一応の
伊地知
例えば、バンドの活動費を稼ぐためにバイトを始めたり。インストバンドから脱却するために探していたボーカル担当をひとりが勧誘したり。その加入が叶ってからというもの、ギターを指導するために先生役となったり。
それらを帰宅したひとりから報告され、そのこと自体は
しかし、であればこそ王様は余計に解せませんでした。彼の知る世界とは似て非なるこの
「あっ、ただいま帰りました王様、へへっ……」
そうして物思いに耽っていると、卑屈な様子にも喜色を浮かべながらひとりが帰宅しました。もはや室内の畳間に似つかわしくない華美な椅子でくつろぐ王様に疑問を覚えることは無いようで、えへえへぺこぺこ頭を上下させながら彼の目前に腰を下ろします。
ちなみにひとりはいつも通りのジャージ姿で、王様はカジュアルな現代の服に身を包んでいます。この期に及んで鎧を始めとした武装が不要なのは明らかでした。
「えへ、へへっ……」
ちらちらと、緩んだ顔を隠そうともせず。その理由を尋ねてほしいなと前髪の隙間から王様の顔色を窺うひとり。
「……」
対して、じろり。王様は眼前の不躾な畜生を見下ろしました。機嫌の良い時には
なので態度で示していました。言いたいことがあるならはよ話せ、と。
「ぴっ──!?」
紅の眼光に射抜かれたひとりは、出し惜しみせず鞄から封筒を取り出しました。触らぬ神に祟りなし、不機嫌な王様に無用な言動は
「ききききょうはお給料日でぇ……はっ、はじめてバイト代をいただけたんですぅ……」
ぶるぶる震えながらひとりが見せた封筒。そこから頭を覗かせる
「ふん、貴様がそれほど労働に精を出していたとは思わん。活動費とやらにあてれば即座に底を突こうに」
「そっ、それが、学生バンドのノルマを負担するキャンペーンをするって店長さんが……他のお店の迷惑になるから夏休みが終わるまでってことらしいんですけどっ、それでしばらくは無理にバイトを増やしたり徴収はしなくて良いって
要領を得ないひとりの説明に、王様はひとつ頷いて理解を深めました。
彼が放った札束を、ライブハウスの店長である
結果として店のキャンぺーン費用として計上することで、結束バンドの面々が稼いだバイト代をそのまま還元し、間接的に彼女たちの活動費としたのだろう、と。その額がいずれ尽きることを考えれば
「ほぅ、それは
頬杖を突きつつ不機嫌そうに瞳を鋭くする王様。もっとも、これはただのポーズでしたが。ひとりが
それがいつまで経っても為されない以上、客観的に見て王様は機嫌の一つも損ねて然るべきでしたし、案の定ひとりも疑問には思わなかったようで、気まずそうに目を逸らしました。
「そっそれが、お店のオーディションを受けないと出してもらえないらしくて、来週の結果しだい、らしいです……」
初の給料を抱えてルンルンで帰宅したひとりでしたが、そこには多分に現実逃避がありました。店長の
結局、オーディションで合格すればライブに出演できるということで話はまとまりましたが、ひとりを含むギター二人の実力に難があるという事実を突きつけられて今に至るのです。
王様に報告することで現状を再認識したのか、ひとりの表情には少し焦燥感が浮かんでいました。実力は十二分でしたし、そこに多少の自信はありましたが。結局のところ、バンドのメンバーと肩を並べたとき、それは半分も発揮できては居ないのです。リーダーである
「……なるほど。さしたる用途もあるまいが、今の貴様にはその
「ふぐっ」
ひとりの表情からある程度の事情を察した王様は、呆れたように彼女を見下ろします。それを受けて、王様から目どころか上半身をぐぎぎと逸らし、ひとりはだらだら汗を流しました。王様を招待するどころか、ライブへの参加すら危ぶまれている現状、どんな折檻をされてもおかしくないと思っていたのです。
プルプルと哀れに震える
「あっ」
「まぁよい、この程度の紙切れも貴様のような雑種には過分と見える。ゆえにこの
「えっ──しょ、しょんなぁ……」
人生で初めてのバイト。その対価。ひとりの血と汗と涙の結晶。それを無慈悲に取り上げられ、ひとりは涙目で王様の顔を仰ぎました。さすがの
「うっ、うぐぅ……」
まぁ口答えなど出来るわけもなく、王様に上目遣いで潤んだ瞳を向けるくらいが関の山でしたが。
「ふっ。そう愉快な視線を寄越すでないわ、いずれ返してやるとも。しかしそうさなぁ……対人
一万円札そのものがチケットってとんな闇イベントなんだ、とは思いましたが。それよりも興味が勝ったひとりは小首をかしげます。
「体験、ですか?」
「只人には格別の、だ。比して地を這う
「あっ、えっ、はっはい」
何に遠慮することもなくスタスタと部屋を出る王様を追って、ひとりも後に続きます。途中で家族とすれ違いビクリとしましたが、ひとりどころか王様にも気づいた様子はなく、無事に家の前の通りに出ることが出来ました。辺りはすっかり闇に包まれています。
「あ、あの、いったい何を……?」
おずおずと問いかけるひとりを肩越しに振り返ると、王様はにやりと笑って正面に向き直り──その瞬間、アスファルトに金色の波紋が広がりました。
「えっ!?」
驚き後ずさるひとり。同時にまばゆい光が刹那彼女の瞳を焼き、ですがそれもすぐ収まります。ひとりが再び目を開けると。
「あっ、えっ。ば、バイク、ですか……?」
そこには月の光を意にも介さず、それ以上の輝きを纏う大型の二輪車が鎮座していました。それもサイドカー付きの。
「
「思考で至高……」
「何ぞ抜かしたか?」
「ひっ!? ひぇっ、なななにも言ってましぇん!!」
最近は作詞に悩んでいたひとりは王様の言葉から無意識に韻を踏みましたが、当の王様の耳にはつまらないダジャレ未満でしかありませんでした。
しかし今回はあくまで、王様による未熟な
「戯れ言は見逃してやる。そら、乗るが良い」
「あばばばばばばば」
数分後、ひとりは空を飛んでいました。
金沢は平潟湾を超え、八景島シーパラダイスを眼下に東京湾へ向けて飛行していたのです。王様が騎乗する黄金のバイク、そのサイドカーの上で。王様のバイクは空飛ぶバイクだったのでした。
「ひえぇ……」
怖いもの見たさで地上に視線を向け、やっぱり後悔するひとり。ジェットコースターはおろかテーマパークのアトラクション経験も皆無に等しい彼女は、吹き付ける風を顔面に浴びながら蒼白の顔で空を見上げました。
「わーきれい……人生最後の景色にはピッタリ……」
がくんがくんと揺れる頭は、そして視界は明らかに夜空を捉えてはいませんでした。どうやら死期を悟って今際の言葉をさえずっているようです。それも仕方がないでしょう、肌に風を浴びながらの上空300メートル飛行は、間違いなく彼女の人生において最も死に近しい体験でした。夏といえどジャージで強制夜空の旅は控えめに言って殺人未遂です。
「ちっ、惰弱な……そら」
傍らの
「あぅあぅあ──あっ、あれ? なんだか気分が楽に……」
「多少は余裕も戻ったか。そら、もう
有無を言わさない口調の王様にごくりと唾を飲み、ひとりはもう一度視線を眼下へ。そして──。
「う、わぁ……っ」
そこに、たくさんの輝きを見ました。夜の帳は下りていましたが、月明かりに照らされて。それが無くとも行き交う車が、連なる家々に灯った温かな光が。まるで夜空を映す水面のように、眩くひとりの瞳に輝きます。
十数秒も目を奪われて、ふとひとりは思い返しました。地上の星々。それらは比喩に過ぎません。であるならば、頭上に瞬く本物に考えが及ぶのは当然のことで。
「────」
今度こそ言葉を奪われて、ひとりは大きな光を放つ
つい先ほど、死に瀕して本能的に口を衝いた言葉は。確かに彼女の奥底に眠る願望を滲ませていたようです。
「とっても……とっても、きれい、です。本当に……もし死ぬときも、こんな満天の星を見ながらだったら、きっと幸せな最期ですよね……」
それは月の魔力と、星芒の魔法と言えたでしょう。ひとりに散り際の幸福を想像させるほどに、頭上に描かれた綺羅星は美しかったのです。
「戯けが」
そんなひとりの寝言は、やはり王様の一言にバッサリと切り捨てられました。
「
「大地を……」
どこか神聖さを伴って口にされた言葉に。月に、星々に魅入られていたひとりは我に返り、言われるまま再び地上を見やります。空は夜闇に包まれど、やはり大地は小さな明かりが集い、一つの星図を模していました。
「貴様が目を奪われた天上の光ではない。ただの輝きではない、ヒトの営みよ。貴様のような雑種が死を思うのであれば、それは闇に差す月明かりの下ではなく。あれらヒカリの中で、貴様の
王様の神妙な語り口に、ひとりは頭上と眼下の光を思いました。星空は確かに綺麗で、けれど言われてみればそれらの正体なんて知りようもなくて、手を伸ばすなんて無意味に決まっています。
対して地上の光は、間違いなくそこに誰かが居る証拠で。そして手を伸ばす手段も、その意味もひとりには十分にありました。
いつかこの、眼下に広がる光の一つ一つが。結束バンドのライブに来てくれて、みんながサイリウムやペンライトを振ってくれたら……きっと。自分が目を奪われた満天の空にも劣らない、美しい星々を描いてくれる──。
(結束バンドがペンライトとかサイリウムを採用するかは分からないけど……禁止してるアーティストとかライブハウスもあるし……)
なんて現実的な問題にも考えを巡らせてしまい、我ながら台無しだとひとりは苦笑しました。けれど、現実的な問題を考えるほどに、ひとりにとってそれは、いずれ訪れたら幸せだと思えるような未来図だったのです。
王様が言った格別の体験は相違なく。ひとりに得難い経験と、それ以上に価値ある知見を与えてくれました。いつか私も──
「──王様、わたし、がんばります。もっと頑張って、絶対にオーディションに受かってみせます……!」
ひとりは自分をいつだって見守り、そして励ましてくれる
「阿呆が、それで事足りると思うなよ? 雑種。
「ぴ、ぴゃぃ……」
けれどやっぱり、ひとりの精一杯の宣誓はぶった切られます。どころか足りないと凄まれる羽目になりました。涙を浮かべて情けなく返事をすると、王様は悪戯っぽく笑みを浮かべました。どうやら発破をかけるための冗談だったようです。
(も、もう王様ってばぁ……じょ、冗談だよね? 本気じゃないよねっ? ね!?)
えへえへと笑いつつも心のどこかに、この御方ならやりかねないと畏怖を残し。
それでも、それからしばらくの時間。ひとりは王様とともに夜空の旅を満喫するのでした。