「ボクが、負けた……」
膝をつく千野の声に覇気はない。打ちひしがれた姿からは、戦意は寸分も感じられない。頭ではなく、心が悟ってしまったのだ。
「歴史は繰り返す、か。所詮、血之池は裏葉に勝てない運命だったってことだ」
自分に言い聞かせるように、千野の声は小さなものだった。
できることは全てやった。使えるモノも全て使った。それでも、実を結ぶことはなかった。足掻いても足掻いても、裏葉には届かない。血之池は裏葉に決して勝てない。そう運命付けられているとでも思わなければ、千野やっていられなかった。自然と自嘲の笑みが出る。
「いや、あんたは強かった」
素直な称賛。その言葉に、嘘偽りはない。
けれど、勝者から敗者に告げられる言葉など慰めや嫌味にしか聞こえない。湧き上がった感情に駆られ、面と向かって叫ぶ。
「ふざけるな! なら、なんでボクはキミに勝てない! キミに勝つためになんでもやった! 家族を捨て、他者を利用し、泥を啜って生きてきたんだぞ! キミみたいな恵まれた奴に、どうして……」
激昂から始まるも、最後は縋り付くような声だった。
誰の記憶からも忘れ去られてしまった血之池に対し、裏葉はその名を今も轟かせている。三大瞳術の一つである写輪眼を持ち、「エリート一族」や「古式の名門」と呼ばれ、知らぬ者はいない。時代の中で流行り廃りこそあったが、それでも有名なことに代わりなかった。そんな名家に生まれ、現代魔法においても十師族と渡り合うほどの才能を見事に受け継いだ秋水は、千野の言う通り恵まれているのだろう。
実際は、輝かしい経歴だけが全てではない。栄光と同数か、それ以上に挫折や苦悩があった。けれどそれを知らない者は、知っている部分だけを切り取ってその者の人物像を作り上げる。千野が秋水に対してそうであるように。逆も、また然り。結果、作られた偶像が本体と遠くかけ離れたものになっている、なんてことは珍しいことでもない。
秋水からしてみれば、敵がどのような偶像を作り上げて、どんな思いを抱いていたかなどは些細な問題だった。誰であろうと関係もない。牙を剥くならば、ただ排除をするだけ。
「簡単なことだ。手を出すべきじゃなかった、それだけだ」
滑るように真実が出てくる。過去の自分に似ているからなのか、秋水の中で何かが変わり始めた証拠なのかは定かではない。
対象が秋水ではない。何のことを、誰の事を指しているのかが千野はすぐにわかった。
「それだけ……そんなことでッ!」
再燃した怒り。許せなかった。不確定で曖昧な物のせいで負けたことが。それは脳内の化学物質のバランスが崩れ、一時的にバグを起こしているにすぎない。真っ赤に染まった眼が、血液を鋭利な槍に変えた。
矛先が秋水の眼の間近まで迫り、止まる。
赤い槍を阻むのは、白い盾。槍は砕け、破片が液状になって散らばる。
「違う……違う、違う! 違う!! ボクが超えたかったのは、そんなオマエじゃない!!」
裏の世界に留まらず、九校戦という現代魔法師の晴舞台に颯爽と現れ世間の注目を掻っ攫う。抱いたのは妬みや恨み、憎しみだけでなかった。相手の土俵で他を寄せ付けない力を見せつける。戦場で力を振るう姿はまさに闘神。他を隔絶する圧倒的な戦闘力に、千野は憧れた。超えたいと思った。決して他人を想う人間的な部分などにではない。
「お前がどう思おうと勝手だが――――」
人は思い込みの中で生きている。かつて同族殺しという大罪を背負った英雄が、口にした言葉。千野が抱いた秋水の人物像は、冷酷無情で完全無欠だった。他者を気にかける情など持ってはいない。
だからこそ、千野がそんなことでと思うのは無理もない。だが、秋水のルーツを辿れば行き着くのは裏葉と千手。両家とも愛を力とする一族だ。ズレてしまっていたベクトルが何かをきっかけに正しい方向へと向くことは、不思議な事はない。何より昔から男がここ一番で力を発揮するのは、愛する者のために戦う時だと相場が決まっている。
「俺はもう、失うわけにはいかないんだ」
母を、姉を、秋水は大切な人を二人も失った。心が鋭利な刃物で切り裂き貫かれたかのように痛んだ。どれだけ力をつけても、欠けてしまった心の穴は埋まらなかった。それどころか、なぜあの時と自己嫌悪をする一方。修復することは無理に等しかった。
喪失感と言う名の傷口が広がろうとするならば、対処せざるを得ない。
千野は秋水の眼を見て理解してしまった。彼の中で、何かが崩れだした。
「……そんなに彼女が大事かい?」
秋水は一度、一瞬だけ千野から視線を外して別の場所を見た。その先には人影は見えない。
ここまで来て、今更取り繕う必要はない。失うことを恐れて手を伸ばそうともせず、ずっと蓋をして抑え込んできた気持ち。己と向き合って確信を得たからこそ、他者の協力を求めたのだ。
「……ああ」
「そうか」
どこか満足した表情。憑き物が落ちたように見えたのは、眼の赤さが引いていき、普通の目に戻っただけではない。
「もういい、さっさと殺してくれ」
千野は、自分が負けた場合の結末がどのようなものになるか想像できていた。末端兵でさえ殺されるのだから、首謀者が死刑以外の道などあるはずもない。違いがあるとすれば、道中の過程。一思いにあの世に送られるか、貴重な血継限界の保持者として体中を弄り回されるか。
「生憎だが、お前の身柄を引き渡すという約束がある」
協力を得る際、誰もが二つ返事で了承してくれたわけではない。中には強かに条件を付けてきた者たちもいた。その一人が提示してきた条件が、本事件における首謀者の身柄引き渡し。よって殺すことはできない。
「死にたいのなら、そいつに頼め」
万華鏡へと再び変化した写輪眼が、千野の意識を奪う。力の抜けた体が、音を立てて地に倒れた。千野の首根っこを左手で掴むと、秋水は右手で端末を操作して電話をかける。数コールしない内に相手が出た。
「首謀者を捕まえた。これから連れて行く」
『わかりました。こちらもあらかた制圧は終わっています。所定のポイントで合流を』
電話越しの声は、ハキハキとしていて聞き取りやすい。そして女性のものだ。
「わかっている」
なぜ生け捕りか、その答えは単純明快。第一高校を襲撃した首謀者は千野だが、彼の仲間はまだ全て捕まったわけではない。彼らの特性を考えれば、この瞬間にも増加していると見た方が良いほど。そんな彼らの情報を、喉から手が出るほど欲しい相手がいるのだ。秋水にとっては終わりでも、彼らからすれば通過点でしかない。
『お願いします』
秋水は、返事の代わりに通話を切る。
一段落ついたと思うと、体にどっと疲れが押し寄せる。完成体須佐能乎を使用した事によるチャクラ消費よりも、常に張っていた気が緩んだことによって一気に押し寄せた精神的な疲労が遥かに大きい。秋水は一度体内の空気を入れ替えると、集合場所へと向かうために飛雷神を発動させた。
身柄を引き渡してから再び学校に戻ってくる。一時間も経っていないが、既に戦闘が行われている独特のピリピリとした気配は皆無。かと言って静寂というわけでもない。どこか慌ただしい雰囲気は、早々に事後処理を始めたのだろうと秋水に思わせた。生徒たちの安全と施設の倒壊具合の確認、復興予算の見積もり、各種マスコミへの対策などなど、やるべきことはいくらでもある。
秋水が校舎内を移動していると、真由美から連絡が入る。文面は簡素で、待ち合わせの場所が記されているだけだった。秋水は進路を変更し、目的地へと歩を進める。
扉の前まで来くる。インターホンを押そうと指を伸ばした所で、自然と手が止まった。伸びていた指先が丸まり、腕が少し下る。何があったわけでもない。秋水の中で葛藤があるだけ。
(何を今更……)
怖気づいてどうすると言い聞かせる。インターホンを押して名を名乗ると、すぐに返答と施錠が解除された。
扉が空いて通り道ができたことで、窓から風が流れ込む。換気でもしていたのだろうか。冬の冷たく乾いた風に靡く黒髪が、秋水の目を引いた。
「何かお飲みになりますか?」
懐かしい言葉だった。真由美もそれを自覚しているのだろう。いたずら心が表情に現れている。秋水に関する記憶が戻っていることは、最早確かめるまでもない。
「いえ、必要ありません」
秋水は己の記憶を辿りながら、似た回答をする。席に座ると、改めて生徒会室を見渡す。すでに会長は真由美から中条あずさに移り、役員も変わっている。テーブルや椅子の配置は一切変わらない。そのせいか数ヶ月前までいた場所は、やけに懐かしく覚えた。
「来てくれて良かったわ」
「約束は守ります」
その返答を聞くと、真由美は小さく笑った後に窓の外に目をやった。一呼吸おいて、そのまま話し出す。
「今回の事件、校舎の損壊はあるけど、奇跡的に死傷者はいないそうよ」
一旦言葉を区切り、真由美は秋水と目を合わせた。
「秋水くんのおかげね。ありがとう」
感謝されることが、これほどこそばゆいものだっただろうか。秋水は視線を合わせていられなくなり、隅に置かれている自配機を避難所にした。
「俺は千野と戦っただけです。被害が出なかったのは、他の吸血鬼たちを相手取った生徒たちがいたからですよ」
「その生徒たちに事前に知らせたのは秋水くんなんでしょ? 達也くんから聞いたわ」
余計なことを。達也に対する毒も、声になる寸前で止まる。本人のいない所で言っても意味はない。仮にこの場に達也がいて文句を言った所で、募ったことを他言するなとは言われていない、と躱されてしまうのが関の山。ルールの隙間を掻い潜ることが得意なのは、九校戦の時点でわかっていたことだ。
「それでも、やるか否かを決めたのは彼らです」
要求を受諾するかどうかは、受け手次第。了承しやすいように条件を設けはしたが、基本的なスタンスは変わらない。
「素直じゃないんだから」
「事実を言ったまでです」
その返答こそ素直ではない証なのだが、他に上手い返しが出てこなかった。何を言った所で、結局はそこに帰結してしまいそうだと、秋水は思ってしまった。
真由美も同じことを思っているのか、クスクスと笑っている。少し経つと、窓を閉めて座るように促す。
秋水が座ったのは、かつて自分が使用していた席。
真由美はかつての自分の席には座らず、秋水の隣に腰を下ろした。二人の距離は近い。
「さてと、約束通り全部話してもらおうかしら」
手を叩いて話の区切りを付けた真由美は、一気に本題に踏み込む。後は流れに任せるだけ。
秋水は頷くと、何から話そうかと考え出す。
沈黙が訪れた。
防音機能が元々備わっている生徒会室は、内部の人間が黙ると一気に無音に近い状態になる。何か音を拾おうと聴覚が機敏になって、ようやく機械の微かな駆動音が聞こえるくらい。もしかしたら心音が聞こえてしまうのではないかと、要らぬ心配までしそうになる。
「何から話せば良いのかわかりませんが――――」
重い口をようやく開く。
回りくどいのは嫌い。いつ横やりが入るかわからない。だからこそ、一言で簡潔に伝える必要があった。
「俺は、貴女のことが好きなんだと思う」
秋水はこれまでの人生の中で、家族以外の誰かを好きになったことがない。好きならないようにしてきたと言ったほうが正しいのかもしれないが、そのせいで愛情の形の区別がつかなくなっていた。それでも、真由美に対して抱く感情が好意であることは間違いなかった。
真由美の顔がみるみる赤くなっていく。
全く想定していなかったわけではない。告白されることに慣れていない訳でもない。家柄や容姿もあって、平均以上にこの手のシチュエーションを経験している。真由美の脳内では、経験によって培われた何パターンの道筋があった。予想通りに行かずとも、雰囲気である程度は察せるとも思っていた。ただ今回は、それらが全く役に立たなかっただけ。心の準備をする前に告げられたことは、彼女にとって不意打ちだった。
「え、えっと……気持ちは嬉しいんだけど、なんで私を?」
真由美は混乱しながらも、疑問の解消を図る。
「貴女は、俺を救おうとしてくれた」
人を見る目は優れている自信があった。真由美に思惑があったことは確かだが、それでも助けたいと言う思いは紛れもなく本物。その温かさは、凍てつく心を温めてくれた。
「それだけと思うかもしれないが――俺にとっては、それが何より嬉しかった」
身を案じてくれた。孤独であることも、一人で抱え込む必要も無いと言ってくれた。何より、信じてくれたことが嬉しかった。
「なら、どうしてあの時……」
拒絶したのか。
図らずも真由美の口から出た言葉には、嘆きの色が乗っていた。朱色に染まっていたはずの頬は、その面影を残す程度になっている。
「俺といれば、貴女は危険な目に遭ってしまう」
裏葉を狙う者は多い。もしもあの時言葉に乗っていれば、魔の手は真由美にも迫っただろう。裏葉の情報を握る重要人物として。如何に十師族の七草とはいえ、四葉と比べれば危険に晒される可能性は高い。だからこそ払い除けなければならなかった。
「それだけは避けたかった」
己の手は血に
俺では、幸せにすることはできない。
言語化された思考は、頭の奥深くに張り付いて剥がれようとしなかった。
見返りにできることは、陰ながら守ることが精々。幸せになってくれるのであれば、喜んでこの手を汚すつもりだった。決して日の当たらぬ、葉の裏のように。もしも誰かを傷つけなければならぬ時が来たならば、代わりに傷つけよう。もしも傷つかなければならぬ時が来れば、代わりに傷つこう。それが一番だと思っていた。
「結局、思い通りにはならなかったが……」
今回の事件は、その最たる例だ。影から支えようと離れていたせいで付け入る隙を与え、後手に回り続ける羽目になった。もしも傍にいたならば、犠牲者はもっと少なくて済んだだろう。
「俺の独りよがりな考えで、貴女を危険に晒してしまった。全ては俺の責任です。本当にすみませんでした」
頭を深く下げる。自責の念がそのまま重りになったかのように、秋水の頭は上がる様子がない。
「そんなこと言わないで。私も、私の家族も無事よ。それで良いじゃない」
七草側の被害は、関係者に留まっている。本家の人間は吸血鬼によって齎された被害はない。真由美が狙われたのは秋水が原因だとしても、その関係者たちまでそうだとは言い切れない。あくまで可能性の一つ。被害者がどう思おうとも、秋水が責任を感じることはないと、真由美は考えていた。
秋水は顔を上げる。
「それは運が良かっただけです。次もそうとは限らない――――」
秋水の言う通り、運が良かっただけ。これ以降似たような事件が起きないとは言い切れない。そして次も無事で済む保証はどこにもない。より狡猾に、より陰湿に、より強力に、想像も及ばない手段で攻めてくるだろう。他者を慈しむ心を持ちながら、目的のためならばどこまでも残酷に成れる、それが人間だ。
守るためにはどうすれ良いのか。悩み考え抜いた末に出した答えは、至って単純なものだった。
「だから、もしも貴女が認めてくれるのなら……これからは影からではなく、隣で貴女を守らせて欲しい」
常に傍にいれば、それだけ対応速度は上がる。狙われることには変わりないのかもしれないが、秋水がいることで簡単には手を出せなくなる。完成体須佐能乎のような圧倒的な暴力を持つ一方で、その背後には最強と目される女王が控えているのだ。よほどの馬鹿か、力自慢でも無い限り挑みはしないだろう。
想いを告げるのは存外難しいものだ。成否に関わらず、伝えてしまえば関係は変わる。一歩を踏み出す勇気が必要になる。それを手にするのに、秋水は長い時間を要してしまった。
秋水は真由美の目を見て、じっと返事を待つ。
ブランシュによる第一高校襲撃の時も、
彼もまた、弱さを持った一人の人間なのだと。
写輪眼を筆頭に強力な魔法をいくつも持ち、同世代に限らずトップクラスの実力を有している。けれどその裏には、ガラス細工のような繊細さが隠れていた。幼くして母と姉を亡くし、愛を失う辛さを知った。同世代の男女よりも早く大人にならざるを得なかった秋水は、悲劇が二度と起きぬように愛を心の奥底に閉じ込めた。他人と距離を起き、一人で生きていこうとした。
初めから持っていなければ、決して失うことなど無いのだから。
だが、人は孤独に耐えられない。どうしても他者との繋がりを求めてしまう。愛情深い裏葉と千手の血を引く秋水ならば、それは尚の事。
答えがわかれば、見え方も変わってくる。これまでの行動が自分を守るためだっと考えると、愛おしく思えてならなかった。
立場を考えるならば、真由美は秋水の手を取るべきではない。今現在の十師族内における力関係は、裏葉を取り込んだ四葉が頭一つ抜き出ている。ここで七草が持つ第三研究所と第七研究所の研究成果が流出してしまえば、四葉を止めることができなくなってしまう。力の一極集中は独裁を生み出す。よほど舵取りが上手くなければ、その先にあるのは反逆者を弾圧する恐怖政治と破滅。それは歴史が証明してきたことだ。
頭では分かっている。そういったことを考えなければならない立場であると。けれど、まだ一八歳だ。多感な時期に感情を完全に制御することは難しい。実際真由美は、秋水の手を取りたいと思ってしまった。
断ろうとも、きっと身を粉にして守り続けてくれる。気づかれないように存在を隠匿し、決して目の前に現れはしないだろう。不老不死でもなければ無敵でもない、いずれは果てる時が来る。それならば隣にいて、様子を見れる方が良い。支えられるだけではなく、支える存在でありたい。それがおそらく、最善の道だと真由美は考えていた。
理屈を捏ねているが、そこに使命感や義務感はない。根底にあるのは好意。故に、返答は決まっている。
「ちゃんと守ってね」
少し頬を赤く染めながら、真由美は秋水の手を取った。