月末にジャパンカップを控えた11月上旬、俺とターボはガレージを離れて学園内にある別の訓練コースを訪れていた。オークスに向けて特訓していた春頃にもお世話になっていた、東京は芝2400Mを模したコースである。
もっとも、当時はスタミナを充実させることに焦点を当てていたため、コースの走り込みにはそれほど時間を割けなかったが。ターボはすでにオークス優勝と実績を残しており、秋華賞をも経た今は余裕とはいかないまでも、持久力はジャパンカップを戦うのに見劣りしないはずだ。
それにターボはサウジアラビアロイヤルカップ、アルテミスステークス、そしてオークスと、東京レース場を舞台とする出走レースすべてに勝利している。マイルレースに至ってはコースレコードをたたき出したほどだ。本人の意識としても、得意なコースだと胸を張れることだろう。
これらの点を考えればジャパンカップでの優勝はそこまで分の悪い勝負では無いように思える。しかし、そう楽観的に構えられないのが現実だ。
前提として、クラシック三冠を成し遂げたトウカイテイオーが出走するということ。シンボリルドルフに憧れ、その背を追っていると公言して憚らない彼女がジャパンカップを通過点としているだろうことは容易に想像できたし、実際その裏は取れている。
トゥインクルシリーズデビュー当初からトウカイテイオーとの対決をこそ目標にしていたんだから居るのは当たり前なんだが、やはり難しい戦いになるのは間違いないだろう。骨折から復帰した彼女の菊花賞は誰もが目を見張ったに違いない。
俺も口出ししたリハビリの成果としてレースに間に合いはしたものの、脚部の柔軟性が陰ったトウカイテイオーはスタート直後からほぼ最後方に位置取った。皐月賞・日本ダービーでは先行策を取っていたことを考えれば、従来の走法でのカムバックが叶わなかったことは誰の目にも明らかだった。
しかし、トウカイテイオーは勝った。第2コーナーを通過した直後に加速を開始、外へ外へ膨らんだままに第3コーナーを、速度を落とすどころかアクセルベタ踏みで第4コーナーに突入して先団を捉える。
あとはもう、文字通りの根競べだった。シガーブレイド。ケーツースイサン。イブキマイカグラ。皐月賞や日本ダービーで見せたストライドの伸びは見る影もなく、それでも力強い走りで着実に目の前を行くウマ娘たちを追い込み、ついにナイスネイチャに、彼女に並んでいたリオナタールに追いついてみせた。
写真判定までもつれ込み。それでも優勝したのは──余裕なんて欠片も感じられない、満身創痍の帝王だった。
菊花賞は、怪我を治すのに精一杯で。それでも憧れに手を伸ばし、そして掴み切ってみせた。続くジャパンカップに向けては、十分な時間とは言えないだろうが、あの沖野先輩が出来る限りの調整を施すだろう。
復活したトウカイテイオーがジャパンカップに出走する。簡単に勝てるわけがなかった。
当然、他にも懸念点はある。言うまでもないがトウカイテイオー以外のライバルたちだ。ジャパンカップは国際招待競走、つまり国外の実力あるウマ娘を招いて行われる。そして近年、ジャパンカップの優勝者の多くは日本のウマ娘ではない。トウカイテイオーだけを意識していられる余裕は無いのだ。トウカイテイオーと同等以上のウマ娘が数多く参加するんだから。
さて、そんなライバルたちに対抗すべく、俺たちも手を打たなければならなかった。それは実戦を想定したコースの走り込みであったり、国外のウマ娘たちと並ぶようなウマ娘との併走に他ならない。
その走り込みというのが、今日このコースに足を運んだ理由だ。そして幸いなことに、併走相手についても当てがあったのである。
「ぜぇーっ! ぜぇーっ!! ぬぉおおおおお!!」
「そうだ、
「アタシのことも忘れんじゃないよっ! うらぁああああああ!!」
まぁリギルなんだが。桜花賞に向けたトレーニングでも併走相手となってくれた強豪チームのウマ娘たちが、今回も協力してくれたのである。頭が上がらない思いだが、実のところ俺から東条さんに願い出たのではなく、リギルの一員であるシンボリルドルフからの申し出だった。
曰く、『テイオーのリハビリに協力してくれた恩を返したい』とのことだ。トウカイテイオーが彼女に憧れていることは知っていたが、シンボリルドルフもまたトウカイテイオーには並々ならない想いを抱いているらしい。シンボリルドルフの胸の内は分からないが、渡りに船と有難く受けさせてもらった。
ジャパンカップ優勝者のほとんどが海外のウマ娘だが、何を隠そうこのシンボリルドルフこそ数少ない国内優勝者の一人だ。そして今ターボの併走に付き合ってくれているナリタブライアン、そしてヒシアマゾンもジャパンカップ出走経験の持ち主。ローテーションを組んでの併走なので今は控えてくれているエアグルーヴもまた経験者の一人である。本当に有難すぎて涙が出るな。ここまで実践級の訓練をするにはリギルに加入する他ないだろう。
「それで……何か思惑があるなら聞いておきたいところだな、ルドルフ」
併走を買って出た当人なのだからと先んじてメニューをこなし、走るターボのデータ収集に勤しむ俺の手元を覗き込んでいたシンボリルドルフに問いかけた。ちなみに愛称で呼ばせてもらっているのはシンボリルドルフから言い出したことだ。以前彼女の理想を聞かせてもらってから何度か連絡を取っており、その過程でフランクに接してもらいたいと頼まれたのである。
「思惑とは大げさだ。今回の申し出に陰謀詭計など存在しないとも」
「だが一人のウマ娘に過度な肩入れもしないはずだ。生徒会長としての立場もあるし、リギルのメンバーとしてのメンツもあるだろう」
桜花賞の際に併走に付き合ってもらったのは、あくまで俺と東条さんの間で取引があったからだ。今回の件でシンボリルドルフを始めとしたリギルのメンバーにこれと言ってメリットは無い。だから何かしら別の理由はあると見ているんだが。
「私はチームの看板というものをそこまで神聖視してはいないんだがね……まぁ、その通りだよ。しかし、肩入れとはいかなくとも気にかけている後輩くらいは居るんだ。察しはついているだろう?」
「トウカイテイオー、なんだろうな」
俺の言葉にシンボリルドルフは頷いた。まぁ今までの話の流れでそれくらいしか思い至らなかったというだけで、実際のところどういう関係なのかまでは知らないんだけどな。
「テイオーは、私に憧れてこの学園に入学したんだ」
「そうみたいだな」
それなら、あそこまでシンボリルドルフの戦績に固執するのも納得だ。無敗の三冠を成し遂げたトウカイテイオーはインタビューで、次は無敗の七冠を獲ると明言している。G1レースで優勝を飾った際のパフォーマンスも鑑みれば、誰をどれだけ意識しているのかは明らかだ。シンボリルドルフこそが、トウカイテイオーがレースを走る理由なのだ。
「私からしても、トウカイテイオーが私に憧れてくれている、その背を追ってくれているというのは嬉しい限りだ。私は──あらゆるウマ娘の幸福を願った。そのために、皆を率いるに相応しい王の座を望んだんだ。大願成就、それは成し遂げられた……テイオーこそが、その証なんだ」
自分を慕ってくれる可愛い後輩のことを口にするシンボリルドルフは、けれどその表情に一抹の寂しさを覗かせた。
「でもね……ダメなんだよ、今のテイオーは。あの娘は私の記録に並び、そして超えることばかり考えている。テイオーには皇帝シンボリルドルフではない、レースに挑む他の理由が必要だ。憧憬ではなく情熱が。憧れ追いかける背中ではない、肩を並べ覇を競い合えるライバルが、ね……」
「……なるほどな、ようやく分かったよ。だからアドバイスをくれたのか」
桜花賞で勝利したとき、ターボが掲げたVサイン。トウカイテイオーに、ツインターボというウマ娘を意識させるために取らせたパフォーマンス。その発案者こそこのシンボリルドルフだったが、当時の俺はなぜ彼女がそんなことを教えてくれるのか不可解だった。けれど、今更合点がいった。シンボリルドルフもまた、ターボがトウカイテイオーのライバルになってくれればと願っていたんだ。
「ウマ娘のレースはその全てが一度限り、全身全霊を以て挑むべき勝負。しかしテイオーは、格式高いG1レースであろうとも、私に追いつくための通過点だと考えてしまっている。だから心配だった……一度でも敗北を味わってしまえば、その時点で折れてしまうのではないか、とね」
「型にはめて考えちゃいけないかも知れないが……天才ほど挫折に弱い、なんて言うのはそれなりに聞く話だな」
目を閉じて肯定の意を示すと、シンボリルドルフはターフを駆けるターボを目で追いながら続けた。
「怪我についてもそうだ。骨折したと聞いた時。そして菊花賞には間に合わないというニュースが耳に入った時。まさに私は、テイオーが折れてしまうのではないかと危惧したよ。雨過天晴、結果的には杞憂に済んだがね。誰のおかげか、私がどれほど感謝したことか。その人はきっと知るべきだと思うんだ」
「つまり、今回の件が?」
「恩返しさ」
皇帝シンボリルドルフの思惑がどこにあるのかと、ほんの少し緊張を伴いながら話に乗った今回の併走だったが。それは大いに的外れで、結局のところ以前に理想を話してくれた彼女と変わらない。底抜けに人の好い生徒会長が、謝意と善意で融通を利かせてくれたというだけの話だった。
「テイオーのリハビリに協力してくれてありがとう、最上トレーナー。ジャパンカップに向けて、良ければ引き続き協力させてほしい」
「……本当に、心の底からありがたいんだけどな。いいのか? トウカイテイオーに恨まれるかも知れないぞ。それに恩返しというのなら沖野さんやトウカイテイオーから受け取るべきで、ルドルフがそう気にする必要もないと思うが」
「寂しいことを言わないでくれ、この感謝は私だけのものだ。それにテイオーが私を恨むようなことになったら、きっとそれは悪いことじゃないよ。寂しい気持ちはあるけれど、巣立ちというのは祝うべきことさ。さらに言うなら、ツインターボのことは個人的にも応援しているからね。テイオーがライバルと認める存在になって欲しいのは間違いない。しかしそれ以上に、あの小さなウマ娘に期待しているんだ」
シンボリルドルフが細めた目の先。ナリタブライアンとヒシアマゾンに挟まれて必死に逃げるターボを見る。海外のレースは日本よりもポジション争いが激しいらしく、過去のジャパンカップの記録を見ても疑いようはない。両サイドから接触上等でコースを取ろうとする二人に苦しめられながら、息も絶え絶えにターボは走り続けていた。実際のレースでこうなってしまえばターボの敗北は必至なんだが、それでもゴール直前にこれが現実になった時、最後まで粘れるかはこの特訓にかかっていた。
「地の底から這いあがるなんて、誰にでも出来ることじゃない。たくさんのレースを、ウマ娘たちを見てきた。だからこそその難しさを、気高さを知っているんだ。私も……そして、ブライアンも。こうして手を貸すことに躊躇いは無い」
「ナリタブライアンが?」
「珍しいことに、ツインターボのことが気に入ったらしい」
コースでターボに肩をぶつけるナリタブライアンに目をやる。……表情は見えないが、そのラフプレーすれすれのコース争いに手心といったものは見受けられない。本当に気に入ってもらえているのか……? いや、本番を想定して厳しく指導してくれていると考えるべきか……。
「まぁ、そういうことなら今後も有難くお願いする。こっちも、実のところ腹を探って辞退するような余裕はないからな。代わりと言ってはなんだが、また何かあれば気軽に連絡してくれ、ルドルフ」
「あぁ! これからもよろしく頼むよ、最上トレーナー」
俺の差し出した手に、シンボリルドルフはにっこりと笑って応じてくれた。先輩トレーナー方に、俺がリギルに取り入っていると思われても仕方がないな、良縁に恵まれすぎている。
これを当然のことと考えず、今後ともよい関係を続けられるよう努力しようと、俺はターボに視線を戻して決意を新たにした。
「…………」
シンボリルドルフを挟み、少し距離を置いた場所で、ジロリと。言葉を発さずにいつまでも俺を睨みつけるエアグルーヴの眼光には、疲労で立てなくなったターボを負ぶって退散するまで目を背け続けた。