「ヒマだ……」
「はぁ……何回目よそれ、鬱陶しいわね。そんなに暇なら宿題終わらせなさいっての、どうせやってないんでしょ?」
「気分じゃねー」
「あっきれた。始業式に間に合わなくても見せてあげないからね」
机に向かってカリカリとペンを走らせていたダイワスカーレットは、ベッドに寝転んでくだを巻く、寮で相部屋のウオッカにジト目を向けた。それを察してか、視線から逃れるようにウオッカは背を向ける。
先月12月に初めてG1レースに出場し、惜しくも2着に終わった悔しさも晴れぬままに新年を迎えてはや数日。トレーナーから訓練は軽めに抑えるよう言われており、ここ最近は胸中の靄を散らすことも出来ずにウオッカは悶々とした日々を送っていた。
「……チッ、少し出る」
無意識に出た舌打ちが、何に向けられてのモノかは自覚出来ていた。口うるさいルームメイト……ではなく、いつまでも前を向けない自分に対して。
──このままじゃ腐っちまう。
大した実績も残せずにトゥインクルシリーズからフェードアウトしていく未来の自分を幻視して、それを振り払うようにジャージに着替える。
「……ん? 何やってんだよスカーレット」
衣服を替え、気持ちを新たにすべくドアに向かおうとすると、いつの間にか同じジャージに身を包んでいたダイワスカーレットが腕を組んでいた。その表情は、眉を寄せつつもどこか晴れがましい。
「トレーナーにオーバーワーク禁止って言われてるでしょ。アンタ1人行かせたら何するか分かったもんじゃないんだから。付き合ってあげる」
「いらねーよ……」
「アンタの意見なんて聞いてないの。戻ったらどうせアタシがケアさせられるんじゃない。一緒に走ってアンタにもマッサージさせた方が公平でしょ? ……アタシも、少し走って気分を落ち着かせたいしね」
その言葉に、ダイワスカーレットも数日後には初となる重賞レースへの出走が控えていることをウオッカは思い出した。
「勝手にしろよ、ちんたら走ってっとおいてくからな」
「流す程度に決まってるでしょ、バッカじゃないの? 一人で突っ走ったら尻尾掴んで連れ戻すからね」
「うぜー……」
「ふんっ、うざくて結構よ」
寮の部屋から玄関に至るまで、歯に衣着せぬ物言いで互いに不満をぶつけ合うウオッカとダイワスカーレット。傍から見れば犬猿そのものであったが、よく見れば不思議なことに肩を怒らせている様子もなく、歩調を合わせて外に出て、そして自然な流れで走り始めた。
「…………」
「…………」
しばらく走り、学園の敷地を出てなお言葉は無い。まだ気温の低い日が続く寒空の下を、二人は同じペースで走っていく。日暮れまではそう遠くなく、ウオッカがふと見上げた空は深い青と茜色にグラデーションを描いていた。
「で? なんだってのよ」
するりと。頭上の美しさに少しばかり心洗われたように感じられたその瞬間に、見計らっていたように隣から声が聞こえた。そちらに視線を向けることはない。それでもどういう表情で、何を問いかけているのかは正確に伝わった。今までは不調の理由を問われても口を
「俺は……アイツに勝てねーのかな、ってさ……」
「……ツインターボのことね」
ただの一言で、意識しているのが誰か伝わったことに不思議はない。ウオッカとダイワスカーレットはスピカというチームに共に所属している。誰がどのレースに出たかは共有しているし、どのレースに勝ち、そして負けたのかは当然のように把握していた。競った相手についても例外ではない。
「最初は……ただの目立ちたがり屋だと思ってた。教官のトレーニングでも、模擬レースでも。一人だけペースガン無視でバカみたいに突っ走ってさ」
「そうね……アタシも正直、真面目にレースを走る気があるのか疑問だったもの」
「でも違ったんだ。目立ちたいんじゃなくて、ただ真っ直ぐなヤツだった。全力で駆け抜けたいなんて、それだけのハナシだった。できるワケねーって考えながらさ……ずっと走り続けて欲しいって思ったよ。こんなヤツが最後までいて欲しいなって……」
「……」
ダイワスカーレットは口を挟まない。ここまで聞いただけではツインターボというウマ娘を、その走りを認めていると、そんな美談に思える。けれど、それだけで話が終わらないのは明白だった。ウオッカの悔いた顔を見れば。
「下に見てたんだッ……! 授業でも、訓練でもっ、模擬レースでも! ずっと後ろに居たアイツが、最後まで学園に居られるようにって……!
「ウオッカ……」
肩を並べて走る二人の速度はいつしか一定とは言えなくなり、そして止まった。ウオッカが無意識に足を向けていたのは、いつだって自分の心を落ち着かせてくれた河川敷だった。漫画に影響されて、カッコつけているだけだと思われているのは知っていた。それでも気にしなかったのは、穏やかな川のせせらぎが何度だって苛立ちを洗い流してくれたからだ。
しかし、この時ばかりは心の淀みが溢れて仕方なかった。
「授業で一緒になった時、デビューでレコード出したって自慢してただろ? 嬉しかったよ、んでカッケェなって思った。ずっとドンケツでも腐らねーでさ。振るわなかったレースもあったみてーだけど、そのあとの重賞は逃げで連勝だろ? そんなスゲェヤツを、俺は……」
これ以上は口にしたくなかった。無意識だったし、もし言葉にすればあまりにも驕った考えだと自ら否定さえしただろう。それがツインターボと競う前であれば。けれど今では、己の醜い思考を受け入れなければならなかった。故に。
「自分より劣ってるって、そう考えちゃってたワケね」
「っ……! その通りだよッ……!!」
ダイワスカーレットの優しくも残酷な指摘に、ただ頷くしか無かった。
昨年10月、アルテミスステークス。いつか真剣勝負をしようと言葉を交わしたツインターボといざレースで競えば、差しきれずに一着を譲る結果に終わってしまった。
なんで俺が負けた? 当時芽生えたそんな感情と、もっと向き合うべきだったのだ。だから気づくのが遅れた。
「勝負は水物だって。今回は運が無かったってッ。初めて負けた時に納得しちまった。受け入れちまった……無意識にツインターボを見下してるって、その時気づけなかったんだ! だからまた繰り返したッ……G1で。大事なのはここだから前に負けたのは関係ねーって……! 今度こそ本気で勝ちに行くなんて甘えてた……クソッ! くそっ……ダセェよ、俺は……」
12月、阪神ジュベナイルフィリーズ。G1の競走で、阪神レース場の熱狂的な空気に呑まれた。GⅢなんて比較にならない、最高峰のG1レースにさえ勝ってしまえば良いのだというそんな驕りが、覚悟の無さが露呈した瞬間だった。
「あのツインターボでさえ面構えが違ったんだ、誰だって緊張してんだなって。ジュベナイルフィリーズの、芝の上でだってそんなこと考えてた。でもよ……ゲートに入る直前、アイツ笑ってたよ。そのおかげで、あぁやっぱり、こいつから意識外しちまったら終わりだなって。その時になって、ツインターボが本当に……間違っても下だなんて思っちゃいけねー相手だって、ようやく実感したんだ」
あの時ツインターボを。他のウマ娘を度外視して、ツインターボこそを差し切ると決めていなければ、レースに集中すら出来ず、ましてや入着なんて夢のまた夢だっただろう。ウオッカはそう自己分析していた。
「俺はどうすりゃ良い……? 次もまた勝つぞって、拳を突き出してきたツインターボにッ……俺を認めてくれてたアイツに、どんなツラでまた挑めば良いんだよ……!?」
ウオッカにとって、今までの自分からツインターボに対する考え方は、理想とする在り方とあまりにかけ離れたモノだった。
──ダセェ真似はしねぇ! 誰よりもカッケーウマ娘になる!!
阪神ジュベナイルフィリーズでツインターボに敗れて。また勝負しようと声をかけられて以来、ウオッカはずっと沈んでいた。ツインターボに勝てるのか? ──あのカッコいいウマ娘より、自分はカッコよくなれるのだろうか?
「──バッッッッッッカじゃないのッ!?」
「ッ!?」
ビクリと肩を跳ねさせて驚いたウオッカを責めることは出来ないだろう。それほどにダイワスカーレットの声は大きく、そして鋭くウオッカの耳朶を打った。
目を見開くウオッカにずいと体を寄せ、腰に両手を当てて彼女を睨みつけるダイワスカーレット。下から睨めつけられて思わず上半身を反らすウオッカに、逃しはすまいとダイワスカーレットはさらに詰め寄った。
「いい!? デビュー前、間違いなくツインターボは弱かったわ! アンタよりも! アタシよりもね!! でも努力して、レースで実績を出して! アタシたちの評価を覆した! それだけのことじゃないッ!! アタシたちは勝負の世界に居るの! 自分より遅い子が居たら、自分のほうが速いと思うのは当然のことなの!! 違うッ!?」
「そうかも知んねーけどッ! でもっ……!」
「でももカカシも無いッ!! アンタがだっさいのは認めるけどね! それはツインターボを下に見てたことなんかじゃないわ!!
「──前を……」
「そうよっ。どのレースで誰が凄くて。自分はその時どう思っててっ。だから負けました──そんなのクソ食らえだわ! 反省は大事よ、でもアンタがやってるのはどう好意的に見てもそんなモノじゃない! 後ろばっかり見たって何も変わったりしない……変われなんかしないわ……!」
やっと、ウオッカは気づくことが出来た。ダイワスカーレットの剣幕を間近にして。大声で浴びせられる叱咤を耳にして。──頬を伝う涙を、目にしてしまって。ようやく気づいたのだ。彼女が最近のウオッカを、どういう気持ちで見ていたのか。
──アタシとの勝負は、もうどうだっていいの?
「今すぐにでも前を向かなきゃ誰にも追いつけなくなるっ。これから追い抜かれるばっかりで、アンタはそれでいいって言うの──!?」
──やっと走り出したのに。これから追いついて、レースで一番を競い合うつもりだったのに。アンタはもう……諦めちゃったの?
同じ学年、同じチームと言えど、ウオッカとダイワスカーレットはメイクデビューの時期が違う。少し早くデビューしたウオッカを、ダイワスカーレットは追いかけて来たのだ。早く一緒に、同じレースで競いたいと。首を洗って待っていろ、と。ライバルとして。
「スカーレット、お前……。ははっ、俺、2回も負けたんだぜ? ツインターボにさ、勝てると思ってたヤツに、情けねーこと考えながら負け続けてんだ。そんな俺と、まだ競いたいって──」
「──ふざけないでよ」
「────」
ひゅっ、と。ウオッカは短く息を吸う自分の喉の音を、他人事のように聞いていた。ダイワスカーレットが、ウオッカの胸に額を預けて抱きついてきたからだ。
「アタシのライバルはアンタなのよ……? ツインターボでもないし、ツインターボに勝ったウマ娘でもない。ウオッカ、アンタはアタシが認めたウマ娘なの。アンタをバカにするヤツはたとえそれがアンタ自身だって許さない。確かにツインターボは強いわ、でも……それを超えて、アンタとゴールを競い合えるって、アタシはそう信じてる……!」
完敗だった。自分のことは卑下もしよう。過去の自分が、今に続いた轍が格好悪いと嫌悪もしよう。でも……ダイワスカーレットに。彼女が認めてくれるのと同じく、自分が何度も意地になって競い合ってきたダイワスカーレットにそこまで言われてしまえば、ウオッカは前を向かざるを得ないのだ。
ダイワスカーレットの、自分のたった1人のライバルの言葉を。自らの振る舞いで嘘にすることだけは、到底認められそうにないのだ。
「…………競走」
「……なによ、急に」
赤くなった目元を隠そうともせずウオッカの顔を見上げるダイワスカーレットに、視線をそらして続ける。気恥ずかしくて──どうにもしばらくは、
吹っ切れてなんかいない。でもとにかく、前を向かなければならなかった。ダサいままだろうがなんだろうが、求めるものはその先にしか無いのだ。
「寮まで競走しようぜ。お前が負けたら宿題写させろよ」
「────フンッ。ま、いいけど? そのかわり、アンタが負けたら持ち回りのトイレ掃除一回やんなさいよね」
「へっ、上等だ! いくぜ……」
「よーい──」
「「ドンッ!!」」
二人は来た道を走って戻る。何倍も速く駆けていく。その背中を沈みかけの太陽がもう少し、もう少しと照らし。緑閃光が見送るように瞬くと、肩を並べて走る姿はどこにも見えなかった。