10月も半ばを過ぎようとしていた。沖野先輩がこのガレージを訪ねてすでに一ヶ月以上が経っている。今日まで俺はターボのトレーニングを指導する傍ら、沖野先輩と連携してトウカイテイオー復帰に向けてプランを練ってきた。
今日は、その成果が問われる土曜。トウカイテイオーは骨折の際に触診してもらった病院を訪ねているらしく、そこでドクターストップがかかるか否かで彼女の菊花賞出走が……無敗の三冠ウマ娘という目標への挑戦が叶うかどうかが決まるのだ。
「……大丈夫、だとは思うが」
誰もいないガレージの中、椅子の背もたれに深く身を預けて。天井を仰ぎつつ息を吐いた。俺と沖野先輩の目には、トウカイテイオーは九分九厘快復したように映る。もちろん、今までと全く同じように走れるかと聞かれれば首を横に振らざるを得ないが、それは悪いことばかりではない。
不安を振り払えない頭をなんとかしようと、俺はこの一ヶ月で何度もめくったバインダーを改めて開き、視線を落とした。左足、中指付け根の骨折。その治癒を早めるべく、俺と沖野先輩は思いつく限りの療法を試みた。
例えばタオルギャザー。これは地面にタオルを敷き、それを足の指で掴むように引き寄せるというもので、足の障害に対するリハビリ運動だ。指の付け根に負担がかかり過ぎないようアレンジする必要はあったが、当初は除外していたらしい患部そのものの運動機能維持・あるいは鍛えるという選択肢を提示できた。トレーニングの基礎である超回復を応用すること、つまり
さらに食生活の改善。骨折してからは有酸素運動の継続が困難なために、間食を控え、好物のはちみつドリンクを飲む回数も減らしたらしいトウカイテイオーだったが、結論から言ってこれらは患部の回復に寄与しないどころか悪影響を及ぼしている可能性があったため、その管理にも口出ししたのだ。
本格的なトレーニングをしなくなったことでその合間に摂らなくなった食事……これは補食と呼ばれるが、その影響でトウカイテイオーは空腹で居る時間が増えるようになった。怪我をして運動をしなくなろうが内臓機能は変わらず、当然のようにそれまでと同じ食事をよこせと腹の虫が鳴くのである。無論トウカイテイオーは運動もしないのに食べて太ってはいけないとこれを我慢した。
しかし、空腹が続くと血糖値が上昇し高血圧になる。結果として血液循環に悪影響を及ぼすことに繋がるのだ。骨折の回復には、患部周辺の血流が豊富であることが重要だ。もっと言うならトウカイテイオーが我慢してきたはちみつドリンク。これは1500円もする学生の財布にはなかなか痛い高級飲料だが、それはウマ娘向けの商品ということで、つまるところアスリート向けの嗜好品なのだ。はちみつには食後の血糖値上昇を抑えてくれる効果もある。
結論だけ言えば、トウカイテイオーの食事を一日5回に増やし、1回ごとの食事量をすこし減らした。そして食後には好物のはちみつドリンクを欠かさず飲んでもらい、そしてタオルギャザーに集中して取り組んでもらった。上半身のトレーニングのついでに行ってもらったリハビリではあるが、あれはそれだけに取り組もうとすると中々の苦行である。成果を実感できないし、何より地味だからな。好物を我慢しないことは多少モチベーションを上げてくれたことだろう。
他にも細々としたプランを実践してきたが、概ね俺が口出ししたのはこんなところだ。最初は少しばかり嫌悪感を滲ませていたマッサージも、憧れているらしいシンボリルドルフの口添えもあって受け入れられた。
特にタオルギャザーについてはそれなりに効果があったと思うが、その副次的効果と言おうか、トウカイテイオーの足先はこれまでにない強靭さを獲得した。これは骨折の原因ともなったトウカイテイオーの柔軟性を多少失わせるものであり、今後の骨折に対する懸念が軽くなったことに対し、少なからず走法に悪影響を及ぼしただろう。
これをデメリットとするか、はたまた新たな武器としてトウカイテイオーの成長に繋げるのか。無責任ながら、これは沖野先輩の手腕にかかっていると丸投げする他無い。
と、トウカイテイオーの今後とそれを導く沖野先輩に思いを馳せていると。ドンドン、ドンドンッ、とガレージの扉が強く叩かれた。考え込みすぎて人が来る気配に気づかなかったようだ。そして誰が来たのかは考えるまでもない。結果がどうあれ、その報告には直接足を運ぶと連絡は受けていたのだ。
「最上くんッ、居るか!? 開けてくれ、報告に来たッ!!」
興奮した様子の、扉越しに立つ沖野先輩の姿を幻視した。その表情は見ずとも予想できる。大きくとも震えた声が、そこに滲んでいる喜びが、彼の顔を見ずともわかるようだった。
そして──扉を開くと、沖野先輩の姿は俺の脳内とまるで違わないのだ。
「最上くん……! ありがとう、本当にッ……ありがとう……!!」
「……その様子ですと、結果は聞くまでもないようですね。──やりましたね、おめでとうございます」
俺の顔を見た途端、一も二もなくいつかのように深々と頭を下げ、感謝を示してくれた沖野先輩。そして……その半歩後ろに並び立ち、居心地悪そうに頬をかく少女の姿が、何よりも雄弁に朗報を語っていた。
「とりあえず出走登録の許可は出たんだ、レース直前にまた問診を受ける必要はあるが、ドクターストップは無かった。……君のおかげだ、感謝する……!」
バッと顔を上げて簡単に顛末を聞かせてくれると、沖野先輩はまたも直角に頭を下げる。……4ヶ月もの間、トウカイテイオーのために必死で打開策を探ってきた彼だ、力添えした身としてその気持ちは十分伝わった。けれど。
「頭を上げてください、沖野先輩の構築したプランと資料があったから口出しできたことです。あまりそう手柄を押し付けられても困りますよ」
「君はそう言ってくれるけどなぁ……」
彼の肩に手をおいて顔をあげるよう促せば、渋々ながら沖野先輩は視線を合わせてくれる。その顔に相変わらず疲れは見えたが、それ以上に燃えるような情熱を瞳に宿しているようだった。
「とにかく、テイオーはなんとか菊花賞に間に合った。改めてありがとう、最上くん。ゆっくり話したいところなんだが、出走登録の期限が明日でな。今日はすぐに戻ることにするよ」
「分かっています。というか、わざわざこんな所まで来なくて良いって言ったじゃないですか」
「そういう訳にもいかないだろ……直接礼を言いたかったし、それにテイオーも一言伝えたいって聞かなくてな」
「君が?」
沖野先輩が言いつつ視線を向けた先、トウカイテイオーに目をやると、彼女は気まずそうに頷いてからジトっと沖野先輩を睨んで口を開いた。
「……そうだけど、トレーナーいいの? バス降りてすぐ走り出しちゃうんだもん、運転手さん、待っててくれるの? ボク、トレーナーが運転手さんに何か言ってるとこ見てないけど」
「……マズい! くっ……すまん最上くん、今日はこの辺で失礼させてもらう! 今度メシでも奢らせてくれ!! テイオー! 早めに戻ってこいよっ、それまでバスを足止めしとくからなぁあああ……!!」
言いつつ沖野先輩はバスの停留所に向け駆けていく。ここからじゃバスが待っててくれてるのかは見えないが、運転手が気を利かせてくれていることを願うばかりだ。
「それで、何かなトウカイテイオー」
沖野先輩の後ろ姿から視線を戻せば、トウカイテイオーはどこか上の空といった樣子で言う。
「……トレーナーと仲良いの?」
「? 悪いってことは無いが、どうだろうな……今回の件があるまで先輩って呼ぶことも、最上くんなんて呼ばれることもなかったしなぁ……」
この一ヶ月連携し、それなりに親睦を深めた自覚はあるが。仲がいいかと聞かれると首を傾げるところだ。今後ライバルトレーナーとしての関係はあれど、実際食事なんかに行く機会が訪れるかは定かじゃない。もちろん、誘われれば断る理由はないが。
「ふーん……あっ、その、違う違う……。そんなことが聞きたいんじゃなくて……その。あ、ありがとうね、最上トレーナー。担当じゃないのにこんなに助けてもらって、おかげで菊花賞に出られる。……ボクはまだ、目標に向かって走ることが出来るんだ……」
謝意は感じたが、ついでのように続けられた言葉尻からはそう嬉しそうな様子は見られない。……まだ、その実感が湧かないんだろう。沖野先輩も不安だったろうが、当の本人がどれほど苦しんでいたかは、結局のところ協力者の立場にすぎない俺には計りかねるところだ。しかし、さらに口をついた言葉には間違いなく強い感情が宿っていた。
「……トレーナー、さ。病院から帰って会いに行ったら、全然待ってなんていなかったんだ。いつもお金がないって言ってるクセに、高い本たくさん買って散らかして……床なんて栄養ドリンクの瓶がいくつも転がってるんだよ? ボクには身体を第一に考えろ~なんて言っといてさ、ホント勝手だよね……」
言われるままに想像しようとすれば、その様はありありと脳裏に浮かんだ。むしろ似たような場面は何度となく見てきたのだ、今日もまたそうであったことに不思議はない。けれどトウカイテイオーにとってはそう簡単に受け入れられる状況でもなかったのだろう。その瞳は潤んで、どこか儚げに映った。
「──勝手なのはボクだったんだ。お医者さんの言うことも、トレーナーの言うこともイヤだイヤだって。絶対諦めないんだって。……トレーナーがあんなに頑張ってくれてるって。よそのトレーナーにまで頭下げてくれるなんてさ。考えもしなかったよ、ボクが諦めずに頑張れば良いなんて……そんな簡単なことじゃなかったのに」
「……沖野先輩は、君が諦めないと言ったら自分も諦めないってさ。その言葉に責任を感じるなとは言わない。でも……
自分のために己をすり減らして頑張る沖野先輩を目の当たりにして、罪悪感を覚えてしまったのだろうか。悪いことじゃない。でも決して良いことでもない。
「……きっとトレーナー、ドクターストップがかかっても諦めないつもりだったんだ。だからボクが戻るまでの間も、ずっと復帰プランのこと考えてた。……もしドクターストップがかかってたら、ボク……諦めないで菊花賞に出るって、言えなかったよ」
「君たちの間の話だ。俺が偉そうに口出し出来ることなんて無い。でも……もしそうなったらきっと、沖野先輩は悔いたことだろうな。君に諦めさせてしまったことを」
「トレーナーは何も悪くないのに? 骨折させたのはトレーナーが悪いんじゃないかなんて言うヒトも居たけど、そんなこと無いのはボクが一番わかってるんだよ」
「それでもだ。トレーナーってのはきっと、そういう生き物なんだろう。
「──ははっ、なにそれ。意味わかんないよ……」
「そうだな、俺だって分からん。なにせ新人なんだ……俺の言葉なんかより、沖野先輩の背中を見てる方が、よっぽどわかりやすいだろうさ」
「そっか。じゃあ──そうするよ。ボクの夢が叶う、その瞬間まで」
「ああ。さぁ、行ってらっしゃい。あらためて骨折完治、おめでとう。菊花賞で無敗の三冠を達成できるよう応援してるよ」
「──うんっ。ありがとう最上トレーナー……じゃあ、ボク行くから!」
そうしてトウカイテイオーは沖野先輩の背を追って駆け出した。その後姿に力強さは感じられない。でも……沖野先輩の背を追うことの自然さが見て取れた。
「……強敵復活、だな」
ひとつ呟いてポケットから携帯を取り出す。トウカイテイオー復活の一報を待っていたのは当然ながら俺だけじゃない。
『──トレーナー!? テイオーなんて!?』
発信音がいくつ鳴ることもなく繋がった通話。受話口からはひび割れた音質で聞き慣れた声が耳朶を鋭く突いた。
「ターボの言う通りだったよ。トウカイテイオーは諦めなかった。きっと無敗の三冠ウマ娘になるぞ」
持って回った俺の言い草に、それでも珍しくターボは意味を悟ったらしかった。……いや、最初から信じていたんだろう。
『~~~~っ! えへへっ、じゃあ最初はターボの番だっ!!』
「あぁ、絶対勝つぞ……
トウカイテイオーの三冠と同じ土俵に立つべく掲げた目標。トリプルティアラの最後の一つは、明日に迫っていた。