明くる日。私は後藤さんと一緒に再び
「後藤さん、入りますけど……大丈夫そうですか?」
今日も私の背後にピッタリと付いて来た後藤さんの表情を
「はっ、はい……。 に、
視線を合わせてはくれませんでしたが、その瞳にはある種の決意が見て取れました。これならひとまずは大丈夫そうです。……しかし、後藤さんは
後藤さんに比べれば対人能力はあるつもりですが、実際のところバンド内に溶け込んでいるのは彼女のほうかも知れません。結束バンドで続けていくという考えも薄かった当初は、皆さんを名字呼びで統一しようと考えていましたが、バンド仲間として関係を深めていくのであれば名前やニックネームで呼んだほうが良いのでしょう。タイミングを見て後藤さんに
「チケットの販売は5時からで──なんだ、
「
「
「これからは店長って呼んでくれればいいから。新しいバイトが入るってのも
私は結束バンド加入前からメンバー募集の掲示などをさせてもらった経緯もあって、すでに名前を知っていただけているようですが。
「あぇっ、あのっ。ごっ、後藤ひとりっ、です。よろしくお願いします、へへ……」
店長から暗に自己紹介を促された後藤さんは、噛みながらも名前を口にし、最後には笑顔まで浮かべてみせました。……やはり、後藤さんは凄いですね。愛想笑い一つ浮かべられない、どころか見せようという発想すらしない私と比べ、たしかに笑んで見せたのですから。すごく引き
「おっ、二人とも早いね~っ」
「や」
バイトとしての顔合わせを済ませていると、入り口階段から
「今日は掃除と受付だけ。ぼっちが習ってるキッチンとホールは今度やる。とりあえず見て真似して。分からないことがあったら聞いて欲しい」
まずは掃除ということになりましたが、山田さんも後輩に教えたりという経験は無いらしく、見て盗めという方針になりました。見様見真似で出来ないことでもありませんし、特に口も挟まず山田さん同様掃除に精を出します。掃除する箇所や道具がルーチン化しているようでテキパキと処理する山田さんについていくのですが。
「……なんと言いますか、もともと綺麗なので思っていたより大変ではありませんね」
日頃から力を入れているらしく、隅々まで片付いていて掃除をする甲斐はあまり感じられませんでした。
「平日のはじめはこんなもん。客が入って、ライブも始まると一気に汚くなる。本番はライブが終わって客が帰った後」
「なるほど。基本的には、一日に二回清掃作業が入るんですね。それでも日頃からやればあまり苦労はしなさそうですけれど」
「土日とかシーズンイベント期間はまた別。バレンタインとか凄い。演者がステージから客にチョコ放ったりして、ホールが茶色まみれになったこともある」
「それはまた……」
内心の作業の軽さを口にすれば、山田さんからそんなエピソードが。だとすると、節分にはステージやホールが豆だらけになることもあるのでしょうか。考えたくも無いですね、掃除する側に立ってみれば。
そうして作業の詳細を始めとしてアドバイスをいただきつつも、意外に雑談に花開き穏やかに時間が進みます。私が山田さんのバイトの愚痴を聞いていただけという現実からは目を背けましょう。
ひとまず清掃を終えると、ちょうどチケット販売が始まる時間になり。私は受付けをする山田さんの隣で、半券を回収する役割を与えられました。業界ではチケットの半券をもぎ取るということから"もぎり"というスタッフの名称として通っているとのこと。あまりに簡単すぎる役割ですが、これをしながら山田さんとお客さんのやり取りを見て覚えろ、ということなのでしょう。
「当日券1枚ください」
「はい……本日はどのバンドを観に来られましたか」
「アレクサンリズムです!」
ライブのチケットとは別に、ドリンク用に別で用意されているピックをお客さんに渡しています。話を聞いたところ、ライブを鑑賞するためには必ずドリンクも購入しなくてはならないらしく、チケット+ドリンクを総合して入場料となるようです。お客さんは3000円を支払い、
「私たちの初ライブも同じ金額だったんですか?」
お客さんの応対を終えた山田さんに聞いてみます。ここからは開演時間に近づくにつれ忙しくなるでしょうし、お客さんが来ないうちに疑問は解消しておきましょう。
「あれはドリンク込みで2000円。
「同級生をお客さんとして誘いやすくするためでしょうか」
「それもあると思う。でも多分、
「納得です」
それを始めとして、これからのノルマや以前の初ライブ出演に至った流れを聞かせてもらいます。どうやら初ライブについては
その後は徐々に増えていくお客さんを山田さんが
「よ、お疲れさん。もう中入ってていいぞ。今日のバンドはどれも人気あるし、勉強になるだろうから観とけ」
「おぉ……店長太っ腹。行こう
「あ、はい。お疲れ様です」
しばらく受付に従事していると、そうして店長が代わってくれました。バイト中にライブを鑑賞できるのは
いえ、難易度が高すぎるのでやめておきましょう。
受付から入り口階段を降りると、ドリンクカウンターで
ところで、
そんな後悔をしていると、
「わ、私みたいなミジンコ以下に、どうしてそんな優しくしてくれるんですか……?」
「……あたしね、このライブハウスが好きなの。だからライブハウスのスタッフさんがお客さんと関わるのって、ここと受付けくらいだし……良いハコだったって思ってもらいたいって気持ちがいつもあって──」
後藤さんの言葉に、
「すっ、すすすみません……そんな場所で、ど下手な接客を……」
「いやちがっ、そうじゃなくて……あたし。ぼっちちゃんにも良いハコだったって思って欲しいんだ」
「──っ」
「楽しくバイトして、楽しくバンドしたいの──いっしょにっ」
後藤さんに話す
「まっ、いつかは笑顔で接客できるようになって欲しいのもあるけど! ……あっ、ぼっちちゃん。始まるよ!」
茶化すようにそう締めくくると、ステージに上ったバンドのフロントマンがマイクに声を入れて。そしてライブが始まったのです。
「ふぅ……」
初めてのバイトを終えて、帰宅し。時間こそ遅くなりましたがいつものように二人分の料理を作っていると、無意識に息がこぼれました。
山田さんの言っていた通り、清掃業務はライブが終わり、バンドやお客さんが帰ってからが本番でした。たくさんの人が歩いたホールはもちろんのこと、楽屋でも飲食物のゴミや、持ち帰り忘れたのか雑誌なども放置されており、綺麗にするのにはそれなりに時間がかかりました。
『たまに忘れたように見せて家庭ごみを放置してくのも居るから。そういう時は店長に報告』
山田さん自身そうした場面に直面したことがあるようで、色々経験談を交えて仕事を教えてくれましたね。今日のバイトで私は山田さんと。後藤さんも
「……はぁ」
そうして何度もバイトのことを思い返し、最後には同じ顔を頭に浮かべるのです。
『どっ、どうぞぉ……』
ライブ中、ドリンクを交換に来たお客さんの対応をした後藤さん。目は半開きで、口は引き攣った笑みを浮かべていて。
それでも後藤さんは、笑顔で接客することに挑戦したのです。直前に、
「……
後藤さんに募るこの感情を表現するのは難しく。尊敬という言葉が最も妥当だと思っていますが、人付き合いが不慣れな私ではそれも自信を持って言えることではありません。
ですが間違いないのは、時折こうした感想を抱くことです。初ライブの時の。店長と顔合わせをした時の。お客さんにドリンクを手渡す時の。
後藤さんの懸命な顔が。たまらなく──。
「綺麗、でしたね」
心から、そう思うのです。