獣は泣いたか   作:久知良

21 / 32
14 英vs坂東

 英はじめはただの医者ではない。おそろしく腕がいいとか、趣味が異常だとか、理性的なサイコパスだとか、そういった意味ではなく。

 英はじめは、日本政府から派遣された『始末人(エージェント)』である。国家に仇なす、或いは不利益となる存在を秘密裏に抹殺する。それが彼の仕事だ。

 ナツメはその仕事に手を貸したことがある。『中』に逃げ込んだ標的を探し出すため、あの街を案内したことがあるのだ。その時に英本人から、彼が何者であるかを聞かされた。まるで世間話でもするかのような口振りだったから、最初は妄想癖まであるのかと疑ったものである。

 そんな英がなぜ拳願仕合に参戦したのか、ずっと疑問だった。だが、その相手が「死刑では殺せない死刑囚」であると知った時に合点がいった。

 英は、坂東を始末するためにここにいる。

 そうまでして殺したいならさっさと殺せばいいのに。『法律』というものは七面倒だ。それが『外』の秩序を保つために必要なものだと分かってはいるが、まったく回りくどいなとナツメは思ってしまうのである。

 第十四仕合はそんな、本来の拳願仕合の目的とはまったく別の思惑を孕んで始まった。

 

「がんばれ英!」

「がんばってくださーい!」

「お国のためです、先生!」

 

 カルラが、エレナが、心美が声援を送る。ナツメは彼女らに囲まれ、アリーナの入場口近くから仕合を観戦していた。

 坂東を控室からアリーナへと送り出したあと、ナツメはそのまま加納アギトのもとへ向かうつもりだった。それが、途中でカルラとエレナに捕まったのだ。そうしてそれぞれに腕を引かれ、あれよあれよという間にこうなった。

 二人に連行されてきた自分は、よほど情けない顔をしていたのだろう。先にここに来ていた心美の苦笑いと、帝都大学の総長である太宰(だざい)由紀夫(ゆきお)の憐れむような目に迎え入れられたのだった。

 なぜ自分はここにいるのだろう。アリーナを眺めながら、ナツメは独り言つ。経緯の話ではない。なぜ自分は、カルラとエレナに素直に従ってしまったのか、ということだ。

 次の仕事があるのだと説明すれば、二人とも分かってくれたはずだ。実際、ナツメはそう言おうとした。アギトの仕合が迫っているから、自分は行かなければいけないのだ、と。

 だが、言えなかった。

 ナツメはアリーナから視線を外した。隣にカルラが立っている。カルラは真っ直ぐにアリーナを見ていたが、その意識が別の方向に――こちらに向いていることに、ナツメは気づいていた。

 カルラに腕を掴まれたあの時、彼女の目を見たあの瞬間、ナツメは何も言えなくなってしまったのだ。

 前方に視線を戻す。アリーナの一番近くで、心美とエレナが英に声援を送っている。普段のカルラなら、きっとそこに並んでいただろう。

 アリーナの明るい照明の下、英と坂東は子供と大人ほどの体格差があった。英の身長はナツメと同じほどで線も細く、闘技者としては小柄だ。坂東とでは、おそらく五十キロほどの体重差があるだろう。これは致命的な差だった。

 しかし英は、その身軽さを十二分に活かし、坂東の攻撃を巧みにかわしながら一方的に攻め立てた。

 英の流儀は『霊枢擒拿術(れいすうきんなじゅつ)』。擒拿術にも様々な技法があるが、英は指先を鍼に見立てて人体の急所である経絡経穴を突く『点穴法』を主体としている。

 英が自分より体格で勝る相手と闘うには理にかなった手段であるが、そもそも彼が擒拿術を使用するのは、相手をなるべく無傷で仕留めたいという思惑があるからだった。理由は単純明快。あとで綺麗に解剖するためである。

 それらを恍惚とした様子で説明された時の、未知の生物から話を聞いているような奇妙な心持ちを、ナツメは今でもよく覚えている。

 

「まるで弁慶と牛若丸のようです!」

 

 鞘香の実況が飛ぶ。

 ベンケイとウシワカマルというのは誰だろう。名の知れた武術家か? どっちがベンケイで、どっちがウシワカマルなんだ?

 考えていると、カルラが小さな声でナツメを呼んだ。

 

「なんだ?」

「休憩中に何かあったのか?」

 

 ナツメは「何かって?」と、素知らぬ調子で聞き返した。勿論、カルラが言わんとしていることは分かっている。だが、しらを切れるなら切ってしまいたかった。

 

「さっき、Dブロックが始まる前に爺様たちに会ったんだ。けど、様子がおかしかったから」

「それで何があったのかを私に聞く意味が分からないな」

「爺様に聞いたら『何でもない』って言われた」

「なら、何でもないんだろ」

「違う」

 

 カルラははっきりとした口調で否定した。ナツメは相変わらずアリーナに顔を向けていたが、そんな自分の横顔にカルラの視線がそそがれているのが分かった。

 

「爺様たちは嘘を吐いてる。いつもそうなんだ。いつも――お前に関係することは、ああやって誤魔化される」

 

 英はもう随分と坂東の体のあちこちの経穴を突いているが、坂東は動きを止めるどころか痛がる素振りさえみせない。

 普通ならとっくに動けなくなっていておかしくないが――。ああ、〝普通〟じゃないんだったな。

 

「ナツメ、聞いてるのか?」

「聞いてるよ」

「じゃあ、なんで何も答えてくれないんだ」

「答えようがないからだ。恵利央様が何も仰っていないなら、私から話せることは何もない」

 

 呉一族にとって、当主である恵利央の言葉は絶対である。あの人がカルラに対して秘匿としたのなら、一族の誰に聞いてもカルラが求める答えは得られないだろう。雷庵ならそんなことなど意に介さないだろうが、カルラは雷庵を嫌っているから、あいつから聞き出そうとはしないに違いない。

 そうなると、あとは張本人に聞くしかない。という理屈は分かるが、ナツメもそれに応じるつもりはなかった。

 カルラは恵利央の曾孫で、呉一族の宗家直系である。さらには、まだ十六歳という若さでありながら『外し』の解放率八十五パーセントを誇る天才。いずれは呉一族の当主になることが確約されている。

 そんな彼女が『伏野』と『呉』の因縁について何も聞かされていない。それはつまり、何百年と続いてきたこの因縁を、カルラの代まで引き継がせる気はないという恵利央の意志だろう。

 ナツメもそのつもりでいたし、本来なら三年前に果たせていたはずのことだった。ホリスと手を組んだのもそのためだったのだから。

 呉一族との因縁を断つために、呉一族の手を借りる。利害が一致したとはいえ、随分と節操のない選択をしたものだった。

 視線の先では、英と坂東の仕合が続いている。相変わらず英が素早い身のこなしで坂東を翻弄し、圧倒的な手数を稼いでいるが、やはり坂東には点穴のダメージが通っていないようだった。このまま仕合が長引けば、先にスタミナ切れになるのは英だろう。

 さて、どうする? 英も、自分も。

 刺さる視線と目を合わせることなく、ナツメは考えた。

 カルラの追及をかわすのは簡単だ。このまま目を合わせず、口を開かず、ただ無視をすればいい。たったそれだけでいいのに、その「それだけ」ができなかったから、ナツメは今ここにいるのだった。

 

「私は、ナツメのことをもっと良く知りたい」

 

 ナツメはカルラを横目に見た。彼女は真剣な表情でじっとこちらを見つめている。

 

「知らない方がいいことは山ほどある。裏社会じゃ常識だろ」

「でも!」

「カルラ、いい加減に」

「ホリスも怜一も、雷庵だって知ってるのに! なんで私だけ!」

 

 カルラが怒ったように声を上げたのと同時に、悲鳴混じりの歓声が会場を揺らした。

 ナツメが視線をアリーナへ戻すと、英の右手から真っ赤な血が噴き出していた。人差し指と中指が、人体の構造上曲がってはいけない方向に折れ曲がり、骨が皮膚を突き破って体外に露出していた。

 開放骨折だ。負傷の瞬間を見ていなかったナツメには、一体何が起こったのか見当もつかなかった。だが、ナツメが一番に気にかけたのはそのことでも、英が負傷したことでもなく、彼の血がアリーナに飛び散ってしまったことだった。

 

「ナツメ!」

 

 カルラに袖を掴まれ、意識を引き戻された。

 ああ、今日は随分としつこいな。微かな苛立ちを感じて、ナツメは細く息を吐いた。

 

「知らない方がいいって言ってるだろ」

「そんなの聞かなきゃ分からない!」

「私がお前たち呉一族を恨んでるって話でもか?」

 

 吐き出された言葉に、ナツメ自身が驚いた。

 違う、こんなことを言うつもりじゃなかった。恨んでなんかない。ましてや、カルラを傷つけたかったわけでも、突き放したかったわけでも――

 本当に? 自問の囁きが耳の奥で響いた。腹の底に沈めたはずの醜悪な感情が、その声に応じて目を開き、浮かび上がってこようとする気配がした。

 

「――冗談だよ」

 

 ナツメは取り繕って、袖を掴むカルラの手を解いた。その目を見る勇気はない。

 観客たちがどよめいている。まるで怯えているような空気の震えに、ナツメは改めてアリーナに目を向けた。

 そこで奇怪なものを見た。坂東の首や腕が、関節の可動域を無視した方向まで捻れている。普通の人間ならば到底生きてはいない体勢で、坂東は顔色一つ変えずに喋っている。

 まるで軟体動物のような柔軟性である。なるほど、確かに〝普通〟じゃない。

 

「いるもんだな、バケモノってのは」

「……ナツメは違うよ」

 

 ナツメが『中』でそう呼ばれていたことを、カルラも知っているのだろう。

 

「お前たちからしてみたらそうだろうな。私はお前らの〝劣化品〟だ」

「劣化って……」

 

 カルラの困惑した声にはっとする。

 

「さっきから何を言ってるんだ?」

 

 本当に、自分は何を言ってるんだ。言葉の歯止めが利かなくなっていることに気づき、ナツメは額に手を当てた。

 

「なんでもない、忘れてくれ」

「……ナツメ」

 

 カルラがまた袖を引く。

 

「ナツメは私が嫌いか?」

 

 なんだ、急に。――いや、そう急でもないだろう。この会話の流れから、カルラがそう感じてしまったのも無理はない。

 

「……嫌いじゃないよ」

「本当に?」

「嫌いだったらこうして話したりしてない」

「ホリスは?」

「なんで」

 

 ホリスがここで出てくるんだ。ナツメは思わず顔を上げた。目が合ったカルラの真剣な眼差しに、次の言葉がすぐには出てこなかった。

 

「……嫌いじゃない」

「怜一は?」

「嫌いじゃない」

「堀雄叔父は?」

「嫌いじゃないって」

「爺様は?」

「あのな、カルラ」

「雷庵は?」

 

 ナツメは一瞬言い淀んだ。その様子に、カルラは大きな目を瞬いて「私は嫌いだ」と言い切った。

 

「あいつはいやな奴だ。いつもナツメが嫌がることばかりする」

「それは、まあ」

「あいつとも、何かあったんだろ?」

 

 ナツメはまたアリーナに視線を向けた。やはり、しらを切るのは無理なようだ。

 

「大したことじゃないんだ」

「ナツメ! なんであんな奴庇うんだ!」

「庇ってるわけじゃない。図星をつかれて、私が勝手に感情的になっただけなんだ」

 

 言ってからナツメははたとした。そうか、自分が王馬に対して放った言葉も、それと同じか。だとしたらなるほど、自分も相当にいやな奴に違いない。

 

「それは、ナツメがそんなに怒るようなことを言ったあいつが悪いんだ。だって、ナツメが怒るなんてよっぽどだから」

 

 カルラは分かりやすく不貞腐れたような声で言う。彼女の中で、自分はどれだけ我慢強い性格になっているのだろう。ナツメは確かに、人からそう思われるように振舞ってきたし、そうあれるように自分を律してきた。だが、

 

「そうでもない。私は結構、感情的になりやすいんだ」

 

 それは自分が一番良く分かっている。そして雷庵も、きっと分かっているのだ。

 

「そんなところ、見たことないぞ?」

「見せないようにしてる」

 

 おそらく雷庵はそれが気に入らないのだろう。だから、こちらの神経を煽り、逆撫で、本性を曝け出せと焚きつけてくるのだ。

 

「どうして?」

「嫌いだからだ」

「何が」

「自分が」

 

 視線の先で、また血飛沫が上がった。出血したのは坂東だった。観客たちがまたどよめている。

 

「か、刀です! 英選手の掌から、刀のような物が飛び出しています!」

 

 鞘香の実況が示す通り、英の両手から鋭い刃物が突き出ていた。刃渡り三十センチほどの両刃の剣である。

 

「私の大腿骨から切り出したお気に入りさ。ギミックの設計から骨の加工、手術まで私一人でやったんだ」

 

 楽しかったなあ、と英が自慢げに笑った。

 英が自身の肉体を改造し、様々なギミックを施していることは知っている。しかし、実際にそれらを目の当たりにしてみると、ナツメには理解の及ばない――というより、理解する気も起きないものばかりである。

 世間一般の常識など通用しない『中』で育ったナツメの感覚でもっても、正直イカれていると思うことはしばしばある。だが、その狂気に対する嫌悪や忌避感はないし、そういう英だからこそ、長く付き合えているのだと思う。お互い、「普通の人間」の枠組みから外れた存在だ。

 

「私は好きだぞ」

 

 カルラの声に、ナツメは横目を向けた。

 

「エレナも茂吉も、英も、ホリスも怜一も、きっとお前のことが好きだ」

 

 それは〝今〟の私を、だろう。そう思ったが、口には出さなかった。

 常に冷静で、何事にも動じず、感情の起伏は穏やか。周囲にそう評される度、ナツメは安堵と共に皮肉めいた思いを抱く。自分の性質が本来、その対極に位置していると良く知っているからだ。雷庵が言う〝あっち側〟に、本来の自分は存在する。

 人生の大半をかけて作り上げた〝今〟の自分。そうして被った〝化けの皮〟がなければ、カルラがこんなにも好意的であったはずがない。きっとホリスだって、手を貸してくれたりはしなかっただろう。

 ――ホリスが私の信頼につけ込んだ? 違う。ホリスを利用したのは私の方だ。

 硬い表情で佇んでいた男の姿を脳裏に蘇らせ、ナツメはカルラを視界の外にした。

 あの男を殺すために、協力を申し出てきたのはホリスの方だった。四年ほど前の話である。最初は突っぱねたが、最終的に受け入れたのは他でもない自分だ。

 ホリスはあの男に友人を殺された。あまりにも無残な殺され方だったと聞く。そんなホリスがあの男を憎んでいるだろうことは想像に難くなかったし、力量も充分だった。自分があの男を殺せなかった時の保険として、手を組むのも悪くないだろう。

 ナツメは、そんな打算でホリスの申し出を受けたのだ。無論、理由は他にもある。

 かの人物はナツメにとっても大きな存在だった。あの呉一族の黒い目を見て、信じてもいいかと初めて思った人だった。ただ、それがいけなかった。そのせいで殺されてしまったと言っても過言ではない。ホリスの提案を飲んだのは、それゆえの後ろめたさからだったのかもしれない。

 そんな歪な協力関係。端から見れば、実に滑稽なものだっただろう。本来ならば、互いに責めて、憎んで、殺意を向け合うくらいが丁度いい。それがナツメとホリスの――『伏野』と『呉一族』の関係なのだから。

 何百年と続く因縁。ナツメにとっては『呪い』としか言いようのない宿命。自分には関係ないと断じても、この身に流れる血が不干渉を許さない。

 ――理不尽だ。そもそも、手前勝手な理由で不要な血を混ぜたのは『呉一族』の方なのに。

 そう思ったことは一度や二度ではない。ナツメはその度に感情を噛み殺した。何度も何度も繰り返し嚙み砕き、腹の底に沈め続けた。そうする以外、生き残る術はなかったのだ。たった一人で『呉一族』を相手にして、勝てる見込みなどあるはずもなかったし、何よりあの男と同じにはなりたくなかったから。

 そうして溜め込んだものが父に――あの男に向かったのはある意味当然だった。あの男さえいなければ、自分がこうなることはなかったのだ。

 あの男が『呉一族』を手にかける度、そこから生まれた憎しみがナツメにも向かってきた。身に覚えのない恨みで体に傷が増える度、あの男を殺さなければ殺されるのは自分なのだと痛感した。

 だから、あれは殺さなければいけないのだ。そのために、ナツメは随分と多くのものを犠牲にした。二虎の死も、王馬のこともそこに含まれる。その結果が散々な今だとしても、あの男が生きている確信を得てしまった以上、引くことはできないのである。

 今度こそ、絶対に。もう誰の手も借りたりはしない。ホリスとは、あとでもう一度話さなければ。

 己の思考をそう帰結させ、ナツメはゆっくりと瞬きしてからカルラを見た。

 

「言っただろ、私もお前たちのことは嫌いじゃない。だからこそ、何も聞かないでほしいんだよ」

 

 何も知らないでいてくれれば、この関係を維持できる。何の打算も忖度もない純粋なカルラの好意を、壊してしまわずに済むのだ。

 結局、自分のことばかりか。ナツメは心の中で苦く笑った。

 カルラの大きな目が、じっとこちらを見つめている。目尻がきゅっと上がった猫のような目だ。

 自分とカルラは似ているらしい。ナツメにその自覚はなかったが、鞘香からそう言われたことがあった。まるで姉妹みたいだね、と。彼女に他意はなかっただろう。それでも、胸の奥深くまで刺さって抜けない棘のような言葉だった。

 

「――分かった」

 

 カルラが深く頷いた。それから目を伏せ、少し躊躇うように言い淀んでからもう一度ナツメの腕に触れた。

 

「その『嫌いじゃない』の中には、やっぱり雷庵も入ってるのか?」

「……入ってるよ」

「あんないやな奴なのに」

「いやな奴だとは思ってる」

「いやな奴だと思ってるのに嫌いじゃないのか? どうして?」

 

 ナツメは視線をそらし、「どうしてだろうな」と嘯いた。

 本当は分かっている。もしあいつの挑発に乗って本性を曝け出したとしても、あいつは侮蔑も嫌悪もなく、それでいいと笑うに違いない。ナツメが醜悪だと嫌悪するこの本性を、笑って受け入れるような奴は、きっと雷庵くらいなのだ。

 あいつとも一度ちゃんと話せれば。そう思うが、あの性格を考えるとなかなか難しいだろう。

 

「私は、ホリスの方がいいと思うぞ」

「――なんだって?」

 

 ナツメが思わず聞き返すと、カルラは妙に深刻そうな顔で一歩詰め寄ってきた。

 

「確かに雷庵は強い。ナツメとあいつならきっと強い子が生まれる。強い子孫を残すことは呉一族の将来のために大切なことだ。でも」

「カルラ、一体何の話を」

「でも、やっぱりダメだ! あいつはお前に相応しくない! ホリスじゃダメなのか? それか、怜一の方がまだ雷庵よりは!」

 

 その時、悲鳴が通路にこだました。音が反響して、その声が誰のものかは聞き分けられなかった。反射的に向けた視線の先には、アリーナを見つめて震える心美と、両手で顔を覆ったエレナの姿がある。更に視線を伸ばせば、顔や胸部から血を流しながらもどっしりと佇む坂東が見え、その足下に、糸の切れた人形のように崩れ落ちた英の姿が見えた。その英の首が、おかしな方向を向いている。

 

「――お、折った! 坂東選手、英選手の首を一瞬でへし折りましたッ!」

 

 鞘香の実況で状況を理解した。

 

「これは、英選手の生存が危ぶまれる事態となってしまいました!」

 

 茂吉と同じ状況。そうと分かった瞬間、ナツメはエレナに駆け寄っていた。

 

「エレナ」

「な、ナツメさん……、先生が……」

 

 顔を上げたエレナは、血の気の引いた顔で目に涙を滲ませていた。

 自分がちゃんと仕合を見ていれば、決着の瞬間にその目を塞いでやることもできたかもしれない。そんな後悔の念に眉を顰め、ナツメはエレナの肩に手を置いた。

 

「心配ない、英は()()()だ」

「え?」

 

 エレナの困惑は当然だったが、説明は後回しだ。ナツメはカルラを呼び、エレナの傍にいるよう頼むと、今度は心美に目を向けた。心美もエレナと同じくらい青い顔で、アリーナを見つめたまま震えている。この様子では「大丈夫だ」なんて言葉は届かないだろう。

 

「……すぐに担架が通る。ここにいたら邪魔になるから、全員奥に移動するんだ」

 

 声をかけた途端、心美は信じられないとでも言いたげな顔でナツメを見た。

 

「なんで……。なんで、そんなに冷静なんですか。ナツメさんと先生はご友人なんでしょう?」

 

 友人? ナツメは心の中で首を傾げた。英と自分の関係は、医者と患者だろう。冷静でいられるのは、英はこの程度では死なないと思っているからで、更に付け加えるなら、あの程度の死体は見飽きているからだ。()()を死体と呼んでいいのか分からないが。

 と、思いこそすれ、ナツメはそれらを口には出さなかった。涙で濡れた心美の目を少し見返して、すぐにアリーナへと視線を流す。英が担架に乗せられるところだった。

 その傍に立っていた坂東と、不意に目が合った。そこに感情らしい感情はやはり見られなかったが、不思議と仕合前より人間らしい何かがあるように感じたのも一瞬、坂東は何も言わずに踵を返してアリーナをあとにした。

 それと入れ替わるように、ナツメは入場口から踏み出した。今日だけでもう散々注目を浴びている。ざわめき出す観客の声も視線も、今更どうでも良かった。

 ナツメはまず、担架を運ぶ救護班の二人に声をかけた。

 

「医務室まで運ばなくていい」

「え……? し、しかし、すぐに治療しなければ」

 

 真っ当な反応だ。ナツメの発言は、聞きようによっては英を見殺しにしろと言っているようなものだった。

 

「いいんだ。適当なところで降ろしてくれ。あと、そいつの血には触れるな」

 

 ナツメは担架の上の英を見た。先程までは手足を痙攣させていたが、今は何の反応もない。まるで、本当に死んでいるように見える。いや、実際死んでいるのか。だが、英なら大丈夫なはずだ。……大丈夫、だよな?

 なぜだか少し不安になった。そんな自分に「英だから」と言い聞かせ、更に足を進めてアリーナの中央へと歩み出た。

 

「ど、どうかしたのか?」

 

 Dブロック担当のレフェリーであるチーター服部(はっとり)が、オロオロとして駆け寄ってきた。元闘技者で、引退して久しいと聞いたが、五十半ばにしては体格のいい男だ。

 ナツメは服部の全身にさっと目を通した。

 

「血を被ったりはしてないな」

「え?」

()()は消毒がいる」

 

 地面を赤黒く染める血に目を向ける。英が手から血を垂れ流しながら骨剣を振り回したせいで、随分広範囲に飛び散っている。

 

「服部、すぐに清掃を始めさせろ。一滴の血も残させるな。作業する奴らにも、素手で血に触れるなと伝えておけ」

「そ、それはどういう……」

「触れてもすぐに死ぬことはない」

 

 坂東が自分の足で歩いて出て行ったのだから、それは保証できる。そもそも、この血が毒である確証はない。それでも、英ならやりかねないのだ。彼の仕事を手伝った時、ナツメはそれで酷い目にあったのだから。すぐに英の処置があり、尚且つ毒にある程度の耐性を持ったナツメだったから大事には至らなかったが、苦しみ悶えながらのた打ち回って死んだ標的の姿には、確かにぞっとするものがあった。

 それを思い出せば、この対処は大げさではないと断言できる。たった一滴残った血が、これから仕合に臨む闘技者たちの生死を左右する、なんて事態は避けてしかるべきだろう。

 ナツメはトーナメントなんてどうでもいいと思っているが、だからといって闘技者たちが命を落とすことを望んでいるわけではないのだ。

 服部は目に見えて狼狽えている。ナツメが冗談でこんなことを言うはずがないと分かっているのだろう。自身の体を確認し、それから慌てて無線で連絡を取り始めた。

 もう任せておけばいいだろう、とナツメが踵を返せば、どこか不安そうにこちらを見下ろしている鞘香の姿が目に入った。

 ナツメは少し考えたあと、鞘香がいる実況席方向へ地を蹴った。助走をつけ、壁の直前で強く踏み込んで飛び上がる。アリーナの壁の高さは三メートルと少し。指をかける凹凸もない垂直の壁だが、ナツメにとっては大した障害ではなかった。

 壁を二歩で蹴り上がり、縁を掴んで一気に体を持ち上げる。そうして悠々と観客席へ上ったナツメを、目を丸くして固まった鞘香が出迎えた。その隣で、ジェリーが実況席から身を乗り出し、「Oh! 素晴らしいPHYSICALデスネ!」と白い歯を見せた。

 そんなジェリーの称賛を聞き流して、ナツメには鞘香を手招きした。

 

「ど、どうしたの?」

 

 途端、不安そうな顔つきに戻った鞘香に「大したことじゃない」と前置きして、彼女にだけ聞こえるように声を潜めた。

 

「ただ、下の清掃に時間がかかりそうなんだ」

 

 鞘香は「あー」と嘆息のような息を漏らして苦笑した。

 彼女のこの反応は予想していた。仕合と仕合の間隔が空くと、闘技者は勿論、観客たちの苛立ちも募ってくる。次の仕合はまだかと騒ぐだけならいい。だが、このあとに控えているのは、ボクシングのヘヴィー級四冠王者であるガオラン・ウォンサワットで、その次にはいよいよ〝滅堂の牙〟加納アギトが登場する。観客たちの熱気も一入(ひとしお)だ。そんな仕合の開始が遅れるとなれば、実況席に詰め寄って来る輩も出てくるかもしれない。

 鞘香の身に危険が及ぶ。そんなことはあってはならないし、その前に脅威を断つことが護衛者であるナツメの仕事だ。だが、ナツメには御前から直々に言い渡された「加納アギトのセコンド」という仕事もある。アギトの仕合まで残すところあと一戦。もういい加減、彼のもとに向かわなければ。だが、こんな懸念を残したまま鞘香から離れるのは……。

 そんなナツメの逡巡を察したのか。鞘香が「ナツメさん、私は大丈夫だから」と笑った。

 

「ここには他にもたくさん護衛者の人がいるし、ナツメさんにはナツメさんのお仕事があるんだから。私のことは気にしないで大丈夫だよ」

 

 確かに、会場の警備についている護衛者は他に何人もいる。鞘香の隣にはジェリーもいるし、サーパインもまだ観客席にいる。一般人が束になったところで相手にもならないだろう。

 ――烈堂の過保護が移ったかな。ナツメは苦笑して「ああ、分かった」と頷いた。そうして鞘香に背を向け、登ってきたばかりの壁を飛び降りた。

 着地とほぼ同じタイミングで、横手にあった入場口の奥から悲鳴が響いてきた。複数重なり合った女の叫び声だった。

 まったく、今度は何なんだ。ナツメはうんざりとしながら駆け出した。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。