これは、初めから終わりまで、私だけの物語だった。
私に触れる、少女の手のひら。
あたたかい。
この温もりを、私は知っていた。
「助けなきゃっ…………早くッ……!」
あの時と同じだ。
傷口は燃えるように熱いのに、感覚が麻痺して痛くない。布きれ一枚で抑えきれるような傷ではなかった。激しい失血で視界は閉じ、声も微かに聞こえるばかりである。それなのに、傷口に触れられる感覚だけは残っていた。
(声が……出ない)
また。
まただ。
私のことなんて放っておいてくれ。
どうせ私なんかいなくても、キョウヤやジンがうまくやってくれるに決まっている。
意味なんて無かった。
「ナナしゃんは……いい人なんだから…………っ!」
違う。
違う。違う。
意味の無いことをするな。
私は誰も救えない。
私は、最初から最後まで、ずっと無能だった。
あの時。
鶴岡と対峙した瞬間。
機会はあった。私の銃口は、間違いなく鶴岡の心臓を捉えていた。
引き金を引かなかったのは、私の甘えだ。
もう二度と人殺しをしない。そんな浅はかな祈りに、私は殺された。
目前の敵をみすみす見逃し、返り討ちにあった。
私には、お似合いの死に様だ。
そのはずだったのに。
「ナナしゃん、ごめんなさい。私は信じられなかったんです。でも、誰よりも知っています。ナナしゃんが、誰よりも私達のことを想ってくれていたことを…………!」
私の頬に、何かが落ちた。
涙。
ミチルの涙だ。
どうして。
どうして私なんかのために、涙を流すの?
それじゃあまるで――
そうして、私は目覚める。
幸せな夢を見る。
私は罪を背負わず、息を吹き返す。
ミチルは死んでいない。
誰一人、死ぬことはなかった。
ヒカルもレンタロウも生きている。
ヒヨリはコハルと同じ部屋で暮らしている。
ジンは捕まっていない。
計画なんて、はじめからなかった。
……本当に?
本当に、幸せだった?
私は一人、反芻する。
口ずさむ。
その歌を、聞く者はいない。
部屋の中にいた。
島にいた頃。私の部屋の中。
私はミチルからもらった枕に、顔を埋めていた。
それは確かに、手に触れられる形を持って存在した。
それは夢。幸せな幻覚。
だが、どこからが幻なのか、私には分からなかった。
「ミチルちゃん、今なにしてるかな……」
部屋の窓を叩く音。
それが誰なのか、私は既に知っていた。そして、この後起こることも、私には分かった。
「しばらく会えなくなるとか言っていませんでしたか?」
「猫は自分勝手なものだろう?」
ジンは私に、ミチルの危機を伝えに来たのだ。
部屋を飛び出す。
走る。
走る。
電話の音。
私はスマホを地面に叩き付ける。
すぐに、着信音は遠くなった。
驚くほど、速く走れた。
やけに多い街路灯。
私が駆けた後に、砂埃が舞う。
「能力者同士が勝手に殺し合うのは、好都合だ」
なら、どうして私は足を止めない?
物音が聞こえた。
風が木々を揺らす。
誰かの声。
「許さないぞっ……!」
ミチルだ。
「あなたがなにを馬鹿にしてようといいですけど、ナナしゃんは……ナナしゃんのことはっ!」
追いかける。
足下に、何かが触れた。
私は拾う。
カッターナイフだ。
いつか私が佐々木ユウカに突きつけたものと、そっくりだった。
私はカッターナイフの刃を出し、左腕に突き立てた。
……痛くない。
これは幻覚だ。
瞬く間に、傷は消えた。
ミチルが廃屋の壁に追い詰められる。
何かを話している。
そして、鶴見川レンタロウはナイフを振りかざす。
まだ間に合う。
私なら、止められる。
止められる筈だ。
もう傷つくことは無い。
今度こそ、声が出なくなる前に。
ミチルに伝えよう。
あなたの代わりに、私を死なせてくれ、と。
私は駆け寄る。
レンタロウとミチルの間に割って入る。
ナイフが、私の身体を貫通する。
血液が噴き出す。
痛くなかった。
それは、これが幻覚だからではない。
ナイフが、ミチルの背に刺さっていた。
触れようとする。指先が空を切る。
ミチルが悲鳴を上げる。
私は――――耳を塞ぐ。
肉の裂ける音。
悲鳴はやがて嗚咽に変わり、そうして何もかもが消える。
血液が飛び散る。
止めることも抱き締めることもできないくせに、私の身体は赤く染まってゆく。
これは罰だ。
あなたを助けられなかった、私への罰。
そうして、全てが朱に染まった時――
暗転。
私は部屋の中にいた。
島の寮ではない。もっと昔。
パパとママが生きていた頃。私の家の、子供部屋。
将棋の駒やトランプのカードは、綺麗に片付けられている。
物音がした。
私はベッドで蹲る。
リビング。人の気配がする。
何かの割れる音。物音が大きくなっていく。
あの日だ。
パパとママが、殺された日。
私はゆっくりと起き上がる。
何度も考えた。
もし、あの日に戻れたなら。
もし、パパとママが生きていたら。
もし――パパとママと一緒に、私も殺されていたら。
ゆっくりと歩く。
小さな身体。
リビングの扉を開く。
誰もいない。
足を踏み入れる。
テーブルの上には、まだ温もりのある二つの生首。
私はそっと、その熱に触れる。
暗転。
私は一人、夜の海辺に立っていた。
どうしてここにいるのか分からない。
どうして生きているのか分からない。
死にたいと願った。
一緒にいたいと願った人は、いつも私より先にいなくなる。
どうして、私を置いてゆくの?
はじめて、一緒にご飯を食べた。
はじめて、私のために怒ってくれた。
はじめて、私を理解しようとしてくれた。
はじめて、私にプレゼントをくれた。
はじめて――友達ができた。
私を置いていかないで。
何度も夢に見た。
あなたが、私を助けて死んでしまう夢を。
私はまだ、何も報いていないのに。
どうして私を助けるの?
どうしてそんなに、私のために必死になれるの?
それじゃあまるで――私が、いい人だったみたいじゃないか。
私は振り返る。
廃屋の側。幸せそうな顔で眠る、少女の姿があった。
押し寄せる波が靴に染み、爪先を濡らした。
いつからそうしていたのか分からない。
いつまでそうしていたのか分からない。
気が付くと私はここで立っていて、ただ一人、水平線の向こうを眺めていた。
振り返ると、ミチルがいる。
私には振り返る勇気がなかった。
現実に背を向けていたのは、私一人。
頭が重い。考えるのをやめてしまいたい。
けど、それはきっと許されない。
私はまた、助かってしまった。
ぬるい潮風に引き摺られるように、私は少女の元へと歩いた。
私は少女を見下ろす。星影ができるほど近付いているのに、少女はぴくりとも動かない。
ただ瞼を閉じ、人形のように佇んでいた。
私はしゃがみ込み、肩を抱く。
少女の胸元に耳を当てる。
波の音。
風が木々を揺らす。
地面に突き刺さったナイフ。
柱の軋み。
脱げて転がった靴。
ぼろぼろになった制服。
土埃にまみれたカーディガン。
こんなに近くにいるのに、あなたの気配だけがない。
流れてゆく。
あなたとの記憶が流れてゆく。
これは幻覚?
確かにそれは、私の内側にあったものだ。
なのに今、それらは指の合間をすり抜け、ただの一粒も残ってはいない。
「やだっ…………やだあああっ――――!!!」
嗚呼。
私はまた、あなたを救えなかった。
夢の中でさえ、私は無力だ。
記憶が消えてゆく。あなたとの思い出が消えてゆく。
何度も掬い上げようとして、また零れ落ちる。
そうしてすぐに、零れ落ちたことにすら気が付かなくなる。
私は一人、夜の海辺で、“人類の敵”の亡骸を抱き締めていた。
いつからこうしているのか分からない。
どうしてこんなことをしているのかも分からない。
ただ、一つ気が付いたことがある。
私が今、悲しいという感情を持っていることだ。
どうしてこんなにも悲しいのか分からない。
ほんの少しの時間だった。同じ教室で過ごしただけの“人類の敵”。
その時、指先に何か触れた。
拾う。
それは、私が少女のために買った、一本のペンだった。
視界がぼやける。
何故だか分からない。
私は泣いていた。
涙を流していた。
私は無能で、人殺しだ。
それでもなお、前に進むか。それとも、引き返すか。
どのみち、立ち止まることは許されない。
やるべきことは、たくさんある。
きっとすぐに、私は歩き始める。
だけど、今日だけは。
最後に一度だけ、あなたに甘えることを許して欲しかった。
許して欲しかったのに。
私は、少女の胸に顔を埋める。
あなたの匂いを、忘れてしまわぬように。
あなたの記憶が、消えてしまわぬように。
僅かに残った熱を、失わぬように。
朝が来るまでずっと、小さな亡骸を抱き締めていた。
ありがとうございました。