クリスマスが過ぎて一週間、暦は12月31日を迎えていた。最近学園内のトレーナー向けに送られてきた連絡によると、サンタ服の不審者が現れたりしたらしく情報を募っていたが、残念なことに俺から報告できるようなことはなかった。早く捕まることを陰ながら応援させていただこう。
ここ数日で他に特筆すべきことがあるとすれば、数少ないジュニア級G1レース、ホープフルステークスが開催されたことだろうか。中山レース場を2000M走るこの競走、ツインターボの参戦は見送らせてもらった。理由はいくつかあるが、そのレースにトウカイテイオーが出てくるだろうことを予想していたのが大きな要因だ。中距離レース、今勝負するのは得策ではないだろう、と。
しかしそれは取り越し苦労だった。トウカイテイオーのトレーナーの意向なのか、そのホープフルステークスに彼女の姿はなく。優勝を飾ったのは、9月に芙蓉ステークスでターボとゴールを競ったマーベラスサンデーというウマ娘だった。今月開催された他のレース記録も漁ってみると、トウカイテイオーは別のオープンレースに出走していたようなので、完全にクラシック三冠への調整に舵を切っていると見て良さそうだ。
ターボは翌年4月に行われるG1マイルレース、桜花賞に向けて。そしてトウカイテイオーも同じく、4月の中距離レース。皐月賞に備えて調整していくことになるだろう。今日という日を跨げばジュニア級という枠を抜け、激化するレースに身を投じていくことになるのだ。気を引き締めて行かなければならない。
しかし、だ。締めるべきところがあるということは、緩めるべきところがあるということでもある。どのような分野においてもメリハリをつけるのは大切なことだ。それがトレーニングに対する熱量に繋がるだろう。
という賢しい建前は実際のところではなく、今日はただ話の流れでターボと年越しすることになった。ガレージ内にある、学園の校舎で例えるところの宿直室のような部屋。六畳一間のそこに
「きゃははははっ! みてみてトレーナーっ、あの人すごいかおしてるー!!」
「めちゃくちゃ熱そうだな……」
テレビの中では芸人さんが二人羽織に挑戦しており、ひょうきんな言動で周囲の人たちを大いに笑わせていた。あまりこうした番組を見たことは無かったんだが、軽快なトークや話題の緩急に笑みがこぼれてしまう。もっとも、どちらかと言えばテレビの内容へいちいちリアクションするターボに微笑ましさを感じる頻度のほうが多かったが。
「ねぇねぇ、ターボもあれやってみたい!」
「ん? うーん……」
どうやら自分もやりたくなったらしい。しかし二人羽織というのはカテゴリで言えば宴会芸のハズだ。誰も見ていないのにやるのはどうなんだろうか……それに間違いなく、鍋の汁が服や
「……ちょっとだけだぞ?」
「ほんとっ? やった!」
心のどこかでは駄目と言われるものだと思っていたようで、許可を出せば予想以上に喜んでくれた。まぁ、鍋の中身は残り少なくなっているので火を止めているし、火傷の心配はないだろう。それに服や布団は俺が洗えばいい話だしな……普段はトレーニングやら食事制限関係で窮屈な思いをさせていることだし、こういう時くらい気ままに楽しんでもらおう。
「で、どっちがいい」
「後ろ! ターボがトレーナーに食べさせたげる!!」
にぱーっ!! と、音が聞こえそうなほど楽しそうな笑みでお椀と箸を掲げてみせるターボ。思わず苦笑を漏らしつつ半纏の前を緩めてターボが入れるように腕を上げた。もぞもぞと俺の背中に侵入すると、ターボは意気揚々と腕を振るうのだった。
「よぉしっ、いくぞー!」
びしゃあ!
「あれ、トレーナーこれ取れてる?」
「あぁ、まぁ、そうだな」
躊躇なく汁に突っ込まれた箸は奇跡的に輪切りの人参を捉えていたが、中の液体は当然のごとく器から飛び散った。分かっていたから特に思うことはない。むしろ思い切りの良さに清々しさを感じるかも知れない。だが次の瞬間、嫌な未来を予想してしまったために咄嗟に手で両目を覆った。
「それじゃあ! ここだぁーーっ!!」
ぺたーん!!
「どうっ? トレーナーおいしい!?」
「ターボ、そこはおでこだ」
場所を探るとかしないのな、とは呑気な感想かも知れない。この勢いで目を刺されていたら失明まった無しだった。あまりにも狙いが見当違いすぎて腕は空を切り、箸から放たれた人参は俺の額を彩ってくれた程度で済んだが。つぅ、っと汁が鼻の付け根で枝分かれして滴るのがわかる。
「外れたからお終いな、畳に落としたら勿体ないし」
「えーっ? ターボ、もっと……」
これ以上は洒落にならんかもな、と考えターボを背中から追い出すと。人参手裏剣の使い手はぶーたれようとして俺の顔を見て……ぷるぷる震えだした。しかし次の瞬間、
「だぁーっはっはっはっは!! とっ! トレぶふぅっ!? おっ! おでこにっ、にっ! ニンジンが! きゃっはっはっは!!」
ちょっと聞いたことのないバカでかい声量で笑い出したではないか。一体誰のせいで額で日の丸表してると思ってるんだ。ついには腹を抱えてゲラゲラ転がりだした。抱腹絶倒とはこのことか。
「おい犯人、こっち見ろ。これがお前の所業だぞ、人参農家に悪いとは思わんのか」
「ひっひゃっはっはっ! ヒィ、とっ、トレーナッ。あーっはっはっは!! だっ、だめぇ! こっち来ないで!! ぃいっひっひっひっひ……!」
バカ笑い続けるターボにずいっと身を乗り出しておでこの犯行跡を見せつけると、さらにツボって涙を流し始める始末。身を捩って呼吸が細くなったところで俺も悪ノリをやめて距離をとった。こちらを指差してゲラゲラ笑い出した瞬間は少しイラッとしたが、ここまで喜んでくれるならまぁ許してやらんでもない。本人は息を荒げて苦しそうにしてるしな。
「鍋は下げちまうからな、こぼれた汁も片すから、それまでに落ち着いとくんだぞ。いつまでもそのままだと冷えるぞ」
炬燵で暖を取る前提なので今日は暖房を切っている。なので畳の上、ぷるぷる震えるターボは寒いはずなのだが、そんなことより笑いを治めるのでいっぱいいっぱいらしい。何度目かの苦笑を浮かべつつ、おでこに刺さったターボの手裏剣を口の中に放り込んだ。
「つかれたぁ……」
「こっちのセリフだ」
30分ほど経って、ターボは胡座をかいた俺の上で落ち着いていた。さっきまではこたつで隣り合って居たんだが、俺が座っていた場所の布団が汚れてしまったので移動。しかしテレビ側を除くと対面に座る形になり、こたつを隔てて座り合うのが距離を感じて不満だったらしいターボの希望でこういう形になった。お前は背もたれも出来て楽かも知れんが、俺は普通に居心地が悪いぞ。主に体裁的な意味で。
「…………」
「…………」
それからしばらくはボーッと二人してテレビを眺めていた。別段雰囲気が悪いということはなく。それどころか、どことなく弛緩した、安心するような雰囲気が流れている。実家のような、と例えていいかも知れない。
「……トレーナー」
「ん?」
外から聞こえる学園内放送やら、テレビからの音声が遠く感じられるような空気感の中、不意に俺の胸に頭をあずけたターボが口を開いた。
「見つけてくれて、ありがとうね」
「…………」
普段のテンションとはかけ離れた、静かな声音。しかし口調からは、いつにも増して熱が込められているように感じられた。俺がターボの言葉に返せずに固まっていると、身じろぎしてターボは俺を見上げた。
「あの日、全力で走ってよかった。レースはぜんぶ負けちゃったけど。ぜんぶ走ったから、ターボ、
「────」
その言葉の意味は、間違いなく伝わった。あの日の、俺とターボが出会った日の模擬レース。俺のスカウトは、ターボにとって勝利そのものであったと。そう言ってくれているのだ。
「…………そんなもん、お互い様だよ」
「えへへっ」
なんとなく、理由は我が事ながら分からなかったが悔しくなり。それでも気持ちは同じだとわしゃわしゃ頭を撫でつければ、ターボは嬉しそうに俺の手を受け入れた。きっと俺の気持ちも、寸分違わず伝わったのだろう。
胸中はずっとこそばゆいままだったが、それから0時を過ぎて年を越えるまで。俺とターボはいつまでも身を寄せ合っていた。
『消灯時間はとっくに過ぎてんだよー! さっさと帰しなサンタクロースッ!!』
心配した