9月、芙蓉ステークス。ツインターボは中山レース場のターフを再び踏みしめていた。帰ってきた、そんな感覚が胸に訪れる。
6月のメイクデビュー、このレース場で浴びた喝采はいつまで経っても忘れられないものだ。全力で走り、燃料が尽きても前に進み、ヘロヘロになっても後続に影を踏ませなかった。
またここで、一番になりたい。
デビュー戦を勝利で飾って続くレースでも、コースレコードなんていう考えてもいなかった結果を出し、トレーナーと喜びを分かち合った。けれど次の短距離レースでは、自分が出たいと言ったにも関わらず惨敗に終わってしまった。
またトレーナーに、喜んで欲しい。
新潟ジュニアステークス、GⅢのマイルレース。多分トレーナーが、ツインターボに自信を取り戻させるために用意してくれた重賞。結果は残念の一言に尽きるだろう。実力を誰よりも発揮できたはずの
ここからまた、始めるんだ……!
誰よりも先に前に出て、その後もずっと一番を走りたい。全力で走り切って、大逃げでゴールしたい。最初から最後まで一番が気持ちいい。そんな衝動の中に、一つ情熱が加わった。
いつだって背中を押してくれるトレーナーに、一着でゴールするところを見て欲しい……!!
まだトレーナーが見つかっていない同じクラスの子たちが、よく口にする不安がある。担当になってくれるトレーナーは欲しいけど、自分の走りたいように走らせてもらえなかったらどうしよう? それはツインターボがトレーナーに声をかけられるずっと前から、何度だって聞いてきたありがちな心配事だ。
ツインターボは誰に何を言われようと、逃げ以外の道を選ぶ気はなかった。でもやはり、ちょっぴりの不安はあったのだ。トレーナーがずっと見つからなかったらどうしよう? レースに出ることすら出来ずに学園を去ることになってしまうんじゃないか? そんな漠然とした不安がずっとあった。
トレーナーは、ターボが走りたいように走らせてくれた。
どんな距離だって全速力のツインターボを、叱るどころか褒めてくれた。天才だと。すごいヤツだと。あまりたくさんご飯を食べられないと言うと、無理に食事を勧めたり、食べないことによる弊害を説教したりせず。美味しくたくさん食べられる料理を考えるところから始めてくれた。
ターボが出たいレースに出られるようにしてくれた。
今までも、そしてこれからもそうなのだろう。今日走る芙蓉ステークス、これもまたツインターボが希望した、トウカイテイオーとの対決に備えて出走させてくれたものだ。この日のためにトレーニング内容を一新してくれたどころか、競り合いを意識してトレーナー自ら並走までしてくれた。
ターボは幸せだ。だからトレーナーにも、同じだけ幸せを返すんだ!
ゲート裏、ツインターボとゴールを争う17人のウマ娘が共にゲートイン。呼吸を整えようとする様子や、ライバルとしてかツインターボを意識しているような雰囲気を感じ取る。でも、ツインターボが意識するのは目前のゲート。その先に有るゴールだけだ。
『ゲートイン完了、出走の準備が整いました』
一斉に体勢を整える。アナウンスと同時に観客席が静まり返るのがわかった。反して、鼓動は他のウマ娘に聞こえそうなほどに大きく感じる。緊張かも知れない。気負っているかも知れない。頭のどこかにモヤのように漂うそれを、しかしツインターボは意識しようなどとは思わない。
そんなモノは全部ターボエンジンの燃料にしてしまえばいいんだ。いつも通りに、走りたいように走ればいい。それを願って、それが出来るようにしてくれた人がいるんだから。
――ターボエンジンは、今日も全開だ!!
『ゲートが開き、一斉に』
前傾姿勢、バタンとゲートが開く音は顔の左右で聞こえ、終わる頃には後ろへ吹っ飛んだ。――いや、ツインターボが射出されたように飛び出したのだ。
『スタートです!!』
ツインターボはこの瞬間がたまらなく好きだ。トレーナーが教えてくれたロケットスタート。誰よりも速く前に出るためにと、手動で開閉する訓練用のゲートを引っ張り出して。何度も何度も扉に頭をぶつけるターボを咎めたりせず、頭をなでて怪我の確認をして。無事だと分かれば根気強くフォームを正してくれた。
大地を踏みしめて。ゲートが開く瞬間に飛び出せばツインターボがハナを突っ切れる。最初から最後まで一番が良いと願った少女に、当たり前のように手段を授けてくれた。
「っ――!!」
スタート直後にトップギアまで加速し、最高速度に達すると前傾姿勢からいつものスタイルで全速前進。前に出る方法は教える。その後は走りたいように、気持ちよく走れ。トレーナーがツインターボにかけてくれた言葉の一つだ。
『先頭は2番ツインターボ! 3バ身ほど後に続くのは――』
急坂を快調に登りきって第1コーナーを迎えてからも、どんどん後続を引き離して前に出ていることをツインターボは実感した。足音が遠ざかっていくからだ。目の前に広がるのはターフと快晴の空だけ。もちろんそこに他のウマ娘の姿はない。大逃げしている時しか味わえない絶景がそこにはあった。
でももっと。もっともっと、もっとだ。最後まで燃やし尽くすんだ。一番でゴールするまで。ターボエンジン全開だ……!!
とうの昔に全速力。坂で速度が落ちても、それを超えればすぐさま加速し、また最速に達すればあとは維持するだけ。あっという間に単身第2コーナーを通過し、第3コーナーに向けての坂路を駆け下りていく。
これ以上は出ないと思っていたスピードが増すこの瞬間もツインターボは大好きだ。そうトレーナーに伝えた時は難しい顔をしていたが、ならばと坂を駆け下りるトレーニングを追加してくれた時は嬉しかった。下った先でマットを用意しつつ待機していたことには首を傾げたが、その甲斐あってか重力を味方につけて早々に第3コーナーへ。
「はっ、はっ、はっ、はっ――」
息が荒くなってきた。でもまだまだ走れる。弧を描いて内ラチを攻めていく。誰にも踏み荒らされていない、ツインターボだけに許された最短距離。――次のコーナーを超えれば、トレーナーが待っている。
一着でゴールするターボを、トレーナーが待ってる!!
ターボエンジンは全開だ。まだ、まだ。いまだ脚は衰えず前へ前へと突っ走る。比較的ゆるやかな丸みを帯びた第4コーナーを、1番のままに走り抜ける。
『先頭は変わらず2番ツインターボッ。いま第4コーナーを抜けましたが――!』
ツインターボがホームストレッチに駆け込むと、途端に視界が開けたように感じた。視線の先、急坂をもう一度駆け上がればゴールはすぐそこだ。
「だぁりゃあああああああああああああああ!!」
何かを振り切るように声を上げ、最後の燃料を投下した。叩きつけられるような歓声は聞こえているようで一切耳には入ってこない。実況の声など言わずもがな。――しかし、確実に聞こえてくるものはある。
「っ――――!」
なぜだか耳をふさぎたくなるような、背後から近づいてくる音。遠ざかるように。近づかれないようにターボを噴射する。前に。もっと前に。
脚が重い。心臓がうるさい。いくら息を吸っても空気が入ってこない。でも景色はぐんぐん後ろに飛んでいく。いまだに自分は走れているらしいとツインターボは他人事のように感じた。
そして心臓破りの坂に足を踏み入れ――その瞬間、ガクリと脚が鈍ったのがわかった。スタート直後、あんなにも簡単に登りきった急坂はまるで壁のようにそびえている。
「~~~~っ!!」
――近い。歯を食いしばって前に進むものの、背後に迫る音がただでさえ早い胸の鐘に叩きつけられる。全身の感覚は希薄になっていくのに、焦りが、心臓の跳ねる音だけがツインターボの身体を支配していく。
もう……。
その先が頭を過りそうになった瞬間、誰かがついに隣にならんだ。
数秒並走したその人は、綺麗な姿勢でツインターボの前に出た。
「っ――――!?」
それは見慣れた背中だった。人間の、背の高い男の人。――トレーナーの、背中だった。いつも決まった距離から追いかけてくる、ツインターボの……ツインターボだけの競争相手だ。
1600Mから始まり、ツインターボに並び、そして抜き去って駆けていく最速の人間。追いついてみせろと。最速ならこれくらい駆け抜けろと。何度だって励ましてくれたヒトの影が、目の前を走っている。
「ハッ、ハァッ――、~~~~~~~~っ!!」
全身に力が戻る。バクバクと心音がペースを上げるが、同時に四肢の感覚を取り戻す。もう後続なんて呼べない、すでに間近に迫っているのが分かる。
でもッ――もうとっくに、トレーナーはゴールしてるッ!!
最速のウマ娘は、最速の人間に負けるわけにはいかないんだ。トレーナーに追いつけないターボは、きっとまだ最速じゃないんだ。
それでもッ──トレーナーの次にゴールできないなんて絶対ヤだ――ッ!!
「ぁああああああああっ!!」
呼吸も忘れ、ただただ全身を振り回す。身体に染み付いた動きを繰り返す。蹴っているのがまだ坂道なのか、平地なのかすら定かではない。けれど――もう、ゴールは目の前だった。
その時――。
「――――行けっ! ターボォオオオオ!!」
走り抜けたはずの、トレーナーの声が聞こえた。
「ぐぅっ――!!」
大きく開いていたギザギザの歯をガチリと噛み合わせ、倒れ込むように。教えてもらったスタートを切るように、残り僅かな燃料を燃やして土を蹴る。そして――。
『追いついたマーベラスサンデー! ツインターボに並んでッ――並んで……並んで今ゴール!!』
ふっと力が抜け、芝生に倒れ込むツインターボ。抜かせなかったはずだ。最後まで1番だったはずだ。トレーナー以外に背は、見えなかったはずだ。
――そうだ……トレーナーは、喜んでくれたかな?
そこに考えが至り、ツインターボは荒く息を吐きながらも、軋む腕に活を入れて上体を起こし、その姿を探した。背が高くただでさえ目立つトレーナーは、その後ろにいるとまともに観戦出来ないからという理由で周囲にぽっかりと空間が出来る。コースから探せば一目瞭然なのだ。
トレーナーの表情は分かりづらい。真面目な顔をしてることが多くて、ターボ以外には怖がられそうな感じがする。でもターボの脳裏には焼き付いていた。初めてのレースで、ターボが最速だと言ってくれた。笑って、お前が1番速いんだと言ってくれたのだ。
「トレー、ナー……」
座り込んだまま首を動かす。すぐに居場所は見て取れた。目を凝らそうとするも、滴った汗が邪魔をして上手くいかない。ベタついた髪をかき上げて、袖で雫を拭い。今度こそとトレーナーの様子をうかがった。
「あっ――――?」
笑っていた。間違いなく口元を緩めて笑顔を浮かべていた。嬉しそうに――しかし、同時に両目から溢れるモノがあった。なぜかは分からない。でも一つだけ分かることがあった。
あの笑顔はターボの1番を喜んでくれたからで。あの涙はターボのことを応援してくれたから流れたものなんだってことだ。
『写真判定の結果! 一着はツインターボ!! マーベラスサンデー惜しくも二着!! ツインターボがレースを制しました!!』
「トレーナー!!」
息が整わないまま、一言だけ大きく声を上げ。やってやったぞと拳を握り、ニカッと笑って親指を自分の顔に向けた。
対してトレーナーも。歯を見せつつ慣れない笑みを浮かべてぐっとサムズアップし、ツインターボの勝利を讃えてくれる。
熱を帯びた全身を風が撫でる心地よさと同時に。身体が冷えすぎないようにと、胸にポッと。温かい明かりを灯してもらったような気がしていた。