ダンジョンで拾ったアンドロイドがポンコツすぎる   作:たこふらい

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6.生存衝動<Killing Arts>

 最初に正面の一体が飛びかかった。

 口からみっともなく涎と血を垂れ流しながら。猛然と。

 

 それなのに、麻痺した頭は戦うことも、逃げることも、選択してはくれなかった。

 

 近づく獣臭。大きく開いた口から覗いているのは、半ば砕けて不揃いになった粉砕機(口と牙)。獲物を食らうため、殺すために、それが勢いよく俺の首へと突き立てられようとする。

 

 混乱し切っている頭にとって、それは反応出来ない速さだった。回避も、防御も。迎撃なんてできるわけがない。動けない。

 

「あ───、ッ!」

 

 直前でようやく体が動く。

 咄嗟に自分と相手の間にナイフを握った手を差し込んだ。

 ぶすり、と。手を丸ごと口の中へ突っ込んでそのまま獣の口内に埋まる刃。しかし。

 

「こ、のぉ…………ッ!?」

 

 ()()()()()。それどころか、そのまま引き抜こうともせずにこちらの腕を食いちぎろうしている。

 ナイフを持つ手と腕の間、その柔らかい連結部を嚙み千切ろうと顎を閉じようとしてくる。

 

「ぎぃ、ぐ───、」

 

 歯が食い込んだ腕から、チリチリと火花のような痛みが走る。ゴリゴリと磨り潰されているような錯覚。あるいは、今この瞬間に錯覚ではなくなるかも。白く視界が明滅する。

 

「っ───!」

 

 ぐい、と押されて壁へ押し付けられる。伸びてくる腕を振り払い、顔面を掴んで腕へと力を込める。

 それでも腕は抜けない。閉じかけた顎が邪魔で引き抜くことができない。

 

 ───ふざけるな、人間は、こんな状態で物を噛める生き物じゃないだろう……!

 

「■■■───」

 

 喘ぐ獣の口からボタボタと血が垂れていく。それは腕を嚙み千切られようとしている俺の物なのか、口内を貫かれた獣の物なのか、判別はつかない。だがそもそも今この瞬間に食われかけている俺にとってはどうでもいいことだ。

 

「は───な、せ」

 

 逃れることはできない。獣はしっかりと俺の腕へと食らい付いている。

 引き抜いたところで、自由になった獣の顎が今度はこっちの喉笛を引き裂くだろう。

 

 そもそも最初から逃げることなどできない。

 今となっては逃げようとすら思っていない。

 俺は生きたいだけだ。こんなところで死にたくないだけだ。

 

 なら、やるべきことは決まっている。

 目の前の、コイツを殺せばいいだけだ。

 

 それなのになぜ躊躇う。殺さなければ殺されるという究極の現状において。手を下すことを恐れていてはただ死ぬだけだというのに。

 

 ……答えはきっと、呆気ないほどに単純だ。

 俺は責任なんて負いたくない。こんな選択なんてしたくない。きっと、ただそれだけのこと。

 

 かつて人だったナニカ。今はもう人ではないナニカ。

 そう()()()()()()と思うだけで思考が鈍る。

 

 馬鹿だ。自分で自分に呆れてしまう。

 そう自嘲しようとして───飛び散った血がいつかの記憶を思い返した。

 

 

 自分という個を確立した原風景。その一端。

 赤と、赤。そこに倒れ伏す幼馴染(アイツ)と、ナイフを持った自分の姿。

 

 ───そうだ。なにを躊躇う必要がある。

 

 倒れているアイツへ跨って、両手でナイフを振り上げる。

 

 ───俺は、既に一度。

 

 祈るように僅かに開いた目は、何を伝えたかったのだろうか。

 

 ───人を、殺している。

 

 

「………………あ」

 

 脳裏に浮かんだ光景に思わず動きが止まる。

 動きを止めた隙を突いた獣が動く。

 

 皮膚と肉と血管と骨を裂く音と共に鮮血が舞う。

 手首を食いちぎった獣は止まらず、そのまま俺の喉笛を噛み裂いた。

 

 リュコス=イフェイオンは死んだ。

 

 ───いいや、それはありえない。

 リュコス=イフェイオンはこの程度の獣に殺されたりなどしないし、死ぬつもりもない。ましてやこの程度の光景に我を忘れるなんてこともない。

 

 なぜなら。俺は既に、これ以上の惨劇を目にしたことがあるはずだから───、

 

「──────」

 

 ガチン。頭の中で、何かが切り替わる。

 理性が振り切れる。原初の欲求のままに体が動く。

 

 腕を噛み切られる直前。口内で持ち替えたナイフを真下へ振り下ろす。閉じようとする顎が邪魔だが、無視する。そのまま体重を掛けて顎を砕きながら胸の半ばまで強引に引き裂いた。正面から真っ二つ、がらんとした体腔はまるで不出来な魚の開きのようだ。

 

 獣の体は驚くほど軟らかかった。肉も皮膚もグズグズで、生命の鼓動というものがまるで感じられない。まるで枯れて干乾びた倒木のようだ。力を込めれば踏みつぶすのも造作ない。

 

 不格好な開きになった獣がなおも腕を伸ばす。こんな状態になってもまだ動くらしい。

 

 邪魔だ。簡潔に首を切り落とす。ごとり、と頭と体が地面に落ちる。それで完全に動かなくなった。

 どうやら頭部近くへ深い傷を負うと動けなくなるらしい。

 

 思考はあり得ないほど冷静だった。まるでここに居ながらどこか遠くで眺めているような俯瞰視点。自分の体が自分のものではないみたい。

 

 ナイフを逆手に持ちながら続く二体目と三体目を眺める。仲間が死んだというのにお構いなし、やつらにはそういったことを考える知性すら残っていないようだった。ただ喰らい、奪うだけの獣畜生。

 

 あぁ、だがしかし。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 (ザン)(バツ)

 二つの音が鳴る。

 

 まず近い位置にいた二体目へと駆けより、必要最小限の動きで首の皮一枚残して頸椎を切断する。

 その体が地面へ落ちる前に続く三体目へ。駆ける勢いのまま蹴り倒し、倒れて動きの止まったその額へ深くナイフを突き刺した。

 

 動きは無駄なく正確に。まるで芸術のような殺人技巧(キリングアーツ)。忌々しくおぞましい負の産物。モノを殺すという行為に対してのみ、この体は全才能を発揮する。

 

 残るは七体。これだけやっても数の優位は覆せない。だが、それさえまるでどうでもいい。

 

 奴らは食うことしか頭にない畜生以下だ。その身肉は腐っていて動いているだけで生命の冒涜だ。俺を殺そうとしてくる敵だ。

 

 ───解体しろ(ころせ)蹂躙しろ(ころせ)。体に根付いた衝動が唸りを上げる。

 アレらを許すな。一匹たりとも逃がすな。今この場で、お前の手で解体してやれと。

 

「──────だま、れ」

 

 こんなの俺の意思じゃない。だって仕方がないんだ、殺さなければ殺されるのだから。

 俺はこんなこと望んでいない。こんなの俺の本心じゃない。

 ああ、でも───その声にひどく抗いがたいのも、また事実だった。

 

 これが俺の原理。巣くう呪い。忌々しい魔法に他ならない。

 

 あとの結果は言うまでもない。

 残った獣は斬られ、刺され、あるいは完膚なきまでにその五体を解体されて。

 子供の方へ向かう者はその腕を掴んで引き寄せて、壁へ頭を打ち付ければ柘榴のように砕けた。

 

 最後に残った一体の首が地面に落ちる音が終わりを告げた。

 これで全滅、残っているのは死屍累々。

 この場で生きているのは自分と、子供だけ。

 

「──────う、おぇっ」

 

 それを理解した瞬間に理性が戻ってきた。むせ返るような血の匂いに、ようやく吐き気がこみ上げてくる。

 

 気分が悪い。最悪だ。

 昇ってきた胃酸をなんとか飲み下す。

 昼飯を食べていたら吐いていたかもしれない。

 

「……くそっ、なんだこれ」

 

 転がっている獣の死体に目を向けて顔をしかめる。

 ナイフを突き刺した瞬間から感じていた違和感がわかった。

 

 こいつらは()()だ。死にながら動いていたのだ。

 どういう技術か、あるいは魔術の仕業なのかはわからない。

 それでも、すでに手遅れだったということだけはわかる。

 

 ……それがなんの慰めになるのだろうか。

 

 自己嫌悪を振り切って子供へと近づいていく。

 

「──────」

 

 大丈夫か、なんて白々しい言葉は言えない。俺がもっと早く来ていればこんなことにならなかったかもしれないのだ。『君だけでも生きていてよかった』───なんて偽善。俺にそんなことを言う資格はない。

 

 目の前で手を振ると、わずかばかりの反応が返ってくる。手を差し出すと怯えながらも手を掴んで来る。せめて安心させるようにその手を握った。

 

 地獄と化した路地。その中で、この子供だけが唯一の救いだった。

 

 俺には、かける言葉が見つからない。

 ただ苦い思いが胸に湧いてくる。

 

 だがこのままここに居るわけにもいかない。早く安全な場所へ移動しなければ。

 

「──────、ッ」

 

 そう考えた瞬間、ゴゥン、と。少し遠くで地響きが聞こえた。

 それと同時に感じる戦闘の気配。足音、破砕音、唸り声。肉の潰れる音。

 

 馬鹿か俺は。なにを勝手に終わった気になっている。

 それは、考えれば至極当然のことだった。今この時、巡回をしていたのは俺だけじゃない。もう一人、ノワール=アルマディンも居る。

 俺があの獣どもに襲われたのであれば。同じくノワールも襲われている可能性もあるということ。そんな当たり前のことを今の今まで失念していた自分に呆れと苛立ちが湧いてくる。

 

 咄嗟に走りだそうとして───自分の手を握っている子供のことが頭に過った。

 この場に置いていくのは論外だ。ならば連れて行くしかない。だが、それはこの子供を更なる危険に晒すことにならないだろうか。

 この戦闘音から察するに、十中八九あの少女騎士は襲われている。であれば、この子をその場に連れて行くのは危険だ。戦闘に巻き込むことになるし、庇いながら戦うなんてできっこない。

 

 だが、それでも。ここに置き去りにするなんてことは絶対にできない。

 

 なんという中途半端。だが関わってしまった命だ。途中で投げ出すことは、したくない。

 

「おい、返事はしなくていいから聞け。今からお前を連れて行く」

 

 子供を背負って茫洋とした瞳を覗き込む。

 ……反応はない。ただ服を掴んだ手に、僅かに力が入ったことだけは感じ取れた。

 

 

 音の下へひた走る。

 近づけば近づくほどに道端へ転がっている死体や血のシミが増えていく。

 背負った子供が見ないように手で目を覆いながら駆けていく。

 

 数が多い。俺を襲ってきた群れより、ずっと多い。二十やそこらでは効かないかずだ。もしかするとこの区画に住んでいる人数ほどもいるのではないか。この数に一斉に襲われたら、いくら誰だろうと太刀打ちできないのではないか。

 いやな想像が不安を掻き立てる。

 

 断続的に体を震わせるような衝撃と音が響いている。

 音はあの角を曲がった先だ。

 

「おい、大丈───」

 

 大丈夫か、という声が。広がっていた予想外の光景に思わず途切れた。

 

 視界に広がる真っ赤な色。つい先ほど見たばかりの惨状を拡大したかのような景色は、きっとあの獣どもの成れ果てだろう。

 バラバラにされた死体は執拗な攻撃でほとんどが原型を失っており、なぜかブスブスと煙を上げているものも。見ているこっちが鳥肌が立つような、ゾッとする肉片と化しているものすらある。

 

 その、中心で。一人の少女が踊っていた。

 

「もっと、もっとくださいな! もっとわたしを楽しませてくださいな! これで終わりではないのでしょう!? もっと私を昂らせてくださいな!!」

 

 否、踊ってなどいない。ただあまりにもその顔が場にそぐわないほど華やかで壮絶な笑みであったから、そう見えただけの話。

 

 少女は獣に囲まれていた。しかしそれになんら危機感を覚えない顔で楽しそうに、とても楽しそうに。哄笑を上げながらその手に盛った灼熱と化した煉獄のメイスを振るう。

 一つ、振るうたびに獣が纏めて薙ぎ払われる。赤熱した殴打部が接触した瞬間に獣の体を業火で包み、その身を燃やし尽くす前に圧倒的なまでの威力が文字通り()()()()()

 吹き飛ばす、などという言葉すら足りない。殴打された部位はそれこそ血煙と化し、はじけ飛んだ骨がまるで散弾のように他の獣を襲った。

 

 もはや獣の群れは脅威ではなかった。メイスという鈍重な武器でありながらその速さは獣の比ではない。振るった後の隙を突いて飛びかかろうがその前に返しの一撃が突き刺さる。

 獣の群れは既に狩られるだけの存在と化していた。

 

 おそらくはそれが彼女に宿った原理の一片。他者を『蹂躙』する極めて攻撃的な力の形。離れた場所で見ていながら、その光景に薄ら寒さを覚えるほど。

 

「なっ───、」

 

 ノワールのほうも襲撃されている、という予想は当たっていた。

 だがこれはどういうことか。

 予想外の光景に思考停止しかけて、頭を振って気を取り直す。

 

 既に大半は動かなくなった後。残っているのも、死体の量から察するに全体の2割ほど。

 それも彼女が動くたびに、風の前の蠟燭のように散って行く。

 

 というかアイツあんなにハイになるやつだったんだ。人は見かけによらないということか。割と大人しいという印象がなくもなかったのだが。ちょっと、ギャップがすごい。

 

 (ドウ)、と。最後の一体が血煙と化した。バラバラと肉片が落ちる音を最後に静寂が訪れる。少女は息荒く、口元に笑みを浮かべながら肩で息をしている。

 

 ……少しだけ、声を掛けることが躊躇われた。

 あの様子は尋常ではなかった。もしあの暴力性が見境なく周囲へ撒き散らされたのなら俺には対応する術がない。

 

 どうするか。悩んだ瞬間に、少女の体勢がぐらりと崩れる。

 

「ッ、おい!」

 

 迷いを振り切って駆け寄る。少しでもあの少女に脅威を感じた自分を叱責する。いくらあれほどの蹂躙劇を演じたとて、ノワール=アルマディンがただの女の子であることは変わらないのだ。

 現に今、返り血に濡れながらも膝を付きメイスを地面に突き立てて支えとしている姿は消耗し切っている。無傷だろうが、無事とは言えない。

 

「おい、大丈夫か」

「───ッ、あぁ……あなた、ですか。だから帰ってって、言ったはずなのに……」

 

 声を掛けると、夢見心地のような若干胡乱な目でこちらを見てくるノワール。よかった、あんな理性ぶっ飛びバーサーカーになるのは戦闘の時だけらしい。まだ怪しさはあるが、少なくとも会話はできる状態のようだ。

 

「その子供は?」

「成り行きで保護した。こっちにも()()が出てきたからな。お前の方よりは少なかったから何とかなったが。というかお前、ここがこうなってること、知ってたのか?」

「足を踏み入れた時から何となく。消えかけでしたが変な魔力の残滓があったので」

 

 ……なるほど。だから魔術の使えない俺を帰らせようとしたのか。確かに、あれは魔術もろくに使えない一般人では太刀打ちできない。

 この街の異常に真っ先に気づいたノワールはそうやって俺を逃がそうとしていたのだ。その事実に心の中で感謝する。

 

 そう思ってノワールの顔を見ると、どこかバツが悪そうに、申し訳なさそうに身を縮こませた。なんだろうか。

 

「……見てましたよね。さっきの私。おかしいですよね、魔法を使うとどうしてもこうなってしまって」

 

 恥じるように目を伏せる。

 

「気持ち悪いって言っていいですよ、自覚してるので」

「──────」

 

 まるで酔いが醒めたかのような表情で、少女は自虐する。

 

 ……確かに、先ほどの光景を見た瞬間に衝撃を受けたのは事実だ。自分より年下の女の子が鈍器を振り回して人の形をしたものを躊躇いなく粉々にしているのだ。驚かないはずがない。

 だが、あの獣は明らかに『敵』だった。放置すれば間違いなく更なる悲劇を生み出す化物だった。だからそれを一掃して止めた少女は、これから起こるはずだった惨劇を阻止したと言ってもいいはずだ。そこにどんな気持ちがあったとしてもその事実は変わらない。なら、彼女はそれを誇っていいはずなのに、なんで自分を卑しいとでも言うかのように目を伏せるのか。

 

 気に入らない。気に入らないから、ついムキになって口を出した。

 

「誰にだってそういうことはあるだろ。魔法ってのは自分の『原理』に直結してる、扱いの難しさは魔術の比じゃない。戦闘中に()()()()にまともに使えてるだけよっぽどすごいと思うよ、俺は」

「……変な、こと言うんですね。頭おかしい人だって心の中で思ってるんじゃないんですか?」

「なんでだよ。そりゃちょっとびっくりしたのは事実だけど、別に嘘付く理由はねーよ。お前は俺なんかよりもすごい。よくやったと思う」

「──────。なにそれ、変なの。よく変な人って言われませんか?」

「ますます何だよそれ、無いよそんなこと」

 

 失礼な。俺はいたって常識人だというのに。

 ムッとして言い返すと、ノワールははにかむように笑って立ち上がる。その顔に先ほどまでの憂いはもうない。それに少しほっとする。

 

 改めて周りに目を向ける。

 辺りに散らばる肉片はほとんどがノワールの大槌とその剛力によって潰されたものだ、中には地面の石畳や建物の壁ごとぶち壊されてるものある。

 

 ……と、そこでふと気づく。

 

「おい、ここらの住人は?」

「安心してください、私が見境なく手あたり次第に手を付けたというわけではありませんので。……どうにもこの辺りに人間は居なかったようで。音で気づく人も、逃げる人も居ませんでしたので遠慮なく全力でやりましたが」

「…………」

 

 言いようのない違和感。

 

「誰も居ないってのは、おかしくないか?」

 

 というか、これだけの数の歩く死体とでも言うべきものが徘徊していたら、一人くらいは気づいて騎士団に通報する人が居てもおかしくないと思うのだが。

 

 突如現れた大量の怪物。消えた住人。

 謎は深まるばかりだ。

 

「───いや、ちょっと、待て」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ゾクリ、と。足から百足が這いあがってくるような、怖気が走る。

 

 ───なにか。

 そこで、なにか。気づいてはいけないようなことに気づいてしまいそうな予感がして───、

 

「おにいちゃん」

「っ」

 

 背負った子供の声で現実に引き戻される。

 そうだ、今それを考えてる場合じゃない。今のところ危機は去ったとはいえ、未だ渦中ということは変わらないのだから。まずはこの異常事態を外部に知らせなければならない。師匠か誰か、話の通じる人に報告するために撤退しなければ。

 

「あそこ」

 

 子供が邪気なく指を指す。その先には。

 

「──────」

 

 

 それは、紛れもない『怪物』だった。

 ガリガリと、何かを削るような音を伴いながら街の暗闇からずるりと現れたそれは、霞を纏った一体の男だった。

 伸びた白い髪。血色の無い肌。口元から覗く牙。血に濡れた黒のコート、狩装束。髪の隙間から覗く瞳は、何かに取り憑かれているかのように()()()いた。

 まるで亡霊。直視するだけで引き込まれそうな錯覚。咄嗟に目を逸らす。

 

「"ハ──────ァ″」

 

 喘ぐような男の呼吸が聞こえた。それだけで全身が総毛立つ。

 

 右手に引き摺っていたのはあまりにも異様な武器だった。剣というには巨大すぎて、また異形。

 敢えて言葉にするならば、それは『(のこぎり)』。長大な全容、幅広の刀身の側面へ付いた乱ぐい歯のような歪な刃。持ち主である男よりも巨大なそれは、あらゆるものを刻み断つ大鋸と表現できる。

 

 気配が違う。空気が違う。格が違う。存在規模が違う。何もかもが普通の人間とは違う。

 

 先ほどまでの獣と比べれば、その姿は全うな人間に近しいはずなのに()()と本能が告げている。

 あれは関わってはいけない。見ることも触れることも、あれに()()()()()ということさえ避けるべきだと言っている。

 

 体が全力で逃走しようと努めている。恐怖がその信号伝達を妨害する。結果その場から動けずに体を震わせる。

 

 男が一歩踏み出すたびに、怖気が走る。

 ピシピシ、と周囲の建物が悲鳴を上げる。

 吐く息さえ凍てつくような恐怖が襲い掛かる。

 

 そしてそれは起こった。

 男の体からにじみ出る霞のようなものが道端に転がっている死体の一つを掠めたときに、それは起こった。

 

 (ゾブ)、と。音を立てて死体が崩れ落ちる。

 

 見ればわかる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 間違いなく尋常ではない。既存の法則に寄らない現象は間違いなくあの男の魔法によるものだ。だがあれはあまりにも常軌を逸している。

 今までのこの街の異常がすべてあの男の仕業であると言われたら、無意識のうちに納得できる。

 あれは一種の災害だ。敵視も殺意もなく、()()()()()()()というだけで命を殺す呪いの塊。歩くだけで草木を踏みつぶすように生き物を殺す、本物の怪物。

 

 ───どうする。

 

 脅威は去ってなど居なかった。否、これと比べれば先ほどの獣なぞ児戯にも等しい。

 

 ここでようやく始まりだ。

 意識せずともわかる。全力を尽くさねば死ぬだろうと。

 

 ───どうする。

 

 こちらには子供が一人。余力のない騎士が一人。凡人が一人、

 対して向こうは怪物だ。戦わずともわかる歴然とした生命としての規模の差。それはまさに嵐に対して挑むようなものだ。あまりにも馬鹿馬鹿しくなるほどの荒唐無稽な実力差。

 

 ───どうすれば、生き残れる?

 

 

 絶望が、来る。

 




・ノワール=アルマディン
魔法によって加圧白熱したメイスであらゆるもの叩き潰す。大出力だが消費も大きく、原理に目覚めたばかりなので加減が効かない。

『蹂躙』の原理所持者。


・魔法
自らに宿る原理を外界に出力する魔術のこと。自分の持つ原理を自覚していなければ使えないという条件から使用できる者は少数。
この世に同じ人間が二人と生まれないように同じ魔法は存在しない。

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