真横に指が二本入るくらいの穴ができていた。そこから水がじわじわと入ってくる。さして広いわけでもない倉庫で、瞬く間に膝から下が水没した。こんなに海が冷たいと感じたことはなかった。
女が一人いる。聞きたくなかった言葉が耳朶を打つ。見られていたのだ。血の気が全身から引いていき、不意に今起こっていることに対する現実感を失った。
これは全部悪い夢で、目が覚めたら家の布団にいるんじゃあないか。台所で母が朝食の準備をしていて、炊けた米の甘い香りが鼻を擽ってくれるはず。早く現実に帰りたい、その一心で焦燥に駆られながら倉庫の扉に手をかけた。
悪いことなんてしていない。だから海賊に襲われるなんて罰を受けなければならない理由はない。次に見るのは朝の薄明かりであって、強面の大柄な男ではない。残された理性が踏みとどまるよう叫ぶのを、頭の中で悉く否定した。
そして扉を開けた。木の扉はぎいぎい、と経た年月に相応しい音を立てた。先の見え難い薄暗がりから、静かに毛むじゃらの腕が伸びる。首を掴まれて猫のようにあっさりと持ち上げられる。おかしいな──夢はまだ終わっていないようだった。
喉の奥を何かが通り抜けていった。魚の小骨が引っかかるよりも強い嫌悪感に、思わず咳き込む。ごぽっ、と喉と口から粘ついた液体が漏れた。その液体は、下手な化粧のように口元辺りを染め上げた。
急な浮遊感、内臓の浮く感覚。次いで背中から地面に叩きつけられる。地面は柔らかくて、頭を打ったのに痛みなく全身を包み込んでくれた。
鼻に、口に、無遠慮に水が侵入する。粘ついた液体が水に溶けて、薄く薄く希釈されていく光景が、どんどん遠ざかっていった。遠のく意識が切れる前に、穴の開いた船底に手を伸ばした。この小さな腕では、指の一本も掠りはしなかった。
「太子様」
部下が一人戻ってきた。事前に予想していたよりも少し早い帰還だった。想定よりも早く動いているのか、危惧を強めつつ自室へと通した。
「幽霊について報告します。奴が生み出す海の規模は際限なく拡大中。更に悪いことに、緩慢ながらも里へ近づきつつあります。青娥殿については、一時あの尼僧と交戦状態に入りましたが、すぐに撤退した模様」
「里か……」
憎いのか、恋しいのか。或いはどちらでもあるのか。いずれにせよ放置しておけば、あの幽霊が創り出す海は遠くないうちに人間の里を飲み込んで底に沈めてしまうだろう。時間経過で激情が鎮まるなら苦労はしない。
無論巫女がそれを許すわけもない。最悪の事態が現実になる確率は、高く見積もっても数千分の一であると言って良い。すなわち、巫女が再度幽霊を討ち漏らすか、より有り得ないことだが敗北を喫した場合である。
「太子様。あれを滅せず戻っても良かったのでしょうか。布都も監視役としてあの場にいたのです、ご命令さえあれば決して無茶なことでは」
「確かに二人がかりなら問題なく倒せただろう。だがあそこまで広がった海はどうする」
「……」
「幽霊を撃破したなら、必然的にあの海の処理も私達の仕事になる。現実的な話だ、私達ではあれを残らず何処かへやってしまうことはできない」
人間が望むのは、安定した生活の復旧。それは決して幽霊を撃破するだけで戻ってくるものでもない。脆弱にして怠惰なところもある彼らは、船を拵えて安全になった塩水の上を渡るという非常の手段は選びたがらないだろう。
天狗が暴風を起こしても、全体から見ればごく表面的としか言えない層に波風を立たせるだけ。地底の太陽が己の大火力に頼って強引に蒸発を目論もうものなら、周囲一帯は水に代わって火の海に沈むこととなる。唯一河童なら安全に事を運べる可能性はあるが、その科学力を最大限に振り絞った機械を動員したとして、一体何日を要するか。そこまでして獲得した信仰に、果たして労力に見合う価値があるのだろうか。
つまるところ、発生した海を消してしまえないことが、いずれの勢力もこの件に絡もうとしない原因である。人間からの信用のために手を出し、後始末の不徹底が信仰の揺らぎにも繋がり得るのでは本末転倒。なれば腫れ物と扱い触らない方が現状維持という観点からは相応しい。
青娥は突拍子もないが馬鹿ではない。そこまで完璧に理解したうえで『こっそりと』霊廟を出立し、白蓮という部外者に把握されたために大人しく引き下がったのだ。内心ではどす黒い負の念が轟々と渦巻いていただろうが、あれで神子の意志に反する行動は取らないだけの自制心を有している。
まだ戻ってきていないのは、鬱憤晴らしでも企んでいるのだろう。九分九厘成功していたはずの狩りを邪魔されたのだから、それはそれは酷く苛立っているに違いない。多少外出が長引いていることには目を瞑ると決めた。下手に指摘して彼女の不興を買いたくもない。
「だから布都を使者としたのですね」
「ああ」
餅は餅屋ということだ。あの船幽霊なら、全て丸く収めてくれる。別に先んじて巫女が解決するならば、それはそれで良い。どちらにしたって、道教勢力にとっては毒でも薬でもないから。
──漕ぎ隠る見ゆ。
「あらあら。意外に動くのが遅かったじゃないですか」
癪に障る猫撫で声。十中八九わざとやっている、村紗の神経を逆撫でするために。そんな悪事を企む輩に対し、振り向いて話そうという気にはならなかった。
「やっぱりあの尼と顔は合わせたくないですか。気持ちはいたく理解します、何せ貴女が尊敬する者の信念に泥を塗るかの如き──」
「それ以上は聞きたくないかな」
怒りの収まらない青娥とは対照的に、凪いだ湖面の如く静かに返す。彼女は頭の切れる才媛だ、これで言いたいことは全て伝わった。わざわざ言葉を尽くして一生懸命説明する必要がないことだけは、青娥と会話をするうえでの利点である。
「失礼。私としたことが、過ぎた真似を。とかく貴女が動いた時点で私はすることがなくなりましたわ」
「それは良かった。廟で大人しくしていてよ」
「つい先刻までしていましたのよ。でもあんな逸材がいるって分かったら、手も出るし足も伸びます」
青娥には全て露見しているのだろう。意図して夜中に寺を抜け出したことも、これから自分が何をするのかも。だからこの会話は彼女からすれば負け惜しみ、もしくは事実上の敗北宣言なのだ。
青娥は村紗の表情を伺い知れない。正直なところ、想像すらし難い。一体どんな気持ちであの場所へ向かうのか、その面持ちは暴れ過ぎた同類への哀れみに満ちているのか、それとも。
分からないから面白い。叶うならば始終を観察したかった。きっと蓋で抑え込んだ煮え滾る怒りも溶けていくような、痛快極まりないショーになる。道化が二人、否応なしに爆笑の渦へ惹き込まれる。
おやすみなさい。それだけ言って背後の気配は遠ざかっていく。皮肉な一言を残していったものだ、今晩は眠れそうにもないのに。
「……」
じっとりと湿った生温い潮風、錆びた銅のような色に濁った海。いつか同じ光景を見た、その中心に自分は立っていた。丁度今の彼女と同じように。
「こんばんは。随分と派手な水遊びをしてるね」
儀礼的な夜の挨拶への返答は、家屋を幾つも纏めて飲み込む規模の津波だった。村紗一人に向けるには余りに大きく、忽ちに轟音と白い水飛沫を上げて華奢な痩躯を覆い隠した。
海面は大きく波打った。無数の気泡が泡立ち、巨大な質量の衝突が空間を揺らした。生存など絶望的な破壊力、村紗は全身の骨肉を酷く破損した溺死体となって後日浮かんでくる。
村紗が人間か、そこらの妖怪であれば。
海水が蠢き、盛り上がる。隆起したそれは次第に不完全な人の形を創り上げていく。指が生え、閉じた瞳がそっと開く。滑らかなゲル状の指が緩やかに自らの顔をなぞり、その下半身は未だ水と一体化するように溶けたままだ。
幽霊は奇声を発した。幻想郷に現れてから、初めてあげた声だった。甲高く音程の外れた奇声は、威嚇というよりは恐怖を表現しているように感じられた。
「貴女、歌は好き?」
村紗が幽霊に近づいていく。幽霊は拳大の水塊を乱れ撃った。凶弾が村紗の柔らかくなった体を抉り取っていく。
だが、肉体は風穴を開けられたそばから再生していく。まるで不死鳥のように、如何なる攻撃を受けても水がその傷口を塞ぐ。血の一滴も風穴から流れず、呻き声の一つもひしゃげた喉からあげない。
「天の海に、で始まる歌がある。私の好きな、綺麗な歌」
渦潮を巻き起こす。大岩をも巻き込み破壊するような、およそ自然には作られ得ない規模の大渦が村紗の肉体を粉々に潰していく。
暫し大時化の様相を呈した海は、その後急速に凪いでいった。囚われた獲物を逃がさない海流は消えて、その中心へ傷ひとつない村紗が浮かび上がる。
「空は海で、星は林。月という船は海を渡って陸に辿り着き、その乗組員達は林を巡って目的地を目指すんだ」
水の壁が幽霊と村紗を分断した。攻撃が意味をなさないと悟り、なれば近づけさせないようにと高く分厚い壁を築く。
自らを脅かす危険要素が見えなくなれば、誰しもが安堵する。何処か違う次元の狭間に放逐されたわけでもないのに、もう安全は保証されたと錯覚してしまう。
「だから残念だよ」
海が蠢く。気がついたときには既に遅く、水の体を得た村紗が蔦のように絡みつく。不快感を露わにして藻掻くも、村紗は複雑に纏わりついて幽霊の行動を大きく制限する。
幽霊少女の足首が水に沈んだ。有する強大な力からはまるで想像もできない金切り声で彼女は叫んだ。あたかも足首を錆びた刀で切断された娘のように、感じないはずの激痛に喘ぎ泣き叫ぶ。
「貴女を深く冥い海の底に沈めなきゃいけないなんて。……本当に残念だよ。もう月や星の光は貴女に遠く届かない。いや、眩しく照り栄える陽の光でさえも」
彼女を征伐したければ、海に沈めれば良い。出会ってからのやり取りで直感的に理解した。これだけ自在に水を操りながら、彼女はただの一度たりとも水面下に潜って隙を伺おうとはしなかった。
傍らに浮かぶ船は、彼女を支える精神的な支柱。『沈まない』という概念の具現化だ。しかし、船はあちこちが傷みぼろぼろになっている。村紗の経験上、こうなった船の末路は沈没でしかない。形式上の安全祈願など無駄にも等しく、無事に陸へ帰るなど夢のまた夢。
「でもそれこそが私でもある。幾つも幾つも、何人も何人も沈めて沈めて沈めて沈めて沈めて……あぁ、話が逸れたかな」
そんな船を幾つも作ってきた。沈みゆく船の上で自らの数分後の姿を想起して愕然とする船員やその家族に、にこやかに話しかけていた時期もあった。気さくに話題を振ったのに化け物と罵られる理由が、あの時は真に理解できていなかった。
船を沈めることが、村紗の唯一の存在意義だった。人間を見境なく殺し続ける敵であることに何の躊躇いもなかった。今にして顧みれば、仲間が欲しかったのかも知れない。同じ境遇で命を落とした人間が、村紗のように船幽霊になってくれたら。そんな淡い希望を抱いていたからこそ、彼女は自らの手で死に誘った者達に友好的に接したのか。
全ては想像に過ぎない。何年知性を維持していても、己のことを十全に知るのは難しい。それが形に現れない感情的なものなら尚更だ。だから過去など思い出していないで、目の前のことに集中するしかない。
「申し訳ないよ。心からそう思う。……だからせめて、私の手でしずめてあげる」
下半身が沈む。少女は最早叫ぶ気力も失ったように、小さく頭を振る。弱々しい呼吸を繰り返す喉に、深々と刻まれた切り傷が現れ、流れるはずのない血が流れる。記憶がもたらす強烈な感情に呼応して、傷が甦ったのだろう。
少女の頬を海水でない液体が一筋伝う。瞬間、白蓮の顔が脳裏を過ぎった。人間も妖怪も分け隔てなく救おうとする、底抜けに優しい敬虔な信徒。かつて村紗は白蓮より聖輦船を授けられ、その時より船長を務めることとなった。
それが村紗を救った。地底世界に封印されるまでの数十年は、今でも鮮明に脳裏に描き出すことができる。争いがなく、排斥される者もいない理想の楽園を創ろうと、白蓮達と共に歩んだ日々。苦しいことも悲しいことも、やりきれないこともあったけれど、いつだって胸の内に希望を抱けていた。
活力に満ち溢れていた記憶、二人きりで話したときの柔和な笑顔。その全てを強引に思考の外へ追い出した。青娥は正しいのだ、村紗の選択は紛れもなく白蓮の目指す世界の理想像を足蹴にする。
自分が解決しなければいけないと感じた。布都を使者として寄越した霊廟側が何処まで考えを巡らせていたかは分からない。もしかすれば、同じ船幽霊なのだから行ってきたらどうだと迂遠な当てつけの意図があったかも知れない。どうだって良い、話を聞いた時点でこの海へ赴く以外の選択肢は用意されていなかった。
こんなやり方しか選べない自分が虚しくもある。この世への未練を断ち切っているでもなく、ほんの一欠片の心も安らかにしない。三千大千世界からの存在の消滅、まさしく生きることからの追放だ。輪廻の道から蹴落とされる彼女は、もう地獄に落ちることさえ許されない。
白蓮は彼女を救えただろう。ただし、恨み骨髄に徹する彼女の心を安らげ、思い残すことなく成仏させるには、相当に長い時間を要する。その気になれば即日解決が可能な案件に、わざわざ被害が拡大する危険を冒してまで時間を割くのは、幻想郷の管理者達にとっては愚策でしかあるまい。
そうなれば命蓮寺は幻想郷全土と対立する危険を孕むこととなる。皆が手を取り合う理想郷の実現は、著しく遠のくに違いない。故に村紗は、一より多を優先した。今ここで一人を切り捨てれば、後々白蓮達は何百人、何千人もの妖怪や人間を導く機会を得られる。
白蓮の心構えに反する考え方だと、自分でも理解している。あの聡く優しい住職は、少女を見捨てられない。助けることで自分達が疎まれると分かっていても、進んで疎まれにいくのだ。だって誰かを切り捨てて実現させた争いのない世界なんて、名ばかりの欺瞞でしかないから。
心の中で白蓮に謝る。私はまだ仏の教えを真に受け止められていませんでした。心より尊敬する師への懺悔とは裏腹に、少女は傷口が水に隠れるまで沈んだ。ぐしゃぐしゃに歪んだ顔は、涙の死化粧で透明に彩られていた。せめて最後に一声かけようと言葉を探したが、終ぞ喉の奥に引っかかったままとなった。
ちゃぷん、と少女の全身が沈み切った。終わってみればそれきりだった。静寂に包まれた海に溶けて、淡雪のようにいなくなってしまった。もう海が荒れることはない。
まだ村紗には為すべきことが残っている。不自然なくらい冷静に役目の総仕上げに入る。一帯の海水を己の身に吸収していく──後片付けだ。
村紗の体積を一切変化させないままに、海は圧倒的な速さで縮小していく。少女の最期の痕跡を無慈悲に消していく。やがて海は全体を見渡せるまでになり、池と呼ぶべき規模になり、底が透けて見え始め、水溜まり程度の大きさとなって、そして最後の一滴が村紗の掌に染み込んだ。
少女がこの世に存在したことを証明するものは、もう何処にもない。彼女を知る誰かの記憶から抜け落ちたが最後、二度と誰の記憶にも浮かび上がらないことが確定している。残酷だと言えば、ありふれた月並みな言葉になるだろうか。
不純物のない霊力が近づいてくる。あの巫女が到着する前に、何とか間に合った。気づかれたら痛いお仕置きを喰らうであろう邪なことを考えつつ、心中そっと一息ついた。
「海がいきなり消えたからもしやと思ったら、やっぱりあんたか」
「夜までご苦労さま。片付いたよ、巫女が倒したと喧伝してくれて結構」
「そうせざるを得ないわね」
今回の規模だと、海が自然消滅したといっても中々信じてもらえない。里の方でも巨大な海が接近していたことは掴んでいるはずだし、それならば巫女が全て片付けたと吹聴してもらうのが最も好都合である。別に村紗は名声が欲しいわけではないので、命蓮寺が割りを食う羽目にならなければ手柄を譲ることに抵抗はない。
ぽつ、と水滴が頬に当たる。空を見上げて、巫女が露骨に顔を顰めた。ずっと雲に覆われていた空が、遂に堪え切れず泣き出した。
「げっ、雨……もう最悪、出てすぐ帰ってるじゃないの」
「気をつけて」
「ん」
来たばかりの巫女は慌ただしく飛んで帰っていった。あと少しすれば本降りになるだろう。それまでに家まで戻れると良いが果たして。
村紗も帰宅の途につくことを決めた。同門の妖怪達は今頃、あいつ全然帰ってこないなあ、なんて話しているのか。それとも村紗一人いなくなったのなんて気にもとめずに、各々布団の中で夢の世界へ旅立っているのか。
空気が俄かに水分を含み始めた。実感できる重さを全身に感じながら、漫ろな気持ちで空を飛ぶ。雨でなければあの場で物思いに耽りもしたけど、生憎今日はあまり濡れたくない。