③
高橋先生のそれじゃあまた明日ね。の号令でクラスの生徒達は一斉に動き出す。
部活に向かう者、バイトに向かう者、遊びに行く者、そのまま帰る者、放課後の選択肢は人によって様々だが、多くの生徒は活き活きとした表情をしているのだろう。
クラスメイトの顔と名前すら殆ど一致していなければ顔など見ない自身にとっては関係のない事ではあるが。
普段の自身であればホームルーム終了と同時に真っ先に帰宅するのだが、今日からはそうもいかないらしい。
教室から出て行く生徒達に教壇から挨拶をしている高橋先生をチラッと確認すると、ガッツリと目が合いウインクまで寄越されてしまった。どうやらしっかりとマークされているらしい。
何が理由で図書室を問題視のサナトリウムに指定したのかは全く分からないが、ここまで警戒されていては行くしかないのだろう。
これに関しては諦めるしかない。そう自身を無理矢理納得させ、溜め息もそこそこに立ち上がろうとした時だった。
自身にとっては数少ない顔と名前が一致しているクラスメイトに声を掛けられる。
「高橋先生と何かあったの?」
「ぁ?……。あ、佐野さん。いや、何も無いですよ」
声の主を求めて振り向けば、我が二年A組のクラス委員長を務める佐野 翠が手いつの間にか自身の席の隣に立っていた。
高橋先生の事を考えていた為か口調が崩れそうになった事に気付き、一度呼吸。改めていつも通りを意識して返事をした。
今でこそ高橋先生と話す時の自身は素に近いだろうが、基本的に何かの仮面を被って人と接するのが自身という人間だ。
夜の街で悪友と過ごす時、女を狙う時、そして学校での自身。意識的にそれぞれ違う自身を使い分けている。そして、控えめな声色と敬語というのがクラスメイトと話す時の自身という訳だ。
何も無いと答えた自身に、そう?と右手を口元にやり微笑んでいる佐野さん。
彼女の一挙手一投足に合わせてサラサラと舞う長い黒髪は、良く手入れされている事が一目で分かる。
凛然、清廉と言った言葉が良く似合う美人の彼女は、成績優秀で面倒見も良い、正に委員長に相応しい雰囲気を持った生徒で、生徒からも教師からも厚く信頼されている。
そして、こんな冴えない自身にも他の生徒と変わらず友好的に接してくれる数少ない存在でもあった。
佐野さんは自身の正面に移動すると、お疲れ様。と挨拶をする。それに合わせてお疲れ様です。と返せば、それが自身と彼女にとってのおしゃべりしましょう。いいですよ。の合図だ。
「一昨日も今朝も呼び出されてなかった?今も意味深な目配せしちゃって。禁断の恋愛かと思っちゃった」
「それは悪い冗談ですね」
何かと思えば。あんな一瞬の目配せまで見られていたのか。
真面目な委員長とはいえ人並みに恋愛には興味があるのか、それとも揶揄っているだけだろうか。とりあえず適当な返事をしておく。
思い通りにコントロール出来ない女なんて願い下げでしかない。ましてや高橋先生は支配とは程遠い場所にいる様な存在だ。天地がひっくり返っても惹かれる事はない。あと単純に苦手。
自身の表情で何か察したのか、そんなに嫌なの?とくすくす笑う佐野さん。
「嫌というか、考えた事もなかったので」
咄嗟に誤魔化し。
それにしても悪い冗談って。と笑い続ける佐野さん。何がそんなにツボに入ったのだろうか。
やがて佐野さんは目尻に溜まった涙を指で拭いながら、一冊のノートを自身に差し出す。
「はい、これ。昨日の分のノート」
「あー…またですか?悪いですよ。いつもいいって言ってるじゃないですか」
「いいからいいから。私が好きでやってるだけだもの」
表紙に『綾瀬君』と書かれたノートは、自身がサボった日の全ての授業内容がまとめられたものだ。
「このノートを受け取りたくないなら毎日きちんと学校来てね」
それを言われてしまっては弱い。
「サボれなくなるのは困るので受け取っておきますね。ありがとうございます」
「委員長の前でサボる宣言されるのは困るけれど…まあ、どういたしまして」
少し困った様に笑う佐野さん。
自身の対応にも慣れているこの人との会話は不思議と苦ではない。
このノートに助けられているのも事実なので、いつもの様に一度は引き下がりながらも受け取っておいた。貰えるものは貰うし利用出来るものは利用する。人間そんな物だ。
当然感謝はしているが。
「いつも助けられてます。僕が自分でノート取るより分かりやすいですから」
「それなら毎日取ってあげましょうか?」
「いやいや、そこまでしてもらう義理はないですから」
でも、学校に行かなくて良くなるのは魅力的ですね。と冗談に乗ってみせれば。
「あら、それは私が寂しいからダメね。でも、綾瀬君のお世話なら喜んでするわよ?」
そう言って笑う佐野さんは、続けて自身に尋ねてくる。
「綾瀬君はもう帰り?」
「いや、今日は図書室で勉強してから帰ろうと思ってます」
「そうなの?珍しいわね。途中まで一緒に帰ろうと思ったのに」
「それはまたの機会という事で。佐野さんはバイトですか?」
「そうよ。そろそろ時間だからもう行くわね。また来週!」
「はい。お気を付けて。さようなら」
こちらに手を振って去っていく佐野さんに軽く手を振り返し見送った後、受け取ったノートをぱらぱらと確認し、鞄にしまう。
少し話していただけですっかり教室内から人は消え去り、いつの間にか残っている生徒は自身だけだった。人の居なくなった教室は、その分だけ冷房の効きが良くなったのか今は少し寒い。
それと反比例する様に、外の気温はぐんぐんと増していく。
自身のみが残る教室の静けさを強調する様に、廊下やグラウンドの音量が増していく。
間もなく、喧騒と灼熱の青春が始まる。
窓から外を見やれば、綺麗な空色と高く伸びる真っ白い入道雲がこれでもかと夏を主張していた。
毎年毎年飽きもせず繰り返される季節は、きっとそれだけで完成している。それは地球という球体の歴史の結果であり、あくまでも自然現象でしかなく、だからこそ人間の力の及ぶところではない。偶然の産物として与えられただけのそれに、そんな意味の無い地球のルーティーンなんかに何故彩りを添えるのか、何故意味を持たせたがるのか。自身にはそれが分からない。
青春の魔力を以て彩りを加えた四季は、それはそれは美しいんだろう。人気の曲や話題の映画、大人の思い出話や生徒達の表情がそれを物語っている。
それを使いこなす事が出来れば、分かるのかもしれない。
それを使いこなせないのは、自身だけなのかもしれない。
遠くに聞こえだした野球部のランニングの掛け声が脳内に響く。
それを掻き消す様に、舌打ちと共に席を立った。
△ ▽ △ ▽ △
校内のあちこちで響いていた放課後の喧騒も、一歩図書室へ踏み入れれば遠く彼方へ霧散する。
放課後の学校でありながら物静かなこの場所は、劣等感を感じるピースが少なくて済むという点では心地の良い場所かもしれなかった。成る程立派なサナトリウムである。
カウンターに座る図書委員であろう見知らぬ女子生徒のこんにちは、という挨拶に軽い会釈で返し、足早に図書室の奥へ向かう。
教室を出た後直ぐ廊下でニヤニヤとした笑みを浮かべた高橋先生に捕まり、キスマークの相手は佐野さんなのかと教師にあるまじき下世話な質問を受けたり、他愛も無い話に付き合わされたり。そんな面倒臭い絡みをされた為図書室に着くのがすっかりと遅くなってしまった。
人の事を散々拘束してきた癖に週末の会議があるからと急に解放してくるのは一体どういうつもりなのだろうか。
これからもこの調子で絡まれ続ける可能性があるのかと思うと舌打ちの一つも吐きたくなってくる。
そんな事を考えながら勉強をしている生徒や書架の数々を抜け、先日利用した図書室最奥の二人掛けの席へ向かう。利用者が少ないお陰か、それとも最奥の席で余り人気がないのか、その席を無事確保する事が出来た。
室内一面に窓ガラスが張られ比較的日光が注ぎやすく明るい図書室内の中で、最奥の、それも壁際の書架と書架の間に位置するこの席は比較的暗く、辺りの書架が遮蔽となっており人からの視線を気にしなくて済む。
自身の様な生徒を好き好んで視界に入れようという人間は居ないだろうが、人に見られずに済むのならそれに越した事はない。そんな考えがあってこの席を選んだのだった。
席に座り、鞄から先程受け取った佐野さんのノートと自身のノートを取り出す。そこに記された自身の受けていない授業の内容を自身の物に書き写していく為だ。
佐野さんのノートは最低限の板書だけでなく教師が口頭でのみ解説した細かなポイントや、ノートの内容に該当する教科書や資料集等のページ数の記載に加えて彼女なりの解説やチェックポイントが文章だけでなく図や表まで用いて分かりやすく纏められたもので、定期考査くらいならこのノートの内容を暗記するのみで高得点を取ることが出来るというレベルのクオリティである。
ここまでのクオリティのノートが学校をサボってばかりの自身の為だけに存在するのだから、真面目に登校している生徒には申し訳ないと思わなくもない。学校をサボればサボる程質の高いノートが手に入り成績が上がるとなればサボり得でしかないからだ。
毎回そんな事を思わせる位には良く出来た内容のノートだった。
しかしその分高いを密度を誇るノートとなっており、書き写すとなるとそれなりの時間が掛かる。
だがまあ、人から施しを受けている分際で文句を言える立場ではない上に、いくら自身がダメ人間であろうとここまでしてもらっておいて赤点を取るというのは流石に佐野さんに悪い。そんな理由もあり毎回書き写し作業くらいは丁寧にしようと心掛けている。
慣れない図書室という環境の影響か、少なからず人がいる環境という事実が何かに見張られている様に感じさせる所為なのか、自宅で行う時よりも作業が捗る様な気がした。
いつもは無駄な事など書かれていないノートに自身宛のメッセージを発見したのは、最後の科目である英語のノートを写し終えたタイミングでの事だった。
『ここまで甲斐甲斐しくお世話している私にそろそろ何かご褒美があってもいいんじゃない?』
と、お世辞にも上手とは言えない猫らしきキャラクターがはてなマークを浮かべているイラストの横に彼女の丁寧な字でそんな文言が添えられていた。
ノートにこんな落書きがあるのは初めてだな。とか、絵下手なんだあの人。なんて幾つか感想は浮かんだが、特に気になったのはその内容についてである。
自身の知る限りでも授業内容の質問からプライベートの相談まで、人に頼られている姿を良く見る事はあれどお礼の類なんかは必要無いと断っていた記憶があったからだ。そんな彼女がわざわざ下手な絵まで用意してを何か見返りを求めているというのが不思議に思えた。
が、しかし。ご褒美、即ちお礼。成る程言われてみればその通りでもある。なんなら率先して貢ぎ物の一つでも献上すべき立場の人間なのだ自身は。その内適当にお菓子やら飲み物でも献上すれば良いだろうか。そう軽く考え、佐野さんからのメッセージの近くに小さく『その内御礼させてください。いつもありがとうございます。』とだけ書き添えておいた。
④
とん、とん。
「あ…、す……せ…」
とん、とん。
「あ…えっ……。お、お…」
とん、とん、とん。
「え、え…っ…、…お、…きてく…さい」
人の声の様な音と肩に何かが触れる感覚。
自身の感覚器官がそれらを捉え出すのと同時に次第と意識が呼び起こされていく。
いつの間にか眠ってしまっていた様だ。
「あ、あの…図書室、もう締めるので…」
相変わらず人の声らしき音がする。
重たい瞼を薄っすらと開くと、視界は暗色と橙色。かなりの時間寝ていたのだろう。太陽が暮れかけているらしかった。
座ったままの状態で机に突っ伏して寝ていたからか、体が強張っているのを感じる。
微睡んだ意識のまま、強張った体をほぐす為に伸びをした。
「きゃっ」
小さな悲鳴の様な声と共にぽてん。と自身右手が何かに当たる感覚がした。
「あ?」
「あぅ…」
感覚のする方を向けば、自身の斜め右後ろの方に居た少し前屈みの様な姿勢をしている女子生徒の額に、裏拳の様な形で自身の右手の甲が当たっていた。
両腕でハードカバーサイズの小説らしき本を抱き抱える様に持った女子生徒は、きゅっと目を閉じ、何かに怯える様に震えていた。
なんと運の悪い事か。とりあえずその女子生徒の額から右手をそっと離すと、今度はふるふると震え出し、泣き出しそうな表情に変わる。
どう言葉を掛けるか悩んでいる内に、女子生徒の目尻からぽろっと大粒の涙が一粒溢れた。
もしかしなくても、不味い状況なのでは?
具体的にはこの状況をあの女教師に見られるというのが最悪の状況だ。
そこまで考えて漸く自身の意識は完全に覚醒し、脳が思考を加速させる。
「「ご、ごめんなさい!」」
咄嗟の思考の末に出たのは安直な謝罪で、何故かそれと同時に涙声の謝罪が鼓膜に届いた。
「あ、あの…せっ、せっかく、気持ち良く寝ていらっしゃったのに…」
「いや、あの」
「じゃ、じゃまをしてしまって…」
「いや、僕の方こそ」
「私なんかが、ほ、ほんとうにすみません!」
「あの、だから」
「で、でも!と、図書室を締めないといけなくて…あ!も、もうすぐ十八時なので!そ、それで…」
「……」
「お、怒らせてしまうつもりはなくて、でも、あの…その…」
依然として謝罪と言い訳の様なものを続ける女子生徒にこちらの声は届かない。何故か相当焦っていらっしゃる。
その証拠に、さっきから目線が自身を向いたり机の上の本に向けられたりと忙しない。
ふむ。どうしたものか。
ここまで目の前でパニックになられてしまうと、逆にこちらは冷静になってしまう。
話を聞くに、どうやらこの女子生徒は図書室の鍵を締めたかったらしい。
辺りを見回す限り図書室内には自身と女子生徒の他には誰も居ないらしかった。
その予想が正しい事を裏付けるかのように、図書室内は消え入りそうな女子生徒の声と遠くに聞こえる蝉の鳴き声以外には何も聞こえなければ、人の気配も無い。
よく見れば、震える女子生徒の右手には図書室の鍵らしきものが握られていた。
依然あたふたとしている女子生徒を見ているのが面白くなってきた。
とりあえず。
「ひゃあっ」
むにーっと、名も知らぬ女子生徒の両頬を摘む。女子生徒からは驚きの悲鳴が上がる。
これで話せなくなっただろう。
「あ、あよ。ひょ、ひょんほおに…」
まだ言葉を続けるのか、本当に面白くなってきた。
あの、ほんとうに…。と言いたかったのだろうか?
この後に続く言葉はきっとすみませんだろうな。なんて事を思いながら言葉を待つ。
「ひゅ…ひゅみま、へん…」
正解したようだ。
「ぷっ」
両頬を摘まれた状況でも謝罪を続ける姿に思わず吹き出してしまう。
最後にぴんっと彼女の両頬を引っ張る様にして両手を離す。
「あぇ?」
自身の指が彼女の頬から離れると同時に短い呻き声が溢れ。
「え?え?」
突然の出来事に困惑している女子生徒。それも無理はないだろう。いきなり頬を摘まれた笑われたのだから。
その後も少し困惑していた様だが、次第に状況を正しく理解したのか落ち着きを取り戻すと、少し遠慮がちな目でこちらを見つめてくる。
中々の荒療治だったがやっとこちらの声が届く状況になった様で何よりだ。
「僕の声聞こえてる?」
「え?は、はい…」
「もう落ち着いた?」
「あ。は、はい。すみません…」
「大丈夫?」
「は、はい。大丈夫、です…」
一先ずこちらの声にきちんと反応してくれる様にはなった。
ならば次はこちらから言わなければならない事がある。
「わざわざ起こしてくれてありがとう。寝惚けたまま伸びをしたら君に当たっちゃったみたい。むしろ謝るのは僕の方」
ごめんなさい。と彼女の方を向き座ったままではあるが頭を下げる。
これで急に立ち上がってまたパニックになられたらたまったものではないからだ。
「あ、そ、そうだったんですね…て、てっきり怒らせてしまったのかと…」
「ははは。そんな訳ないよ。それより頬引っ張っちゃってごめんね?痛くなかった?」
「あ、はい…大丈夫です。び、びっくりはしましたけど…」
「そりゃそうだよね。僕の声が届いてなかったみたいだから、落ち着いてもらうと思ってつい、ね?」
本当は面白半分だが。いや、なんなら面白四分の三だ。いや面白四分の三ってなんだ。
「い、いえいえ!わ、私の方こそあ、あたふた…して、しまって…その、すみませんでした…」
「いやいや、悪いのは僕だから。それより、お仕事の邪魔しちゃってごめんね?」
「え?」
え?と何故かこちらの言葉の意味を理解出来ていない女子生徒に。
「図書室の鍵、締めるんでしょ?」
直ぐ片付けるから待ってて。と声を掛け、急ぎ帰りの準備をはじめると、女子生徒もようやく自分の仕事を思い出した様だった。
すっかりと遅くなってしまった。チラリと窓を見やれば太陽の光は更に色を増していくといったところだった。これから空は次第に橙から紫に変わっていくのだろう。
帰りの支度を済ませ、図書室から出る。無言で自身の後ろを付いてきていた女子生徒は最後に図書室を一周し忘れ物が無いかを確認すると、図書室の鍵を締める。
「お仕事の邪魔しちゃってごめんね?それじゃあ、さようなら」
女子生徒が鍵を締め終わるのを確認し、簡単に挨拶を済ませ歩き出す。
まさか寝てしまうとは。お陰でかなり遅くなってしまった。
帰って何をしようか。椿にキスマークの事でも問い詰めるか。金曜だし、あわよくば家に来させても良い。
そんな事を考えながら歩き出した自身に向かって。
「あ、あの!」
と、背中越しに声が掛けられる。
「どうしたの?」
「二年A組の綾瀬さん、ですよね?」
「うん、そうだけど」
なぜ自身の名前を知っているのだろう。
「実は、高橋先生から伝言を預かってまして…」
「そうなの?」
「は、はい。用があるから職員室に寄ってくれって…」
成る程。と納得する。
大方職員会議後に図書室を訪れた高橋先生が寝ている自身を確認し、この女子生徒に伝言を頼んだといった所だろう。
何の用だろうか。と思ったが、まぁあの人の事だからどうせ用なんて無いのだろうとも思う。
「そうなんだ。じゃあ、行こっか」
「へ?」
「職員室。鍵返しに行くんでしょ?」
ついでだし、一緒に行くよ。
そう声を掛け歩き出せば。
は、はい!という返事と共にぱたぱたと小走りで自身に付いてくる足音が聞こえた。
△ ▽ △ ▽ △
結局職員室に着くまでお互いに無言だった。
自身から何か話しかけても良かったが、特にその必要も感じなかった上に話すのが余り得意ではないであろう女子生徒を緊張させるのも悪い気がしたので辞めておいた。
女子生徒が遠慮がちに向けてくる視線は気になったが、さっきまでのおどおどとした態度を見るに恐らくは気不味さから視線をどこに向けたら良いか分からなかったといった所だろう。
女子生徒と共に職員室に入り、パソコンに向かい何やら作業をしている高橋先生の元へ向かう。
女子生徒から鍵を受け取った高橋先生がありがとうと伝えると、女子生徒はいえ、大丈夫です。と言って笑顔を見せていた。
お、笑った。この子笑うんだ。なんて、呑気にそんな事を思った。
「じゃあ千住ちゃんは帰って大丈夫だよ、遅くまでありがとう。気を付けてね!」
「はい、さようなら。高橋先生」
挨拶を終えると千住と呼ばれた女子生徒は自身にもペコリと一礼をし、職員室の外へと向かっていった。
失礼しました。と挨拶し職員室を出て行く女子生徒に笑顔で手を振った高橋先生は、一つ溜め息を吐くと脚を組み、こちらをじとーっと見上げる。
いや、態度変えすぎだろ。
「用ってなんすか」
「ん、ないけど?」
「やっぱりかよ…」
チッと舌打ちが出る。
「舌打ち」
「……」
「舌打ち」
「すんません」
「よろしい」
何でこんなに舌打ちに厳しいんだこの人。
「それで、用が無いのになんで呼びつけたんすか」
「あー…じゃあ、図書室で何したのかなって思ったから?」
「思いっきり今考えただろ…」
「まあまあ。それで、何してたの?」
「……ノート写して、適当に読書でもしようかと思ったんすけど」
「寝ちゃった、と」
「そっすね」
ほうほう。と相槌を打つ高橋先生。
「そのノートって、佐野さんから受け取ってたノートの事?」
がっつり見てたのかよ。
「そうすけど」
今度は成る程ねぇ。と呟く。
何かを探られている様な気がするが、いまいちその真意が見えない。
「そのノート、見せてよ」
「なんでですか?」
「佐野さんがそんな事するなんて珍しいじゃない?」
「…?誰にでも優しいじゃないすかあの人」
「んー、まあそうなんだけどね?ちょっと気になる的な?いいから見せてよ!」
「はぁ…見せないと解放されないんでしょ…えーっと……はい、これっす」
人の厚意を勝手に他人に見せるのはどうかと思うのだが、恐らく見せないとキリがない問答が繰り返されるだけなので仕方ない。鞄からノートを取り出し高橋先生に手渡す。
「ん、ありがと。どれどれ……」
受け取ったノートの適当なページを開いた高橋先生は、わぁ…すごいねぇこれ。と呟き、ぺらぺらとノートをめくっていく。
「ここまでしてもらってるんだ」
「別にお願いした訳じゃないんすけどね」
「そりゃあこんなに立派なノートお願いされただけじゃ作れないよ」
「?あの人自分のノートもこんなもんでしょ多分」
「え?」
「え?」
「知らないのかぁ、へぇ…」
意味深に呟くとにやにやとしだす高橋先生。なんなんだこの人…
「もういいっすか、あんまり見られるのも本人に悪いんで」
「ああ、そうね。ありがと」
自身の手に戻されたノートを鞄にしまっていると、またもや声を掛けられる。
「大切にしなさいね?」
「は?」
「佐野さんの事」
「いやだから付き合ってないって」
いつまでキスマーク引き摺ってんだこの人。中学生並みの恋愛脳だなこの教師…
「これから付き合う事になるかもじゃない?」
「ないっすよ、あんな人気者が空気みたいな奴と付き合う訳ないじゃないすか」
「どーかなぁ。綾瀬君モテるからなー」
なんか進展あったら先生に教えてね!
目を輝かせながらそんな事言う高橋先生に、苦笑いをするしか無かった。
△ ▽ △ ▽ △
「失礼しました」
そう言って職員室を出るが、失礼されたのはどう考えてもこちらの方だった。
結局あれからも佐野さんからノートを受け取る様になった切っ掛けだのキスマークの真相だのを聞かれ、のらりくらり躱しているうちに最終下校時刻の十九時を過ぎ、やっと解放されたのだ。
図書室の閉館時刻が十八時の為、実に一時間近く脳内中学生教師の暇潰しに付き合わされた計算になる。
何なんだよ本当にあの教師は…
脳内でぶつぶつと文句を言いながら昇降口で靴を履き、校門へと向かう。今から二十分近く歩いて帰るのがとてつもなく億劫だった。
「流石に疲れた…」
「お、お疲れ様…です」
「へ?」
校門を通り過ぎた辺りで思わず出た独り言に何故か返事が返ってきて、素っ頓狂な声が出てしまう。
声の主は、一時間前に職員室を出た筈の女子生徒だった。
「えーっと、そのお疲れ様は?」
「えー…あ、綾瀬さんへの…?」
「そ、そう…」
「は、はい…」
「「………」」
圧倒的気不味さ。
ちょっと待て。一時間近く待っていたのか?自身を?何故?
自身の怪訝そうな表情に気が付いたのか、女子生徒が堰を切ったかの様に話しだす。
「す、すみません!わ、私!あ、あああ怪しい者では、決してなくって…!」
「う、うん。それは分かるけど…」
「す、ストーカーでも!…なくって…」
「それも分かるけど…」
「話したい…事が…あっ、て…」
「うん?」
「そ、それで!…あ、あうう…」
「あー…」
完全に見切り発車で事故ったなこれ。
全く要領を得ない話で何が言いたいのかはさっぱりだが、言葉を紡ぐにつれて顔の赤色が増していく姿を見せられてしまっては流石に助け舟を出すしか無い。
仕方ない…
「あー、千住さん?だっけ?」
「あ!は、はい!に、二年D組の伊藤千住です!」
あ、苗字は伊藤って言うのね。そんでもってクラスは二年D組なのね。思わぬところで不必要な情報を得る。
「あー、うん。ありがとう。名前は分かったからさ。とりあえず、移動しよっか?」
「へ?な、なんで?」
「あー…結構、見られてるから?」
「…え!あ、あれ?!」
周囲が全く見えて居なかったのだろう。
自身の言葉を受けてきょろきょろと辺りを見回す彼女は、次第に状況を理解しだす。
「あ、ひ、人…たくさん…あ、な、なんで?」
「運動部の人が下校する時間だから、かな?」
最終下校時刻。それは生徒達が絶対に帰らなくてはいけない時間の事で、つまりは多くの運動部の人間達が部活動を終え下校し出す時間だ。
自身と伊藤さんはそんな部活動の練習を終えてぞろぞろと校門から出て行く生徒達の注目を一身に浴びていた。
それも、あれなにー?告白かな?がんばれー!きゃー可愛い!なんて冷やかし付きで。
「あわわわわ…」
「伊藤さーん?」
「あわ、あわわわわ」
「大丈夫?」
「あ、あうう……」
辺りを見回してやっとその事を理解したのか、目の前のじょしはあわあわ言い出すと完全に機能を停止してしまった。
「はぁ…」
耳まで真っ赤に染まった伊藤さんの腕を引き、とりあえずその場を立ち去る事にした。
お読みいただきありがとうございました。
進行の遅さには自分が一番驚いています。すみません。
一応補足?的なの
佐野 翠(さの みどり)
伊藤 千住 (いとう せんじゅ)
と読みます