芝2000m、目が焼けてしまうほどの快晴の中、3人のウマ娘がただ並んで開始の合図を待つ。
澄み渡る空、ひりひりと痛感する隣からの緊張。身体が強張る程に澄まされていくこの耳。
……あのトレーナーが手を上げた。その瞬間に一気に背の筋肉が張り付き、周囲を取り纏っていた空気からより一段と感じられるようになる威圧感。
光沢溢れるコース上の芝に、若く逞しい木々がよく視える。
始まりを知らせる風の静寂が訪れ、全身の感覚が研ぎ澄まされる。
私の濁った、無彩色の空のような色をした瞳が、段々と濁りを失い純粋な無彩色へと変わるような気がした。
──さあ。そろそろだ。
スターターが挙げていた腕をスターターが下へ勢いよく落とすと、3人のウマ娘たちがとてつもない勢いで駆け出していった。
(意識する事がらは二つ……"初めて"、"2000m"ということ。800mや1400mとは大きく違う。──1400mと800mの差と2000mと1400mの差は同じだが、そこにはスタミナの限界値という大きな壁がある。そのスタミナの限界値を如何にして限界まで使い、且つ高速で走るかが重要な鍵となってくるだろう。……マンハッタンカフェとアグネスタキオンは私と違い日々トレーニングによりスタミナや最高速度、加速、コース取り等も鍛えられているはずだ。だから基礎能力は圧倒的に私が劣っている。──だ、がその状態でも勝つ方法なんていくらでもあるんだ。……この今の走り具合を見るにマンハッタンカフェ・アグネスタキオン共に序盤は抑えて終盤で開放するタイプの走法だろうな。彼女らの息もまだまだ全然落ち着いているし。……彼女たちは2000mやそこらではバテないスタミナを持っている可能性すら大いにある。──特にマンハッタンカフェだ。バテるどころか全然微動だにしていない。安定的なフォームと安定的な走法だろう。アグネスタキオンはマンハッタンカフェに比べると若干不安定性があるが、その分脚の力が強く限界速度を出した時の爆発力が大きそうだな……。)
先頭を進むのはアグネスタキオン、続いてほんの少し離れてマンハッタンカフェ。そしてマンハッタンカフェに並ぶようにアクロマが居る状況だ。
それは第一コーナーになっても状況は変わらず。2000mに於いて序盤というのは他のウマ娘の状態や脚質・作戦などの確認であったり、自分自身のコンディションを確認する場でもあるのだ。
アグネスタキオンはいつも通りの最高級の脚と頭脳で正確にレースを運んでいる。
マンハッタンカフェは常に何かの背中を追うように、ずっと前に前にと夢中で走っている。
そして……
アクロマは、ひたすらに周囲の環境を把握しようとし、そこに新たな彼女の世界を上書きしようと模索している。
「──そろそろ──……。全ての意識を自分に向け、色々な初めてを描き新しい世界を想像し創造して……。……ほら、視えてきた。」
光合成を感じさせる緑黄色から、太陽の浮かぶ海の空。それらが少しずつ、少しずつ彩りを失い、全て真っ新の無彩色に彩られていく──。
(一つ目。今私の近隣に居るこの二人のウマ娘の存在と共にレースをしているという事実。……そして二つ目。私は、つい最近に初めてこの領域という力を理解し、そしてそれの発動を試みようとしている事実。……最後に三つ目。私が、初めてこの有彩色の世界を無彩色に彩ろうと自ら筆を握ったという事実。これらの事実を無彩色の筆の絵具にし、私は勢いよく筆を下ろす。)
「……っ!? お友だちがっ……壊れていく……!?」
「……ほう。中々に不可思議な現象だねぇ……」
発現したアクロマの変幻領域は遥かな二人の世界にでさえ影響を与え、新しい世界の創造・形成を阻害する。たとえそれが世界でなくても。たとえそれが決意でも……。アクロマの変幻領域は道のりをも溶かし尽くしてしまうのだ。──本人は自分の世界を想像し創造しているだけであるが。
(──よし。これで前提条件の構築は完了。)
いつしか有彩色の美しい自然の世界であったものは、無彩色の漫画のような世界へと変貌していた。
自分自身の付近に居る二名のウマ娘の極彩色を薄め混ぜ合わせ溶かし尽くし、ラフの輪郭線をなぞるように丁寧に激しく色を塗り重ねていく。
「っ……! 逃げないと……っ! お友達だけじゃなくて……私までも……っ! 無彩の影に飲み込まれる……!」
マンハッタンカフェは、普段の彼女とは大きくかけ離れた大逃げに作戦を変えた。
──変えざるを得なかった。
普段の彼女は基本他人の後ろにつき様子を見た後、お友達と同じタイミングで駆け出し脅威の末脚を発揮しながらゴールを目指す、所謂追い込み・差しの脚質である。
そんな彼女が逃げ……それも大逃げをかますと一体どうなるか。それは明白で、勿論彼女自身も理解した上での行動である。──そう、落ちるのだ。
この小さな小さな馬群に。影の沼に。
『沼の中で泳ぐより、空を羽ばたいたほうが幾十倍も速い』
こんな解りきっている事を、マンハッタンカフェはたった今初めて実感し、頭の中に思い浮かばざるを得なかったのだ。その元凶は言わずもがな沼の最下部に居る黒い影。もう一度入ると抜け出せなくなる影。
……平穏な時の世界が、唐突に終わりを告げるのだ。
アグネスタキオンは、マンハッタンカフェの事を眼中から外し、ひたすらにこの大沼から逃げ出すことだけを考えていた。
彼女自身は判っている。このままではスタミナが保たないこと。
彼女自身は判っている。このままでは持ち味の走りができないこと。
いつもはとっくの前に出せている勝利の解も、今回は全くの膠着状態。──そう。
彼女自身は判っていない。"このまま"を打開する方法を。
挑むか逃げるか。この単純な只の判断が、彼女の天才的な勝利を阻む。
「
「……どうにか……ふぅン……この状況を打開する方法は一つしか無さそうだね──」
アグネスタキオンは、マンハッタンカフェの真後ろを取るようにスピードを少しずつ上げ、アクロマの謎の領域からいち早く抜け出してやる、と思うのであった。
────「彩色。これは私を修飾する言葉。」
────「ならば。渡された役目しか出来ないなら。」
────「何にも形容できない。」
────「何にも修飾できない。」
「そんな世界を──。」
瞬間、無理やり生まれていた無彩と有彩のコントラストが明滅し、全ての情報が混濁する。木々は小鳥の囀りを口ずさみ、自分自身が走っているこの青い何かは一歩一歩を踏み出すたびに赤紫の砂へと変貌した。
そして、私自身も全てがごちゃまぜになって、ただ無意識に彩色する。ただ無意識にひた走る。
「っ……ぁ……っ……」
「圧倒的な───と圧倒的な───。これは……限界を超えたと仮定したとしても……敵わないね……」
アグネスタキオン・マンハッタンカフェが共に息苦しそうにする。
そう。世界は私のものなのだ。それも一つじゃない。幾つ? そんな事もうわからない。幾つもの無彩と有彩が交差する世界の狭間で私達は走っているのだ。
世界は一つじゃない。この世界が分岐点で、そして終点。
息苦しそうにしている彼女らも当然そんな事は考えない。だってこれは"私の"想像であり創造だから。──というか、そんな事は考えさせない。徹底的に縛り付け、『結果的に私が勝利する』。それが必然であったかのように。
そこにはゴール板があり、もう既に彼女らは後ろに居る。必然的な勝利である。
「──?」