「……大丈夫ッスか?」
王馬の姿が見えなくなると、凛がそろりと近づいてきた。気遣わしげなその顔を見て、ナツメは深いため息をこぼした。
「大丈夫、じゃないかもしれない」
「あら、認めちゃうんスか」
「一部始終を見てたお前相手に、今更誤魔化してもしょうがないだろ」
「いつものナツメさんならそれでも『大丈夫だ』って言いそうなもんッスけど」
「すぐに自分の中に溜め込むのは良くない、と三朝に言われたばかりなんだ」
「あー、あの人ッスか。ということは、殲滅部隊と何か任務に出てたんスか?」
「ああ、気分転換がてら」
「じゃあ、折角の気分転換が台無しになっちゃいましたねえ」
「いいんだ、私が悪い」
ナツメはもう一度息を吐いて、結び目の崩れたネクタイを解いた。
「烈堂にも、一度ちゃんと話してみろと言われて。うじうじ悩んでるよりマシだろうって……。とてもそうは思えない結果になったな」
「途中まではいい感じでしたけど。あれはナツメさんが悪いッス。あんな言い方したらそりゃ怒りますよ」
あんなってどんなだ。ナツメは王馬の様子が一変した直前の会話を思い出してみた。
確か――二回戦は棄権しろ、お前じゃ雷庵には勝てない。自分はそう言ったのだ。あれが王馬の怒りを買ってしまった。そこから先は最早目も当てられない。
「ナツメさんはストレートに物を言いすぎなんスよ」
「……そうか?」
「そこは自覚ないんスね。まあ、ナツメさん口下手ッスからねえ」
凛は、まったくしょうがないなあ、とでも言いたげに肩を竦めて笑った。似た仕草と表情を、滅ビノ森で見たばかりだった。
「闘技者なんてのは、大体が『自分が最強だ』とかって思い込んでるようなタイプの人間ッス。そんな人に『お前じゃ勝てないから棄権しろ』なんて馬鹿正直に言ったら、そりゃ反発するに決まってるじゃないッスか」
「それが事実でもか?」
「事実だからこそッス。ある程度の実力の持ち主なら相手の力量だって測れます。王馬さんも第三仕合は見てましたから、雷庵選手の強さは分かってるはずッス。今の自分じゃ勝てないってことも、本当は分かってるんスよ。それでも絶対に諦めたりしないのが闘技者なんスよね。究極の負けず嫌いの集まりッス。あと、こう言っちゃうと元も子もないんスけど、そもそもこれ拳願仕合ッスから。一度決まった仕合を企業が棄権するなんて、余程のことがない限りはあり得ません。その瞬間に企業の面子は丸潰れ。信頼も利益も失っちゃいますからね。可能性があるとしたら仕合の途中で棄権するくらいッスよ」
「……あいつが途中で棄権するとは思えないな」
「まあ、しないでしょうね。その辺は山下社長の采配しだいッス」
「山下社長か」
彼は自分と王馬の和解を望んでいるようだったが、結局この有様だ。王馬が寂しそうだったという彼の言葉の真偽も分からない。話したところでどうせ無駄だ。ナツメはあの時そう思ったが、本当に無駄に終わってしまった。
「あれは、いい人だな。あの人と王馬はうまくやってるのか? お前も」
「その辺は全然問題ないッス」
「そうか、ならいいんだ」
そうならば、やはり自分は王馬にとって悪影響なだけだろう。
ナツメは床に視線を落とした。その顔を凛が覗き込んでくる。
「なんだ?」
「いやー、こんなに落ち込んでるナツメさんってレアだなあと思いまして。王馬さんのこと、そんなに大切ッスか?」
「……そうらしい」
「らしいって。まさか今になって自覚したんスか?」
「今も何も、十年振りに会ったんだぞ」
「大切だから、巻き込みたくなくて会わなかったんでしょ?」
「――違う」
ナツメは頭を振った。
そんな献身的な理由だったなら、もっと早くに――三年前に王馬を探していただろう。
「聞いてただろ。あいつは敵討ちのために『中』を出たんだ。そんなあいつのことを、敵討ちをする気もない私がどうして追えるっていうんだ。和解なんて、はなから無理だったんだよ」
そんなことは始めから分かっていた。分かっていたくせに、話をすれば何か変わるのではないかと微かな期待を抱いてしまった。
「うーん。そう決めつけるにはまだ早い気もしますけど」
凛は顎に手を当てて首を捻った。
「確かにやっちまった感はありますけど。でも、まだ全部は話せてませんよね。敵討ちをしたくない理由とか、十年間何をしてたのか、とか」
「それは、そうだけど」
「今回はまあ、ナツメさんの言い方も悪かったですし、王馬さんもそれで頭に血が上っちゃってまともに話せる状態じゃなかったッスから。敵討ち云々は私には分かりませんけど、あの人、船以来ずっとナツメさんのこと気にしたんスよ。あなたの姿を見かける度、もろに目で追っちゃったりして。体ってのは正直なもんッスよねえ」
その視線にはナツメも気づいていたが、だからといってどうしていいのかも分からず、『中』にいた頃と同じように気づかぬふりをしてしまった。
「……睨んでただろう?」
「あ、気づいてました? まあ、なかなかの熱視線でしたから」
「昔からなんだ。顔を合わせるといつも突っかかってきて……。原因は私なんだけど」
「何かやらかしちゃったんスか?」
「初めて会った時、組み伏せて耳を切り落とそうとした」
その発言にさすがの凛も目を丸くして「それはまた、過激ッスね」とこぼした。
今になって考えれば自分でも大概だと思うが、その当時ではむしろ「温情」だったとも思う。自分の縄張りに勝手に入られたのだから、それを排除しようとするのは当然のことだ。そうしなければ『中』では生きられないのだから。
「それ以来、私はあいつを怒らせたことしかない」
「うーん? でもそれって十年以上前の話なわけッスよね? てことは、王馬さんは十代前半から半ばくらい……。思春期真っ只中ッスね。その年頃は扱いが難しいんスよー。何に対しても反抗してみたりとかして」
二虎も同じように言っていたことをナツメは思い出した。「お前のことが嫌いなんじゃなくて、ちょっと気に入らないだけだ」とも。ナツメにはその違いがさっぱり分からなかったし、今になってもやはり嫌われていたとしか思えないのである。
「あのキレっぷりはそのせいッスね。なるほどなるほど」
何に納得したのか、凛は物知り顔でしきりに頷いている。ナツメはわけが分からず「何がだ」と尋ねたが、返ってきたのは「ナツメさんは男心が分かってないッスね」という余計にわけの分からない言葉だった。
「まあ、一回仕切り直した方がいいッス。お互い、もう少し落ち着いて話ができるようにしないと」
「……仕切り直したところで」
「あ、そのネクタイ、私が結びましょうか?」
凛がわざとらしく明るい声で言った。意図的に言葉を遮られたことには気づいたが、その「意図」がナツメには分からず、かといって追及するほどのことでもない気がした。
ナツメは手に持ったままだったネクタイに視線を落とし、逡巡した。
できるならば、ネクタイなんて外したままがいい。まるで首を締められているようで、息苦しくて落ち着かないのだ。だが、護衛者である以上は身なりには気をつけなければならない。自分たちの姿は、そのまま御前の品位に繋がるのだから。
「ああ、頼む」
ナツメはネクタイを差し出した。すると、凛はなぜかきょとんとして「え、いいんスか?」と言った。
「お前が言い出したんだろう?」
「それはそうなんスけど……。王森さんの特権だと思ってましたから」
「……別に、いつも王森さんにしてもらってるわけじゃない。あの人がいない時だってあるだろ」
実のところを言えば、VIPルームに戻ろうかとも一瞬考えた。だが、御前や鷹山さんがいる前で頼めるのか? と考えたら、さすがにそれはと気が引けてしまったのだった。
「確かに、それもそうッスね」
凛が笑ってネクタイを受け取った。ナツメはシャツの襟を立て、背の低い彼女がやりやすいように頭を少し下げた。ネクタイが首の後ろに回される。凛の手が首元へと移動してから姿勢を戻し、そのあとは目の前にある彼女のつむじを何気なしに眺めた。
そうしていると、凛が顔を上げることなく「ナツメさん」と口を開いた。
「なんだ?」
「ここは『中』じゃないんで、簡単に諦める必要はないッスよ」
彼女は手元に目を向けたまま、静かな声でそう言った。
「……それも私の悪い癖だな」
だから、ナツメの傍には何も残らない。残すつもりもなかったのだ。三年前に死ぬはずだったから。
『中』にいた頃、ナツメの〝生き方〟に迷いはなかった。今のように思い悩むこともなかった。命の〝使い道〟が明確にあったから。他の何を失おうとも――それが二虎や王馬だとしても――すべて切り捨てて生きていけた。
三年前までの話である。だからナツメは、なかったはずのその先の今を、うまく生きることができずにいる。
命を救われ、生きることを望まれ、その機会と場所を与えてくれた人たちに申し訳ないという気持ちがある。そう思える程度には自分も変わったのだろうが、言動が伴っていないのだからまるで成長していないのと同じことだった。
「はい、できたッスよ」
凜の言葉にナツメは思考を閉じた。
「ああ、ありがとう」
「いえいえ」
そう笑ってから、凛は背筋を伸ばしてナツメを見上げた。
「それじゃあ、私もそろそろ戻りますんで。ナツメさんはこのあとのご予定は?」
「医務室に行こうかと思ってたんだ。英がいるらしくて」
「ああ、そうだったんスね。あの人がいるなら、茂吉選手も大丈夫ッスよ」
「そうだな」
茂吉のこと。王馬のこと。雷庵、延いては呉一族のこと。色々考えて、整理しなければいけないことが多いが、まずは英に会って話をしよう。
そうと決め、ナツメはネクタイをひと撫でした。
「王馬さんのこと、少し注意して見ておきますね」
「……ああ、お前の仕事に差し支えない程度でいいよ」
そんなやり取りを最後に、ナツメは改めて医務室へ足を向けた。