最上トレーナーと出会い、トゥインクル・シリーズを駆け始めてからツインターボの生活は激変し、それはツインターボ本人にとって全てが歓迎すべきものだった。しかしここ数ヶ月で起こった出来事は、それまでの爛漫さを曇らせるに十分なものであった。
級友であるデュアリングステラという少女の自主退学。本人の希望でひっそりと行われたそれは、数日にわたる欠席を心配した級友たちが教員に直接確認するまで知られることはなく、故に知った時には別れの言葉を交わすなど出来るはずもなかった。ただただ寂しさが時間とともに胸に染みるのみだった。
どうして退学したのか。なんで教えてくれなかったのか。そんな胸中のモヤモヤをツインターボが振り払う間もなく、さらに衝撃的な事件は起こる。ライバルたるトウカイテイオーの骨折。デュアリングステラの例もあり、ツインターボも本人に突撃して話を聞こうとした。この時にはデュアリングステラの退学理由がレースの成績不振との推測が生徒の間で流れていたが、骨折を始めとした怪我も退学の理由になり得るのはツインターボにも明らかだった。
トウカイテイオーが退学するかもしれない。ツインターボが血相を変えるには十分すぎる懸念。だが、その心配はあっけなく解消された。当の本人が否定したからである。諦めずリハビリし、無敗の三冠ウマ娘になるのだ、と。ツインターボは破顔してこれを喜んだ。あのトウカイテイオーが言うのだ、間違いなくトウカイテイオーは怪我を治し、復帰することだろう。そう確信した。
それからは今までと変わらず、ツインターボは秋華賞に向けてトレーニングを重ねた。なぜだかレースに出走したいという欲求は鳴りを潜めたが、それを察したのかトレーナーはレースの予定を組まなかったし、ツインターボも異を唱えることはなかった。
秋華賞。ツインターボには走行経験の無い京都レース場が舞台であるために、ひと夏をその対策に費やすことになった。
不安は無かった。トレーニングはいつも通り苦しくも楽しかった。何の問題も無い──その筈だった。けれどなぜだか、やはり。それまでにトレーナーにねだったように、レースに出たいという衝動を覚えることの無い日が続いた。
「ターボ。トウカイテイオーの怪我なんだけどな……あまり良くないらしい」
学園が新学期を迎えてすぐのことだ。授業を終えてまっすぐガレージに向かったツインターボに伝えられたトレーナーの言葉。自覚せずとも薄く胸に広がっていたモヤモヤは一息に溢れ出した。
「退学するのっ!?」
「退学……? いや、そんなことにはならない筈だ。けど、菊花賞に出られるかどうかが怪しい。だからって訳でもないんだけどな、ターボ。スピカの……トウカイテイオーのトレーナーからリハビリの協力をお願いされたんだ。しばらく、スピカの方に顔を出しに行くことが増える。お前のトレーニングに支障は出さんつもりだが……一応、相談しておこうと思ってな」
最上からすれば、少しばかり決まりの悪い内容だった。事後報告である上に、客観的に見れば利敵行為そのものだ。ツインターボには万に一つも考えの及ばないことだろうが、一応は一般的な感性を持つ彼にとって、担当ウマ娘を放置してライバルウマ娘に目をかけると言うのは後ろめたさを覚えることだった。
そして申し訳無さそうな最上に対し、ツインターボは一瞬ポカンと口を開き、次いで爆発することで答えた。
「トレーナーがテイオーに……ほっ! ホント!? トレーナーがテイオーのケガなおすの!? すごいすごい!! じゃあ絶対だいじょうぶだ!! だってトレーナー、ターボも走れるようにしてくれたもんっ!!」
無論、不平不満からではなく、心底からの全肯定で。それは思わず最上の顔も綻ばせるものであった。
「──そうだな。お前の信頼に応えられるよう、頑張るよ」
ツインターボの言葉にプレッシャーを覚えなかったとは言えない。でもそれ以上に、その信頼が不可能を打ち破れるような自信に繋がった。その返礼に、あるいは小さな身体に秘められた揺るぎなさへ触れたくなり。最上はツインターボの頭を大切に撫でた。自らの感動が少しでも本人に伝わればいいと。
「うん! がんばれトレーナー!! ターボも特訓がんばる!!」
もちろん最上の想いなど伝わるはずもなかったが、ツインターボに最も必要だったものは当然に授けられた。自分の走りたいようにレースを走らせてくれるトレーナーが居る。そんな安心感が。
ライバルをきっと治してくれる。レースに対する向き合い方も、トレーナーがいずれ察して、いつの間にか支えてくれている。そこまで明確に自覚できてはいなかったが、トレーナーの存在は精神的支柱となって、たしかにツインターボの心を安定させたのだ。
「トレーナー!? テイオーなんて!?」
「ターボの言う通りだったよ。トウカイテイオーは諦めなかった。きっと無敗の三冠ウマ娘になるぞ」
「えへへっ、じゃあ最初はターボの番だっ!!」
「あぁ、絶対勝つぞ……明日の秋華賞で、トリプルティアラだ」
トレーニングの最初と最後には必ず側に居たが、それでもトレーナーが席を外すなか訓練する日が続いた。けれどその孤独な時間の重なりは奇跡への道筋であることをツインターボは信じていたし、やはりそれは間違いなく成ったのだった。
トウカイテイオーは菊花賞に出走できる。そして無敗の三冠ウマ娘を現実のものにするだろう。それに先んじて、トリプルティアラを冠するのだ。ツインターボは秋華賞に向けてターボ全開だ。
少なくとも本人はいつだって、そのつもりなのだ。
「……なぁ、ターボ。やっぱり、何か不安なんじゃないか?」
秋華賞当日。この日を迎えてから、トレーナーと合流して、バスに乗って。そして京都レース場に着いてなお、その問いは何度もツインターボにかけられた。
「えー? だいじょうぶだってばトレーナー! ターボ今日もエンジン全開!!」
両腕で力こぶを作りニカっと笑うツインターボに、やはり最上はどことなく不安を拭えなかった。何がと言い表すことが出来ずとも、幾度と勝利を重ねたレースの直前と、今のツインターボと。両者が異なっていることは彼の目には明らかだった。
「……ターボ、今日のレースに勝ったらトリプルティアラだ。どんな気持ちだ?」
最後の確認にと。このやり取りでツインターボの違和感をどうにか明確にしようと、最上はツインターボと視線を合わせるように腰を落とし、その両肩を優しく包んで言葉を続ける。
「んー? ウオッカとダスカに勝ーつ!! おーか賞では勝ったけど、その前にダスカと勝負して負けちゃったし、けっきょくウオッカに持ってかれたからなー……今日も全力で逃げ切ってゴールする!!」
最上の言葉にうぅむと腕を組み、今日のライバルたちへの抱負を述べるツインターボ。ウオッカとダイワスカーレットの他にも、どのウマ娘にも負けたことがあるだとか、あるいはまた勝って見せるだとか、そんな言葉が続いた。
それを聞いて、最上は内心感動していた。実のところ懸念はあったのだ、いつかの己のように天狗になり、いずれ戦うトウカイテイオーのことばかり考え、今日の秋華賞を制してトリプルティアラを獲ることを当然と思ってやしないかと。ツインターボに限って、という思いはあれど、それに目が曇って見誤ってはいけないと問いかけた。
だがどうだろう? 自分とは違い、やはりツインターボは今日のライバルを侮ってなど居なかった。この娘を担当出来たことは幸運であったと、そんな想いを敬意とともに、あらためて抱くことになった。
ゆえにこそ、ならば大丈夫だろうと。万感の想いを信頼にのせ、最上は小さな巨人にその言葉を告げるのだ。
「……そうだな。俺が見れなかった時間もしっかり特訓してたってちゃんと知ってる。
ツインターボの違和感には
「うん! ターボがんばっ──」
──その言葉が、意図せずツインターボの天啓となる。
『ふーん……まっ、
『──うん!!』
『……ツイン、ターボ』
『はっ、はぁっ……なにっ? ステラ!!』
『別に、大した用もないけど。……ただ、
『へへっ、うん! ステラががんばれって言ってくれたし!!』
『──……ホント、
一緒にレースを走ったデュアリングステラ。走り抜けた後の、彼女との記憶。トレーナーの言葉で想起したそれと、自分が続けようとした言葉。
──ターボがんばって特訓したんだから!!
その瞬間、ツインターボは級友が退学した理由を直感した。きっとデュアリングステラは、
漠然とした不安の正体が、ツインターボの中で像を結ぶ。
「……ターボ?」
途中で口を止めたツインターボへの心配。それ以上に、彼女の雰囲気が様変わりしたことを肌で感じ取って最上はその名を呼んだ。
それに対し、ツインターボは──。
「……うん。そうだ、ターボがんばったんだから。だからね、トレーナー。──今日、ターボ、ぜったい勝つからね」
自分が勝ったことで誰かが負ける。当たり前のことだ。その結果、誰かが学園を辞めるかもしれない。たしかにそれは寂しいことだ。しかし、その誰かが居なくなった原因を自分だと断じることの愚かさを、ツインターボは本能で悟っていた。
それはレースで競った相手に対し、最大限の侮辱であったから。
みんな勝つために努力し、レースを走り、願いを叶えるのだ。もし自分が負けた時、勝ってしまって申し訳ないなんて本心から言われたらどうだろう? きっと大声で発言の撤回を求めるだろう。
デュアリングステラが学園を去った。果たして彼女はツインターボを恨んでいただろうか? そんな訳が無いとツインターボは知っている。自分を応援してくれた
鬼気迫る様子のツインターボに最上は返す。
「──ああ。全力でぶっちぎって、一番で帰ってこい!」
さっきまでよりも明らかに。目に見えて様子の変わったツインターボに、これで大丈夫なのだと何の根拠もない確信を以て。表情を交換するように、真剣な表情のツインターボを最上は笑顔で見送った。
そのどちらにも、もはや名も無い不安など存在しなかった。